棺を蓋いて事定まる

 この題名を選んだのは、毒舌で有名な故山本夏彦氏の書を読んでいたら、出てきたので、彼の死を惜しみ、現代ますます彼の毒舌が生き生きと指摘されているように思えたからだ。毒舌が適当かどうか、彼の名誉を傷つけないか?少しばかり案じたが、むしろ彼は推薦してくれそうな感想を持った。山本夏彦氏は平成14年10月23日に亡くなった。文春文庫発刊の「何用あって月世界へ」彼の名言集を読んでいたら題名の九文字があった。

 曰く、人の値打ちは棺を蓋いて定まるというが、蓋っても定まらない。死んでもなお影響力があって遠慮しなければならない人もあるし、遠慮会釈しないでいい人もある・・・・
石井先生は亡くなってもなお影響力があって遠慮しなければならない人もあるという言葉に該当される人である。私が敬愛していた石井茂先生を偲びながら、この拙文を書いて見たい

 去る五月一日に亡くなられたのだが、先生と初めて知己を得たのは、他の場所で、実は著名な文学評論家小林秀雄氏(1902年生)と、若くして詩作を始め、特異な詩人として中原中也氏(1907年生)の恋の鞘当の話を聞いたときである。場所は湯河原の有名旅館の加満田の舞台から始まる。

 この旅館の大番頭,師星照男氏から、当時のロマンスを知り、その話題を石井先生が確かめ、この二人の話題を興味深く、聞いたときから、大人のロマンスの事実と、人生の達人である二人に多いに関心を持った思い出からだ。講義の後、偶然私の車で、お住まいまでお送りしたとき、車の中で,汲泉会という名の文学講座を、月に一度図書館で開いているので、お誘いを受け、入会させて戴いた。

 参加者の多くは、女性ばかりで、男性は一人だから、是非ともと言われて、約五年間にわたり、先生の講義を受ける縁が出来た。幅広く、内容の充実した、しかも原稿は全部手書きのもので、最後には、腱鞘炎を起こし、それでも熱心に講義の充実した手書きの原稿を書いて、面白く聞かせて戴いたのである。

汲泉会のグールプ写真

 汲泉会は十年の歴史を持ち、本年たまたま記念号を発行しようとの話し合いが出来、先生のお気に入りの、手書きの原稿を選び、我々としては、満足のいく思い出の記年号が出来た。編集に協力は出来なかったが、立派な装丁で、満足のゆくものだった。

 先生の肩書きは、横浜国立大学文学部教授であったが、タイトルに拘る人柄ではなく、誠に気さく、講義の豊富で、幅広い内容は、誠に立派で、極く自然な話の仕方は,聞くがわに納得のゆくもので、講義の後の質問にも丁寧な補足説明まで加えて、納得するまで解説をして頂いた。そこからも、過去の例を引き出し、その内容の豊富な,底知れぬ記憶の深さに、いつも感服していたものだ。

 さて、六月二十九日、湯河原元厚生年金会館で、先生を偲ぶ会が催ようおされた。主催者は湯河原文化協会長で、小石川文江様の先生を偲ぶ趣旨の紹介があった。汲泉会、俳句、町当局、その他ご親戚の方々、百名を越す、賑やかな送りの会の印象を持った。

 特に生前歌の好きな先生のため、グランドピアノまで用意され、全員で、荒城の月、浜辺の歌の二曲を唄った。このような亡き人を送り、偲ぶ会は、人徳の然からしめるところである。再び話題を女優長谷川泰子を巡る二人の男性の性(サガ)について触れてみたい。先生は女優長谷川泰子が湯河原の老人病院に入院中に、わざわざ訪問し、彼女の愛について、質問をされている。その経緯は下記の通り。

 まず中原中也との歩みを辿って見ることが自然だろう。1907年、山口市湯田温泉に生まれる。1909年に広島に転居。1915年、弟亜郎病没、亡弟亜郎を歌ったのが、詩作の始まり。1920年(13歳)防長新聞に投稿、短歌が入選、以後投稿を続ける。1923年京都の立命館中学3学年に編入、1923年(16歳)12月、表現座に所属していた3歳年長の女優長谷川泰子を知る。

1925年(18歳)4月、長谷川泰子と同棲1925年3月、泰子と共に上京。小林秀雄と知り合う。1926年(19歳)フランス語を学ぶため、アテネ・フランセに通う。1929年(22歳)「白痴群」創刊。1930年廃刊、12月、長谷川泰子の息子の名付け親となる。その後中也の友人小林秀雄と同棲。小林と離別後松竹キネマに入社。

長谷川泰子

「グレータ・ガルボに似た女性」で注目される。泰子は1993年88歳で死去。1933年(26.歳)3月、東京外国語専修科終了、5月、同人誌「紀元」に加わる。12月、遠縁の上野孝子と結婚。訳詩集「ランボウ詩集」を三笠書房より刊行。1934年(27歳)長男文也が誕生。1935年(28歳)1月、小林秀雄が「文学界」の編集責任者となり、中也は自由な発表の場を得る。5月、「暦程」の同人となる。

中原中也(18歳頃) 小林秀雄(昭和6年頃)

 12月、「四季」の同人となることを承諾。1936年(29歳)訳詩集「ランボウ詩抄」を山本書店より刊行。1936年(29歳)12月、神経衰弱が昂じる。1937年(30歳)詩集「在りし日の歌」を編集。清書して、小林秀雄に託す。

 10月、結核性脳膜炎を発病、入院。10月22日、永眠。その後1938年1月、愛雅病没。同年4月、「在りし日の歌」が創元社より刊行される。(中原中也記念館)ホームページより)石井先生が長谷川泰子に面接をした動機は、彼女が中原中也が、単なる愛人として,籍にもいれず、1933年(26歳)のときに、遠縁の上野孝子と本式の結婚までしている。

 長谷川康子は小林と同棲をする。小林秀雄23歳、中原と離別して、中原、泰子、小林の「奇妙な三角関係は続く」昭和三年五月、小林は泰子と離別。昭和五年山川幸世(築地小劇場の演出家)との間に、茂樹が誕生、中也は単に名付け親としてか、扱っていない。その後長谷川泰子はグレータ。ガルボに似た女優としての華やかな女優生活は続いたが、その後の変遷は年齢と共にあった。

 彼女は中也との長い関係について、中也はかなりの我がままな人だった、しかも最後まで何となく縁がありながら、言わば二重の苦しみを味わされた苦悩を、告白したそうだ。小林秀雄に好意を持つのは、当然の成り行きではなかったろうか。

 昔日の物語ではあったが、男女の愛の行方を、もの静かにお話をされ、男女の微妙な性を自然に説明、解釈された石井先生のお話は、今でも私の脳裏に深いものが残っているのである。人間模様の印影を、何気なく残してくれた先生へのレクイエム(鎮魂曲)は、永遠に残るだろう。

                       石 井 立 夫