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昭和二十年八月十五日、終戦を私は東京の軍隊で迎えた。私の所属は近衛師団という特殊の
部隊で、宮城守衛が主な任務だった。そのため、占領後は日本天皇を如何に守護するか、師団
幹部間では大問題だったらしい。終戦に先立つ昭和十九年三月、特別戦車中隊が編成され、一
個中隊が増設された。
特別戦車隊の訓練が始まるという情報を聞かされていたが、具体的には、どのような任務を
遂行するのか、などについては特別の関心はなかった。その理由は、従来のそれぞれの任務遂
行に忙殺されていたからだ。それは天皇陛下を、長野県松代に設営した特別の避難所へ、無事
避難させるために、@(マルゴ)車という戦車まで用意していたのである。一般の将校といえど
もその戦車の内部は非公開という厳重な措置が取られていた。今の日野自動車が設計し製造し
た特殊な車だった。私は戦後五十年過ぎたころ、ある事情があって、日野自動車へ、この戦車
の青図が残っていないか問い合わせたことがあった。会社側の応答は、残っていないとのこと
だった。想像ではおそらく終戦の際、焼却したのではないかと思う」。
来るべき進駐軍に対する、万一の緊急事態発生対策のため、近衛師団には特別の措置として
部隊の半分ぐらいの人員を、希望者によって再募集し、兵力として残すことになった。希望者
という条件が、徹底しなかったため、その夜から兵隊達の間では、大脱走が始まったのである
そこまでは考えもつかず、万全の措置を講じたつもりだった。敗戦というショックの大きさ
は、軍人だけではなく、日本人全体が未曾有の混迷状態に陥っていた、その象徴的なの一つだ
ったといえようか。
私は復員を希望していたので、残留する義務はないと決めていた。その脱走の夜、連隊本部
の二階から、連隊長側近の将校団の一員として、営庭を見おろしていたので、兵隊達の脱走風
景が丸見えだった。
その光景は、すさまじい程の光景で、肝のすわった連隊長でさえ、最早何の命令も出しえな
い、狂気に満ちた大混乱の光景だった。その状況を見ながら連隊長は、「石井中尉よ、これが
明治以来の伝統ある日本陸軍の崩壊の末路実態だ・よく見ておけ・・・」と言う連隊長の目に
は、涙が滲んでいた。
残務整理が始まった。それは重要と思われる書類を、徹底的に焼き捨てるという作業が主だ
った。その作業を終え、九月九日に正式の軍務を終了して同僚と別れた。
結局、部隊は大脱走という大混乱はあったものの、約半数は残留するという希望者が出て、
なんとか員数いんずう(これは軍隊独特の言葉で、必要とする数を整え、辻褄を整えるという
検査用語)を合わせて、ひとまず終了したようだ「連隊の半数の兵を残して、緊急の処置を施
す訓練をした。例えば、速車(今でいうオートバイ)で、陛下の車の傍を走る場合、直ちに降
りて、事態に対応するような訓練がされたようである。しかし、マッカサー司令部の命令で、
約半年で解散させられたと、残った友人に、聞いた事がある。現在宮城守衛勤務している守衛
官の姿に引き継がれている。なにしろ、戦後の占領軍は、当時は絶対的な主権を握っており、
日本政府の権威は絶無だったことは、歴史的に語られている事実であることは、残念ながら、
その後の日本の伝統あるさまざまの文化、憲法制定まで加えられた」さて、私は引揚者という
扱いで、当時の戸籍は東京にあったが、本当の意味での故郷というのはなく、母の故郷である
O県のU町に上海から引き揚げていうかたちで、とりあえず、O県のU町に帰ることにした。
その途中の大阪に、翌二十一年に結婚を予定していた女性がいたので、途中下車して、「敗
戦で、自分の人生の先が読めないので、身の落ち着くまで、しばらく待って欲しい」延期の挨
拶をして、U町へ帰った。
引揚げ者であった母は、祖先の墓を建てたものの、肝心の住家までは建てていなかった。
(父は上海に技術者として、中国政府から残留を命ぜられ、余儀なく、引き揚げは出来なかっ
た。)母は、父が日本に家を建てておかなかったから、このような惨めな借家住まいをするこ
とになったと、ひたすら毎日を泣き暮らす日を送っていた。というのは、その借家は、朝鮮か
らの引き揚げ者の所有で、何時その持ち主が引き揚げてくるか分からない、心細い状態だった
