脳脊髄液減少症という病
第6章 8. アクシデント
他の患者に効いたから、と医師から言われて漢方薬を処方された。
利水の漢方である。
麻子は少し不安に思ったが、
(とりあえず一袋くらいなら)と帰宅後試しに飲んでみた。
麻子は低血圧である。
体の循環が良くなる方が良いわけである。
帰宅して疲れた麻子はうつらうつらしていた。
(のどが渇いた。お腹も空いた)麻子は目を覚ました。
夜になっていた。
麻子は冷蔵庫を開けたが、通院で慌ただしかったため買い物をしていなかった。
(何もない)
麻子は近くのコンビニに部屋着のまま出かけた。
散歩がてらにゆっくり歩いていった。
コンビニにようやく着いた。
コンビニの中を歩いていると、麻子の体の中が熱くなってきた。
(あれ?)
麻子は体の中で何かが燃え始めることに気がついた。
おまけに、その火にどんどん燃料が追加されていき、火の手がどんどん広がっていく。
(これって、もしかして漢方薬?)
麻子の体の中が燃える。
(効き過ぎた!)麻子は慌ててコンビニを出ようとした。
しかし、麻子の体中に強い痛みが走った。
(立てない!・・地面が揺れる。痛い!)麻子はコンビニの前でうずくまった。
頭痛がひどい。体が痛い。
何かが麻子に重くのしかかってくる。
(強烈な脳脊髄液減少症の症状だ・・・)
家に帰ろうと思ったが、麻子は座り込んで、動けなかった。
(首が絞まる。息が苦しい)
首を締め付けられた様な感覚が麻子を襲った。
誰かの声がする。しかし、息苦しくて麻子は返事ができない。
目が開けていられない。
麻子の体の中の燃料はどんどん燃え上がっていく。
どこからか救急車の音がした。
音が近づいてくる。
(まずい・・・)
音が止まった。
麻子は担架に乗せられた。
麻子が薄めを開けると、見物人が沢山いる。
近くにいた人が寄って来たようだ。
麻子は救急車の中に運ばれた。
救急隊の人が麻子に声をかける。
麻子に名前などを聞いてくる。
本人確認や意識の有無を調べているのかもしれない。
(体が痛くて、首が締め付けられていて、話せない)
救急隊の人は何度も麻子に声をかけた。
「宮・・元・・・麻子。頭と体・・が痛くて・・話せません。・・鞄の・・中に保険証と・・診察券が」
麻子は絞り出すように言った。
隊員は麻子の鞄から保険証と診察券を取り出した。
救急車のドアが閉まる音がした。
「この診察券の病院に連絡しますが、よろしいですか?」
隊員が麻子に声をかける。
麻子は目をつぶったまま頷いた。
救急車が動き出した。
(痛い!痛い−!)
麻子はうずくまってうめいた。
救急車の振動が麻子の痛みを増幅させたのだ。
「大丈夫ですか?」と隊員が声をかけたが、
「・・・痛い!いた・・い」麻子はうめき続けた。
(振動が痛い。誰か車を止めて。気絶しそう!)
しかし、声にならない。
「今病院に向かって走っていますからね」隊員が麻子を励ました。
(そうだ・・。痛くても、救急車が走らなければ病院に着かない・・・)
麻子は痛みで泣きながら、救急車のベッドの端にしがみついた。
病院は遠い。なかなかたどり着かない。
振動と共に麻子の体に痛みが走った。
そうだ、この痛みは間違いなく脳脊髄液減少症の痛み。
他の痛みとは違った痛み。
痛みがなくなってから記憶が薄れていたけれど、この痛みだ。
経験したから分かる痛み。
(もういやだ、もういやだ。こんな痛みをもう味わいたくない)
ぽろぽろ涙が出た。
「半分まで来ましたよ。もう少し頑張ってくださいね」
隊員が麻子に声をかけた。
(まだ、半分。気絶するかも・・・)
病院にたどり着いたときには、麻子は身動きすらできなかった。
うずくまっている麻子は病院で仰向きにされた。
麻子は目をつぶっていたまま、
(まぶしい!)と感じた。
まぶたの上からでも、病院の照明が麻子にはまぶしかった。
そして、医師が麻子の目を開けてライトで照らそうとする。
麻子は目を開けられない。
思わず下を向いた。
うつぶせになりながら、麻子はうっすら目を開けた。
それを見た看護師が、
「目は開けられるみたいですよ」と言った。
目は開こうと思えば開けられるが、
麻子は光がまぶしすぎて光に向かって目を開けなかった。
(痛い、痛い)麻子は泣いていた。
検査をするかどうかについて、周りの声がした。
麻子は自分の主治医の名前を言った。
医療スタッフは、麻子が何の病の患者か分かったようだ。
医師が麻子に念のために脳のCT検査を勧めた。
(痛みでもう気が遠くなりそうだ。
脳脊髄液減少症の治療からやってもらわないと、耐えられないかも)
脳脊髄液減少症の独特の痛みを麻子は感じていた。
麻子の首がどんどん絞まっていく。
何かを話すことすら苦しい。
(しかし言わなければ)
麻子は主治医の名前を口に出した。
そして、処方された薬を飲んでから具合が悪くなったと、麻子は絞り出すように話した。
