脳脊髄液減少症という病
第5章 3.患者達
今の麻子は、動かなければ体調悪化はしない。
安静にしていれば体調は楽だった。
ベッドでぼ〜と寝て過ごしていた。
まだブラッドパッチをしていないので、無理しなければ病棟内を歩くことが出来た。
遠距離から来た患者が、ネットで退院後の宿泊先を近場で探していた。
退院後直に帰宅できないようである。
患者はいろんなところからやってくる。
そして検索の手を止め、「今日この近くでお祭りがあるらしいよ」と言い出した。
それを聞いた患者達が、よろよろと窓の外を見ながら探し始める。
「どこ?」
「見える?」
麻子も、窓から病院の外を見てみた。
入院していると、自分が外の世界から隔離されているように思える。
まるで別世界にいるような感覚になるときがある。
下界、つまり外の世界が恋しくなる。
下界を普通に通り過ぎていく人たちがうらやましい。
祭りを見つけたとしても行けるはずもないのに、患者は窓の外を眺めた。
麻子も廊下の窓から外を見た。
他の患者も廊下に出てきた。
どこにも祭りは見えない。
見えるところでやっていないか、時間が異なるのか。
見えないことが分かると、患者の一部はよろよろと病室へ戻っていった。
残った人達は椅子に座り、たわいない話を始めた。
麻子もそこに残り、会話に加わった。
この人達はどうやら何度目かのブラッドパッチ経験者のようだ、と麻子は思った。
つまり、起きていられるようになった人達。
「退院して良くなったら、温泉に行くんだ」ある人が言う。
「私もいつか行きたいけど、温泉に行っても大丈夫かな」
他の人が心配そうに話す。
皆、行きたい行きたいと言い始める。
身体の痛みがあるため、温泉に行きたくなるのだ。
「誰か先生に聞いてよ」
「聞けない」
「脱水するから、無理なんじゃないか?」
「忙しい先生達に聞いたら、温泉?!って怒られそうだ」
「この体調では、いつ行けることか」
「でも、知りたいよね。行っても悪化しないかどうか」
「一番この中で最後に残った人が、先生に聞いてよ」
最後の人が医師に聞いたにせよ、どうやって皆にそれを伝達するのだろう、
麻子は思わず笑った。
いつか楽になって、温泉に入ってみたい。心身共に弛緩したい。
その気持ちは説明しなくても、皆分かっていた。
この病の患者は長くは起きていられない。
やがて人は去った。
麻子ともう一人が残っていた。
つまり、それだけの時間、起きていられる患者である。
(この人は、私と同じくらいか、それ以上に回復しているのだな)
麻子はそう思った。
その患者は自分の事を話し始めた。
「仕事辞めてきたんです。あの体調ではもう無理だと」
さっぱりしたとした口調でそう言った。
この人はそう言えるようになるまでどれだけの苦悩があったのだろう、と麻子は感じた
「今後田舎の実家に帰る予定なんです」
どうやら自宅を引き払った様子だった。
今回ようやく漏れが止まった、とその患者は話しを続けた。
明日退院らしい。
(やはり、この人は漏れがもう止まったのだ、体調は良さそうだな)
と麻子は思った。
麻子は昼間、その患者が廊下を友達らしき人とすたすたと歩いているのを見たからだ。
どうやら友人と外に出て行っていたらしい。
(この人はかなり回復している)
今の麻子には、病院外に出たら無事に戻ってくる自信はなかった。
その人は、今後ゆっくりしてから外国へ旅に行きたいと話し始めた。
知り合いが外国で大成功したので、遊びに来いと言ってくるらしい。
元気になればその知り合いを尋ねてみたいと、その患者は話した。
麻子には、旅に出たい気持ちがよく分かった。
何処にも行けない、何もできない身体。
いろんなものを失い、ただ寝ているしかできない。
どこへ行けないけれど、いつかどこかへ行ける体になりたい。
麻子は、今回旅の本を持参して入院した。
前回の治療後、文字が読みやすくなったからだ。
体調のよいときに、麻子は本を少しずつ読めるようになった。
旅行記の本が復刻したので、麻子は持っていなかった残りの巻をネットで買った。
何処にも行けないけれど、まして旅など、とても行けないけれど、
今の麻子には旅行記を読む事が楽しかった。
「こんな本を読んで、気を紛らわしていたんですよ」
とその患者は言いながら、麻子に入院に持参した本を見せた。
その本は旅のガイドマップだった。
(ああ、その気持ちは分かるぞ)
麻子は思わず苦笑した。
「実は、私も旅行に関する本を持ってきたの。
最近体調が良くないので、あまり読んでいないのだけれど」
麻子は自分も本を持参して入院したことを話した。
「え。どんな本?」
その人は、麻子の本に興味を持ったようだ。
タイトルを教えて欲しいと麻子に言った。
麻子が今回持参したのは、バックパッカーの伝説的な本である。
「ぜひ、ネットで検索して買いたい」
とその患者はタイトルを麻子に尋ねた。
本気で読みたいらしい。
「じゃあ、いつか海外で貴方も成功したら私を呼んでくれる?」
と麻子は言った。
「いいですよ、ぜひ。でもその前に、まず国内の温泉地に行くつもりなんです」その人は明るく答えた。
その人も、以前はひどい頭痛があったらしい。
しかし、麻子が見てきた患者の中で一番元気になっているように思える。
この人なら温泉に行けそうだ、と麻子は思った。
「本が病室にあるので」と麻子が言うと、
「じゃあ、僕も病室へ戻ります」
その患者はどうやら向かいの病室らしい。
麻子は本を持って廊下へ出て、本の表カバーを外した。
「これあげます。その方が確実に分かるでしょう?」
麻子は表カバーを差し出した。
「え。でも」
「構わないです。私には本自体があれば」
麻子はカバーを手渡した。
「じゃあ、ちょっと待っていてください」
その人は慌てて自分の病室へ戻っていた。
廊下に戻ってきたその患者は、旅の特集が載っている雑誌を麻子に手渡した。
「これもらってください。僕はもう読んだから」
手には2冊も雑誌があった。
「・・ありがとう」
麻子はそれをもらうことにした。
「ガイドマップも要りますか?もう僕は読んだし」
とその人はガイドマップも持ってきた。
「え、いいえ。私は、まだそこまで出かけられないと思うし」
「じゃ。これからネットでこの本注文します」
とその人は表カバーを持って病室へ戻った。
妙な場所で、物々交換である。
お互いそれぞれの病室へと戻った。
物は交換したが、名前は交換していない。
お互いどこの誰かも知らない。
その人が旅先で成功したとしても、麻子は呼んではもらえそうにない。
それでいいのだ、と麻子は思った。
偶然に空白時間となった週末。
夢の約束。
あの患者は、温泉に無事行けたのだろうか。
知り合いように、その人も外国で成功する日が来るだろうか。
その雑誌は今も麻子の本棚に残っている。
明日は週明け。病院が動き出す。
退院患者が出て、また入院患者が入ってくる。
麻子はブラッドパッチを受ける予定であった。
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脳脊髄液減少症という病