脳脊髄液減少症という病
第1章 8. 入院までの日々
その日の外来を終え、麻子は病院を後にした。
もらったばかりの一通の診断書を手に持って。
脳脊髄液減少症の疑いのため、入院して検査、
そして検査結果次第ではそのまま続けて治療を行うことになったのだ。
帰宅後麻子は数日寝込んだままになった。
いろいろな想いが麻子の頭をよぎったが、
頭痛がひどく考え続けることができないでいた。
事故後ひどい痛みに苦しむようになって、麻子は熟睡できなくなっていた。
麻子は夜中にふと目を覚ました。
(もしかしたら治療に入る可能性もある。
検査入院する前にいくら体が辛くても、多少は勉強しておかなければ・・・)
辛い体を起こし、PCの電源を入れた。
むち打ち症は一般的に「外傷性頸部症候群」というらしい。
つまりむち打ち症は医学上の言葉ではなく、どの病型に対応するかで診断される。
頸椎捻挫と一括していわれている中で、
器質的な損傷のない頸椎捻転はしばらくの痛みので回復するらしい。
狭義的な頸椎捻挫である場合は、組織部分の断列が起こり、
様々の症状が現れる。
多くのむち打ち損傷は狭義的な頸椎捻挫に含まれる。
症状は早い人は数時間、遅い人は数日経ってからで、
受傷から症状が出るまでが遅い人は軽度。
麻子はキーボードを押す手を止めた。
自分は交通事故の数時間後には病院で寝込んでいた。
つまり、症状が出るのが早かったということになる。
事故後寝たきりで無理もしていないのに、どんどん症状がひどくなる。
いつか時間が経てば多少は軽減するだろうと我慢し続けた。
しかし、症状は続き、ずっと苦しんできた。
こんなに治らないのは何が損傷したのだろうと、寝たきりのまま考えていた。
単なるむち打ちだと自分でも思ってきた。
靱帯?神経?関節?どこが悪いのだろう。
いったいなんだろう。
難治療のむち打ちの原因って何だろう。
難治療のむち打ち状態に陥ってから、麻子は腕の良い整体師を探して
硬くなった筋肉をほぐしてもらうようになった。
そこでは、ストレートネックになった首を矯正してもらった。
麻子は整体師からに水を沢山の沢山飲むようにと勧められた。
「理由は分からないけれど、うちの整体所に来られる具合の悪い人で
水を沢山飲むと体調がましになる方が結構いるんですよ。」
「どうしてでしょう?」麻子は不思議に思った。
「分からないですけれど、経験的にそういう方がおられるんですよ」
整体師も不思議に思っているようであった。
麻子は水分を取ってみたらと勧められ、
それも、少量ではなく夏場は2リットルくらい摂取した方がいいと教えられた。
実際に麻子は試してみた。
そして、水分を取った方が、症状はましになると感じた。
(むち打ち症と水分摂取が、どういう関係があるのかわからない・・・)
組織部分の断列と水分、麻子は疑問に思ったが、
体が楽になるならば続けてみようと考えた。
ペットボトルにお茶を入れて、時にはベッドサイドに置き、
そして持ち歩いていた。
なぜか、水を沢山のみ、横になるとましになった。
麻子はとりあえずそれらをくり返し、なんとか生きてきた。
しかし結局、対処療法でしかなく、
症状に根本的な改善がないことを麻子は感じていた。
「外傷性頸部症候群」と言われようが、
バレ・リュー症候群と言われようが、病名が問題ではない。
名前などよりも、なぜこんなにも治らない、軽減しないのか。
ずっとさまよい続けてきた。
自分の症状の裏側にもっと原因があるかもしれない。
麻子は、ずっとそう考え探してきた。
そして、一つの病名を知った。
この病名に出会う前から、麻子はむち打ち症と水分摂取の関連を不思議に思っていた。
そして、脳脊髄液減少症という病とそのからくりを知ったときに、
あの水分摂取の意味を理解した。
麻子はこの病を知って、その謎が解けた気がした。
そして、この病の存在を自然に受け入れられた。
バレ・リュー症候群について、岡林医師からも説明を受けた。
むち打ち症でその病名が付く人もいるらしい。
バレ・リュー症候群の病名の付いた患者の中で、
脳脊髄液減少症の患者がどれくらいいるのだろう。
その後、裁判の過程で、麻子はこの名前を目にするようになる。
麻子はバレ・リュー症候群とは、名前の由来はなんだろうと調べてみた。
フランス人バレとリューという人が頸椎損傷から発生する症状について
研究したことから来ているらしい。
なんだら症候群というものにやたら人の名前由来の呼び名が付いていたりする。
ちなみに名前に人名が含まれ、由来される単語をエポニムという。
例えばサンドイッチはサンドイッチ伯爵に由来している。
賭事の最中に簡単に食べられるように発明されたらしい。
最近では商品名が名詞化された場合もエポニムと言われる。
医学分野でもエポニムはたくさんある。
点滴のリンゲル液もリンガー(リンゲル)から由来している。
この人ははイギリス人。
狂牛病との関連でよく知られるようになったクロイツフェルト・ヤコブ病も、
ドイツ人クロイツフェルトとヤコブに由来するらしい。
アルツハイマー病の名前はドイツ人アルツハイマーから。
川崎病は日本人の川崎氏から来ている。
脳脊髄液減少症の本で読んだモンロー孔のモンローも人名っぽいと前から思っていて、
調べてみたら、スコットランド人モンローだった。
すべてエポニム。
回転性のめまいでメニエール病というのもあるがこれもフランス人の名前。
麻子も病院でメニエール病かと疑われそうになったことがある。
しかし、地面や天井が揺れ回転するような感覚は、麻子にはなかった。
事故に遭って以来、麻子には船に乗ったままのような感覚があった。
ずっと起きて座っていることが麻子には辛かった。
(でも治療法も調べてなければ・・・)
脳脊髄液減少症の診断はRI脳槽シンチグラフィーで検査される。
MRIなどでも検査が可能らしいが、RI脳槽シンチグラフィーで膀胱集積を調べるらしい。
治療法はブラッドパッチ。自分の血液を注入する治療である。
RI脳槽シンチグラフィーもブラッドパッチも腰椎穿刺によって行われる。
つまり、背中に針刺しをして治療を行うわけである。
腰椎穿刺は患者のとっては侵襲的である。
(腰椎穿刺をするのか・・・・)麻子は深いため息をついた。
麻子は、子供の頃虫垂炎の手術をしたことがあった。
体を丸めるように指示をされて、腰に針を刺された記憶が麻子の頭によみがえった。
ごりごりと針が入っていく感触は、大人になった今も忘れていない。
(事故に遭って以来痛みとの闘いだったのに、
まだ痛い思いをしなければいけないのか・・・)
麻子の体はもう限界だった。ベッドへそっと横たわった。
ブラッドパッチを実際にした人はどうだったのだろう。
「調べすぎたら、怖くなって治療を受ける勇気がなくなるかもしれない・・・」
麻子は目をつぶって、そう呟いた。
入院の前日、麻子は成美に連絡を入れた。
成美は夫を亡くしてから、仕事に頑張りながら一人暮らしをしている。
辛い経験を乗り越えた成美が麻子を気遣って、
励ましの言葉を電話の向こうから話してくる。
麻子は胸が熱くなった。
「また病院から連絡するわ」麻子はそう言って電話を切った。
なるようにしかならない。そして可能性があり限り歩かなければ。
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