昭和初期の頃の街の風景
天邪鬼の本領

 この命題は作家藤原正彦氏が山本夏彦氏につけた呼称である。作家藤原正彦氏は、「国家の品格」という本でベストセラーを出版した数学者であることは、現在はあまりにも有名な学者である。この人が、山本夏彦氏の「夏彦の写真コラム」傑作選を出版しているのを読んだ。1979年から1991年までの傑作編である。

 私も山本夏彦氏の大フアンであった。平成14年10月23日に亡くなり、いささか絶望に近い気持ちになった。特に「週刊新潮」に「夏彦の写真コラム」に実に23年間計1151編のコラムを連載した。私は当時から、週刊新潮を全部ではないが、思い出してみると、相当長期間読んだ覚えがある。

 中味は全部覚えているわけではないが、この人の文章は時に難解、ほめているのか、けなしているのか、怒っているのか、笑っているのか、悲しんでいるのか、本気か冗談か、とにかく誠に印象深い名文を書きなぐっていたという、日本人の深層をえぐってきた人だと思い出の深い人である。

 経歴によると、パリのユニヴェルシテ・ウヴエール修となっているが、昭和十四年「年を歴た鰐の話」の翻訳本を出版している。内容は動物を擬人化した物語で、一種の寓話集になっているらしい。私は読んでいない。戦前は外国へ留学した人は、得意げに肩書きを披露するが、彼の本には、それらしき教養溢れた事実は目立たないように書いてあり、それは生半可ではないものであると思った。

 夏彦氏の「夏彦の写真コラム傑作編」Aは阿川佐和子さんが編集して出版している。1991年から2002年までのコラムを選んでいる。誰か「戦前」を知らないか、夏彦迷惑問答というサブタイトルが付いている。大地震の前の晩だって人は枕を高くして寝ていた。
まじめな話をまじめくさって、真顔でするのは失礼だ、かくして著者は終始笑いのうちに戦前を語っている。

 年齢的に4年ほどの先輩であるが、大体時代を語っている中味は、殆ど同じである。
教養の深さは比べようもないが、話題が合うと不思議なもので、誇らしい気分になれるのだ
驚くべきは、この人の記憶のボリュウムだ。余程読書をした人だからだろうが、その記憶力の確かさは、他に追随出来る人は、あまりいないのではないだろうか。

 この本の内容を項目別に列記したみたい。十三章に分かれているが、特に興味の沸いた項目を選んでみたら、結局最終に近い項目で、現在の若い人は殆ど知らない日露戦争で功績を残した、広瀬武夫海軍中佐の物語を取り上げてみたいと思った。私も日露戦争は知らない世代だが、小学校時代に彼の武勇伝と、功績を褒め称えた唱歌を今でも覚えているので、最後に取材することにした。

 題名は「武骨天使広瀬武夫」である。漢文を自在に操ったのは、軍人では広瀬武夫、文士では、夏目漱石までです。海軍中佐広瀬武夫は漱石と同時代人です。日露戦争のあることを期して、かねて命はなきものと妻帯しなかった。永年望んだ駐露大使館付き武官に任命されたのはいいが、いやでも嘘で固めた社交界に出なければならない。

 ロシアの貴婦人令嬢のダンスのお相手を勤めた。広瀬は当時の軍人と同じく漢文で日記を書いていた。漢詩や和歌を書きとめて旧幕の頃の遺欧使節と同じ。プーシキンの詩篇に感動すると、直ちに漢詩に訳す。教養の基礎は儒学だった。

 ロシアの貴族は日露戦争なんかないと油断している。武夫は身の丈五尺八寸(175a)東洋の神秘をたたえたこの偉丈夫を歓待しない家庭はない。ことに一貴族の少年はタケニイサンと呼んで慕い、別の二貴族の令嬢二人はひそかに武夫に恋をした。一人は片思いで、一人の令嬢は(十八)とは相思相愛の仲になった。

 武夫は「武骨天使」だから、プラトニックのまま別れる。帰国した広瀬宛の令嬢の手紙が広瀬神社にひっそり残っているという。(内容は省く)武夫は四年余りの任を終えて、シベリア経由陸路帰国して予期した何年かのちの日露戦争に参戦した。

 タケニイサンと慕った少年は今や少壮士官になり、はからざりき旅順で敵味方に分かれて対峙しようとは。広瀬は旅順港閉塞に成功するが、杉野はいずこ杉野はいずやと見失った部下を艦内くまなく探して敵弾に当たって戦死をとげる。マッカーサー元帥は若年のとき日露戦争に従軍武官の一人として当時の将軍に接している。

 星移って元帥として「東京裁判」で昭和の陸海軍の将軍を見て、全く別人かと怪しんでいる。バックボーンを失った日本人は侮りをうけるだけと夏彦は何度も言うがこれは彼の話の主旨だといっている。

私は広瀬武夫が旅順港閉塞の際の「杉野はいずこ、杉野はいずや」という唱歌を今でも覚えているのが、せめての自慢だと思っている。

                          石 井 立 夫