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東京湾要塞の調査記録を中心とした雑記帖です。

2011年7月13日 (水)
JR田浦駅浦引込線

田浦駅浦の海軍軍需部倉庫群の間を走る引き込み線はこのエリアの大きな魅力でしたが、最近になって撤去されてきています。 この間、吾妻川にかかる橋梁が撤去されたのに引続き、これは珍しいの・・・平面交差も埋められました。 どうやら海自施設の移転集約の関係のようです。 写真を撮るなら今のうちかもしれません。

2011年5月2日 (月)
96式25ミリ連装機銃

貴重な発見です。ある機銃砲台跡を調査中、 海軍の代表的な高角機銃である96式25ミリ連装機銃の台座部分の残骸が掩体の中に残っていました。銃身は終戦時に海軍によって撤去されているためありませんでした。 他にも、三連装機銃や13ミリ連装機銃の残骸もありました。

2010年10月20日 (水)
田浦駅裏軍需部倉庫に破却の危機?

先日、田浦駅裏の旧軍需部倉庫地帯に行ってみると、なんと相模運輸が使用しているK、E、Fの3つの倉庫の周りが片付けられて、立ち入り禁止のトラロープが張られていました。 これは、一体・・・ 壊されるのでしょうか。 せっかく、ここまで残ってきたのに。 観音崎の火薬庫も破却の危機であるし、いったいどうなるのでしょう。 昔の建物を残し、活用しているものが成功しているのに。 もっと将来を見据えて、大きな視野で物事を考えたいものです。

2010年10月3日 (日)
比与宇トンネル

先日の神奈川新聞に比与宇トンネルで歩道工事が行われると書いてありました。昔から歩道がなく危険と地元からは要望が出ていたようですが、付近で行われている海自施設の移転集約で交通量が増えることから、GOとなったようです。 トンネル内に入っていた軌道もいつのまにか埋められました。 歩道工事もどんな結果になるか分かりませんが、見ておくなら今のうちです。

2010年9月27日 (月)
CMロケ地

久しぶりにテレビで見ました。 トヨタヴォクシーのCMです。 昔はロケのメッカでしたが最近はめっきり減ってしまったかっての第二海軍航空廠横須賀補給工場、現、相模運輸倉庫の倉庫前です。 一目でなんだか見たことあるなと気がつきました。第2飛行機倉庫の周辺ですね。*拙ページの軍事施設>海軍施設で紹介してます。 モノトーンの画面と倉庫と反町さんがあいまってとっても精悍なできばえですよ。 軍事マニアのあなた気づきました?

2010年8月8日 (日)
奉安殿

奉安殿について調べています。鎌倉に現存しているとの記録により調べてみましたが、破却されていました。鎌倉第一小学校、第二小学校の奉安殿が鎌倉宮の村上社、南方社という摂社に使われたとのことでしたが、調べてみると建て直されているようです。しかし、昔の写真から屋根は残されたのではと推測しています。鶴岡八幡宮の祖霊社も建て直されています。残念。

2010年5月24日 (月)
富士壕・桜壕

以前、米ケ浜の防空用貯油庫「富士壕・桜壕」が急傾斜防災工事で消滅と報告しましたが、現在このとおりです。 右手にまだ一部残っていますが、これも近いうちに無くなりそうです。 昭和16年に海軍の命令で掘られた民間の壕で、富士壕は、2階建てで軍服を縫う授産所となったとのことです。こんな歴史も埋もれていきます。

2010年5月22日 (土)
東京湾要塞地帯標

東京湾要塞地帯標ですが、自分ではこれ以上発見できないので、そろそろアップしようかと思っていて、最終とりまとめをしています。 今日は、不明な点があったので再度荒崎の地帯標を見てきました。 よく見てみると建立は昭和四年四月十六日のようです。 また、荒崎防空砲台敷地と思われる海軍用地碑は別途アップします。

