魔都上海を再び確認す

  炎暑の時期余り読書は進まないが、先日知り合いの人からの照会で読んだ単行本は大変印
象に残った。
題名は「上海リリー」著者名は胡桃沢耕史、残念ながら著者は十年前に亡くなられた人だ。
舞台は戦前魔都と言われた上海だった。完全な創作だが、内容は実に面白く、いかにも在り
得たのではないかと推測させる迫力があった。
 特に私は上海生まれで、中学校卒業まで育ったので特に地名、交通機関、舞台として設定
された場所名も即座に理解できた。
序々ながら戦時下の統制経済になり、物資は欠けはじめ、人心は何となく不案を感じはじめ
る昭和十五年ぐらいから物語が始まる。
 しかし当時の学生は比較的暢気で、まだ陽気なもので、洋画アメリカ、フランス、ドイツ
ものが充分に鑑賞できた。「オーケストラの少女」ストコフ・スキー指揮するトラビアータ
ーの歌を歌ったデイアナ・ダービンの可愛い乙女に熱を上げる学生が多くいた。私もその内
の一人だが、その素晴らしさに惚れて、五回も観に行き、乏しい小使いを使って、その音楽
に酔ったものだ。
 その当時、どうせ強制的に戦争に参加させられると斉藤と言う名前の学生が、その前に自
由が残っていた上海に渡航し、偶然に日本軍の特務機関があった上海のジェスフィールドに
あった場所に紛れ込んだところから、この物語が始まる。
 ジェイスフィールド地区はフランス租界の高級住宅地帯で、その近辺に蒋介石将軍に所属
するスパイ群、(当時日本軍との戦いに敗れ、彼は重慶に本拠を持っていた)英米特務機関
のスパイ組織があり、中国共産党の組織、ゾルゲ事件でドイツ人でありながら、尾崎正美と
言う朝日新聞記者が、密かに情報収集していた事件は有名な事件で、まさに三つ巴の激しい
スパイ合戦が繰り広がっていた。
 日本軍が上海を占領していた時代だが、憲兵隊が網の目のごとく見張り、日本の特務機関
の連中まで憲兵の威力が発揮されており、普段は私服を着ているので、その見分けが付かな
い従って憲兵の力関係は当時としては隠れ軍人といえども階級は無視されたらしい。
 日本の陸軍大学出の陸軍中佐が、新しくスパイとして登場する。彼は当然のことながら、
陸大出身だから、参謀本部の作戦部署にでも勤務する予定だったが、運命のいたずらか、ス
パイに任命され、上海に赴任した。スパイの世界には、必ずと言って良いほど、美人が登場
するが、上海リリーという正体不明の女性が大いにドラマにからまってくる。
この女性の美しさを作者は、色々な局面で表現し、その表現力が作者の苦労するところであ
り、最後の最後まで、彼女の素性を隠しながら、読者を魅了する。
 一方89歳になった老人、終戦と同時に日本へ帰りつき、余生を過していた。この人が若き
日陸大出身で、己の意思に反し、特務機関員として派遣された話題の主人公である。一種の
逃亡に成功し、生きて日本に帰り着き、奇跡の運命を時には思い出しながら、余生を送って
いた。ある日、先に学生生活を送り、徴兵検査前に、一度自由の都市上海へ別に特別の目的
もなくふらりと渡り、この人も終戦になって、徴兵検査も逃れ、戦後奇跡的に日本へ帰国で
きた。ある船会社が船旅を計画した。この船は一万二千トンの船で、上海航路の食事、宿泊
代付きの計画を立てた。89歳になる老人に、最後の思い出に船旅なら充分体力に耐えられる
だろうとの誘いを受け、この世の見納めで、若き日の活きた、恐ろしい日々を送った場所を
見学に行く勇気ある決断をした。
その中で最も大きな理由の一つは、特務機関時代に、華やかなダンサーで、日本のスパイ活
動に協力してくれ、しかも終戦になって、身を賭して、老人を庇い日本へ帰国できるよう計
らってくれた恩人でもあるその美人は運命に左右され、最後は中国共産党の幹部になってい
