脳脊髄液減少症という病
第2章 2.RI脳槽シンチグラフィー(RI cisternography)
朝から検査が開始される。
脳脊髄液減少症の患者はトイレが近い人が多いらしい。
(途中で行きたくなったら困る)
そう思い、麻子は検査前に何度もトイレに行った。
看護師から検査室へ行くように指示が出た。
(検査で膀胱集積を調べるのだから仕方ないけれど、
トイレを我慢できないときはどうなるのだろう?)
麻子はそう思いながら、看護助手について行きながら検査室まで歩いていった。
検査室の入り口で、技師から専用のスリッパに履き替えるように指示される。
黄色のスリッパは白線の所にあり、
そこからはそのスリッパでしか歩かないようにと説明された。
このスリッパに履き替えない人は、立ち入り禁止であった。
麻子に付いてきた看護助手が白線を越えたので、技師から注意され、
そして病棟に変えるように指示されていた。
検査室に入れる関係者は決まっているようだ。
(厳格だな)
麻子はそのスリッパに履き替えて、検査室に入った。
麻子が検査室に入ると、技師から台に横になるように指示された。
麻子はゆっくり横になった。
医師はまだ来ていない。
(この部屋の中は寒い。体が冷える)
麻子はぶるっと身震いをした。
検査室の気温は低かった。
麻子はトイレが近くなることが心配だった。
朝から、頭の中はトイレの心配ばかりだ。
(そうか、・・・検査室は一定の室温なんだ)
麻子がそう思っていると、主治医が検査室にやってきた。
岡林医師は器具の点検をしながら、ゲージの番号について麻子に説明を始めた。
検査が始まった。
医師から、横向きになり膝を抱えるように指示が出る。
体を丸めて針が入りやすくするためだ。
腰に局所麻酔を2回刺される。
1度目は痛みがあったが、2度目は途中から痛みはなくなっていった。
麻酔が効いてきたのだ。
(痛いのは最初だけかな)
麻子の額に少し汗が出てきた。
腰椎穿刺によって脊髄液を1ml採取した後、インジウムを注入。
痛みはないが、背中に何か刺さっている感覚はある。
気持ち悪い感覚、と麻子は思った。
インジウムは在庫がきかないらしい。
(こぼせないぞ・・・)
と医師が小さくつぶやいていた。
その言葉が聞こえてきて、麻子は岡林医師に思わず質問してしまった。
「・・それ高いんですか?」
値段を聞くと、1万8千円と答えが返ってきた。
放射性医療品は寿命が短く貯蔵できないらしいが、「お値段もお高い」。
インジウムは111In-DTPA(通称インジウムDTPA)という放射性元素。
体外に排出されるといえども、放射性元素と思うと、
体に入れるのにあまり気持ちの良いものではない。
インジウム注入後すぐにうつぶせにされる。
頭は枕の上。
うつぶせになっても顔の下には枕があった。
顔を横に向いても良いが、枕から頭を落としてはいけないと、
麻子は技師から指示された。
頭の位置を落とさないのは、身体の中を循環させるためである。
頭が下がるとすぐに頭でインジウムを吸収してしまうので、
頭を上げておかなければいけないらしい。
「痛くないですか?」と麻子はたびたび技師から聞かれる。
「いいえ。大丈夫です」
麻子は横を向いても下を向いても全く痛くなかった。
しかし、こうも何度も聞かれるということは、
痛いと訴える患者もいるのだなと麻子は思った。
うつぶせの間は、そのまま検査室で過ごした。
麻子はじっとうつぶせのまま寝ていた。
体が冷えてくる。検査室は病室よりもずっと寒かった。
「あの・・もしトイレを我慢できない場合は?」
麻子はは技師におそるおそる聞いてみた。
「尿を取って、その袋をおなかの上にのせて一緒に撮像します。
本当に我慢できなくなったら言って遠慮なく下さいね」
と技師はさらっと答えた。
(ん・・・袋?・・・おしっこ袋ってこと?)
麻子は、自分のおなかの上に、ャポンと尿の入った袋が置かれた図を想像してしまった。
(そ・・それは嫌だ。遠慮する!する!)
頭の中は、チャポンのおしっこ袋の予想図・・・。
(が・・・我慢しなければ・・・チャポン・・・)
しかし、体は冷えていく。
(このままではまずい!)