2010年5月16日 (日)
戦跡荒し

先週、ソーラーカーの旅で貝山地下壕を紹介していた方(A氏)に貝山で偶然出会い、貝山の二層目の地下壕を案内していただきました。 6箇所あるとのことでしたが、この日は急だったので3箇所を、回りました。 A氏が、嘆いておられましたが、昨今の戦跡ブームだからでしょうか。勝手に壕に入り、遺物を持っていってしまう。塞いだ入口を壊して入ってしまう。立入禁止フェンスを壊すなどで困っているとのこと。これらは税金で直すのですよ! 釣り人と同じですね。一部のマナーの悪い人のせいで、皆が迷惑する。 立入禁止は入らない。公共のものは壊してはいけないという当たり前のことがわからないバカ者がどこのジャンルにもいるようです。 困ったものですね。

2010年5月6日 (木)
海底線引揚所

同期の櫻様に情報をいただき、見てきました。 写真では良くわかりませんが、茶色っぽいコンクリートの建物です。たぶん、大津〜富津間の海底電話線の引揚所と思われます。昭和初期のもので、海軍ではなくて、逓信省の管轄ですが、よくこんな場所に残っていたものです。 家主はこの建物が気に入って、自宅に取り込んだとのことです。 つまり、この前面はすぐ海であったことを物語る貴重な遺構ですね。

2010年2月21日 (日)
悲劇の横須賀5

住宅が立ち並びました。これで開発は終了です。 ここが緑の丘陵であったことは忘れ去られます。 そして、やがてここに住まう人々も、緑は大事、残していきたい。緑を破壊する開発反対となっていくのです。 この繰り返しで、三浦半島の緑はどんどん失われていくのでしょう。

2009年11月27日 (金)
28センチ榴弾砲

観音崎公園に28珊榴弾砲が再現されています。 といっても、NHKドラマ坂の上の雲に因んで、公園ボランティアさんが製作した木造の模型です。 しかし、実寸で遠目には迫力があります。 日露戦役の旅順攻略の立役者で、海岸要塞砲であるこの砲をはずして攻城砲として使用したことは画期的でした。 せっかくの要塞砲なので、南門砲台の砲座跡に据え付けたそうです。 28珊榴弾砲は観音崎では北門第三砲台に設置されましたが、旅順に送られたのは、米が浜砲台、箱崎砲台のものだったようです。 当分、設置されますので、一度ご覧ください。

2009年10月19日 (月)
浦賀船渠地下工場

7月に浦賀灯明崎の脇の海岸で何か工事をやっていたのですが、先日訪問したところ、まだ造成中でした。どうも個人宅のようです。 なぜこんなところに、別荘でしょうか。それとも・・・。 いずれにしても、大きな建物が建ちそうです。 ここには、浦賀船渠地下工場の入口があったのですが、どうなったかと見てみると、まだ埋められてはいませんでした。 この先どうなるのでしょう。

2009年8月5日 (水)
貝山地下壕 燃料庫

ひさびさの軍事遺構です。 あまりにも有名な貝山地下壕です。 これは、下水処理センター裏の燃料貯蔵壕です。 コンクリートのトンネルの中に鉄のタンクが入っています。結構大きなものなのでびっくりします。 中4基、大2基あります。 戦後米軍に接収されたため英語でDIESEL OILと書かれています。 これは是非保存しておきたい遺構ですね。

2009年7月25日 (土)
悲劇の横須賀4

戦跡には無関係ですが、ここまできましたので、引き続き紹介します。 家が建ち始まりました。ブルーの網で囲まれているのがそうです。 あちこち一気です。 景色が変わりますね。

2009年7月6日 (月)
千代ケ崎の工事

千代ケ崎(灯明台のあるところ)で工事をしているというので見に行ってみました。 確かに、突当りの駐車場の脇の、かって畑であった場所に何か造っています。 海側にはかなり大きなコンクリート壁ができていますし、駐車場も3分の2位に縮小しており、端には見た目の工事内容には不似合いな規模の大きい現場事務所が建っています。 いったい何の工事なのでしょう。 工事内容の看板はなかったように思います。 自然のままではまずいのでしょうか。

2009年7月4日 (土)
悲劇の横須賀3

工事は進み、家が建ち始めました。 電柱には電線が架けられていますが、工事中のためか黄色い被覆が被せられています。 だんだん鬱陶しくなってきます。 これを喜んでいるのは誰でしょうか。 同じく堀の内駅ホームから撮影。

