脳脊髄液減少症という病


2章 入院

 

1.検査前夜

 

麻子はようやく入院日が決まったが、入院期間は分からなかった。

入院期間は検査の結果次第だからだ。

また、ブラッドパッチ(EBP)の回数も、検査結果や症状次第で変わってくる。

まず、検査で23日。

前日に入院、翌朝から検査開始。

翌々日朝まで24時間経過検査。

漏れが見つからなかったら、そのまま退院。

その人は、漏れが見つからずそのまま退院したらしい。

万一、腰椎穿刺で神経に触ってしまっても

足などに一時しびれが出たとしても、そのうち治るから心配しなくてもいいらしい。

 

 麻子は検査の前日に入院した。

明日の朝から検査が始まる。

入院の手続きを終えると病棟の看護婦がやってきて、病室へと案内された。

病室へ行くには、エレベーターに乗って上の階に上がらなければならない。

エレベーターホールで待っていると、エレベーターが動くたびに

その振動が待合いのホールに響き、麻子の足下からかすかに伝わった。

健康な人なら気にならない程度である。

しかし、麻子には日常でもいつも地面が揺れている感覚があったのだ。

ぐるぐる回るとか、ふらふら揺れるわけではない。

大地がしっかり固定されていない感覚、

それはまるで船の上にいるような感覚である。

その状態に、エレベーターの振動がそれに加わる。

エレベーターが動くたび、麻子に立っている地面がおおきくたわむ感覚が襲ってきた。

麻子は、エレベーターを待っているだけで気分が悪くなってきた。

 

 病室に入ってベッドに案内された。

麻子は荷物もそのままで横たわった。

(痛い、辛い・・・)

しばらくすると、病棟看護師がやっていて問診を始めた。

次に栄養士がやってきて、麻子へ食事について説明や質問を始めた。

食べられないものがあるかと聞かれ、

「納豆がだめです」と麻子は答えた。

「納豆は病院食には出ませんから、安心して下さい」

栄養士が笑みを見せながら答えた。

それ以外に魚も刺身も食べられないと麻子は栄養士に話した。

麻子も昔から嫌いだったわけではない。

むしろよく食べていたものだ。

しかし事故に遭って以来、麻子の嗜好が変化した。

麻子は食べられないものが多くなった。

事故直後は吐き気がひどく、それが多少治まった後にも気分が悪く、

そのため偏食になった。

臭いのきついものや生臭いものを、麻子はまったく受け付けなくなっていた。

なんとか臭いのないパンなどは食べることができた。

味覚も低下し、味がよく分からない。

食べる楽しみも麻子は失っていた。

 

 主治医は夕方来ることになっていた。

麻子はベッドに横たわってぼんやりしていた。

(この病院のマットレスや枕が硬くて痛い)

事故以来、麻子はひどい頭痛と首や背中の痛みがあり、

普通の枕では痛くて眠ることが出来なくなり、低反発枕を購入した。

低反発枕を使っても、痛みのあまり熟睡することは難しいくらいだった。

(自宅の低反発枕を持っていたら良かった)

宅急便で家族に送ってもらおうか。

いや待て、検査だけの23日で入院が終わってしまうかもしれない。

(・・・とりあえず我慢しよう)

麻子の病室の前で、廊下を歩いている男性患者が大きな声で看護師に話していた。

麻子は起き上がって、病室の入り口の方を向いた。

男性患者は頭に大きなガーゼを貼っている。

この病棟は脳神経外科の病棟である。おそらく手術の後だろう。

(脳脊髄液減少症の患者ではないらしい)

