天然痘の恐怖

 雑誌「諸君」の九月号に、石原慎太郎氏と佐々淳行氏の対談を読んでいたが、石原慎太郎氏の言に、最近のテロについて、天然痘の恐るべき予想を語っておられた。現在の日本国の無防備の点を案じていたが話の内容は政府の処置が誠にお粗末なもので、驚いたのである

『天然痘テロは、世界中の専門家が頭を悩ます大問題なのだそうだ。なにしろ天然痘は既に絶滅して、ロシアとアメリカに研究用の菌が保管されているだけだけだから、ワクチンがない。日本でも1977年以降、予防接種をやっていませんからね。

 もしアメリカかロシアからテロリストが菌を盗んで、自分の身体にウイルスを打ち、潜伏期間の一週間から二週間のうちに日本国内を歩き回り、「自爆型天然痘テロ」をやられたら日本はひとたまりもない。一週間で百万人が羅患し、千二百五十万人が死亡するというデータもあるほどです・・・・・・』

 内容の一部を掲載したものだが、経験者の私の恐れるものが、偶然語られていた。高熱
(42〜3度)を出したら、普通の健康者でも、それに耐えられるかどうか、誠に始末の負えない病原菌であることは間違いない。

 昭和21年8月、私は突然高熱42度を越えて、板橋の豊島病院へ運ばれた。当時を思い出すと、よくぞ生きて退院できたものだと身震いがする。私は真性天然痘にかかったのである。何処で、何時、誰からうつされたのか、原因は分からなかった。

 東京の小さな会社で、調査課という名前だけの課で働いていたが、名目だけのもので、終戦当時は、三鷹の空き地で食糧生産をしていた。入社してまもなくのことで、熱があることを理由に、早退させてもらい、会社の独身家屋の部屋で、医者にも診てもらうこともなく、2日間寝ていた。序々に熱が高くなり始め、起き上がることも出来なくなった。

 おばさんが、私が起きてこないので心配して、私の部屋に来て、初めて高熱を発して、動けない状態を見て、救急車を呼んでくれた。既にそのときには、全身に発疹が出ており、豊島の避難病院へ運ばれた。

 当時は衛生状態が極端に悪い時期で、患者が満員の状態だったので、避難病院の廊下にとりあえず置かれた。私は先ず発疹チブスが流行していたので、担架で廊下に置かれていたのが、医者が回診を始め、私の状態を見て、これは天然痘だから、上の病室に移すよう言われそこへ移された。





 意識ははっきりしており、医者は簡単に天然痘だから、上に移す様に言われたのを、今でもはっきり覚えている。天然痘の場合は、発疹が全体的に出てしまったら、発熱状態は治まり、平熱になり、終わりなのだ。つまり発疹が身体全体、極端に言えば、頭から、手足の指の間まで、出てしまうと、後は薬もなければ、何もないのだ。

ひたすら発疹が自然になくなるまで、毎日発疹つまり、かさぶたを毎日取り除くだけが仕事みたいなものだ。約三週間入院をした。何故感染したのか、入院してみて初めて理解できた同部屋の患者は、夜病院から抜け出し、自宅へ電車で食糧を取りに帰っている現状を見た 

 つまり患者が電車で自宅へ食糧を取りに行く光景を見たのである。私は電車の中のつり革か、もしくは患者の隣に乗り合わせたのが、感染したのだと分かった。それほど終戦当時は衛生状態は最悪で、食糧状態も悪く、病院での給食では満足できず、無断で自宅に取りに行ったりしていたのである。

 私は独身で、食糧を取りに行くところもなく、部屋で我慢をしていた。戦前の中国の衛生状態は悪く、日本人学校では天然痘の予防接種(種痘)を定期的にしていたのだが、多くの中国人は予防接種を受けていない状態だった。

 中国語でモーピーと言って、顔中に痘痕が出来ているのを、よく見ていたので、上海育ちの私は、その恐ろしさは充分認識していた。つまり高熱を発し、死亡率が高かったのである生き延びた者はモーピーと言い、顔に痘痕が残ったのである。

 私は独身だったので、失望して、葉書で母上やら、友人に天然痘に掛かってしまったことを知らせた。伝染病だから、葉書もいちいち消毒する必要があった。葉書だから、看護婦さんが、何気なく私の失望の内容を読んだらしい。

 ニ人が来て、笑い顔で私の様子を見に来た。貴方は学校で予防接種をしたのだから、顔に痘痕が残る心配がないのだと言うことを説明しに来てくれた。やっと安心した思い出がある天然痘は当時は日本国の法定伝染病に指定されていたのだ。幸い私は命拾いをしたし、顔に痘痕もないが、世界中がテロとの戦いで苦労している中で、天然痘の予防策も充分に配慮すべき病気である認識は必要であると思った。

                           石 井 立 夫