2009年6月26日 (金)
悲劇の横須賀2

奇跡の横須賀、転じて悲劇の横須賀第二弾です。 山を崩し、平らに変造した宅地に、なにやらにょきにょき柱が立っています。どうも電柱のようですが、今時の新興住宅地は電線地中化が当たり前でしょう。 高台にあるので、ちょっと見苦しい眺めの住宅地になりそうですね。 堀の内駅ホームから写した写真です。

2009年6月10日 (水)
ジョージワシントン

すでに何回か目撃していますが原子力空母ジョージ・ワシントンです。最近新聞で横須賀に帰還したとありましたが、またすぐ出港していったようです。 北朝鮮のミサイルの関係でしょうか。 横須賀美術館前で偶然目撃しました。 海自の新鋭護衛艦ひゅうがも同じような形ですが大きさが断然違います。なお、飛行甲板上に艦載機が並んでいました。とっても珍しいことです。

2009年5月31日 (日)
 

腰越あたりの本土決戦陣地をS氏のご案内によりいくつか訪問しました。 写真は小動岬の狙撃陣地の狙撃口です。氏が調査された2年ほど前にはここから進入されたとのことですが、最近鉄格子がはめられ立入禁止になりました。出入口は民家の裏にあるため、ほとんど調査不能になりました。 最近このような場所が増えています。調査マナーを守らない輩が増えてきたためでしょうか、または地主の危機管理意識が高まったためでしょうか。いずれにしても不自由な世の中になってきました。

2009年4月18日 (土)
奇跡の横須賀?

以前も書きましたが。堀の内駅南西の住宅開発のことです。 すっかり緑の山は削られました。まとまった市街地の緑は失われました。 駅に分譲のポスターが張ってありました。 ライフアソート横須賀見晴らしの丘と言い、「奇跡の横須賀」とキャッチコピーがありました。これほどすばらしい立地があっただろうかという意味のようです。私には「悲劇の横須賀」と読めます。ここに住まわれた方が横須賀は緑が多くて良いところですね、なんて言うのだとしたら冗談じゃないと思ってしまいます。 横須賀はあちこちで住宅開発のために緑が削られています。追浜東町も酷いですよ。次回お知らせします。

2009年4月7日 (火)
横須賀海軍共済病院標柱

横須賀共済病院の前身は、横須賀海軍共済病院でもとは横須賀海軍工廠職工共済組合の病院として田戸台の地に開院したもので、震災による倒壊のため現在地に移ったものである。 田戸台の地(社宅のあるあたり)には、現在何も残っていないが、唯一写真の「海共病」と刻まれた石柱が残っている。

2009年4月3日 (金)
長者ケ崎砲台

車で前を通ったら、長者ケ崎砲台が見えるようになっていました。どうやら急傾斜地工事か住宅工事か、わかりませんが工事で樹木が切り払われたようです。周りにはトートカなどもあるのですが、もしかしたらこの工事で消滅するかもしれません。残念ですが見るなら今のうちですね。

2009年4月1日 (水)
ナイキ

北朝鮮のミサイル問題でPAC3が話題になっていますが、航空自衛隊武山分屯基地のナイキ(地対空ミサイル)です。昔から立ち上がったところが良く目撃されていたのですが、高所から久しぶりに見えましたので撮影したものです。陸上自衛隊武山駐屯地や少年工科学校は良く知られていますが、航空自衛隊(第一高射群第二高射隊)が隣接しているのはあまり知られていません。ですからこのミサイルが陸自のものと思っている人もいます。

2009年3月17日 (火)
気球係留塔

防衛大学の敷地のはずれにありました。フェンスの外なので正確にいうと敷地外と思われます。赤錆ですが、見たところそれほど腐食していないようですが、中央部からどういう理由かポッキリ折れて先端が木の枝に挟まって止まっています。木々に遮られてよく見えませんが、基礎は鉄塔の4本足それぞれにあるようです。着弾観測用の気球を係留したとのことですが、よくわかりません。気球があるとすると当然格納庫などもあったと思われますが、今のところ不明です。

