脳脊髄液減少症という病


2章 7. 入院生活

 

 翌日、麻子は空になったペットボトルを持って、

佐野に教えてもらった給水器に水を汲みに行った。

廊下を歩いていると、病棟内でベッドごと患者が運ばれていく様子が見えた。

若い男性の患者さんだ。ベッドの中から、看護師と何か話している。

低髄(脳脊髄液減少症)の患者だろうか。

脳外科病棟にいると、何となく同病者らしき患者が区別できてくる。

背中を痛そうに歩いていて、手にペットボトルを持っていれば確立はかなり高い。

入院してみて、こんなに同じ病の患者がいることを麻子は初めて知った。

 

脳脊髄液減少症はまだ正式な病として認知されていない。

今は治療も保険適用されていない。

そのため、患者にも負担が大きく、そして治療する医師にも負担が大きく、

症状のある人すべてが診てもらう機会を得ることも難しい。

一部の病院に患者が殺到し、医師は疲労する。

認知され多くの病院で診てもらえるようになれば、患者がさまようことが減るだろうに。

患者はいろんな病院を受診し、いろんな病名を付けられ、

治らない症状の中で苦悩する。

医療費の無駄を考えると、転々と病院を受診し、病名が見つからないままでいるよりも、

正確な診療を身近な病院で早い内に行う方が、ましな気さえする。

ただ正式に認知された場合、事故の損害賠償額が大きくなる可能性がある。

様々な社会的状況があるけれど、一番辛いのは患者自身である。

 

絶え間ないつらい症状は人を追いつめる。

社会性の喪失は人を日常から追いやる。

追いやられていく人は、どうやって生きていけばいいのだろう。

 

麻子は歩くのを止めた。

この病気の深さも、取り巻く状況も、

今まで自分は曖昧な感覚で感じていたように麻子には思えた。

麻子は、自分の足下に大きな谷底があるように感じた。

元気なときはただ気がつかないだけで、人の後ろ側には大きな谷があるのかもしれない。

(病院には病人しかいないんだ。病院関係者と患者の関係者以外は・・・)

事故で脊髄損傷した患者。

脳疾患で手術をした患者。

癌で闘病中の患者。

いろんな患者が病院にいる。

麻子は窓から下を見た。

人が歩いている。

車が通っている。

自転車が通っている。

病人でない人がたくさん「下界」にいる。

「外に出たいな」

麻子は呟いた。

しかし、今麻子がもし外に出たら、数十分もしないうちに倒れているだろう。

麻子は窓から目を離し、ゆっくりと給水器に向かって歩き始めた。


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