擂鉢山の星条旗
常に諸子の先頭に在り

 史上初の、日米双方の視点から描いた「硫黄島―IWO JIMA 」二部作の第一部、第一部は「父親たちの星条旗FLAGS of FATHERS」第二部「硫黄島からの手紙」の双方を観る機会があった。私はこの映画から得た感想を書かなければならないとの、使命感もあったので観る事にした。

 監督クリント・イーストウッドの今回の作品は、既に大変な評判を得、既にオスカー賞の候補に挙げられていると評判である。オスカー賞はアカデミー賞の副賞で、裸の男性の立像である。有名なボブ・ホープなどがオスカー賞を手にした歴史的な賞である。
さて私はこの映画をどうしても観る使命感があると思ったのは、太平洋戦争に参加し、初年兵の時の教官野本中尉が昭和十九年三月二十四日サイパン島に突如転属になった。

 昭和十九年六月十八日、米空母機動部隊はサイパン上陸から始まり、七月七日、日本軍守備隊は在留邦人一万六千名を道連れにして玉砕した。水際作戦で誠に短時間の戦いで終わった。おそらく教官はこの戦闘で戦死されたのである。

 その後アメリカ軍の作戦は硫黄島占領の必要から、二ミツツ将軍は、この島を五日で終了して見せると豪語したが、実に三十六日を要し、日米相互の犠牲者は、殆ど同率と言われ、むしろ米軍の犠牲者が上回るとさえ言われた。アメリカ国内では、米軍の犠牲者が余りにも多いので、アメリカ国内では非難する声が出るほど、壮絶極まる戦いであった。

 日本軍の補給が絶え、栗林司令官が最期に長文の報告を大本営へ送り、白襷を左右に巻き総攻撃を仕掛け、戦死した歴史に残る物語を描いた映画であった。栗林総司令官は総攻撃に踏み切る前に、最期の言葉として次の遺言を残している。

 戦局、最期の関頭に直面せり。いまや弾丸尽き水涸れ、予は常に諸子の先頭にあり
永へにお別れ申し上ぐ、
映画の解説者ではないが、第一部からの感想から書いて見る。
何故このような戦争を繰り広げたのか。硫黄島へ米軍の膨大な上陸作戦が写しだされた
物量、戦闘力、空軍機、艦砲射撃から始まった。

アイラ・ヘイズ (インデアン) 栗林中将とクリント・イーストウット

 最初は日本軍の抵抗はなく、簡単に上陸できた。目標は摺撥山から始まった。不気味なほど日本軍の抵抗もなく、簡単な作戦だと米軍は思っていた。
実際は日本軍の参謀が考えた水際作戦を取らず、硫黄島の特徴である岩石に覆うわれ、五分といられないトンネル掘削作戦を決し、それに耐えた将校、兵隊がどれほどの苦労をしたか、しかも縦横十五キロにわたるトンネルを幾層にも掘り、米軍の上陸の様子を見ながら、充分に時間を稼いでいた作戦は見事という他はない。

 日本軍の参謀は軍のエリートでありながら、従来の作戦指導に拘り、米軍の圧倒的な火力の知識が薄かったのではないか。

 「歴史にIfという言葉はない」 この言葉は評論家小室直樹氏の硫黄島栗林中将の作戦に書いてあった記事に、これほどの堅牢を誇った作戦が、もしサイパン島、グワム島などに適用されて、米軍の多くの犠牲を出す作戦があれば、米軍はどれほど戸惑ったことだろう、ひょっとしたら、アメリカ政府は、講和を申し込んできたかも知れないとまで、書いていた。それほど米軍に与えた戦力の抵抗の大きさを評価していた。

 栗林中将の偉大な作戦は、アメリカ人の映画監督クリント・イーストウッドだけではない戦後いまだにアメリカで評価の高い作戦であったかを示していると思われる。第一話での印象では、人間にありがちな偶然という運命的な筋が書かれていた。アメリカで占領作戦でいかに苦労し、逆にアメリカ人の誇りと、士気を一気に高めたか、その象徴が硫黄島の擂鉢山に建てられた数人の兵隊によって建てられた星条旗だった。

 その感動的な写真を撮ったのは従軍記者のローゼンソール氏だった。彼はピューリツア賞を受賞している。AP通信は「ローゼンソール氏は自分自身について、一生に一度だけとてつもない大仕事に恵まれた、と話していたとその謙虚な人柄をしのんでいた。

 六人の米軍兵士が星条旗を建て、三人が生き残った。アメリカに帰還して、当時の英雄に仕立て挙げられ、大統領に直接面接までした。当時アメリカ本国でも、国債購入運動のモデルにまで利用された。中にNative Americanつまり原住民のインデイアンー出身の兵隊が、偶然星条旗を建てた一員だった。

米兵硫黄等に上陸 硫黄島にて米兵の苦戦状態

 彼も英雄として名誉を受けたが、当時アメリカでは、まだまだインデイアンを蔑視する傾向があった。彼の名前はアイラ・ヘイズ、彼はネイテイブ・アメリカンとして重いものを背負っていたため、自分の名前を連ねることを最期まで拒んでいた。

 しかし、戦地で倒れていった戦友たちの死をよそに、自分が英雄扱いにされることも、真実を隠したまま嘘がまかり通っていることも、耐えられないことだった。トルーマン大統領からホワイトハウスへ招かれた時、記者団に向かって「250人の戦友たちが私と一緒に戦って、たった27人しか生きて帰らなかったのに、どうして英雄気取りなんかできるのだろう?」と心境を告白している。