2009年3月15日 (日)
小原台演習砲台

案内をいただいて念願の小原台演習砲台を見てきました。ここは重砲兵学校の演習砲台で二十四糎カノンや二十八糎榴弾砲を据え付けていたらしい。ざっと見ただけですが、砲座4基と観測所3棟が確認できました。砲座間には小隊長位置も設けられていました。なお、観測所はすべて構造が異なっておりました。最左端のものは潜望式測遠器を設置する仕様で、88式海岸射撃具が使われていたようです。観測所が3棟一箇所に残っているというのは演習砲台ならではかなり貴重ですね。詳細はいずれアップします。

2009年2月11日 (水)
これは軍需部倉庫ではなかった。

田浦駅裏には旧海軍軍需部の倉庫群が残っていることは皆さんご承知のことと思います。 私も裏手一帯の倉庫は全て軍需部倉庫だと思っておりました。しかし、最近の調査の中で一部違うことがわかりました。 相模運輸倉庫の本社の裏及び左手にある5番及びB,C,D倉庫は第二海軍航空廠の補給工場の倉庫でした。飛行機の部品や兵器が格納されていたようです。 ここでいう海軍航空廠とは昭和16年から設置されたものであるので、同倉庫がいつ建設されたか未調査ですが、それ以前であるとすれば、もともと軍需部倉庫として作られた倉庫が移管されたということになる。いずれにしても軍需部倉庫ではなく、第二海軍航空廠所管の倉庫でありますのでお知らせします。(ご存知の方は無視してください)

2009年1月22日 (木)
ちょっとおかしいぞ

長者ケ崎の南手の海岸に爆弾注意の看板があります。文章の一部を紹介しますと「〜旧日本軍のものと思われる爆弾の一部(信管)が発見されました。爆発する可能性がありますので、下の写真のような金属片を発見した場合は〜」とあります。爆弾本体があれば爆発の危険がありますが、信管そのものは爆発しないので(起爆用の少量の火薬はあるようですが)、表現が少しおかしくはないでしょうか。

2009年1月10日 (土)
海軍水雷学校久里浜分校遺構

海軍水雷学校久里浜分校は昭和20年7月15日に改称したもので、昭和16年4月1日に開校した海軍機雷学校が昭和19年3月29日海軍対潜学校と改称し、これがまた改称したものである。対潜術と機雷術の教育研究実験を担任していた。 跡地は現在、横須賀刑務所や久里浜少年院、港湾空港技術研究所、消防局訓練センターなどに転用され、調査不能だが、遺構はほとんど残っていないと思われる。しかし、その他で2箇所遺構が確認できた。1箇所は写真の工作講堂でこれは神奈川缶詰の社屋として使われている。もう1箇所は軽質油庫で衣笠病院ケアセンターの裏手のトンネルがそれである。

2009年1月6日 (火)
横需安針塚隧道?

最近は、旧海軍の倉庫や地下工場を中心に調べています。横須賀海軍軍需部は三浦半島の各所に倉庫を持っていましたが、そのひとつに安針塚隧道があります。終戦時の文書によると「湘南安針塚駅ヨリ湘南田浦駅方面に線路ニ沿ッテ四百米」と記載されています。これをたよりに行ってみましたが見つかりませんでした。これとは別に駅の北方向に進んだ右手小川沿いに大きな壕があります。入口はフェンスで塞がれていますが、間口6m、高さ7〜8m、奥行き25〜30mの大きなもので、天井部分はコンクリートで覆われた立派なものです。場所が違いますが、まさに隧道を思わせる規模で、もしかしたらこれが当該壕ではないでしょうか。文書にはよく間違いがあるのなので、もう一度現場を調べに行き、地元の方にも聞くなり確証を得たいと思っています。

2008年12月16日 (火)
造兵部地下工場

横廠造兵部の廠内地下工場、防空壕は2階造でした。 1階部分は、広大な地下工場ですが、現在は、崩落に加え、産業廃棄物のようなもので半分以上埋められています。空技廠の鉈切壕とは対象的です。2階部分はたぶん防空壕として使われていたと思われますが、完全に残っています。学徒勤労動員の記録「娘たちのネービー・ブルー:石巻高女」に出てくる防空壕がこの壕です。 驚いたことに、この階段の天井の上に2階の通路があたっており、天井に穴があいてしまっている部分があり、設計ミスでしょうか。浦賀船渠の地下工場でも同様な失敗?がありますね。 写真は2階と1階を結ぶ階段部分です。

