
1 冨田一里塚 2 駒塚道 3 冨田のあんでら 4 聖徳寺旧跡
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筆者は、国指定史跡「冨田一里塚」近くで生まれ育ち、ここで営みを続けている田舎者です。一里塚は慶長9年(1604)江戸幕府は街道に榎を植えて約4km毎に里程を示し目じるしとした。
この4つのページは、旧冨田村の各界わいをご紹介させて頂きます。
交通:冨田一里塚へJR尾張一宮駅・名鉄本線一宮駅から名鉄バス起行き「起」下車南へ徒歩15分

「旧冨田村略図」 冨田村は、萩原宿と起宿の中間に位置し起宿の南の一部でした。

左:美濃路(県道、尾西・清洲線) 1 冨田一里塚 ・ 2 駒塚道 (ここから南へ900m) 右:津島街道 3 冨田のあんでら(横断歩道橋を西へ入る) 4聖徳寺旧跡(南へ400m)
「冨田横断歩道橋より撮影」

「冨田一里塚」 右塚(東塚)

「冨田一里塚」 左塚(西塚)
「冨田一里塚」 美濃路で唯一道の両側に塚があり、榎 の大木(樹齢400年)今も生き茂っている。昭和12年(1937)国の史跡に指定、石碑は昭和15年(1940)建立。平成19年一宮市が隣地に小公園・公衆便所を設置した。一里塚の清掃管理は、冨田生産組合が草刈・消毒・清掃等を行っています。

「美濃路廻りの起の街道並木はづれの一里塚」 有名な作詞家 野口雨情は昭和10年一里塚を訪れ歌を残す。(雨情の童謡 七つの子・赤い靴・シャボン玉・証城寺の狸囃子など)

「冨田神明社」 当社は慶長8年(1603)創建、冨田一里塚は明治9年(1876)内務省令で適宣廃棄されたが、当一里塚は昭和3年(1928)大蔵省から冨田の村社である冨田神明社に払い下げられました。

「旧津島街道の道標」 美濃路街道の枝れ道に弘化3年(1846)「右つしま道三里半・左おこし道」と刻んである。旧上屋敷出荷場北西角地(現中町)に建立。大正11年(1922)旧道の西寄りに地蔵寺前から現津島街道が開通した。道標は現在尾西歴史民俗資料館で保存されている。

「庄屋・中嶋邸」 享和2年(1802)本家第23代甚助氏の三男市右衛門が分家し材木商を行う。 慶応元年(1865)長州征討の為14代将軍徳川家茂 の出陣で起宿に宿泊した。幕閣の老中阿部豊後守(奥州白河藩主10万石)は中嶋邸に宿泊、18000人の幕府軍は、起村・冨田村・小信中島村等の民家も宿泊所となった。
筆者の六代当主武兵衛と祐右衛門・利平・久左衛門・地蔵寺の石垣一族も将軍の親衛隊である御小姓組・黒鍬の宿泊所となった。

「冨田の一軒家」 地蔵寺前の通称一軒家(現在の加藤カメラ店)道路は美濃路イラスト大正10年(1921)頃」庄屋中嶋邸と石垣一族邸から北へ街道は松並木が続き地蔵寺前(東側)に、ぽつりと一軒のみ加藤家があったことから、通称冨田の一軒家と言われてきました。今日も一軒家で通ります。

「現在の冨田の一軒家」 美濃路の右手前の一軒家(加藤カメラ店) 正面歩道橋下を西(左)へ地蔵寺入り口

「里松山浄慶寺 」 冨田村の巨刹聖徳寺は美濃国三ツ屋郷へ移る際、慶長4年(1599)懸所として建立し留守職を置いていたが、明治16年(1883)聖徳寺支院から独立し真宗大谷派本山直末となる。明治24年濃尾地震で本堂等倒壊、明治35年(1902)再建した。

「東神明社跡」 浄慶寺門前の道路の南側5畝歩角地に慶長8年(1603)創建、明治42年(1909)西神明社寛文2年(1662)創建に合祀し現冨田神明社となる。秋葉神社創建不詳も同時に冨田神明社境内に合併し移転した。

「鎧掛松跡・現仮宮児童遊園」 永禄年中(1558〜1570)織田信長が高きそびえ偉観を呈していた老松に鎧を掛けて小憩したと伝えられている。昭和10年調査で樹齢500年太さ2丈2尺、昭和11年落雷で焼損倒壊した。
★在りし日の仮宮の大松 「冨田田甫の鎧かけ松は北や南に枝をさす」 作詞家 野口雨情は昭和10年冨田村を訪れ歌を残す。

「北屋敷地蔵尊」 嘉永3年(1850)頃、中嶋本家(庄屋・酒屋)第25代当主甚吾氏が父の遺志を継いで旧津島街道沿いに露座の辻地蔵を建てる。明治初期に入り現地蔵堂を建立した。昭和17年(1942)現寺町が奉仕する事になった。

「瘡神社 」 慶長3年(1867)9月全国各地に神社佛閣のお札が降り、山田喜十郎方庭内にも降りたお札を祀る。冨田村では他に16体程夜間に降りました。昭和19年(1944)以降西屋敷(現西町)の奉祀となった。

「村境杭」 木曽川左岸堤防の東堤(一宮市尾西プール東)に弘化4年(1847)8月建立、従是上冨田村扣堤・従是下東加賀野井村扣堤と刻んである。

「孝子 佐吾平の遭難遺跡」 天保年間(1830〜1844)吉藤村の萩原宿馬方の佐吾平は、盲目の母を孝行する息子として評判が高く、ある日暴れ馬を取り押さえるため美濃路を江戸参勤途上の播州明石8代藩主松平斉宣 の行列を乱して、先駆の武士に無礼打にされたと言い伝えられています。

「天神の渡し跡」 昭和52年(1977)天神神社南入口に建立、日光川の旧尾西市西萩原に慶長年間(1596〜1615)まで、渡船場があり川幅480mのち狭められて渡しは廃止。(対岸一宮市萩原町松山)

「吉藤城址」 戦国時代、織田信雄(信長の次男)(1558〜1630)に仕えた遠藤三郎右衛門の居城(372坪)であった。天正12年(1584)小牧・長久手合戦の際、吉藤城へ織田長益・滝川雄利・飯田半兵衛を派遣して警固を強化した。(美濃路萩原橋西方900m)

「市川房枝翁の生家」 明治26年(1893〜1981)中島郡明地村(旧尾西市)に生まれる。戦前・戦後に女性の社会的・政治的権利獲得を求め婦人参政権運動の制定等を主導した。昭和28年参議院選挙に当選し通算25年間勤めた。選挙運動は手弁当で行うスタイルを生涯変えず「理想選挙」と言われた。昭和56年尾西市名誉市民に推挙された。平成21年生家の土地を一宮市に寄贈される。

「冨田の土人形」 天保年間(1830〜1843)冨田村の中島佐右衛門が近所友人の日比野忠四郎と名古屋御器所の土人形師のもとで製作技術を習得し、この地で創業した。初代佐右衛門から五代目は分家の中島一夫氏が跡を引き継ぐ。現在は奥様の一子さんが土人形や土鈴の製作を続けています。(市無形文化財指定三代目佐十郎・五代目一夫・一子氏)

「五代目の中島家」 美濃路の冨田中町交差点北東角地の右棟が人形製作所です。この東側の奥村用水は明治42年材木屋前に架橋しかなく大正4年人形屋前から毛受・南木を経て、一宮街道が開通した。

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「起土人形」 左 荒獅子男之助 ・ 中央 仁木弾正 ・ 右 政岡

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「起土人形」 招き猫と福助