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東海道の
交通:1熱田神宮・上知我麻神社へ名鉄本線神宮前駅から徒歩8分 2美濃路の道標・ほうろく地蔵へ同徒歩11分 3七里の渡し跡・熱田荘・丹羽家住宅へ同17分

「宮宿略図」 このページは、東海道宮宿⇒名古屋宿(1里半・約5.9km)掲載

「美濃路の道標」(南側)寛政2年(1790)建立、熱田伝馬町の西端は、江戸時代東海道と美濃路の分岐点で重要な地点であった。このT字路の東南隅に当時のままの道標である。(左へ(北)美濃路の起点)


「美濃路の道標」(北側)宝暦8年(1758)建立、東海道と美濃路の分岐点北東角にあったが、東海道を少し東へ行った村瀬家宅の表庭に現在保存されています。

「宮宿御朱印番所」 朱印状を改める番所は、代々江崎清左衛門が勤めた。将軍の朱印状による公用旅行者は、人馬使用が無料でした。御三家尾張藩の支配地の熱田宿だけにあった。右東海道(正面から右折)七里の渡しへ。

「ほうろく地蔵」 三河国重原村(知立)に倒れていたものを、焙烙売りが天秤棒に使い、それを地元の人が祀った。右隣は源太夫社(上知我麻 神社)でしたが、熱田神宮境内に移転されています。(T字路向かって左東海道・右美濃路の起点)

熱田神宮南門前を美濃路は左折し、すぐ国道19号線を右折し大須観音方面へ

「熱田神宮」 113年(景行天皇43年)創建、三種の神器の一つである草薙剣 を祀る、古来より朝廷、武将の崇敬を集め伊勢神宮に次いで権威ある神宮です。境内に織田信長が桶狭間の戦勝報賽のため奉納した信長塀(日本三大塀の一つ)などの他、宝物館には国宝や重要文化財を含む約3000点の宝物が収蔵。社殿は昭和30年(1955)再建されました。

「上知我麻 神社」 元源太夫社といい東海道と美濃路の分岐点の西側にあり、旅人は門前を通るので、誰もが旅の安全を願ったものです。現在は熱田神宮境内の南西角の美濃路沿いに移転(商売繁盛など願う「初えびす」が有名)

「蓬寿山・宝勝院」 西山浄土宗 熱田湊常夜燈は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで当寺が管理をしてきた。

「七里の渡し跡・常夜燈」 寛永2年(1625)犬山城主成瀬正房が創建、昭和30年(1955)復元
安藤広重の東海道五十三次で宮宿船着場風景が描かれており当時の様子を知ることができる。


「熱田荘」 明治29年(1896)武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭でした。切妻造・桟瓦葺平入りで、江戸時代の町屋の形式を残しています。(現在は高齢者福祉施設)

「丹羽家住宅」 幕末の頃、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称していました。正面の破風付玄関は、格式が高く屋根に上がっていた卯建 は、戦災で破壊され、袖卯建が残るのみです。(東隣は船会所跡)

「宮宿の赤本陣跡」 本陣は2軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していた。神戸町の赤本陣は、南部新五左衛門が勤め、
苗字帯刀 を許されていた。往時の大遺構は戦災により全くない(表示板のみ熱田奉行所跡の北)
「宮宿の白本陣跡」 伝馬町にあり、森田八郎左衛門が勤めました。宮宿は脇本陣2軒、脇本陣代も10軒以上、旅籠屋248軒

「西浜御殿跡」 承応3年(1654)尾張藩2代藩主徳川光友が造営し、東西36間・南北33間の豪壮な建物で、幕府高官や公家、大名の客館として使用されていました。(北隣は熱田奉行所跡)
「東浜御殿跡」 寛永元年(1624)七里の渡しの浜を埋め立てた出島に初代尾張藩主徳川義直が造営し、将軍家光も幾度か利用している。広重の浮世絵「熱田浜」の端に城郭が見える。

左「裁断橋址」 天正18年(1590)18歳の堀尾金助を秀吉の小田原攻めで亡くした母親が、菩提を弔うため裁断橋を架け替え銘文を擬宝珠(市文化財)に刻んだ。(址は昭和6年建立)
右「
姥堂 」奪衣婆 (三途の川 で亡者の衣服を剥ぎ取る老女の鬼)を祀った姥堂は、延文3年(1358)法順上人の創建、本尊姥像は熱田神宮に在ったものを移したと伝えられる。姥像の衣紋は熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。昭和20年戦災で焼失し、現在の本尊は平成5年復元した御像である。

「白鳥御陵への道標」日本武尊 が死後白鳥となって舞い降りたと伝えられる白鳥御陵(白鳥古墳)は、全長74mの前方御円墳で6世紀初頭の築造と考えられる。道標は従是西2丁と刻まれ、愛知共同馬車会社中により明治37年建立

「源頼朝生誕地の誓願寺」(西山浄土宗) 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、久安3年(1147)ここで生れたと伝えられ、「右大将頼朝公誕生旧地」の石碑は明治33年建立、熱田大宮司であった藤原季範 の娘が源義朝に嫁してもうけたのが頼朝でした。

「熱田神宮第一神門址」 一の鳥居は高さ三丈五尺(11m)柱周り一丈、朱塗りの檜造りであった。

「山王稲荷と古渡りの立場跡」 正徳3年(1713)尾張四代藩主吉道郷の御創健、境内に水茶屋を設け立場とした。北側の山王通は鎌倉街道、宗春の冶世下は稲荷の北と南側(葛町)に遊郭も軒を連ねた。

「佐屋路の道標」 美濃路と佐屋路の分岐点で文政4年(1821)佐屋旅籠連中により建立、佐屋路も脇往還で、海上「七里の渡し」を迂回することができました。美濃路(国道19号線)をここから佐屋路左折)