のだ。私は一応帰ったものの、今後の生き方をどうすればよいのか、迷いに迷い、町役場へ復
員届けを出した後、毎日、町の図書館に通い、生きる手がかりを求めて、むさぼるように本を
あさる毎日を送っていた。
小さな町のこととて、就職するルートもなく、母の嘆きから遠ざかりたいために、図書館に
逃避するようにしていたのも事実だった。
大阪の婚約者からは、何の便りも来ない日が続いた。医者の娘で、もともとこの婚約の話に
は、母は反対していたのだ。「貴方にとっては身分不相応の婚約者だから、分を辧えなさい、
思いがけない敗戦後だから、
絶対に取り消しが来るに決まっている」と言っていた、案の定、本人からではなく、その相手
の母から、この話はなかったものにして欲しいとの断り状が来た。
敗戦後の空虚な気持ちで、毎日を無為に過ごしていたので、格別の口惜しさもなく、寧ろ当然
の成り行きだと、あっさり諦めた心境だった。
ある日、町役場から、復員者にいろいろ尋ねたいことがあるので、出頭して欲しいとの通達
があった。何だろう、漠然とした期待を感じながら指定された場所にでかけた。
約三百人程の復員兵が集まっていた。十月の末の頃だった。
私はもともとU町の生まれではないので、知り合いの人は皆無だった。
大きな講堂に既に多くの復員者がいたが、私は中段の場所に座って、開会を待っていた。
初めに町長の挨拶があり、続いて総務課長の就職のための具体的な説明が始まった。その趣旨
は、終戦と同時に、長崎県の炭鉱で働いていた、中国人や朝鮮人が、いきなり戦勝国民になり
全員が帰国してしまい、戦後の復興の重要な資源である石炭採掘の労働者が、ゼロとなり、国
家存亡の危機に陥っている。ついては、復員したばかりの諸君の中で、身体健全で、家庭の事
情が許される人は、緊急に応募してくれないか。
九州一帯の市町村に割り当てがあり、わが町にも十五人の割り当てが来ている。どうか差し
当たって事情の許す人は手を挙げて欲しい、と結んだ。代わって職業安定所の所長が、巡回し
て、一人々々に向かって、「お前はどうか」と荒い口調で、質問を始めた。当時の田舎の青年
は、おとなしく、口もあまり聞けない程で、応ずるでもなく拒むでなく、中途半端な返事ばか
りであった。復員したばかりで、簡単に炭鉱へ行くような返事をする青年がいるはずもなく、
所長はだんだんいらいらしてきて、ますます乱暴な口調になっていった。
中段に座っていた私は、その所長の増上な変身振りに、だんだんと腹が立ってきた。そしてい
つのまにか忘我の状態で、突然手をあげてしまった。
第一号の挙手をみて、所長は喜んで、よし、初めて手を上げたのが出た、「お前が第一号だ」
と言った。
私は、大きな声で、「私は参加するために手を挙げたのではない・・・」「では、なんのた
めに手をあげたのだ・・・」「さっきから聞いていると貴方の口の聞き方はなんだ・・・」
「まさに戦争中に、散々嫌な思いをした命令口調ではないか・・」 「我々は命がけで、復員
してきた。それなのに、その口のきき方はなんだ・・・」「許せない・・・」と口早に怒鳴る
ように叫ぶようにぶちつけた。
その瞬間、おとなしくしていた田舎の青年たちも、口ごもった声で、「そうだ・」と反感反応
を示した。
いきなり座がしらけたのは、言うまでもない。私は住んでいる町の字あざ名をぶっつけるよ
うに名乗り、
その会場を出て行った。
二、三日後、私が図書館にいて不在の家に、その総務課長がお土産を持参して、謝罪に来たと
いう。母はこうした事情を知らなかったので、只管恐縮して、お礼を言ったらしい。
また、二、三日後、総務課長が尋ねてきた。また私の留守中に、「格別のお願いがあってお尋
ねした、実はお宅の大事な息子さんに、隊長として、特別班を組み、長崎の炭鉱へ行ってもら
いたい、如何なものでしょうか?」と。
明治生まれの母には、まず国の危機事情が頭を占め、「お国ため」と言う言葉を重大に受け
とめ、私に向かって、「お前な、隊長として是非参加すべきはないか・・・」と強い口調で言
った。そして勝手に一方的に、受諾する旨を、総務課長に返事したと私に告げるではないか。
また母は「町は既に、十五人の希望者の募集が決まっており、貴方は隊長として名誉ある任
務を、今一度国のために務めたらどうか?・・・」そこで、私は、またもや進退窮まったので