麻子は再び横たわったが、その患者の声が聞こえてくる。

どうやらその男性患者も枕が硬すぎると苦情を言っている。

「他の患者の方でもそう言われる方がいますが、この病院にはこの枕しかないので。

ご自宅から持参されても構いませんが」

看護師が答えていた。

麻子はその会話を聞きながら

(この病院の枕は、もしかしてかなり硬すぎるのじゃないだろうか)と思った。

ということは、首が痛い患者には地獄ではないか。

「この病院の枕、やっぱり硬いですよね」

麻子の前のベッドの患者が麻子にそう話しかけてきた。

「やっぱり硬いですよね。私は首が悪いので、硬い枕が辛いんです」

麻子は横たわり目を閉じたまま答えた。

たかが枕、しかし頭痛や頸椎痛を持っている患者には、されど枕。

その会話を聞いていた隣のベッドの患者が麻子に話しかけた。

「首が悪いって、もしかして低髄患者さんですか?」

麻子は思わず目を開けて、起き上がった。

脳脊髄液減少症は低随液圧症候群と時には呼ばれている。

「低髄って・・脳脊髄液減少症のことですよね。もしかして患者さん・・ですか?」

麻子はおそるおそるベッドの横の患者に尋ねた。

隣の人はベッドに腰をかけながら、

「やっぱり!そう、私も患者なんです。検査のために入院したんです。

今朝から検査中なの。

この病院では看護師さん達が「低髄」って呼んでいるみたいですよ」と話した。

「えっ!検査中なんですか?」麻子は驚いて言った。

「そう、病院の中をずっと歩き回っていたんだけれど、

そろそろ時間だから病室に戻ってきたの。

もうじき検査に呼ばれると思う」

と隣の人は疲れた様子で答えた。

(検査のために歩き回るんだ、自分の時は歩き回ったら倒れるかもしれない)と麻子は思った。

「私も患者で、もう検査は前回したので、今回はブラッドパッチに来たんです」

そう言って、麻子の前の患者も起き上がった。

「えー。私も治療に来たんですよ」

と麻子の斜め前のベッドに寝ていた患者が起き上がって叫んだ。

「この病室は低髄患者専用の病室?この病棟、けっこう空いてるベッドあるし」

その斜め前の患者が麻子の前のベッドの患者に尋ねた。

「この間の入院の時は違う病気の患者さんも同じ病室にいましたよ。

でも低髄の患者さんは他の病室にもいるみたい。

前の入院の時、男性の患者も見かけたし。

この病棟には違う患者の方もいるようですけれど」

麻子のベッドの前の患者が説明した。

隣の患者は「そうですよね。他にも患者らしい人いますよね。

ペットボトルに水持って歩いている人見かけたし」

と言いながら、廊下の方を向いた。

「この病棟で、一見元気そうでどこが悪いか分からないような患者で、

水を持っていたら・・低髄の患者の可能性高いでしょうね」

麻子はそう言った。

そう、脳外科手術の跡もなく、高齢でもなく、

この病棟を歩いている「一見どこが悪いのか分からない」患者が確かにいる。

思い出しながら、麻子は病室の配置を考えていた。

エレベーター前にはナースステーションがある。

それで出入りする人をチェックできる。

見守りが必要で看護必要度が高い患者は、

ナースステーションの近くの病室に配置されるはずだ。

看護師が頻繁に病室へ行くにはその方が良い。

そして、生活が自立している患者が

おそらく一番ナースステーションから遠い病室に配置されるだろう。

この病室の脳脊髄液減少症の患者は自分を含め、意識がはっきりしていて、

そして命に問題がなくて、ふらふらしながらでも歩ける。

だからナースステーションから一番遠い病室に配置されているのじゃないだろうか。

同じ病室に同じ病の患者を集めるのかどうかは分からないけれど、

この病室に来る患者は、他の病であったとしても、

おそらく看護必要度が低い患者か、もしくはベッドが空いていない時に配置される患者だろう。

ということは、前の病室は男性病室らしいから、

男性の低髄患者もいるかもしれない。

この病院に来て、麻子は初めて脳脊髄液減少症の患者と出会った。

(同じ時期にどれくらいの脳脊髄液減少症がこの病棟にいるだろう?)