主治医に問い合わせたらしい。
「今日岡林先生は院外にいらっしゃるけれど、今連絡を取って相談していますからね」
看護師が麻子に声をかけた。
(漢方薬を体の外に出さないといけない気がする。
体の中で燃えすぎて、極度の脱水になって、脳脊髄液減少症の症状が出ている気がする)
麻子はうずくまりながら、そう感じた。
やがて麻子はどこかのベッドに運ばれて、点滴につながれた。
上を向いていると、目をつぶっていてもまぶしい。
麻子が看護師にそう話すと、看護師がタオルを持ってきて言った。
「これを目の上に掛けますか?」
顔にタオルを掛けると、まぶしくて辛いのが緩和された。
首を絞められたように苦しい。
頭や体に激痛が走る。
点滴がどんどん入っていった。
2本目がつながれた。
2本目が半分くらい入った頃、首の締め付けがゆるんでいくのを麻子は感じた。
(息ができる感じがする)
看護師が様子を見にやってきた。
麻子はトイレに行きたくなった。
けれどまだ目を開けることができない。
麻子は顔をタオルで押さえたまま、看護師にトイレまで連れて行ってもらった。
2本目が終わる頃、麻子はふっとまぶしさを感じなくなった。
タオルを外して、麻子は目を開けた。
目が開けられる。
首を締め付けられた感覚も消えている。
息ができて、苦しくない。
そして、痛みがなくなっていた。
点滴を繰り返すことによって、激烈な症状が麻子から消えていた。
(やっぱりこの病の症状だったんだ・・・)
看護師がやってきた。
麻子は楽になったことを報告しながら、
(がんがん点滴したら激しい症状が消える病なんて、
絶対この病を知らない病院だったら奇病か仮病に思われるかもしれない)
と考えていた。
「もう起きられるのでしたら、帰れます?タクシー呼びましょうか?」
看護師が麻子に勧めたが、
「いえ、自分で呼びます。ありがとうございました」
と麻子はベッドを出た。
患者がそのままいたら看護師も待機しなければいけない。
麻子は申し訳ないのですぐに処置室の扉を開けた。
漢方薬の火は、麻子の体でほんの小さく燃えていた。
その火ももうじき消えそうだと、麻子は感じた。
麻子は夜間受付で会計を払った。
真夜中だった。
始発まで交通機関は動かない。
財布の中を見た。
昨日は、病院へ往復して、薬局に行って・・・。
コンビニへ行く途中だった財布にはあまり残高がない。
(もっと降ろしておけば良かったな)
コンビニに寄ってと一瞬頭に浮かんだが、
コンビニで倒れた麻子は今再びコンビニに行く気分になれなかった。
残金内で帰宅するには、公共交通機関を使うしかなかった。
麻子は救急出入り口ではなく、病院の玄関へ向かった。
薄暗い1階で、患者がうろうろ歩いていた。
うつろな目をして歩いている患者が多い。
(ここにいるより病院外に出よう)
麻子は病院玄関を出た。
タクシー乗り場では、運転手が車を拭いていた。
麻子は近づいて言った。
「最寄りの駅まで」
麻子は駅で始発を待った。
空はまだ暗い。
駅の外では車が走っている。
麻子はコーヒーの缶を買って開けた。
(あの激烈な痛みが嘘のようだわ)
麻子はベンチに腰をかけて、駅の外を眺めた。
タクシーがある路地に止まっていた。
路地から女性が現れて、そのタクシーに乗り込んだ。
すると、また次のタクシーがその路地に止まった。
しばらくすると、また女性が現れてタクシーに乗り込んだ。
そして、また次のタクシーがその路地に止まった。
次々と女性が現れる。
水商売の女性のようだ。
きれいに着飾った女性が出てきて、タクシーを捕まえていた。
出てくるたびに、女性の服装が違う。
シックな服装の女性が出てきたり、派手な色合いの女性が出てきたり。
麻子は次にどんな女性が現れるのだろうと、興味が出てきて眺め続けた。
次に白いスーツの女性が現れた。手にはブランドっぽい紙袋をいくつも持っていた。
次の女性は、赤いブラウスに黒っぽいジャケット。
(さすがにおしゃれだなぁ。でも衣装代かかりそう)
麻子はふと自分の服を見た。
部屋着のジャージ姿。
化粧もしていないし、靴はスニーカー。
ふふふ、と麻子は苦笑した。
(服は要らない。健康が欲しいな)
麻子は昔周辺の救急病院から帰るときに裸足で困ったことを思い出した。
寒い雪の降る日だった。
看護師の人が古いスリッパをくれなければ、
パジャマ姿の麻子は裸足で雪の中を帰らなければならなかった。
(外出中に倒れて、結局この姿でよかったかも。
裸足とパジャマで始発を待つよりもましだもの)
そろそろ治療よりも自分の快復力にゆだねる時期が来たのかもしれない。
麻子は自分の通院の終わりが近づいてきたことを感じ始めた。
麻子は再びコーヒーを一口飲んだ。
始発が向こうからやって来た。
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