ある。二十六歳の鍛えてきた身体に自信はある。
体力の心配はない。ただ気がかりなのは、引率に応ずる青年たちは、見たことも、話もしたこ
とのない人たちである。
この辺が私のお人よしの、気の弱さである。賛成拒否の決断もなく、何ということなく、事態
は進んでしまった。 労働契約は三ケ月だと言われた。暮れも押し迫った十二月の初め、駅に
何時集合という通知があり、時間通りに駅に行った。
驚いたことに、駅には町長初め、役場の連中が多数集まり、しかも出征兵士を送るときに使
用した、大きな幟のぼりが三本も立っているではないか。武運長久を祈るの代わりに、「祝U
町派遣隊の無事を祈る」と書いてあり、隊長挨拶をと言われ、私は適当な挨拶をして、長崎の
離れ小島の端島炭鉱(別称軍艦島)へと出発したのである。その汽車の中で、お互いは自己紹
介を交わした。
第 二 話
離れ小島までは、三菱炭鉱会社の通いのランチがあり、それで島に渡った。
居住棟に入り、部屋の割り当てがあり、広いが薄汚い部屋だった。落ち着いたら早速 「U町
の石井さん、寮長がきて欲しい」との連絡があり、寮長に挨拶に出向いた。赤ら顔をした、い
かにも炭鉱夫として長年鍛えた顔つきの人で、既に酒を飲んでいたらしい。
その寮長は長崎弁で「石井さんの紹介状ば見ましたバイ。えろう偉か人ですたい。騎兵隊の
連隊旗手をば、しちょらしたとは、たまげた。陸軍中尉じゃったとですね。こげん人には、こ
げん仕事はもったいなか。」と盛んに誉めあげられ、くすぐったい思いをこらえていた。連隊
旗手とは間違いで、町役場から大げさな紹介状が届いていたらしい。
それを否定するのも意味はないので、訂正はしなかった。「しょうがなか、まーことに申し訳
なかばってん、ここじゃ炭鉱夫の一人として、地下で働いてもらわんならんとですバイ」と言
われた。私の予想は甘かった。炭鉱夫の経験のない私は、炭鉱夫の仕事の大部分は地上で仕事
をするものだと決め込んでいたのである。
部屋に戻り、全員に明日から地下にもぐって仕事をすることになった。作業着も全員に配られ
たので、それを分ける。この地下労働に自信はあるかどうか、もう一度全員に確認を問うた。
全員もまさか地下にもぐって仕事をするとは予想外だったらしく、それでは話が違う、すぐ帰
郷したいと、口々に不服を言い出した。結局十五名の内、十名が断じて帰ると主張した。私の
力では止めようもないので、寮長に実情報告をしたら、予め歩留は予想の範囲だったらしく、
簡単に認めてくれて、隊長も大変ですね・・・と同情される始末だった。
九州一圓から、約一千人が集められたのである。
翌日から、地下三千尺という深所に、トロッコに乗せられて、送り込まれた。
先山さきやまという名の長年のベテラン抗夫が、先頭に立ち、ドリルで石炭を掘り、我々は後
向きあとむきいう名の仕事をすることになった。
先輩は、「いいか・・・俺が掘った炭を、お前たちは、トロッコに積む・・一杯になったら、
それを集荷場まで押して行き、その場で次の職場の人に引き渡すのだ・・・」最初の日から、手
を取ってという、きめ細かさはなく、口で言われるとおりの作業をさせられた。
その仕事現場は、真暗闇で、ヘルメットにつけたランプが唯一の光で、それがなければ、一寸
先も見えない、
まさに暗黒の世界だった。
仕事は八時間労働の三交代制で、一週間は毎朝八時から午後四時まで、午後四時から真夜中
の十二時まで、
十二時からは朝の八時までの割り当てがあり、交代でとにかく新しい炭坑夫の仕事が始まった
のである。弁当は入坑のおり配られ、真っ暗闇の中でそれを食べるのだった。
タバコは、爆発の危険がるので禁止、入抗時に厳重な身体検査があった。
最初は怖い思いもしたが、仕事が単純なのですぐ慣れ、その危険は余り感じなくなった。しか
し、仕事を甘くみると、危険な目にあうことになるからと、くどくど注意された。
他の県から派遣されて来た、グループの一人が、落盤事故で亡くなり、早くも犠牲者が出た
というニュースがあった。
仕事の都合によって、時間の余裕があれば、時々寮長から呼び出しがあり、酒でも飲めと勧め
られたが、もともと私は酒に弱いので、寮長の古い経験談を聞くぐらいで、軽い付き合いだっ
た。特別に好意を持ってくれるのはありがたいが、それ以上の付き合いはなかった。