と麻子は思った。

 

「私、佐野です。交通事故で具合が悪くなって、自分で調べてここへ来たんです」

と麻子の隣の患者が話した。

麻子の斜め前の患者が

「私は怪我で。あ、私、長山って言います。

RI検査で漏れているってもう言われたから、今ブラッドパッチ待ちなんですよ」

と話した。

麻子の前のベッドの患者が

「黒田です。私も交通事故で。ブラッドパッチを受けに来たんです」

と言った。

「私も交通事故です。それで・・」

と麻子が話し始めたとき、

「宮元さん、検査に行ってください」

と看護師が病室に入ってきて麻子を呼んだ。

入院時の検査らしい。

看護師が麻子にレントゲンと心電図などと書かれた紙を手渡した。

検査時間と場所が指示されている。

「ちょっと、行ってきます」

そう言って麻子は病室を出た。

検査場所は二階。

(またエレベーターに乗るのか)

そう思いながら、麻子はナースステーションを通り過ぎ、

エレベーターの前に立ってボタンを押した。

相変わらず、麻子にとって、エレベーターの振動で床は大きく揺れていた。

エレベーターに乗り込んだ麻子はふと気がついた。

(このエレベーターのドア、閉まるのがすごく遅い)

病院には様々な病人が来るし、入院している。

エレベーターの乗り降りに時間がかかる場合もあるだろう。

よく考えられているな、と麻子は思った。

エレベーターが動き出した。下降していく。

さあっと気分が悪くなっていくのを、麻子は感じた。

(治療すればこの状態も治るんだろうか・・・)

エレベーターも乗れない自分の体。

 

 麻子が病室に戻ってきた時には、隣の佐野も斜め前の長山もはいなかった。

「佐野さんは検査に行ったみたいですよ。長山さんはブラッドパッチ」

と前の黒田が教えてくれた。

しばらくして、佐野が戻ってきた。

「どうでした?」

と黒田が佐野に声をかけた。

「うーん。さっき先生と会ったんだけれど、

明日の検査が済んでからでないとはっきり分からないって」

と言いながら、佐野はベッドに横になった。

「今日の結果では、はっきりしないんですね」

と黒田が言うと、

「そうかもしれない」

と佐野が答えた。

「検査、痛かったですか?」

麻子は隣の佐野に尋ねた。

「痛いと言えばいたいけれど、それより今日一日しんどかった」

佐野が疲れた様子で言った。

麻子はその様子を見ながら、明日は自分もその検査を受けるんだと思った。

 

 ベッドが運ばれる音が近づいてきた。

長山のベッドが病室内に運ばれた。

ブラッドパッチが終わったらしい。

点滴につながれた長山は、具合が悪そうにしていた。かなり痛そうにしている。

麻子達は話すのをやめ、静かにそれぞれのベッドに横になった。

 

 夕方主治医はやってきた。

同意書を広げ、岡林医師は検査や治療についての説明を始めた。

脊髄硬膜は二層になっていてそこに血を注入して漏れを塞ぐ、

と言いながら、その用紙に絵を描き始めた。

その手慣れた手つきを見ながら、

(今まで検査をした数だけ説明をしている・・・)

と、麻子は思いつつ説明を聞いていた。

 

「漏れている脊髄液は膀胱に集積します。

漏れている人は頻尿になりやすいですが、

検査開始最初の3時間はトイレを我慢して寝ていてもらわないといけません」

と岡林医師は言った。

(あっ、そうなのか!!それでやたらトイレが近かったんだ!)

麻子は思わず叫びそうになった。

交通事故後体調が悪くなってから、

乗り物に乗ると、振動からか特に頻尿になった。

トイレ、トイレと騒ぐ状態になってしまい、不便に思っていた。

まさか病気の影響だったとは・・・。

自分の身体にどれだけ病が影響しているのか、麻子は初めて気がついた。

 

麻子は同意書にサインをし、判子を押して、

ナースステーションに持って行った。

明日は検査だ。

ベッドに戻り、麻子は荷物からファイルケースを取り出した。

調べたけれど体調が悪くて読んでいない資料を持ってきたのだ。

暑くても寒くても、湿気が高くても、麻子の具合は悪かった。

特に雨が降る前、気圧が変化する時期には起きていられない。

天気が崩れる事が、崩れる前に麻子には確実に分かった。

時には数日前から天気が崩れるのが分かった。

麻子は、予報率が100%に近いくらいのお天気予報屋産になっていた。

このところ雨の日が多く、麻子には辛かった。

麻子は調べた資料を読みたかったが、読む体がなかった。

そのため、麻子はそのまま入院荷物に資料を入れて持ってきていた。

病院内は気温も湿度も管理されていて、麻子に体にとっては楽だった。

麻子はファイルケースから検査の仕方についての紙を取り出した。

横になりながら、枕元の電灯を付けた。

 

