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| 富士山と紅葉 |
| 美しい国 |
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戦後生まれを強調する阿部内閣が発足して、先ず行動を起こしたのは、中国、韓国の両国を訪問したことだ。野党の一部では、阿部内閣になると、恐ろしい日本になると、盛んに宣伝していた。教育改革、憲法改正の動き、まるで、戦前の悪夢を思い浮かべるような予想をしていた。ところが、美しい国というキャッチ・フレーズを打ち出した。 |
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美しい国とは、如何なることを指すのかと具体性に欠けると早速に言い出した。何が美しいのか示せ、示せと攻め立てる。平成18年10月14日の阿久悠さんのエッセーを、再び引用させて貰う。抽象とか、観念とかは標的にしやすく、騒ぎ勝ちのところがある。攻め手としては楽な舞台である。ただし、どんなに勢いよく叫んでも、感心されることはまずない。 |
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なぜなら、仮に「美しい国日本」の姿勢と行動を具体的に示したとすると、生き方や心の持ちようまで指示し、一本道を視野を狭く遮蔽して行列させようというのか、なんとオソロシイことをと、反対するに決まっているからだ。「美しいって何でしょうね。どうもハッキリしません」と女子アナウンサーがニュースの結びで、シラッとした顔で言っていたが、これは彼女の感想か、原稿書きの捨て台詞か、さあどっちだろう。 |
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ハッキリしませんなどと他人事を決め込むのではなく、「美しい」というキーワードを投げつけられたのだから、私にとって「美しい国」「美しい人」「美しい時代」はと、まともにラリーに応じてほしかった。一国の首相が、「美しい国」という言葉を最重大事として持ち出すのはよほどのことである。荒れに荒れたか、または饐(スエ)に饐えたか、どちらかの時でないと持ち出さない。 |
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それを承知していながら、それでも多くの人は身構える。日本の社会の状況、日本人のありようの実態を考えて、グジャグジャの無節操が自由の姿だと、誇らしく言っていられるだろうか。現代の迷惑は恐縮しない。それどころか居直る。迷惑がハジでない社会は美しくない。迷惑を制するのは法ではなく、実は節度なのだが、これに力がなくなった。 |
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節度とは消極的品性ではなく、積極的品性のことで、これが美しさを支えるのだ。以上が阿九悠さんの言葉である。(饐えるという言葉の意味は、飲食物が腐って、すっぱくなる)私のような老人は、現在は出番がない。車に乗れば、やたらとスピードを上げ、追い越してゆく。その際の礼儀として、自動車の後尾のランプを出し、一応のサインを出したものだ。 |
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私は老人向けのカードを貼る義務があるらしいが、持ってはいるが、貼っていない。このマークを見ると、わざわざ無理に追い越して行く無礼者が多い。危険な思いを避けるために敢えて貼っていない。言葉も礼儀も失われ、勝手気ままな行動が、自由だと誤解され、やたらと無意味な笑いがテレビ番組に出ているが、そのタレントの名前も知らないのが多い。 |
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ケイタイも若者の特権とばかり、使っているが、言葉は特殊なマークを入れた会話が普通になっているらしい。やたら大人を疎外した会話が流通している。自分を振り返ってみて、若い頃の自分を反省して見るが、若者として、確かに大人を何となく敬遠した思いがある。 |
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しかし、そこには礼儀を弁える態度はあった。それが心の豊かさであり、美しさの残影があった。時代は日々変わり行くものだが、失われてゆく美しい国という抽象的な言葉が、問われる世の中になりつつあることは事実だ。 |
| 石 井 立 夫 |