西本願寺 親鸞上人
出家とその弟子

 偶然の機会にこの本を手に入れた。大正時代の読み物として、当時及び昭和の初期の青年に奥深い印象を与えた本だった。著者は倉田百三、戦後廃刊された本だが、若き日の思い出に、再読したいと念願していた。偉大な著者としての倉田百三著の解説者として(故)亀井勝一郎氏の解説は、再び我が青春時代の思い出につながった。

 悲しいかな、大正生まれの青年の多くは、太平洋戦争の多くの犠牲者を出した。
それについての関連については後述したい。この本は大正五年、倉田氏が二十六歳のときの作品である。発行部数の量と作品生命の長さにおいては、明治以来の文学界でも稀にみるところだろう。倉田氏の生涯を決定した代表作である。

 以下文章は旧仮名使いである。最大の理由は、大正期が生んだ典型的な青春の文学であるからである。「愛と認識の出発」(論集)氏の青春は遺憾なくあらはれてゐるのである。
時代が変わっても、青年はいつも同じ悩みを抱くものだ。どうしても通らねばならぬ青春の一時期といふものがある。勿論感傷的である。未熟なところも多い。

 しかしそれはそれなりに、倉田氏は全生命を傾けて生きたわけで、青春のあらゆる可能性がここにみられるのだ。文学への愛も、宗教も、共産主義も、デカタンスも、恋愛も、性欲も、ニヒリズムも、およそ青年のひとたび考へさうな問題の全部が混淆(コンコウ)したまま、率直に示されたわけで、かういふ青春の文学は他に稀であり、病身の故もあるが、心乱れた悲傷の思ひをまるだしにした大正期の代表的センチメンタリストと云ってもよい。

 親鸞上人が法然上人のもとを離れて出家し、常陸の国に行き、そこで始まる出家話をドラマ風に書いた内容である。親鸞上人が九十一歳に亡くなる寸前までの劇が画かれており、純粋な人柄が見事に表現された本であった。大正時代に生まれた青年の殆どが、不幸にも戦争に参加し、多くの前途有為な青年を失った。

 陸軍と言う組織は、今にして言えることなのであるが、軍人手帖以外の本を持つことを禁止していたのだ。与えられた寝台の上に,一人一人に整理箱という下着類などを整理する箱を与えられていた。 その中味を演習などに出ている間に、班長さんという上官が検査をする。意地の悪い班長さんは、整理が悪いと寝台の上に放りだし、私などは常に整理が悪い人間として、怒られたものだ。

制海権を失った結果 ラバウル島

 その他に思想的で有害な書物などを持ち込んでいないかの検査もしていたのだ。
幹部候補生という試験があり、私もどうやら合格し、予備士官候補生として、全国から集合教育を六ケ月受けて、卒業するのだが、卒業前にガダカナール島の状況が悪くなり、急遽ニケ月卒業延期され、対米作戦教育を受けた。

 しかしアメリカ、ロシア等が既に持っていたマシンガン(手に持ったまま撃てる機関銃)すら持っていない状態で、勝てるわけのない訓練を受けた。卒業して、各連隊に帰り、不幸な人は、直ぐにも野戦に行くために船に乗せられ、当時既に制海権を失って、多くの候補生が船が沈没し戦地に到着する前に戦死したのである。

 同期生のO君は、密かに戦争忌避のためもあり、私と密かに、倉田百三の出家とその弟子を語り合い、与謝野晶子の「君死にたもうこと勿れ」の詩の話など語り合った。
その後連隊が異なっていたため、連絡もないまま終戦となってしまった。
聞くところによると、彼は戦線に派遣されたが、いずれかの戦地で戦死したとの噂を伝え聞いた

 戦線に派遣されるときに、彼は密かに背嚢(背中に背負う)の底に、密かにこの本を忍ばせ戦線に出て行ったと後日聞いたのである。倉田百三の本に見るように、青春のあらゆる可能性、文学への愛も、宗教も、共産主義も、デカタンスも、恋愛も、性欲も、ニヒリズムも、およそ青年のひとたび考へそうな問題の全部を持っていたのだ。

 現代の若者が持っている男性の全てを、同じく持ち、あるときは我慢をし、節制せざるを得ない時期があったのである。特攻隊で敵艦に突っ込んでいった青年の中にもこの本を懐に持って居た青年もいたであろう。単なるセンチメンタルな言葉ではない、当時の青年は全員この様な宿命を背負って、心ならずも戦線に散っていったのである。

私は幸いにも生き残った一人であるが、偶然見出した本から、遠い昔を思い出した。負けるべくして負けた戦争へ参加した多くの戦友に哀悼の意を表せざるを得ない心境だ。

                           石 井 立 夫