脳脊髄液減少症という病
第3章 2. ブラッドパッチ(EBP)をうける
今日は、麻子にとって治療の日である。
処置は夕方からと聞いていたので、麻子は朝から何をしようか考えていた。
枕だけはなんとか手立てできた。
横になっていながらも、ブラッドパッチのことを考えてしまう。
不安があるためになにか気を紛らわしたい。
しかし、本を読もうにも字がうまく追えず、TVも頭痛とめまいのために見たくない。
散歩でも出来たらいいのだが、身体が痛くて歩き回ることなど出来ない。
音楽も頭痛がひどくて聴けそうにない。
どこか落ち着かないが、できる事が何もない。
麻子は横になりながら、じっと時を待った。
「紙を持ってこの階まで降りて下さい」
看護師がやって来て、そう指示を出した。
(ついにきた)
麻子はそう思った。
紙一枚を看護師から手渡られ、単身治療室まで歩いて降りていく。
(黒田さんや廊下で見た患者はベッドごとの移動だったのに、
どうして自分の場合は歩いていくのかな?)
と麻子は思いつつ、とりあえず指示通り歩いていくことにした。
エレベーターホールに来るとかなり地面が揺れている。
麻子は事故に遭ってから、ずっと地面がどこかゆらゆらした状態だった。
まるで船の上にいる船員で、船酔いでもしている状態であった。
自分が動いていなくても揺れている。
ベッドで寝ていても、ベッドが揺れている。
麻子には分かっていた。
ベッドが揺れているのではない。
麻子が揺れている、揺れていると感じているだけなのだ。
昨日1階まで降りていったせいか、今日の麻子の体調は悪かった。
エレベーターホールでは、上下に移動する振動がかすかに足下に伝わってくる。
そのかすかな振動が自分の揺れと合わさって、地面がかなりゆらゆら揺れている。
乗る前から地面はゆらゆらである。
麻子はその状態でエレベーターに乗り、大きく揺れた箱の中に放り込まれた。
エレベーターはそんな麻子の容態など関係無しに一気に降りていった。
急な下降は症状を悪化させた。
扉が開き降りたときには、ひどいめまいと吐き気が麻子を襲った。
気分の悪さ、頭や身体の痛み。
(治療室はどこ?)
気分が悪いまま、麻子はよろよろ歩き、受付に受診票を渡した。
そして、麻子はそのまま近くにあったソファに倒れ込んだ。
麻子はいくら待っても呼ばれなかった。
めまいと吐き気で、冷や汗が出てきた。
そのままどれくらい経っただろう。
看護師がどこからか出てきて、叫んでいた。
「患者さんが歩いてきています!」
どうやら、歩行で検査室という病棟での指示は手違いだったようだ。
(やっぱりベッドで移動だったんだ)
帰りは動けずベッドになるので、本来は行きも患者のベッドで来る手順だったらしい。
麻子は看護師に抱えられて治療室のベッドに寝かされた。
看護師が病棟に麻子のベッドを運んでくるように指示を出していた。
麻子に頭痛と吐き気がおそってくる。
(エレベーターで症状が悪化してしまった・・・)
こんな状態でこれから治療されるのだろうか。
体調が落ち着いてから、治療されたいと麻子は思った。
「治療前の具合が悪い方が、治療の効果が分かりやすいから」
岡林医師がやって来て、そう話しているのが聞こえてきた。
すぐに始めるらしい。
最悪の状態で治療が始まるらしい。
自分のベッドまで歩くように指示される。
(歩けない・・・)
麻子を看護師が支えた。
自分用のベッドまで歩くのも必死である。
よろよろ動き、麻子はベッドにぐったり寝転がった。
まな板の鯉状態である。
(何でもして・・・)
具合が悪くて、声も出なかった。
腰の処置と同時に腕から採血します、と手順を説明された。
看護師が私の背中をめくりながら、身体に布をかけてきた。
腕は前に出し、岡林医師は採血しやすそうな血管を確認していた。
看護師と医師の話を聞いていると、血がなかなか取れない患者もいるらしい。
麻子は、看護師から採血時に針が刺しやすく取りやすいと言われてきた。
もう一人の医師が他の仕事を終えてやって来たようだ。
布を体中にかけられていたために、麻子には周囲が見えなかった。
「始めます」という挨拶されたが、麻子には布以外何も見えない。
どんな医師かも見えないし、声しか分からなかった。
青い布の中から「よろしくお願いします」と麻子は挨拶を返した。
心の底から本当にお願い助けて下さい、と麻子は思った。
麻子の下の地面はますます揺れていた。
ブラッドパッチが開始された。
今回は腰に注入と説明される。
背中と腰を消毒、イソジンが塗られた。
背中がズーズーする。
局所麻酔が始まる。
何回刺されても痛いものは痛い。
やがて麻酔が効き始める。
本当にこの病気の治療は腰椎穿刺ばかりである。
(侵襲的治療って嫌だ)
そう思いながら麻子はじっと耐えた。
好きな患者はいないだろう。
血液注入のための針を、麻子の腰に刺しているらしい。
「入った」
医師がそう呟いた。
その瞬間、麻子の体に不快な感覚が生じた。
独特のなにか身体への圧迫感がある。
(うえっ)
ただ刺された感覚でなく、そんな感じがあった。
痛いわけではない。
気分が悪くなる妙な圧が感じられる。
(ということは、これが感じられるとちゃんと入っている証拠ってこと?)
局所麻酔よりもこっちの方が気持ち悪く嫌な感じだった。
(これが入った感じなのか)
中から圧で押されている気持ちの悪さ。
なんともいえない気持ちの悪さ。
布の隙間から、イソジンで腕が茶色に染まっていくのが麻子には見えた。
単に塗るというより、浸されるくらいイソジンを塗っている。
細菌感染予防・・・と麻子は隙間から見ていた。
それからすぐに採血が始まった。
採血後、すぐに注入が始まる。
自己血を入れられた直後は、血が入っていく感覚がはっきりと感じられた。
しかし、やがて感触がなくなった。
やがて圧迫感が出てくる。
(少し痛い、苦しい)
やがて、ゆっくりと少しずつ注入になっていた。
たびたび苦しくなるが予定通り、採血分が注入された。
ブラッドパッチが終わった。
布が顔までかかっていたため、やはり麻子には周りが見えなかった。
妙な圧がなくなった。
麻子の腰から針が外されたのだ。
気持ち悪さがなくなった、と麻子は感じた。
布が外された。
麻子は岡林医師からうつぶせ寝のまましばらく体勢を維持するようにと指示される。
背中から入れた自己血が神経根まで回るようにうつぶせになるらしい。
(もうこれで終わりになればいいのに)
こりごりだと麻子は思った。
麻子の額には、じっとり汗がでていた。
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