戦後北から帰って来た男

第一話)
 昭和二十四年も年末に近い寒い頃であった。まだ銀座通りは爆撃跡も歴然とし、荒廃した
ままの、悲惨な街並みの中で、服部時計店のビルだけが焼け残っていて、何とも侘しい風景
を呈していた。
 その通りを私は何のあてもなく、足の動きのまま歩いていた。ふと反対通りを、学校時代
の友人を見つけ、「オーイ」と大声で呼びかけて駆け寄った。その友人は一瞬たじろぐよう
に「誰だったかな?」疑問ありげに私を見つめて立ち止まった。「俺だよ」・・・の声にす
ぐに反応を示し、「あー君か・・驚いたよ」、「どうしたんだい?」私は寧ろ、友人の予期
しない反応に驚いた。
「今、自分はアメリカCIAに後を付けられているんだよ。大きな声で呼びかけられたので
一瞬驚いたのは、そのせいだったんだよ。」その実相は後日落ち着いたら話すよ・・・」と
言って、お互いの住まいだけを確認し合って別れた。
当時私は世田谷区の一隅にあった、狭い一軒家を借り、貧しいサラリーマン生活をしていた
 それから約一年程の空白をおいて、その友人は結婚して、その新妻を連れて、訊ねて来て
くれた。
静かな男で、先ず、銀座で逢ったときのことを思い出し、二人きりになったとき、彼は異常
な体験談を語ってくれた。
 彼は千島列島のある島の独立部隊の将校として終戦を迎え、間もなく迎えの船が来た。
本土へ帰れる日が来たと、内心の喜びを隠すようにして乗船した。貨物の積み下ろし用の、
主に食糧の麻袋を揚げ下げするクレーンで、まるで、貨物扱いされながら、ともかく、どう
にかして乗船した。
出帆して二、三日の後、がやがやと生きて帰れる喜びを語り合っていると、ふと、誰かが
「少しおかしいぞ、船の行く先が違うんじゃないか・・・と言い出した。
「まさか?」の、悪い予感は的中していた。実は船の停泊地はウラジオストックだったので
ある。船は勿論ソ連船で、理解に苦しむとは、このようなことだった。
直ちに上陸命令が出て、全員武装解除され、将校と兵隊は区別され、それぞれ収容所へ収
監されたのだ。
予想もしなかった捕虜という運命の日が始まったのだ。約一週間後に自分への呼び出しを受
け、ソ連軍の高級将校四、五人(うち一人は女性士官)に取り囲まれ次のような尋問が始ま
った。 「K君、君は大学のゼミでは、N教授のグループだったね・・・」といきなり思いもか
けない質問から始まった。
その質問の意外性に、よくぞここまで調べ上げられたものと、まずは度肝を抜かれた。
そして次の宣言に寒気を感じた。
将校は罪状が重く、先ず二十年は故国へ帰れないと覚悟してもらおうと。しかし、君の決心
次第で、すぐに日本へ帰国できる方法もある、と言いながら。ロシア語で書かれた書類を開
いた。しかし私は解読できる筋のものでもなかった。
ただ書類にサインをして呉れればよいのだ自分は直感で、ソ連側のスパイになれという意味
だと判断して、自分は学生時代フットボールのスポーツ部に所属して、勉強らしいものはし
ていない、とても役に立つことはできない、との弁解一筋で、何とか、その場でのサインを
拒んだ。およそ三回にわたり強要されたが、彼はサインを拒み続けたと。
それでは、君は廿年間日本へ帰れないと覚悟したまえ、と宣告され、絶望はしたものの、ス
パイへの道だけは逃れてよかったと安堵した。
 それから一週間ほどして、「君にゆっくり静養して貰いたいので、夕刻にこちらの用意す
る馬車に乗り
ある別荘に行ってもらいたいので、こちらで指名するある将校と同乗して」と予想外の命令
を受けた。
季節はそろそろ寒さの迫った頃なので、将校用の外套だけは着用してよろしい・・・と。
さて出発の準備が出来たと連絡があり、同乗者として、ソ連軍の女性士官が乗り込んできた
その顔には見覚えがあった。
度重なる尋問を受けたときの女性士官で、日本語に堪能で通訳もできるほどであった。 
彼はこの女性が何故馬車に同乗して行くのかの意味不明のまま、シベリアの夜空の下を、か
なりの距離を走った。到着した場所は深い森の中の別荘風の小屋だった。下車するとすぐさ
ま暖炉に火を入れ、部屋を温め、食事の用意を始め、ウオッカーまで添えて、貧弱ながら夕
食をともにした。
そのとき、彼女は彼に囁(つぶやく)
ような小声で、 「ここで、貴方としばらくの間、愛のあ
る生活を送りたい私が貴方の通訳をしていたとき、貴方の魅力的な受け答え、しっかりした
答弁ぶりに、大変良い印象を受けました。つまり、愛を感じたのです」とこの予想を越した
彼女の態度に、好意と安堵と、いやそれに倍する、ある種の疑惑と不安を感じ、またもや、
スパイへの誘惑だと解釈したのは当然のことであった。