2008年12月10日 (水)
空技廠支廠貯水池

横浜市金沢区にあった海軍航空技術廠支廠は、東急車輛の工場として引き続き施設が使用された。現在も当時の建物が残っているようだが、西側の丘陵の中腹には、貯水池(たぶん冷却水用)が残っている。かなり大きなもので、内部は4つに仕切られているが、両端の石積みの仕切りには写真にように優雅なアーチの穴が2つ作られている。なお、見たところ貯水池からの導水路が未完成のように思えるため、使用されていなかったのかも知れない。 なお、この貯水池は昭和21年の米軍撮影の空中写真でもはっきり確認できる。現在のグーグルアースでもよくわかる。 また、この丘陵の尾根筋にいくつか機銃砲台跡が残っている。

2008年12月7日 (日)
機銃砲台

空技廠支廠を守るための機銃砲台で、空技支廠機銃砲台と思われる。地山の岩盤を削って砲座が造られており、そのまま地下掩蔽部も構築されている。機銃砲座の構造がそのまま残っている珍しい例である。砲座の直径は約3m、砲座から2m下に弾薬庫としたであろう地下壕が残っている。横須賀海軍警備隊戦闘詳報によれば25粍連装機銃が6基、13粍4連装機銃が1基据えられていたらしい。周辺にはほかに砲座跡らしき跡が5箇所、機銃砲台に関連すると思われる防空壕が3箇所認められた。空技支廠防御には、ほかにも文庫山機銃砲台、八景山機銃砲台があったが、砲座の遺構が残っているのはここだけだと思われる。

2008年10月19日 (日)
軍港クルーズ

先日、定期航路化された軍港クルーズに行ってきました。不定期で運行していましたが、原子力空母の関係でしょうか、定期運行の許可がおりたようです。出発はダイエー裏の汐入桟橋です。当日海自OBらしき団体も乗っておりほぼ満員でした。今のところ順調に運営できているようです。写真は荒井の掘割で、明治22年に海軍が開削したものです。左手が本土側ですが、駅のような施設があります。これは吾妻島の貯油庫から厚木飛行場へジェット燃料を運ぶための貨車に積み込む施設で、通常では決してみることのできないものです。6年位前に軍港クルーズのガイドを務めたことがありますがそのときの記憶が甦ります。 沢山写真を撮りましたので、バーチャル軍港クルーズをアップしたいと思います。ご期待ください。

2008年10月11日 (土)
横須賀駅前防空壕

横須賀駅前の工事で偶然見つけました。この辺の海に面した崖には防空壕があちこち設けられていますが、建物の裏手にあり、また建物として使われていて見ることができないのですが、工事により前面の建物が取り払われたため現れたものです。工事中のため、中に入って見ることはできませんが、脇から覗かせてもらいました、円形のコンクリート製のトンネル状の壕が2つ並んで設けられています。上には部屋状の壕が5つばかり並んでいますが、不思議な形状で戦後建物のために作られたもののような気もします。珍しいことなので、見るなら今のうちですよ。

2008年10月6日 (月)
輸入レール

JR横須賀線は陸海軍の要請で敷設された軍用路線であり、明治22年開通という古い路線でもある。従って駅も歴史があり、最近、逗子駅の跨線橋が最古の構造物なので記念物として保存された旨の記事がでていましたが、横須賀駅や田浦駅のホーム屋根の柱には当時の輸入レールが用いられています。 写真は横須賀駅にあるドイツのウニオン製のレールで、刻印は「UNION D 1886.N.T.K」とあり、1886年製であることがわかります。他にも、1880年台のイギリスのCAMMEL社製やアメリカのCARNEGIE社製のレールなど色々あり、ちょっとした鉄道博物館です。明治の香りはこんなところにも残っていますので、駅を利用の際は是非探してみてください。結構簡単に見つかりますよ。