「寒いので、なにか上にかけるものはないですか?」
技師はありますよと答え、
厚い布団を持ってきて、麻子の上にどかっとかけてくれた。
冷え対策に靴下をはき、厚手のジャージを着て、その上に厚い布団。
暖かいというか・・汗をかきそうだ。
しかし、おしっこ袋よりも汗の方がましだ。
(袋は勘弁してほしい)
麻子はそう思いながら、布団の中にいた。
じわっと汗が出てきたが、布団をかぶったまま検査を待った。
1時間経ってから、技師から指示をされ、麻子は仰向きになった。
1時間後から撮像が始まり、採血も始まる。
インジウムを入れてから1時間うつぶせ、
その後2時間仰向き、3時間経てば歩行許可が出る。
その後は歩き回るようにと指示が出る。
これで、安静時と運動時の漏れを調べることが出来る。
安静時に漏れが確認されなくても、
その後動いて確認されたりする事もあるらしい。
技師が近づいてきて、麻子はようやく検査台に移された。
(撮像開始だ)
体にほとんど密着したような状態で、板が上にある。
RIにやたら体を近く付けるので、麻子は理由を技師に聞いてみた。
注入量が少ないので至近距離から撮っています、とのことだった。
できるだけ少ない量で撮るということか。
張り付き状態である。
(どうやら、自分はこのような体勢が苦手らしい)
麻子は台の上でそう思った。
閉所恐怖症の人はMRIが苦手と、他の病院で説明を受けたことがある。
MRIは音がうるさいだけで、麻子は平気だった。
ただ、検査中じっとしてくださいと指示され、
仰向きで体勢維持をさせられるのが、体の痛い麻子には辛かった。
仰向き維持、これは首の痛みには特に辛い。
麻子は、MRIの空間自体より、その体位維持が辛かった。
しかし、RIは別の意味で苦手だ、と麻子は感じた。
顔の上に空間がないのが嫌なのだ。
板が顔の前にへばりついている。
(タンスが倒れて挟まれたような場所は嫌い)
RIは横には空間があるのだが、顔の上にほとんど密着しそうな位置にあった。
くしゃみをいたら顔を絶対打つだろう。
「動かないで下さい」
技師から指示された。
全く動かないでいると、体の痛みが余計にひどくなる。
(痛い・・・)
撮像が終わりベッドに移るとき、体に痛みが走った。
迎えが来て、麻子は病室に運ばれた。
ベッドに横たわったまま、これからあと2時間は動けない。
起きることも歩くことも許されない。
時計を見ながら、残り時間をカウントしていた。
残り時間とは、トイレ行きが可能になるまでの時間である。
採血時には病室に看護師がやってきた。
それ以外は仰向けに寝たまま。麻子は再び残り時間を数えていた。
(トイレに行きたい。いや、行きたいと考えると余計行きたくなる。
はぁはぁ、考えちゃだめ)
佐野が話していた「しんどい検査」とはこういう意味だったのか、
と麻子は思った。
「宮元さん、大丈夫?」
誰かが麻子に声をかけた。その声はどうやら黒田である。
「大丈夫じゃない。トイレに行きたい・・・」
麻子はぼそっと答えた。
「頑張れ、もうちょっと」
その声は佐野の声のようだ。
「頑張りたくないよぉ・・・」
麻子の答えに誰かが笑った。
看護師が検査のため迎えにきてくれるのを、麻子は病室でひたすら待った。
時計を眺め続けても、時間がなかなか進まない。
(まだかな、まだかな、検査室・・・)
ようやく検査室へ、と看護師から声がかかった。
麻子はベッドのまま、検査室に運ばれた。
検査室の中はやはり寒い。冷えは大敵だ。
「これが終われば動けますからね」
技師は、他の患者もトイレを我慢するのが大変だったと麻子に話してくれた。
(頻尿の人がやはり多いのか)と麻子は思った。
3時間後の撮像が始まった。
麻子にとって限界が近い。
(うぁん、だめだぁ。気を紛らわすために頭の中で歌でも歌おう)
しかし切羽詰まった人間は、頭の中が真っ白になる。
麻子の頭には、歌詞の一つも浮かんでこない。
それでも、麻子は何かしないと耐えられなくなっていた。
何でも良いから、歌詞を思い出そう。
しかし、思い出せない・・・。
(今人気の歌は?だめだぁ。出だしから出てこない)
極限状態である。
童謡とか単純な歌なら、歌詞が浮かびそうだった。
(それでもいいや)
麻子は頭の中で童謡を歌い出した。もちろん声には出さない。
(もし声に出して熱唱を始めたら、おそらく検査室にいる技師さん達はびっくりするかなぁ)
麻子は声に出さない熱唱を始めた。
頭の中での必死の歌唱である。
1曲目。・・2曲目。
(すごいなぁ。子供の頃に覚えたものって極限でも出てくるんだ)
2番3番の歌詞が、うろ覚えだった。麻子は適当に作詞してでも歌い続けた。
とにかく必死に頭の中で歌うことに集中しつづけた。
問題は、童謡は歌が短いことだった。
必死に歌っていても、すぐに終わってしまう。
次の選曲を考えていると、トイレが限界に来てしまいそうになった。
とにかく考えるよりも、何かを歌う。
童謡が頭の中で響いていた。
「はい、終わりです。お疲れさまでした」技師が入ってきた。
3曲目の途中で撮像が終了した。
(やった。おしっこ袋は回避できた)
冷房の効いた検査室で、麻子は背中に汗をかいていた。
「大丈夫ですか?」
技師が麻子に声をかけた。
もう限界だ。
麻子は一言叫んだ。
「・・・トイレぇえ!」
迎えに来ていた看護師が、ダッシュでベッドごと麻子を病室まで運んでいった。
「もうじきトイレに行けますからね!」
看護師が声をかけてくれた。
(看護師さん、ありがとうー!)
麻子はすごい早さでベッドが廊下を走っていくのを感じた。
病院スタッフは、この検査の患者がトイレとの闘いであることを理解してくれていた。
トイレに無事に行けた麻子は、病室でぐったりと横になっていた。
おしっこ袋を回避するだけで、疲れ果ててしまったのだ。
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