脳脊髄液減少症という病


3章 3. バルーン効果(風船効果)

 

 ブラッドパッチ終了後、うつぶせになっていた。

(あれ?なにかが起こっている)

麻子は自分の体の変化を感じた。

気のせいではない。

今まで感じたことのない感覚だった。

処置直後から、すぐに麻子の背中に爽快感が走っていく。

まるで炭酸がしゅわーと走っていくような涼しい感じがする。

それも腰の下からどんどん上へと、そして頭までその清涼感は上がっていった。

人間として生まれてきて、こんな下から上への何かが走る感覚は感じたことがない、

と麻子は思った。

よく考えると上から下への感覚は多い。

ものを食べるとか水を飲む。腸が動いて便が出る。下痢をする。

みんな上から下である。

吐き気は確かに下から上だが、胃のあたりから上にあがる感じで、

もっと腰の下の方から、それも背中側の腰から、

そのような腰から上に上がる感覚を感じたことはなかった。

体のかなり下から、上にあがっていく感覚。

背中側に何かが上っていく感覚。

もしかしたら普通に生きている人は一生感じることはないかもしれない。

そんな感覚が麻子を襲った。

尾てい骨の上のあたりから、背中へ、

そして頭の先に向かって、何かが上がっていく。

炭酸のような爽快感。

涼しい清涼感。

しゃわしゃわという感覚。

それも内臓のない背中側で、それが麻子の体に起こっている。

内臓の感覚ではない。

 

処置後の経過を見るために、岡林医師はもう一人の医師と一緒に向こうで待機していた。

うつぶせになっているので、医師達の姿は麻子には見えなかった。

「先生・・・」

麻子の声を聞いて、岡林医師が麻子のベッドへ近づいてきた。

うつぶせになったまま、麻子は説明した。

「背中に何かが走っていきます。下から炭酸のような涼しい感覚が」

岡林医師は「ほうっ」と声をあげた。

なんだろう、と麻子は思った。

「それは風船効果ですね。久しぶりに聞いたな」

風船効果・・バルーン効果ともいうらしい。

(ああ、そうか。

もしかしたら下垂した状態が自己血を入れたために浮き上がる感覚なのだろうか)

麻子は初めて気がついた。

風船効果は、どうやらどの患者も感じるわけではないらしい。

この爽快な感覚、どうやったら表現できるだろうか、と麻子は考えた。

(いや、普通なら絶対経験しそうにない感覚だろう)

未知の体験である。

麻子の体の中で、ゆっくりしゃわしゃわとした感覚が、下から上に上がっていく。

 

それと共に、麻子の身体の痛みがしゅーんという感じで下から楽になっていった。

身体が軽くなっていく。

肩も脇も背中もかなり軽くなっていく。

今までとても重いものが麻子の背中に、そして肩に乗っていた。

鉄の塊のような重いものが。

耐えられない重さ。

この巨大な鉄の塊は、麻子の体から24時間決して外れることはなかった。

事故以来、麻子は動くたびに痛みに襲われた。

(痛い。動いたら息が切れる)

(しんどい、苦しい)

おんぶお化けの様なこの塊を何とかして、と麻子は今まで何度心の中で叫んだことか。

今、鉄の塊が、ばらばらと麻子の身体から抜け落ちていくではないか。

身体が軽い。

身体の痛みが外れていく。

凝り固まった身体が弛緩していくのが、麻子にははっきり分かった。

腰の局所麻酔しかしていないから、麻酔ではこんなに体中の痛みは取れない。

(これが自己血注入の効果か?!)

下からしゃわしゃわするものが走っていく。

炭酸のような感覚が。

 

 もし単なるむち打ち、バレ・リュー症候群ならば、

少量の血を腰から入れただけでは良くなるはずがない。

もし自分の体に何か他に大きな疾患があるならば、

ブラッドパッチをしてもその痛みは残るだろう。

なのに、一瞬でこんなに痛みが消えていくとは、麻子は驚いていた。

爽快感とともに痛みの消失が頭の上まで上がっていった。

麻子は、自分の体には他の疾患が他にないと感じていた。

この痛みの数々は、脳脊髄液減少症の痛みだったのだ。

麻子は今、自分の体の変化をゆっくり感じていた。

 

 麻子は、他にも変化を感じていた。

うつぶせのまま、麻子は少し頭を上げて前を見た。

そして、器具の書かれている文字を眺めた。

(文字が揺れていない!)

行間が簡単に目で追えて、文章が楽に読める。

(改行ができる。じっと凝視できる!)

視力の不安定さが、麻子にはもうなくなっていた。

(あっ、ベッドが揺れていない!)

今まで揺れている地面が、ベッドが固定化されている。

まるで船から下りた船員の気分だ。

変な感じだ。

(揺れている地面にいつの間にか慣れていたのか)

地面がしっかり固定されている。

「先生、地面が揺れていません!しっかり固定されるようになりました!」

「目もしっかり見えるようになりました!」

麻子は思わず叫んだ。

本来はこういう感覚なのだ。

地面は揺れたままではないのが普通だ。

普通の地面とはこういうものだったよな。

どっしりとした地面。

「この患者さん、状態を客観視しているねぇ」

医師2人が近づいてきて、私の様子を見ていた。

 

何かが違う。かなり違う。

ふと、ブラッドパッチ後変化の大きい人は・・・という話を麻子は思い出した。

もしかしたら、こういうことなのか。

こんなに自己血注入直後に変化を感じるものなのか。

 

自己血は注入されてから、しばらくすると溶解していく。

そしてそれからフィブリン膜が形成され始める。

同時に炎症が出る。

一時症状が戻ると、本に書いてあったことを麻子は思い出した。

(いやだな、この開放的な感覚のままでいられたらいいのになぁ)

この風船効果状態のままでいたかった。

それくらい気持ちの良い状態である。

麻子はこの感覚に酔いしれた。

 

 ブラッドパッチ後、麻子の容態は改善し、安定していた。

しかし、まだ経過観察の時間帯であった。

二人の医師は向こうの方で雑談をしていた。

ぼそぼそ話しているが、麻子には多少聞こえてきた。

どうやら二人で超過勤務時間の比べ合いを話しているようである。

聞き耳を立てると、二人ともその労働時間は

過労死の危険発生基準といわれる時間数よりもずっと多い。

2倍以上でもまだまだおつりが来る位である。

どっちが多いかくらべっこしている場合ではない、

と横から言いたくなる位の勤務時間数である。

この治療を行う医師達は通常の業務の上にこの治療も行っている。

この病の専属ではないのだ。

ただでさえ忙しい中人不足の状況下で、医師達はこの治療を行っているのである。

患者も治療してくれる医師を見つけることは簡単ではなかった。

 

医師達は、向こうの方でまだ雑談を続けていた。

医師がそうやってくつろいで、患者の経過を見ているのは良いことだ、

と麻子は思った。

つまり、こちらの容態が悪くないいう意味だからである

そういう医師達の様子を感じながら、

麻子は自分の身体に起こっている変化を安心して感じていた。

さわやかな体の変化だった。

炎症反応が始まる前の、ただ一時のさわやかさに過ぎないのだが。


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