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ダダイズム |
浅草仲見世 |
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わずか100年前の話である。日本が漸く近代化しようという時代だった。大正ロマンと言われた時期、色々な思想運動に目覚め、混沌としていた。Dadaism (1916-23) 年ごろの文学、芸術運動;伝統的形式美を否定する虚無主義、大正末期、昭和3年ごろ、その代表的人物、風来の人高田保を語り、当時の乱れた時代に、彼を取り囲む人々の名前が、現在に何を残したのか、手繰ってゆくと大いに興味を注ぐものがある。浅草を舞台に広がる当時の姿が浮かびあがってくる。 |
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まさにペラゴロという時代が大正なかば浅草オペラのモダニズムに取り付かれて、劇場に通いつめたり、オペラ女優の尻を追い回したりした若者を指す造語で、一般的には退廃したモダンボーイを意味していた。高田に言わせれば「人生落伍浮浪の徒」で、夜を昼とし昼を夜とする放埓のなかに青春を過ごしているものたちであったが、浅草ではそうした若者の勲章として使われた魅力的な流行語だったのである。 |
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なかには今東光やサトウハチロウのように、夜遅くお目当てのコーラスガールや女優の寝床へ偲びこんでくる大胆不敵なペラゴロもいた。一方序々ながらロシア革命の影響も出始め渡辺政之助,大杉栄、など共産主義者も出始めた時代でもあった。折悪しく大正12年9月1日に突如起こった関東大震災後の混乱を受けて、9月16日には、大杉栄、伊藤野枝夫妻が甘粕正彦大尉に扼殺(ヤクサツ)され、大杉の甥6歳の三人が憲兵隊の古井戸に投げ込まれるという事件が発生した。 |
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これ以後治安維持法が大正14年4月22日に制定され、哲学者三木清が獄中で死亡した悪名高い法律があった。高田保も新国劇、新築地劇場、新生新派等で演出を担当した。 |
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高田保の周囲を囲む文人墨客 |
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幼時にキリスト教を信仰し、後にダダイストとして登場。自由を求めて絶望を知り、伊藤野枝と結婚し数年で離婚。彼に言わせると、伊藤野枝は英語の教師時代の教え子だった。彼女を愛し、二人の子供まで生んでいるが、貧乏生活が続き、大杉栄の下に逃げ出した経緯を「絶望の書」に書いている。パリに行き、帰国したとき、彼は発狂し哀れな最後で亡くなっている。 |
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いつまでも白粉くさい楽屋にばかり出入りしてちゃ、ろくなことにならないわ、あんたは筆一本でもちゃんと食べられる人よ」「いや 僕は書かん」痛いところを突かれたようにちょっとひるんだ顔を見せながらも抵抗した。子供二人を持つ寡婦だったが、何となく高田保の面倒を見るようになった、所謂姐御的な女性だった。 |
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舞踊劇「案山子」で帝劇が募集した一幕物に入賞した。同時入賞者川口松太郎、北村小松永井龍雄らがいた。大正十一年(1922)高田は二十七歳になっていた。浅草はペラゴロと言われた時代で、帝劇で失敗したヨロッパ風のオペラが浅草に移りぺラゴロ時代を迎えるのだ。その後高田保は売れる原稿を書き始め、「いろは歌留多、ブラリひょうたん、第二ブラリひょうたん、河童ひょうたん、青春虚実、人情馬鹿などの著書を出している。 |
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高田保と関係の女 |
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※小宅綾子 東京向島の生まれで、33歳、カフエーライオンの女給をしていた色白で瓜実顔の、可愛い明るい雰囲気を持った美人であった。大森に家を借りて住まわせていたのをむめには無理をしてまで隠くさなかったのである。「君には酷かも知れないが、大森の女も、きみも、これから対等の立場をとることにしよう。つまり、この機会にみんなが選択のしなおしをすればいい」むめは「そう・・・でもあたしは負けないわ」こうして高田保は序々ながらむめと縁を切って行くのだった。高田保は小宅綾子だけは籍を入れ正式の妻にした。 |
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| 高田保の自宅にて | 高田保(享年56歳) |
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三十八歳になって、東京日日新聞社に突然入社して、またも友人達を唖然とさせたのは昭和八年十二月のことだ。当時の学芸部長は阿部真之介で、他に大宅壮一、木村毅の三人だった。ここでも高田保は独特の本領を発揮し、問題を起こしながら存在感をアピールした。雲隠れの常習犯とも渾名をつけられたが、二・二六事件がおきたときは、彼は四十一歳になっていた。新聞社に勤めながら新国劇の準社員の形で復帰した。高見順とも知りあった。年齢は十二歳も年下の長身の青年にも接近させていた。 |
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昭和十六年十二月八日に日本は世界大戦のど真ん中に脚を突っ込み、泥沼の生活が始まった。よくぞ日本に生まれける“とおびただしい作家、評論家、学者、言論人らが、この時期判で押したように同質の文章を書くと言う誠に恐ろしい現象が生まれていたのである。高田も大義名分を信じ、戦争賛美の中に埋没してしまった。 |
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リベラリストであった高田もオポチュニステイックな人種になってしまった。 |
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高田保のエピソード |
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庶民的なモンマルトルの居酒屋の名、噴水があり、その横にポストがあることまで覚えてしまった。大宅壮一から「君のパリ憧憬は病膏肓だよ)(コウコウ)だと言われた、あるとき結婚式に呼ばれた、お婿さんへの祝辞を懇請された、お婿さんは仲人の「品行方正」「学術優等」の決まり文句でわなく、品行方正は男性だから、多少の誤りはあるだろうが、男性は品性だけは失うことがないよう気を使って欲しいと述べたと言う話は有名だった。 |
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昭和27年2月20日、享年56歳、友人だった佐々木茂索・文芸春秋社長の取り計らいで、葬儀は銀座ミユキ通りにあった文春の本社の狭い玄関ホールで執り行われた、散策中の多くの通行人で溢れかえった、友人の広津和郎「高田保の死」菊岡久利「かなしみの歌高田保にささぐ」久保田万太郎、徳川無声、関口次郎、佐々木茂索、佐藤文夫、大宅壮一、弔電久米正雄、遺墨「人情家保ちゃん」久住良三ともあれ、彼は生涯を通じて、真の平和と自由を唱えた人であったことは言えるのではないだろうか。夏堀正元氏の書からの参考だが、私は2度も読み返し、日本の来し方を改めて勉強した。 |
| 石 井 立 夫 |