たが、寄る年波には勝てず、80才を越えて、最早余命がなくなり、ベッドに伏せていた。
 しかし彼女の立場は、その昔日本人の特務機関で活躍し、本来なら共産党の許されざる者
である89歳の老人を呼び寄せる権力を持っていた。彼女は死を迎える前に、もう一度その人
に会いたいとの願望が許され、最後の面接に到るのである。
面接は出来たが、老人の手を握りながら、多くを語る余力もなく、お互いに昔を偲びながら
多くを語ることもなく、静かに彼女は息を引き取るのである。
 この物語の主役は、元ダンサーであった女性の生まれから、死ぬまでの波乱に満ちた人生
を語っている。
 昭和十四年ごろの上海で、一流の名前と気品のあるダンサーとして登場する。その身柄は
くしき因縁を持ち、父親は日本人だった。
その昔、満州浪人と称する人種がいた。満州国独立以来正体不明の日本人で、大口を叩き、
自分の身を明かさない。ダンサーの親として、15歳の時、蒙古の王様と称する人に無理やり
に結婚をさせられる。いわば身売りされた格好だ。しかし実際は王様の九人目の妻であるこ
とが判明する。いたいけな娘が王様の妻として、耐えられるわけがなく、脱走して上海に流
れてくる。上海に出てきても、誰を頼りに活きて行く術もなく、売春婦として働き始め、上
海では野鶏(ヤチ)と呼ばれ最低の春を売ることから彼女の再スタートが始まった。
少ないゼニを稼ぎながら、貯金をし、ある時偶然にアメリカ人のロバートという名前の恋人
と結ばれる運命をつかんだ。
 これが彼女の飛躍のチャンスなり、一流のダンスホールの花形ダンサーになる。ロバート
は勿論アメリカのスパイなのだ。一方日本から派遣された陸大出のスパイに近ずき、恋人風
の生活を始める。軍人上がりの純情青年は、たちどころに女の魅力に取り付かれ、日本のた
めの情報収集にも協力するという芝居も要領よくこなして行くのである。
 中国共産党員の男にも知り合いがいて、当時は共産党は勢力がまだまだ弱かったが、党員
の一人の男が上海リリーに惚れていたが、それは当時としては、届かぬ恋人の立場だった。
戦争は日本側には不利になり、ついに日本の敗北に終わり上海リリーは結局中国共産党員の
有力な立場になり、上海在住の共産党の重要人物の職場を与えられ、人生の最終を迎えるこ
とになる筋合いになる。
勿論ここまでに成り上がる人生の浮き沈みはあっても、彼女の運命ほど数奇なものはないと
思われる。
 89歳の老人との別れ、自分の運命の浮沈、魔都上海だからこそドラマが展開されたのは、
上海育ちの私には理解できるが、当時は私は20歳代の若者で、治安の悪いジェスフイールド
地区は殆ど知らない地区なのだ。ましてや、ダンス・ホール、野鶏(ヤチ)にも縁がなく、
スパイ活動が三つ巴の状態で、活躍していたという話ぐらいを聞いていた程度だった。昭和
29年に上海は中国共産党の支配する都市になっった。
 昭和20年日本人は引き上げたが、私の父親は技術家(紡績)として残留を命じられ、昭和
29年に上海生活30年の生活の幕を閉じた。現在の上海への旅行に幾度も誘われたが、その機
会もなく、黄浦江の向則の浦東(プートン)地区に観る近代化された姿を見る時、昔日の感
を深くするのである。
旅行者の発着が出来る立派な航空場が出来ており、そこからモノレールが、昔のジェスフイ
ールドに繋がっている。上海リリーも、この早い中国の変化には予想も出来なかったのでは
ないか。
 上海の近代化を見る限り、中国共産主義の資本主義化は否定できない。軍事力を拡大し、
己の強さを発揮しながら、上海は何処まで、その姿を変えて行くのだろうか、上海を知る者
は余計な事ながら、頭を捻っているに違いない。

                               石 井 立 夫