情感溢れる英語の先生

 私が中学三年生の時、(70年前)英語の先生が、新しく赴任してきた。大変ユニークな先生で、東京外語専門学校の英語科とフランス語科の二つのコースを同時に終えて赴任してきたという秀才だった。戦前は東京外語専門学校だった。現在は外語大学になっている。この先生はフランスに大変な憧れを持っていたが、フランスへ渡ったと言う話は聞いていない

 赴任直後の初めての時間に、自己紹介と簡単な経歴を語り、今後の教育方針を述べた。
人間として、感性に溢れ、詩情に触れ、文学を愛し、先ず自分が単に英語、フランス語だけを学んできたのではない。文学に触れ、多くの詩を学び、第一時間目は、この点から入りたいと授業を始めた。

 15歳になったばかりの少年に、いきなりこの様な授業を始めたのである。おそらく当時の先生の年齢は、専門学校を卒業して、赴任してきたばかりだから、23歳位の若さだったに違いない。しかし先生に対する尊敬の念から、年齢差と言うものは、全然感じさせなかった。最初に島崎藤村の詩を黒板に書き始めた。

 生徒の大部分は、ただただ呆気にとられ、呆然と、黒板を眺めていた記憶が残っている。初恋・小諸なる古城のほとり」の二首の題名だけは、はっきりと記憶に残っている。
初恋という題名に,胸がドキドキした。少年が初めて聞く言葉だった。

粗野な少年時代の耳にする題名は、強烈な印象として残るのは当然のことだった。

初恋
 まだあげ初(そ)めし前髪の林檎のもとに見えしとき、前にさしたる花櫛(はなぐし)の花ある君と思ひけり

小諸なる古城のほとり
 小諸なる古城のほとり雲白く遊子(ゆうし)悲しむ、緑なすはこべは萌(も)えず、若草も藉(し)くによしなし、しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)日に溶けて淡雪(あわゆき)流る。

ポール・ヴェレーヌ 上   田   敏 島  崎  藤  村

 第ニ週目はフランスの「落葉」ポール・ウエルレエヌ(上田敏)(訳)
秋の日のウ“イオロンのためいきの身にしみて、ひたぶるにうら悲し鐘のおとに胸ふたぎ、色かへて涙ぐむ過ぎし日のおもいでや、げにわれはうらぶれてここかしこさだめなくとび散らふ落葉かなしかも、先生は独自のメロデイーを作曲して、生徒に唄わせた。

 今でも私はこのメロデイーを覚えている。本職の英語は、発音に注意し、構文などの説明はあったが、むしろ暗記するような指導だったように記憶している。当時は中学生は映画を見ることは禁止されていた。しかし先生同伴なら、問題ない。主に一流の映画館で、外国映画を見せた。

 当時は現在のように翻訳されて、画面の下にテロップが流れていなかったので、大体の筋は理解できたが、目的は英語の会話に、慣れさせるのが目的だった。宿題は主として、暗記するのが主たるものだった。戦後30年後、神戸で同窓会があり、その席で先生に久しぶりにお目にかかる機会があった。思い出話に華が咲き、私はその席で、ウ“エルレヌの落葉の歌を唄った。

 先生は私の名前は覚えてはいなかったが、唄った時には、大変喜ばれた。その後優秀な先生は、当時の受験校のNO;1だった日比谷高校の先生に赴任していたのを記憶していたがその後の消息は聞いていなかった。亡くなったという噂は聞いていた。その後私は実に嫌な思い出がある。兵役について、毎日厳しい訓練に明け暮れていたが、約三週間くらい過ぎた日、お前達は、そろそろシャバが恋しくなっただろう。

 今日はお前達が、入隊前に歌っていた頃の歌を、好きなように唄ってよろしい、と特別の許可が出た。直ぐに全員がお調子に乗って、当時の流行歌を唄い始めた。私の番が回ってきたので、ウ“エルレヌの「落葉」を懐かしのメロデイーで唄った。しかし、それが上官の罠だったのである。その後私が一番、軟弱な男だという判定を受け、実に悪い思い出になったのだ。

 精神教育を優先した日本軍が、見事に負けたが、何となく、現在でも青春時代の嫌な思い出になっている。さて、藤村の詩とウヴエルレヌ・・・1844年、フランスの詩人、美しいフランス語で珠玉の作品を残す。

 島崎藤村・・・1874年〜1943年、長野県生まれ、詩人、小説家、自然主義文学の代表的作家、詩集に「若菜集」小説に「破戒」「夜明け前」などがある。

 上田敏・・・1874年〜1916年、東京都生まれ、英仏文学者、詩人、京都大教授、訳詩集に「海潮音」他に「牧羊神」「みをつくし」などがある。フランス語の翻訳者として天才的な才能を持っていた。

                       石 井 立 夫