 やがて、蔑視に耐えられなくなり、アルコールの力に頼るようになり、泥酔による失態をさらけ出し続け、自滅への道を歩み出す。折角の勇士が、酒びたりになってゆくシーンは、印象に残るものだった。

 第二部では、昭和八年アメリカ・ロスエンジェルスで行われたオリムピックで西竹一中尉が馬術で優勝を果たし、一躍世界中で評判となったバロン(男爵)西中佐が、戦車連隊長となり、戦死したのである。

 噂ではアメリカ軍がバロン西が戦車連隊長で活躍していることを知り、バロン西よ・・出てきなさいと声を掛けたとのことだったが、名誉ある西中佐は、自分は砲弾で目を負傷し、部下を移動させ、最期は見事に銃による自殺をしたストーリになっていた。

 私は騎兵出身で、騎兵学校で学んだ経験があり、西中佐は時代の相違はあっても、彼の経歴を見ると、陸軍騎兵学校で教官を務めたこともあり、なんとなく大先輩でもあった上官であり、大先輩だったとの思いもあった。映画の解説者ではないので、筋書きは除くが、第一部、第二部の両方から得た印象を書いて見たい。

 第一部;硫黄島の象徴的なものは、米軍の兵士が山頂に星条旗を立てた写真である。偶然に6人の兵士が、硫黄島の擂鉢山に、星条旗を掲げたが、3人だけが生き残り、この写真がアメリカ国内で発表されて、俄然アメリカ国民の戦意を高めた効果は抜群であったらしい。

 前述の通り、硫黄島占領に思いも寄らぬ苦戦を強いた日本軍の戦いぶりに、補給が途絶えた中で、最期の最期まで戦った日本軍の評価は、未だにアメリカでは大なるものが有ったがために、アメリカ軍部に与えたショックは大きかったようだ。

渡辺 謙(司令官役) 戦場にて栗林中将の指揮

第二部「硫黄島からの手紙」この作品は日本兵が栗林中将を初め、全部日本語で撮影されていた。俳優の渡辺謙氏が栗林中将の役柄であったが、軍服姿もよく似合っていた。
戦場だったから,有り得た話題かもしれないが、栗林中将は側近の将校は勿論、召集兵の陸軍二等兵まで、行き届いた配慮していた風景などは、内地で厳しい階級意識の強い軍隊生活から予想もつかない風景が映し出されていた。

 参謀の反対を打ち消して、地下壕作戦を立案し、当時持ち込んだ日本軍戦車は,鋼板が薄く、敵の砲弾には対応できないのを承知で、敢えて壕の中に埋め込んで、砲だけを表面に出し、あたかも機関銃の役目を出して、敵兵を打ち込んだ戦法は、見事なものだった。連隊長のバロン西連隊長は、戦いの半ばで、目を負傷し、自分の部下を他の地下壕へ移動させ、自分は銃で自裁したシーンは、誠に印象的な場面だった。

 栗林中将は、最期の場面で,白たすき姿で、自ら最期の総攻撃に出て、敵陣に打ち込んだ日本独特の最期の戦死姿が誠に印象的だった。日本軍の最後の突撃姿は、よほどアメリカ軍も恐れをなしたに違いない。

第三部 戦後六十一年になって、米国側でこの様な戦争映画が作られることに、最初は異常なことだとの印象を持った。その真意すら理解できなかった。しかしアメリカが何故この様な映画を作製したのか、この映画を観て、改めて真意が理解できたように思えた。

 栗林中将について、特に最近上映された影響もあるだろうが、真の知米派だったことを知らされた。軍の代表として、アメリカに住み、大学まで留学し、アメリカの生産力の大なること、帰国後参謀本部に出来れば、戦いを避け、何らかの手を打つ必要があると,信念を持って軍の最高機関に進言し、聞くところによると、蓮沼侍従長を通じて、天皇陛下に、上奏したという話題まである。当時の大本営幹部の作戦指導にそむくような背景もあったようだ。

 彼の性格は真に優しく、家庭に出した手紙などを見ると、家の屋根の水漏れまで心配し、子供に出した手紙には、優しさに溢れた文章を書き、普通の父親の顔も見せている。
戦時中に凡そ考えられない姿が見えるのだ。

 秀才の誉れ高い栗林中将を、敢えて硫黄島の最高司令官に赴任させた大本営幹部の意図は左遷したとしか言いようがない。バロン西中佐も、彼の経歴を見ると、中央のジェラシーを感じさせる人事が行われた印象が強い。最期に硫黄島に意図的に左遷された感じは否めない

硫 黄 島 バロン西竹一中佐

 私の教官であった野本中尉も、連隊内では、唯一の士官学校出身の将校であった。連隊本部内では、其の他の将校から、煙たい存在で有ったのではないか。敢えてサイパン島に派遣という名の下に、左遷されたのではないかとの、同期の友人達が語るのは、今尚真実性を持っている。

 軍隊という特別の組織においても、この種ジェラシーを感じさせるが、人間社会のあり方が、軍隊でも通用する人間の姿なのだという印象を以って、この映画を観て、最期に私の感想としたい。戦後六十一年を過ぎて、アメリカ人から、改めて戦前の日本人、戦後の日本人を問われており、今後の日本の在り方を知らされたというのが、最終的な結論になるのではないか。

                           石 井 立 夫