脳脊髄液減少症という病
第3章 8.体調の変化
麻子は治療前、文字を読むのが辛くなっていた。
一文字一行ずつ意識して読まなくてはならず、
改行が意識しないとできなくなっていた。
読んでいても量は進まず休み休み読むしかなかった。
おまけに文字も床も揺れていた。
大きく揺れる船の上で文字を見ている感覚だった。
テレビは見ていると目が疲れた。
後で考えてみるとまぶしかったのかもしれない。
だから麻子はほとんどTVも新聞も見なくなった。
麻子がブラッドパッチをした直後、
物がそして地面が揺れなくなり、そして文字も揺れなくなった。
麻子は文章の改行も無意識にできるようになった。
処置後の一時は文を見ると文字と背景が異様に浮き出て見える気がした。
普通の人ならば、白地の紙に黒い文字がかかれていれば、
黒い文字が目に入ってくる。
それが、今の麻子にとっては
黒い字よりも周りの白地が浮かび上がって見えてくるのだ。
そのため、わざと意識して黒い文字を見なければならなかった。
しかし、やがてその現象も薄れていき、
麻子にとって文字が本来の見え方に戻っていった。
普通に黒文字が見え、普通に改行できる。
斜め読みをする能力も、麻子に戻ってきた。
麻子には、事故後から気持ち悪さを感じて食べられない物があった。
例えば魚も刺身も見るだけで気持ち悪かった。
臭いにも過敏になった。
お腹だけは空くが、臭いのあるものが食べられない。
麻子は、臭いのない物を選んで食べていた。
それしかのどを通らない。
麻子は味覚も低下していた。
味付けをしても、味があまり分からない。
二度目のブラッドパッチを受けてから、
麻子は痛みと闘いながらずっと横になっていた。
そこへ病室に食事係のスタッフがやって来た。
食事係は病室の患者に、今日の献立には希望者には刺身が選択できることを話し、
申し込むかどうか声をかけに来た。
(病院で刺身か、珍しいな)
と麻子は思った。
どうやら、たまにそういう日があるらしい。
食事係は病室の患者一人一人に声をかけて回っていた。
(しかし、刺身は・・・)
一瞬食べたくない、食べられないという思いが麻子に浮かんだ。
麻子は治療前の気分の悪かった日々を思いだし、躊躇した。
「宮元さんはどうなさいますか?」と尋ねられたので、
怪我をしてから魚が食べられなくなった、と麻子は食事係に説明した。
「治療したのだから、食べられるようになったかもしれませんよ」
食事係のスタッフはそういって麻子に申し込みを薦めた。
(そうか、そういう考え方もできるんだ。
もしかしたら治療をした自分は食べられるの?)
麻子は特別メニューを申し込んだ。
食事がやって来た。
(うわー、刺身だ)
病院の普通食でこんな物がでてくるなんて、と思いつつ、
麻子は刺身を一切れ箸でつまんで口に入れた。
麻子には、刺身を口に入れられただけでも驚きだった。
今まで見るだけで気分が悪くなり、顔に近づけることすらできなかったのだ。
麻子は、刺身をゆっくりと噛んだ。
(美味しい)
美味しいと感じられる。
気持ち悪くなくなったのだ。
刺身が自分の口に戻ってきた。
一見つまらないことなだが、麻子は感激していた。
食べられなくなったものが食べられるようになっていく。
ささやかな出来事に、麻子は体の回復を感じた。
いろんな物がもう一度食べられるように戻るかもしれない。
(もしかしたら、もう一生食べられないと思っていた寿司も
もう一度食べられるようになるかもしれない)
そのとき、麻子は気がついた。
食べ物への気持ち悪さが取れただけではない。
麻子は箸でご飯を口に入れた。
(味がちゃんと感じられる)
味覚が麻子に戻っていた。
食べるという事の幸せを、麻子は取り戻した。
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