 麻子は事故に遭ってから視力ついても異状があった。

麻子は意識して改行をしなければ、文章を読み進めることができなかった。。

一行を読んでも自然に改行ができないからだ。

事故前の麻子は斜め読みができたのに、

今は意識しないと次の行へ目が移動しない。

そんな麻子にとって、字を読むことは疲れる作業だった。

(枕元の白熱球だと余計に読みにくい・・・)

麻子は灯りの読みにくさに気がついた。

ベッドサイドの灯りは白熱球だった。

仕方なく、麻子は資料を凝視して読み始めた。

 

人の脊髄液(CSF)は全量140150mlで、

一日500600ml生産され循環し一日3〜4回入れ替わるらしい。

RI脳槽シンチグラフィーとはその循環する脊髄液を撮像する検査法である。

水頭症などの検査でも使われる。

撮像するために腰から脊髄液を1ml排出し、そこから放射性元素を注入する。

注入後24時間まで撮像して終了し、

放射性元素は後に体外に排出されるため体に残らない。

腰椎穿刺した場所から漏れる可能性は、

針のゲージを細くすることで以前より確率はかなり減少し、

穿刺からの漏れは止まりやすい。

調べると、針の先なども載っていた。

確かに太さも先の形状も昔と変わっている。

写真を見るとリアルだ。

(これで刺されるのか・・・)

麻子は針先の写真を眺めた

穿刺後、脊髄液を採取した後、容態悪化する場合もある。

しかし、それは安静や点滴などで回復しやすい。

腰椎穿刺にばかり気を取られていたが、

検査の説明によると最初の3時間は寝たきり。

(トイレを我慢できるだろうか)

トイレが近い者にとっては地獄の3時間かもしれない。

とにかく下半身を冷やさないように気をつけよう。

(目が疲れた・・・)

麻子は枕元の電灯を消した。

 

 隣のベッドの佐野が戻ってきた。手にはペットボトルを持っていた。

「中身が空になったから水汲んできた」

といいながら、佐野はベッドに横になった。

「水を入れるところがあるんですか?」

麻子は佐野に尋ねた。

「ナースステーションのあっちの方に給水器があるよ。

そこの水おいしいから。

スポーツドリンクがなくなったら、水を汲んできたらいいよ」

佐野はペットボトルを見せながらそう話した。

佐野は、一見学生に見える。

話を聞いていると、病院で事務をしていたらしい。

「具合が悪くなってから、週に数日しか働けなくなって辞めたんだ」

と佐野は自分のことを話し出した。

時々記憶が飛ぶらしく、それも気になると佐野は言った。

黒田は「私も時々ぼうっとする」と話した。

「私は頭が痛くて、ずっと考えつづけるのが辛い」

と麻子が言うと、

「何をそんなに考え続けるの?」

と佐野が尋ねた。

「生活のこととか、いろいろ。

体調についても、どうしてこうなるのかとか、どうしたら楽になるのかとか」

麻子の話を聞いて、

「何か楽になる方法とかあったの?」

と佐野が尋ねた。

麻子は少し考えてから、苦笑して言った。

「・・・水飲むことかな」

「そりゃそうよね」

麻子の答えに、佐野も黒田も思わず笑った。

「薬もあまり効かないもんね」

と、佐野が言うと、

「点滴してもらったらましだったかな、私は」

と黒田が話した。

「点滴かぁ。結果が出たら先生に頼んでみようかな」

佐野はため息をついた。

 

 音楽が流れた。どうやら就寝時間のようだ。

入院当日は寝付きにくかった。麻子は何度も寝返りをうった。

枕が硬い。寝返りをすることも辛い。

綿の上で寝てみたい。

あちこちが痛い。

一生この痛みのままなのだろうか。

おんぶお化けは自分に乗ったままだ。

病院の夜がゆっくりと過ぎていく。

時々、遠くから救急車が近づいてくる音がする。

今日入院してから何回目の音だろう。

麻子は入院当初気になっていたが、

何度も聞いている中に気にならなくなってきた。

他の病室でナースコールが鳴った。

病院は24時間稼働している。


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