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| ゆきゆきて、神軍 |
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平成17年6月26日の朝刊の片隅に奥崎謙三氏の訃報の記事が出ていた。新聞の三面記事によく出ている単なる訃報(右に黒い枠がついている)ではなく、目立つ位置に出ていた私は直ぐに中学時代の同級生佐々木仁朗君に電話した。彼は読んでいなく、驚いて、確かめるような言葉で私の電話を聞いていた。 |
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この物語は奥崎謙三氏の書いた本の題名である.彼は題名にある神軍であったかどうか、私は直接知らないが、中学校時代の同級生佐々木仁朗君から聞いた話を基に奥崎謙三氏の数奇な運命物語を伝えていこうと思った.. |
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先ず同級生の佐々木仁朗君は、主計少尉として、転戦を続け、負傷したため、捕虜になるのを避けようと自分の持つピストルで自殺を図ったが、命冥加にも長らえて、 最後にニューギニアとオーストラリアの中間にある,地図でも探しにくいビアク島戦線でオーストラリア軍の捕虜となり、オーストラリア国内のカウラ収容場に入り、昭和21年にアメリカ軍の大型フリゲート艦で日本へ帰還した勇士である.『カウラ収容場は日本軍の大脱走事件で有名になったものだが、これに就いては、別に書くつもりである』 |
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ともかく、この引き上げ船に約3,000人の日本軍が乗船したが、船上の甲板にも簡単に出られない状況の混雑した状態だった。その船に、奥崎謙三氏が同船していた。部隊は別だったが、偶然同船していた。オーストラリアの収容場では、それなりの給与があり、栄養状態も少しは改良されてきたが、船内での給食状態は極端に悪く、兵士の不満は徐々につのり始めていた。 |
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その時、一人の兵隊が船長のところへ交渉に出た。それが奥崎謙三氏だったのである。 |
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同級生の佐々木仁朗君も当然のことながら、この恩恵に恵まれたのであるが、戦後のアメリカ軍からの給与は、殆んどコンビーフ類の缶詰めものが多かった。それでも船長は全量を放出した。その種缶詰類の食事が約一ケ月続き、お蔭様で友人は、それ以来コンビーフ類が食べられなくなったと言う。 |
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無事日本へ帰国して、佐々木君は故国の盛岡市に帰国した。奥崎謙三氏とは、そこで縁が切れた。ところが、奥崎謙三氏は、1965年正月の宮中参賀に参加して、国民の万歳、万歳で昭和天皇の健康を祝し、一般の国民が正月の恒例になっている場所で、「ヤマサキ天皇を撃て」と呼号しながら、いきなりパチンコ玉で天皇をめがけて撃ったのである。勿論彼は現場で逮捕された。 |
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しかし当時は既に日本は新憲法の元で、戦時中にあった不敬罪は成り立たず、有罪にはならずに終わった。彼の心情としては、天皇こそ戦争責任者であるとの信念に基づいて、このような事件を敢えて起こしたのである。一躍この事件で彼は有名になった人物である。 |
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彼の小さな修理工場に、次の殺人目標は田中角栄だ、と堂々と張り幕を白地に書いていたが、警察は手の出しようがなかったらしい。アメリカ・ロッキード事件での醜悪な事件で田中角栄が逮捕された。次は彼がニューギニア戦線での上官であった人の住所を探し当て、復讐を図るべく訪問をした。遂に住所を突き止めたのである。 |
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戦時中の上官の命令は、直ちに天皇陛下の命令であると初年兵時代は教育を受けていた。 |
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当時の上官に対して、どうしても納得の出来ない事柄があった。戦時中の兵士処刑をめぐり、「責任をとれ」と元上官宅に入り込み、留守を預かっていた元上官の子息に発砲して重傷を負わせ、このため彼は十二年の殺人罪として、服役をした。 |
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出所後ますます彼の言動は激しくなるばかりで、ついに映画でニューギニア戦線で、苦戦し、現地人に迷惑をかけた事実を映画化する計画を立てた。題名は「ゆきゆきて 神軍」二作目が「神様の愛い奴」であった。彼は神軍平等兵と自称し、「ゴットワールド」建設を夢見て、それを生き甲斐とし、理想主義者となったのではないか。 |
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人の事は分からないが、奥崎謙三氏は最後まで、あらゆる悪事について、罵倒することを忘れない気性の激しい人になった。彼は一種のアナ―キスト(無政府主義者)(anarcho―socialist)または非常にエクセントリック(ex-centric)(特に傷心の)人間または危殆に瀕した人物だったのではないか。 |
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服役中に奥さんを癌で亡くしたので、ますます彼の性格がエクセントリックになり、最後には、自称神の心境になり、平成17年6月26日神戸の病院で死去した。コンピュータで彼の性格を深読みして、美化し、フアンとしての賛美者が意外と多かったのは事実だ。 |
| 石 井 立 夫 |