脳脊髄液減少症という病
第2章 5.ブラッドパッチという治療法
麻子は枕元の灯りをつけ、荷物からファイルケースを取り出した。
そして治療法についての資料と本を取り出した。
治療は一般的にブラッドパッチ(硬膜外自己血パッチepidural blood patch:EBP)
と言われる。
硬膜外腔に血液を注入するというものだ。
昔から腰椎穿刺時などに行われていたものを、
脳脊髄液減少症の脊髄液漏れに応用したものである。
ブラッドパッチ自体は新しい方法ではなく既存の処置だった。
ただ多くの血を注入することへの影響、後の後遺症については、
調べたところ情報が錯綜していた。
この病気や治療自体も、麻子が受けた頃はまだ歴史が浅かった。
麻子にとって、脳脊髄液減少症という病であれば、そのブラッドパッチを受けるか受けない。
それしかなかったのである。
点滴をしていて寝ていて安静を保って、初期にそれで治る人もいるらしい。
しかし、自分の症状がそんなに簡単なものではないと、麻子は感じていた。
もう数年越しの症状である。
ブラッドパッチは手術ではない、処置とされる。
処置であっても、腰椎穿刺するわけであるから麻子は不安だった。
針を刺すのは誰だろう。岡林医師だろうか。
もしこの病であると診断されたら、ここで治療を受けよう。
麻子は資料を片付けながら、そう決心した。
検査をしてもらえる病院すら、探すのは大変である。
見つけても遠くて来院することすら難しいこともある。
自分は治療を受けるかどうか判断しないまま来院した。
しかし、この時点で治療を受け入れる決心が、麻子には出来ていた。
この時の麻子は、長い間疑問に思っていたことへ辿り着いた気分になっていた。
しかし、これはゴールではなかったのだ。
やがて後に、麻子はこの病の奥深さを感じていくことになる。
その困難な道への入り口であることを、その時の麻子は気が付いていなかった。
第2章 6. 確定診断
翌朝,24時間後のRI撮像と採血が終わる。
RIの撮像時間は約20分。
(これで張り付き状態は終わり、RIとはこれでおしまい)と麻子は思っていた。
後に再びRIのこの台に乗るとは、この時の麻子はまったく予想していなかった。
麻子は落ち着いた気持ちで検査を受けた。
もう漏れていることは分かっていたので、
検査結果をやきもきする必要はなかったからだ。
麻子の心の中では、すでにブラッドパッチ(EBP)を受けることを決心できていた。
しかし、未知なものへの恐怖感があった。
一回のブラッドパッチで漏れを止めることができるだろうか。
自分が処置された後どうなるのか、それは誰にも分からないかもしれない。
だが、ここまで来たら決めるしかない。
大量に漏れているのであれば、止めるしかないではないか。
ブラッドパッチを回避してもやっていける人はそれでもいい。
自分はとても堪えられないからこそ、
その日を過ごすことすら苦しくてならないからこそ、ここまで来たのだ。
診てもらえる、処置してもらえる機会、それを逃すことなど出来ない。
迷っていて、来年の今できるかどうかなど確定できないのだ。
勤務医が1年後、2年後、同じ病院にいるとは限らない。
この治療がこの病院で続けられている保障はどこにもないのだから。
夕方麻子は、MRIに呼ばれた。
検査時間は、腰、胸、首のそれぞれ約15分ラ3回だった。
麻子の検査はすべて終了した。
病室へ戻った麻子は主治医に呼ばれた。
部屋に入ると、すでに麻子の画像が出ていた。
岡林医師はRI画像の説明を始めた。
麻子は、自分の画像をじっと見た。
RIの膀胱集積は黒く映っていた。漏れて溜まっているのだ。
そして体外へ漏れている箇所が見えた。
ここが、あそこが、と漏れている箇所を岡林医師は説明した。
自分の漏れている部分を、麻子は食い入るように眺めていた。
こんなに漏れている箇所が映っていたのだ。
膀胱集積があってもRIで漏れている箇所が映らない人もいるという。
そういう人は神経根からじわっと少量漏れ出ているだろうか。
(私の画像はこんなにも漏れがはっきり見える。)
麻子は、こんなに自分の脊髄液が漏れ出ている画像が出るとは予想していなかった。
次はMRミエロの画像だ。
クリスマスツリーのような漏れの画像が見えた。
主治医が画像の箇所に指を指した。
ぴゅっと漏れている瞬間が映っていた。
「疑う余地はありません」主治医はきっぱりと言った。
麻子は手に汗をかいていた。
ああ、漏れている。画像とは何という力があるのだろう。
こんなに漏れていたなんて。
何をやっても症状が改善しないはずだ。
水分摂取の意味もこの病と関係があったせいだ。
自分は脳脊髄液減少症という病だったのだ。
自分の症状がどこから来るのか、とうとう辿り着いた。
長い長い時間をかけて。
「このまま治療に移りますが、どうしますか?」岡林医師が尋ねた。
「はい、治療を受けます。よろしくお願いします」と麻子は答えた。
「広範囲にかなり漏れているので、まず2カ所に治療が必要かもしれません。
一度に2〜3カ所同時にブラッド治療を行う病院もありますが、
こちらでは患者さんの負担を考えて、時間を空けて別々に行いますが、
それで構いませんか」
麻子は医師に向かって頷きながら、考えた。
(一度に3カ所もする病院?ということは・・首・背中・腰ってこと?
良かった、ここは別々で・・・)
岡林医師はカレンダーを見ながら話を続けた。
「順番があるので、他の先生とも日程を調整します。
近くの方は一時帰宅してもらいますが、
宮元さんの場合はこのまま入院待機で構いませんか。」
数日の間に、自宅と病院を往復する体は麻子にはなかった。
帰宅したらそのまま寝込み、病院へは戻って来られないだろうと麻子は感じていた。
「はい、そうします」
麻子はこのまま入院してブラッドパッチを待つことになった。
この病院には脳脊髄液減少症の専門の科はない。
他の診察と一緒にこの病も診ている状態だった。
(いつになるのかなぁ)麻子はぼんやりベッドで手帳を眺めていた。
治療費や入院費は、働いていた時の貯金から準備してきた。
万一貯金を全部使い果たしても構わない。この苦しみから解放されるならば。
そう思って麻子は入院した。
治療できる機会を逃したくないと麻子は思った。
ブラッドパッチをしたら、自分の体はどうなるのだろう。
前のベッドの患者は痛そうにずっと寝ている。
時々看護師が点滴にやってきていた。
本を読むと、ブラッドパッチ後の痛みについては個人差があり、
そして回数によっても異なる、と書いてあった。
麻子は、自分はどうなるのだろうかと考えていた。
(どんな変化があるかどうかは実際にやってみないと分からないだろう)
病院での2日目の夜を麻子は迎えた。
自宅の自分のベッドが恋しくなった。
しかし、治療はまだこれからなのだ。
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