 シベリアの寒空の夜は更けて行った。ほんの微量のウオッカーに多少の酔いを感じながら
ベッドに入った。
うとうとと寝入りかかったとき、突然、彼女は一糸纏わぬ裸体姿になって、突然彼のベッド
に侵入して来たのだった。
余りにも突然の果敢な行動に、彼はすっかり度肝を抜かれ、咄嗟の判断で、「待ってくれ、
やめてくれ・・・」と。しかし彼女は必死の形相で、挑みかかり、彼の耳元で、囁くように日
本語で、「抱いて欲しい・・」
と何度もつぶやいた。「俺とても、若い身空で、ここで、もしものことがあれば、俺の運命
はどう変わるか知れない・・断じて・・決して・・・と俺の肉の欲望との戦いは、阿修羅の
ごとく、理性なんて、格好の良いものではなく、ただただ必死になって断り続けた。かくて
初めての夜は何とか運命の瀬戸際で、防ぐことが出来た。翌朝彼女の言い草は、「断られた
ので、余計に貴方への魅力が増してきたとの言い草ではないか。二晩目にも、昨夜と同じベ
ッドへの侵入の挑戦があり、俺の命がけで抵抗する心理をわかってくれと、半ば叫ぶように
断り続け、その夜も激しい彼女の攻勢をなんとか、拒むことだ出来た。
性欲旺盛な若い男が、同じような若い女に、一晩中迫られたら・・と今思い返すとぞっとす
る。 要するに一日一晩でも早く日本に帰りたい一心だったよ、最後に彼女の台詞(せりふ)

「貴方の冷酷な理性には参ったわ、もうあきらめて帰りましょう」と、再び元の収容所へ戻
った。そして高級将校からの呼び出しがあり、「君の頑固な態度には感心したよ」と・・・

君の新しい仕事は収容所の全般の管理責任者として、働くよう改めて命令する、とのことで
新しい管理責任者の仕事に従事することになった。仕事の内容は、兵隊への食糧の調達、健
康管理、事務報告などが主なものであった。