組み合わせは、出身グループで、U 町の人との組み合わせに限られていた。残りの五人も仕事
に慣れ、元気で働いていて、隊長としての責任を問われるようなことはなかった。
このような生活を、怪我や事故もなく過ぎ、やがて契約の三ケ月が近づき、いよいよ最後の
終わる日を無事迎えることが出来た。 全員無事を祝し、一杯の酒を酌み交わし、お互いの
無事と責任完遂を祝いあった。この貴重な体験を、お互いに将来へつなげて行こうと誓い合い
帰郷の楽しさや、何をお土産になどと、語り合った。
さて、契約の任を終了し、帰郷の準備にとりかかっていると、突然、島に発疹チブスの患者
が出て、全員は島から一歩も出られない、との通知が出た。検査のため、一ケ月間の仕事延長
を言い渡されたのである。
さて、一旦地下の作業を終えた今、再び地下にもぐっての作業は、怖くてできるものではない
・・と寮長と交渉して、地上での作業を希望した。地上には、炭鉱を掘り進めたり、坑道のト
ンネルを設営したりするため、山のような多くの杭木が積まれていて、とりあえずその整理や
積み替え作業をして欲しいと頼まれ、その一ケ月は何事もなく過ぎていった。
どうやら、伝染性の病気の危険もおさまり、正式の帰卿許可がでて、我々とのお別れの送別会
も会社側がしてくれた。各県出身者別の総合のお別れ会だった。U 町の代表としての私も挨
拶させられた。
余興として、お礼の気持ちを込めて、私は藤村の「椰子の美」を歌った。離れ小島であった
ので、この歌がこの雰囲気に合うのではないかと思い、つらい思い出をなつかしむ気分でこの
歌を唄った。果たせるかな全員の拍手は沸いた。
明日は船出という夜、思いがけなく事務所勤務の女性が、お別れに私に逢いたいと告げられ
港の近くで逢った。そして、またこの炭鉱へ是非帰ってきてほしいと再来を乞われた。会社の
事務所でも、そんな噂が立っているというのだった。まさかと思ったが、さすが二度とここに
来たくないとも言えず、言葉を濁して、淡い名残を感じながら、船出をして、無事全員が帰郷
した。
第 三 話
さて、無事帰郷したことを町役場に報告し、私は、なんとしても上京して、職を探したいと
母に告げた。
そして幸い友人からの紹介で職を東京で見つけ、そして本格的な離郷の準備のために帰郷した
私の上京の留守中に、長崎の三菱炭鉱会社の総務課長が見え、社宅も用意するから、是非と
も社員扱いで、再び来てもらいたいと母に告げたらしい。
当時の日本の花形産業は炭鉱であり、就職界では、噂によると、優秀な学生応募希望のトッ
プの業界は炭坑であったとのことである。母からも今後のことを考えて、会社で社宅まで用意
をしてくれるからと懇願された。私は二度と、帰る気はないと、冷たく母に言い残し、東京へ
出て行き、そこで落ち着いたら、母も迎えたいから、それまで我慢してくれと、母の懇願を振
り切るようにして、上京したのである。
その二年後に、その約束もむなしく、母は世を去った。
以上の恐ろしい炭鉱体験を、今さら語りたくもないが、坑内で働いている内に出くわした、
ある一人の人のことを忘れることが出来ない。
その人は、長年世間から隠れた生活をしてきたと告白した。何のためにと私が聞いたら、戦時
中にある思想を問責され、その筋から付けねらわれ、この炭鉱に逃げ込み、身を隠していると
言うのだ。
私にはこの思想界の真相はよく分からないが、外にもこの種の追跡によって、身を隠して入
抗している者が、多勢いることを知って驚いた。
さらに、会館で新しい労働運動の会があるので、私にその筋の意見を述べてほしいと勧められ
た。まさに自由解放による労働運動の走りのときだった。
私はその討論を聴聞に行ったが、自分の意見を述べることは断った。この島に居残る意志を持
っていないのに、改めて意見を述べる必要もないと思ったためだ。
戦後の新しい人生の出発の関頭に、炭鉱夫などと誰が予想したであろうか。しかし、あの戦場
ならぬ、地下三千尺の炭鉱経験は、奇異であり不思議な体験であったと、時々思い出すのであ
る。その後の人生に格別に役立ったとはいえないが、それは瞬くほどの短い期間だったが、逞
しい肉体に恵まれた青年期ならではの体験として、今も尚、懐かしい思い出の一つであったこ
とは確かである。
石 井 立 夫 |