2008年9月24日 (水)
矢の津の石柱について

同期の櫻様 古い話で恐縮です。今年の3月に矢の津弾薬庫跡地の民間駐車場に御影石の石柱が置いてあるという情報をいただきました。 近くに寄ることがあったので見に行ってみました。 実物はかなり大きなもので、特に文字等は刻まれていないですね。見たところ、神社等で境内の境界の柵に使っているものと同じようなものなので、たぶん弾薬庫の敷地境界の立入禁止用の柵柱ではないでしょうか。2つの穴は、柱と柱の間を塞ぐものを取り付けた跡だと思います。ただ、他の軍事施設跡ではこんな立派な柵柱は今のことろ見たことがありません。この種のものでよく見るのは鉄筋コンクルート製の柱でもっと細いものです。

2008年9月7日 (日)
一般向け空技廠の本が出版されます。

戦史や兵器について一般向きに分かりやすく解説していることで定評のある学研の歴史群像。この太平洋戦史シリーズから今月いよいよ「海軍航空技術廠」が出版されるらしい。 海軍航空技術廠は横須賀の浦郷、支廠が釜利谷にあり、当時の日本の最高頭脳が集まっていました。これらの頭脳が戦後の日本の技術発展を支え、また、新幹線を生み出したことは良く知られています。 私もいろいろ調べていますが、さてどんな切り口でどんな情報が出てくるでしょうか。大いに期待するところです。 戦史や兵器関係については、類書がおびただしいほど出版されており、新しい発見ももうあまりないのかもしれません。そんな理由かはわかりませんが、最近知られざる本土決戦部分に目が向けられてきたようです。今後、さらに、地味であるが大切な教育部門や生産部門などにも光が当てられてくるのを期待しています。 *写真は今はなき空技廠庁舎

2008年9月5日 (金)
海軍標石

水道道沿いに設置されているおなじみの海軍標石です。2本波の海軍マークの下に「海」の文字。埋まった形でしかみたことがなかったのですが、掘り起こされて横になっていました。せっかくなので採寸しました。 幅20cmの四角柱で、全長は99cm。土中に埋まっている部分65cm。地上に出ている部分34cmでした。因みに、「海」文字の高さは14cm。海軍マークは高さ10cmでした。構造は鉄筋コンクリートでしょう。*いずれも長さは約です。

2008年8月23日 (土)
千代ケ崎砲台(2)

千代ケ崎砲台は、送信所部分が砲台の中心である二十八榴弾砲六門砲台跡なので、これだけでも保存されれば素晴らしいのですが、南隣には観測所のある丘と臼砲、野砲が置かれた背後の陸正面防御砲台があります。この観測所や地下弾薬庫、空掘りなどは以前(4年前)訪れた際には非常によく遺構が残っていましたが、開発に遭い今はどうなっているのでしょう。 また、東側には日本初の海軍砲塔砲台跡もありますが、ここも開発されているようです。(最近訪れていないので様子がわかりませんが…) これら全体が保存されれば歴史的にも大きく価値が高まり最高ですね。また、山すそには浦賀船渠の大規模防空壕や戦後の南方からの引揚者の上陸場所(コレラ船の悲劇)などがあり、灯明堂と合わせて横須賀の史跡、名所となること請け合いです。 写真は、4年前撮影した地下弾薬庫の通気口です。土が削られレンガ造本体が露わになっています。この下にレンガ造弾薬庫があります。

2008年8月23日 (土)
千代ケ崎砲台(1)

今朝の新聞に素晴らしいニュースが報道されていました。千代ケ崎の海上自衛隊送信所が廃止され、その跡地を横須賀市が遺跡として保存する動きに入ったようです。 ここは保塁砲台の遺構が手付かずで残っている場所です。 市は国の指定史跡を目指し、将来的は史跡公園とし開放したいとのこと。そうなれば首都圏で始めての本格的な砲台遺跡となり、戦跡に対する意識もまた盛り上がるでしょう。懸念されるのが、民間払い下げで、そうなると跡形も無く破壊されてしまうでしょう。なんとか指定を取付けてもらいたいものです。写真は4年前に撮影した右翼観測所の入口です。

