長野県上田市

無 言 館

 この館は誠に重厚、多くの画学生が第二次世界大戦で戦死した無念の思いを込めた「やかた」なのだ。平成18年6月14日に産経新聞のコラムに出ていた、画家野見山暁治氏の
「私の失敗」という記事に出ていた。その当時は学業半ばにして、強制的に入隊させられたのである。美術学校出身者だけではなく、全ての大学、専門学校、が卒業を来春に控えながら、半年早く短縮され、軍隊に入隊した。私も当然の如く入隊した。

 私の同期入隊者に美術学校出身の毛利武彦君もいた。彼に野見山氏の件を電話したところ専門分野は異なるが、同級生だったそうだ。二人とも“生き残り”の画学生だった。
野見山画伯の記事から「無言館展示、苦渋の決断」という内容だった。その一部を紹介してみたい。仲間が無防備に空を見上げた。爆音を立てて米軍の飛行機が飛んでいた。

 敵の襲来。逃げねばならないはずだった。つい数時間前までは。昭和20年8月15日。
傷痍軍人福岡療養所で玉音放送を聞いた。満州に派遣されたものの、病を得て送還され療養中だった。“生き残りの画学生”だった。大勢の先輩、同級生,後輩たちが戦死していた。終戦から30年。あるテレビ番組の企画をきっかけに、彼らの遺族を訪ねる旅にでた。

 さらに18年後、信濃デッサン館々主、窪島誠一郎氏から彼らの絵を集めたいので、協力してほしいといわれた。再び遺族を訪問。平成9年、戦没画学生の美術館「無言館」が長野県上田市に完成した。死者と向き合う旅は生やさしいものではない。静かな小高い丘に建つ無言館。並ぶ絵は一見して地味だ。

 しかし、無言のまま何かを伝えようとしているにも見える。「心からしみじみと描いてます。卒業したら兵隊に行かなければならない。生きるか死ぬか分からない。描く時間はわずかしかないんだという気持ちが、絵からにじんでいるのです。素晴らしい名文だ・・・・・この記事は産経新聞の「私の失敗」談から始まっている。

パリに行きたいー。油絵を目指す者にとってそこは「地球上の一都市の名称ではなく、かけがえのない芸術の聖地」終戦から7年、横浜から船に乗った。
向こう先は芸術の都、パリ。留学時代の失敗話は尽きない。
「ルーブル美術館に行ったらお休みだった。

野見山画伯 併馬(毛利画伯)

 トイレに行きたかったので、近くのデパートに、飛び込んで、店員に「ラヴアボ・シルヴレ」(洗面所をお願いします)と言ったら、ラヴアボ(洗面台)の売り場に連れていかれ、『どれになさいますか?冗談じゃやない』店員用のトイレを借りて事なきを得た。当時パリのデパートにはトイレがなかったのだ。

 若くして終戦を迎え、誰でもこの種失敗の経験をしている。しかし、その後野見山氏は何回となく失敗を経験している。ユーモアたっぷりの失敗談だった。日本人としてパリでの失敗経験は大変面白く思ったが、外国語に弱い日本人としての特徴を立派に証明している点を感じる。その後野見山氏は順調に成功を収め、母校の教授になり、平成12年、文化功労者としての名誉を受けえた。名文家としても画壇では有名な人となる。

 無言館の創設としても尽力している。(追記)石井英夫氏は産経新聞の産経抄を長い間担当され、引退した後でも有名なコラムニスト・・・」の記録記事だったが、最後の欄に無言館の話題が書かれていたので、参考までに引用してみたい。

私の千曲川取材では、塩田平の丘に立つ「無言館」にも触れた。戦後画学生の遺作に対面して思わず胸を締めつけられ、それを千曲川に沈黙していた芭蕉の無言にむりやりこじつけたのである。大野雑草子さんも無言館を訪れ「どんな美術館より感動を受けました」という「一つ一つの絵をつぶさに拝見し、一つ一つが戦没学徒からのそれぞれ雄弁なメッセージだと思いました」と書かれている。病後だということで、手紙の文字はかすれており、おしまいに一句が添えられていた。「無言館出て仰ぐ空にいわしぐも」雑草子.
私も思わず感動した一句だった。人生での失敗を未だに重ねながら・・・・最後にお断りしておくが、毛利武彦君と気楽に呼んでいるが、彼も、今や日本画家の重鎮として、元気に活躍している。

成川美術館

 軍隊時代の誼で、君呼ばわりしているが、彼は毀誉褒貶を嫌い、ひたすら画壇の重鎮として、箱根湖畔にある、成川美術館(日本画の収蔵数、1500、有名な美術館)では、彼の個展を開き、創画会の名誉審査委員長としても活躍されている。彼も無言館の創設の一員として協力している。年に一回、東京都美術館での創画会の展示会で、軍隊時代の同期の会合を持つ楽しみもあるのだ。

                           石 井 立 夫