(第二話)
 これら新しい管理の仕事は、彼には別段困難な仕事ではなく、兵隊たちも毎日のように割
り当てられた、所謂ノルマを負担し、忠実に仕事をこなしながら、疲れ果てた姿で収容所ヘ
帰って来るそんな日の繰り返しが始まった。
 ソ連側からも、新しい管理責任者が赴任してきた。それは女の人で、女性の軍医将校で、
健康管理者として、仕事熱心な人だった。
どうも女性に縁があるな・・と思いながら、俺は思いながら、仕事の面で彼女と連絡し合うの
だが、ロシア語が通用しないので、目や口つき、手真似で、辛うじて連絡し、命令などをこ
なしながら、情報交換し合った。彼女は所帯を持っているらしかった。
 ある日、その軍医が自分の部屋に入ってきた。仕事を終え、帰る時間に、何か手真似で話
を始めたが、察するところ、ソ連でも食糧の配給が不足しがちで、貧しい日本兵への配給の
黒パンを、少し削って分けてくれないかと言っていることが分かった。
俺の立場は、少ない配給量をいかにして兵隊に配るかに腐心しているのに、さらにピンハネ
を要求するので、いささか抵抗を感じたが、相手が、ソ連将校だから、不満を感じながら削
って渡してやった。
その他日用品まで、削って密かに渡してやっていた。それも毎日という分けにはいかないの
で、時々そのピンハネを密かに見せかけでごまかし、少しでも日本兵に対する配給が有利に
なることを期待しながら、約一年ばかり続けた。
 その頃、他の収容所で元新聞記者をしていた兵隊の一人が、突然大声で演説を始めた。
その話の内容は、「我々は、日本の軍閥、財閥にだまされ、戦争に駆り出されたのである。
今こそスターリン閣下の温かい指導下で、立上る時が来た。」というのである。さらに
「同志を募り、組織、団体を他の収容所との連絡を蜜にするため、我々の手で新聞を発刊す
ることになった・・・」と言う趣旨だったようだ。
「まず権力を持つ将校の命令に反抗し排除し、忠実な兵士の団結による労働を通して、日本
へ帰国するまで、断固として専制的な将校団体と戦うこと・・・」と、新しい運動が起こり
あのK中尉の任務も我々の管轄下にあるべきだと喚き始めた。
 幸い、平素ソ連女子軍医将校に、服従という恩恵を感じさせていたので、親しみから理解
をしたが、反面俺の立場を彼らに任せるような運動を許さなかった。しかし新聞の発刊は続
けられた。ある日、突然我々の収容所に第一次の帰国許可が出るという噂が立った。待ちに
待った帰国の話題は、兵隊たちの間で騒然たる話題となり、目に見えて活気づき元気が沸き
起こった。しかし自分は将校だから、特別な差別扱いでもされるのではと、一抹の不安に襲
われるのであった。
あげくだんだん悲観が深まり、その可能性は薄いだろうと心に決めていた。
アジテーターの新聞記者が、この俺たちが帰国の順番を決めるような態度をとり、他の収容
所の連中とも運動を始めた。
 しかし決定権はソ連側にあるのは当然で、果たして何人がどんな順序でその先陣を占める
のか、不安と焦燥の時間が遅々として過ぎていった。
 そして、我々の収容所の番が回ってきた。そのとき、あの女子軍医が、帰国できるかどう
かを、健康調査で、決めるのだという説明があり、全員軍袴(ズボン)を脱ぎ、ベッドに向
かって、起立し、待機するよう命令された。
 やがて軍医は、一人々々の尻に指を触れては捻り、その折肩を叩かれた者は、回れ右して
一歩前に出るよう指示された。つまり、尻を捻ることによって、健康状態を観察し、その悪
いものを優先して帰国させる判断であった。
順番が自分のところへ来た。あんな気まずいこともあったので、おそらくは残留を宣言され
るかと、予想していたが、意外や意外、突然肩を叩かれ、一歩前に出ろと命令された。一瞬
気が呆然として、この肩叩きは間違いではないかと思いもしたが、間違いないと思い、自分
の運命も見捨てたものではないと、微笑が浮かんできた。そしてあの関係や自分の態度が、
この軍医に対し恵みや期待を与えていたお礼だったのではと、身勝手な解釈をした。彼女は
目配せを私の目に送ってくれた。
さて、自分の帰国は決まったが、案の定、大声で怒鳴りまくり、新聞屋どもが騒然と動き始
めた。「将校を第一番に帰国させるのは、不条理ではないか、何故だ」と不満不平を大声で
訴え始めた。自分はナホトカの港に着くまで、だんまりを決め、何を言われても馬耳東風、
一言の弁明も反論もしなかった。
引き揚げ船が港を出た瞬間、これで俺は生きて帰れるのだ、とこみ上げる喜びを味わったが
船室の片隅に身をかがめ、舞鶴の港までじっと沈黙を守った。
あの、将校帰国を不満とする抵抗運動は、船内でもいよいよ燃えさかり、将校の帰国を、こ
のまま見過ごすわけには行かないと、弁論会が度々開かれ、ののしり攻撃する声は高くなっ
たが、私は無抵抗で、沈黙し我慢するより方法はなかった。
暴力を加えて来なかったのが、せめてもの幸運だった。
 やがて、日本の国土が見え始めたが、上陸も近くなると、船内でまたもや別の行動が始ま
った。それは日本を占領するアメリカ軍による身上調査、それは余計な干渉であり、一切の
調査や検査を、団体行動によって排除しようと、用意した赤旗を高々と振りながら、下船し
始めたのだった。
 自分は最後尾に下船しようと、予め心に用意していた。そのとき、突然、アメリカの将校
が乗船してきて、「K中尉はいますか」・・・と自分の名を呼んだのには驚いた。
「何でしょうか」と返事をしたら、「下船したら、アメリカCIAで、お聞きしたいことが
ありますから、出頭してください」と、いとも巧みな日本語で話しかけてきた。
 何のことか分からないまま、CIAの将校部屋に案内された。そして、かけられた最初の
言葉は「K中尉さん、貴方はソ連軍の高級将校に色々尋問されましたね、そこでスパイの承
諾のサインはしなかったのは、大変勇気ある判断で、尊敬します」ところで、日本に帰国し
お国の新潟へ帰国されたら安心して是非CIA に協力して頂きたいのです。サインをして
いただけませんか」と。
 勿論俺は断ったよ、しかしアメリカの二世将校は、「そうですか、残念ですね、その代わ
り貴方は、しばらくの間、ソ連側のスパイとしてアメリカ側から尾行されますよ・・どうぞ
その覚悟で・・・」そのとき程、両国間のスパイ合戦の激しさに驚いたことはなかった。
尾行はしばらく続けられるだろうと覚悟した。
君と先日銀座で逢ったとき、失礼ながら実はCIAのメンバーかと直感誤解したのだが、その
ような不可思議な体験を、こうして初めて、吐露することが出来、やっと俺の心の終戦を迎
えることが出来た、というわけだ。終戦に際し、各自めいめい実に多くの異常な体験をした
だろうが、今ここに開陳した話題は、戦後の日本共産主義者が、たとえ一時的にせよ、日本
を混乱に巻き込んだ実態の一つであった。それは短期間の混乱ではあったが、現在の目安に
して平和な世相の陰に、その混乱の犠牲となった人の顔も私には見え隠れする。その後彼は
小規模ながら、独立会社を起こし、息子にその事業を引き継ぎ、引退生活に入ったとの知ら
せを受け、年賀状で互いの健康を確かめ合って、何年かのやり取りが続いた。
この友は二年前に突然、鬼籍に入ってしまった。惜しい親友を失った。
追想の筆とる自分の幸せを感謝せずにはいられないのが、現在の私である。

                            石 井 立 夫