2008年8月19日 (火)
富岡空襲

昭和20年6月10日、B29360機、P5130機による空襲の際、湘南電鉄湘南富岡駅(現京急富岡駅)脇のガード横トンネルの両側に爆弾が落ち、内部に避難していた乗客数十人が亡くなりました。トンネル内は手足が飛び散り悲惨な状況であったようです。遺体は、近くの慶珊寺へ運ばれたそうです。慶珊寺には、このときの戦争犠牲者を供養する供養等が建てられています。このトンネルは現存し、今も普通に多くの方が利用していますが、当時を知らせるものはなにもありません。

2008年7月15日 (火)
八景山機銃砲台

金澤八景駅の西側には貴重な丘陵の緑が残っている。権現山と御伊勢山である。この丘陵の北側に空技廠支廠が広がっており、これを守るための機銃陣地があった。機銃陣地の位置は不明だが、御伊勢山山頂には監視所の跡が残っている。また、この丘陵には海軍用地碑と立ち入り禁止の柵のコンクリート支柱が多数残っている。写真は御伊勢山山頂の監視所基礎跡。赤いのは海軍用地碑。

2008年4月2日 (水)
山林伐採

以前にもお知らせしましたが、最近本当にあちこちで林を伐採しています。写真は堀の内駅の斜め裏の山ですが、山崎山しかり、矢の津の斜面、浦賀の横横道路延伸工事、北久里浜駅裏山、衣笠公園の前の山、日向山の周辺など人口が減っているし、不況不況と騒ぐ割には、造成工事が盛んに行われています。 これでは、横須賀の市街地の少ない緑は失われてしまうでしょう。三戸の農地造成など規模からいってもすごいですよ。また、その横の谷戸も残土捨て場になるそうですから。三浦半島全体が、開発造成工事ラッシュですね。当然、戦争の跡も消えていくわけで、非常に残念です。

2008年3月1日 (土)
江の島洞窟砲台

三浦半島の相模湾側洞窟砲台の最北は江の島に構築されています。島の東西、つまり、七里ガ浜側と鵠沼側の両方を同時に射撃できるように築かれています。海軍と陸軍の両軍の陣地が築かれていたようですが、写真は海軍砲台です。大戦末期には、江の島神社参道以外は一般立入禁止となり、猿島同様要塞島となりました。鎌倉とともに湘南を代表する観光地として四季を問わず大勢の観光客が訪れる江の島ですが、こういった事実は風化させたくないですね。

2008年2月24日 (日)
鍾乳洞?2

鍾乳石は100年で10mm成長するといわれているようですが、10年で10mmの場所もあるようです。写真のつらら石は10センチ以上あります。壕が掘られて60年と少しなので、非常に成長が早いものです。膜状鍾乳石になっているところもあり、さらに数十年経過すれば、そこそこ見れるものになるのではないかと思います。一部の壕ではありますが、防空壕の新活用としても面白いのではないでしょうか。

2008年2月23日 (土)
鍾乳洞?

壕を探索していると、岩壁が鍾乳石化し白く輝いている箇所に結構出会います。岩中の石灰石が含まれている部分に、流れ落ちる水によって石灰岩が溶けて鍾乳石となるのでしょう。大抵は壁の一部分が鍾乳石化しているのですが、写真は壁一面が鍾乳石化していました。まるで鍾乳洞のようです。戦後63年の歳月を感じます。

2008年1月10日 (木)
海軍港の碑

猿島です。今人気スポットのようで、連絡船も乗船客が増えてるらしい。国から横須賀市へ譲渡され、はやりのエコミュージアムとして整備するそうだ。少し前までは廃墟の雰囲気であったが、今はモダンな施設や桟道など公園として整備され、明るい雰囲気になっています。 S20年まで軍事島として一般立入禁止であったため、さまざまな遺構が残っています。ただし、戦後、遊園地となったため一部改変されているそうです。写真は、入島してすぐ目に付く海軍港の石柱です。明治10年9月1日に海軍省により横須賀港の港域が定められましたが、東端が猿島におかれ標石が設置されたものです。今は金属の支柱で支えられています。石柱の四面には距離を示していると思われる数字が刻まれていますが、どういうわけか最近青く塗られました。

2008年1月7日 (月)
金谷砲台

いよいよ三浦半島を出てみました。東京湾要塞は内房も含まれており、太平洋戦争では、陸軍の守備はこちらに重点をおき、洲崎や大房崎など重要な砲台があります。昭和20年には要塞司令部も那古船形に移っています。まず金谷砲台に行ってみました。大正13年に竣工した15糎加農4門、10糎加農4門の砲台です。麓には油庫や監守衛舎と思われる廃屋などが残っています。写真は10糎加農砲台の背後に作られた鉄筋コンクリート造の地下砲側庫です。戦後遊園地の施設として利用されていましたが、今は廃壕になっています。

2008年1月3日 (木)
ベース

昨年の12月8日、ベースのイルミネーション開放に行ってきました。ベースには過去何回も行ったことがあり、旧海軍の施設が数多く残っているのを見てきました。(オクラホマシティやミッドウエィが現役の頃アルバイトをしていました。また。ベースツアーや開放イベントなど良く行ったものです)しかし、写真撮影をしたことがなかったため、今回、新サイト用の写真を撮影してきました。今では、色々撮っておけばよかったと後悔しています。ベースツアーなど年数回公開がありますので、積極的に行こうと思っています。旧軍史跡専用のツアーをやってくれるとありがたいですね。

2007年12月20日 (木)
狢火薬庫

海軍旧狢火薬庫は、米軍FAC3117浦郷倉庫地区(Urago Storage Area)と言われ横須賀基地司令部の兵器部本部、弾薬物揚場ならびに弾薬庫として使われてます。昔のままの姿でのこっていますが、立ち入り禁止です。入ると撃たれます。と思います。旧軍施設は米軍に接収後、壊して別の施設として使うのではなく、旧軍と同様の使われ方をしています。まあその方が無駄がないのですが…。フェンス越しに連装機銃とミサイルが展示してありました。米軍のものと思われますが、今の日本から考えて異次元空間ですね。

2007年11月24日 (土)
また、ひとつ消滅します。

米ケ浜の竜本寺のがけ下に、海軍の命令により構築された燃料庫がありました。富士壕、桜壕と呼ばれ、桜壕にはドラム缶が貯蔵されていたそうです。富士壕では、軍服を縫っていました。現在、入り口は塞がれていますが、外観は残っています。しかし、これから急傾斜地工事が始まるようで、養生工事が始まっています。いずれコンクリート擁壁となりその存在は忘れさられれるでしょう。富士壕の方は残りそうですが・・・。

2007年11月19日 (月)
海軍工作学校碑

久里浜の小公園に海軍工作学校の碑がひっそりと建っています。これまで東京湾要塞地帯内の砲台や特攻基地などを紹介してきましたが、三浦半島には、この他に海軍では横須賀鎮守府をはじめとし、海軍工廠、空技廠、各種学校、防備隊、射的場等、陸軍では、要塞司令部、練兵場、重砲兵学校、弾薬本庫など様々な軍事施設が点在していました。横須賀では軍転法によりこれらの施設は学校をはじめとした様々な施設に生まれ変わっています。 これらについても鋭意調査してきましたので、そろそろ紹介していきたいと思います。

2007年11月5日 (月)
山崎山機銃砲台

山崎山機銃砲台は、堀の内駅脇の独立丘陵なのですが、周囲が工場、個人宅で一切立入できず未調査であったのですが、工場が撤退し、マンション建設がはじまり、見たところ崩されるようです。山頂部には何か遺構があればとおもっていたのですが。また、麓には、壕が掘られており、個人宅の裏から抜けていると推測していたのですが、残念です。

2007年11月1日 (木)
 

神奈川新聞地域面に「三浦半島知れば知るほど」というコーナーがあります。本日の紙面は黒崎の鼻の4回目ですが、台地の農道が戦時中に滑走路であったことが紹介されています。前回では黒崎砲台のことに触れてあったりと、このコーナーでは、度々、戦争遺跡を紹介しています。こういうことで戦争の記憶が受け継がれ、また、興味を持つ方も増えてくるのだと思います。ところで、この「戦争遺跡」という言葉です。最近一般的に使われているようですが、遺跡という言葉は遠い過去のイメージがあります。太平洋戦争については、その体験者は、数多くご存命であり、遺跡というには記憶があまりにもリアルです。遺跡をつけると記憶を過去におしやってしまいそうで、個人的にはどうもしっくりきません。皆さんはどう感じられますか。