多くの方からサイト開設理由を聞かれたので

 

今回、『コンクリート』の件で私が真っ先に思い出したのは、有名なウルトラセブンへの抗議事件です。

「幻の12話」というのを耳にしたことがある方も多いと思います。

特撮に興味のない方には申し訳ありませんが、少しだけお付き合いください。

 

1970年、ある女子中学生が、弟が持っていた『小学2年生』の付録カードを偶然目にしました。

そこには『ウルトラセブン』に敵として登場する宇宙人の写真が載っており「ひばくせいじん」という

説明がついていました。少女はこれを父親に見せました。

女子中学生の父親はこれも偶然に、被爆者市民団体をやっていました。

全国的な抗議の声が巻き起こり、「被曝者を怪獣あつかい」という見出しが新聞に躍りました。

円谷プロは「被曝者が怪獣になる話ではない」と誠意を持って釈明しましたが受け入れられず、

やむなくスペル星人の登場する第12話『遊星より愛をこめて』を欠番としました。

これがいわゆる「ウルトラセブン幻の12話」と呼ばれるものです。

 

しかし実を言うと、「被曝星人」などという文句は番組の中には一度も出てきません。

円谷プロが本当にこの宇宙人に冠した名前は「吸血宇宙人スペル星人」でした。

「ひばくせいじん」は雑誌を出した小学館が、カードに勝手に書いた名前だったのです。

またスペル星人は確かに巨大化してウルトラセブンと戦いはしますが、ゴジラのように放射能で怪獣化したからではありません。

被曝などしなくともウルトラシリーズの宇宙人はたいがい巨大化して戦うことができるのです。

「被曝者が怪獣になる話ではない」という円谷プロの言い分はまったく正論でした。

また被曝者に対する差別発言など本編中にはもちろん、雑誌にも一度たりとも登場しません。

事実、『ウルトラセブン』本放送は抗議運動の3年も前の1967年ですが、その時は誰も抗議しようなどと思いませんでした。

原爆投下から22年しか経っていなかった時代、視聴率30%超のウルトラセブンを少なからぬ被曝者が観たはずです。

一度目に起こらなかった偶然が、二度目には発生してしまった。

この救いがたい偶発性がこの手の「抗議」というものの本質だと私は思います。

 

なぜ『コンクリート』は抗議を受けたのか。を未読の方はごらんください。

今回の件と似ていないでしょうか?

 

私は次のように考えています。

「フィクションへの抗議は、抗議される作品に特に非があって抗議されることは稀で、

むしろ単なる偶然によって引き起こされるものであることが多い。」

であるならば、今後いくらでも同種の事件が起こりうるわけです。

『ウルトラセブン』は被曝者団体、『コンクリート』はインターネットという違いはあっても

何らかの偶然で数の力と結びついて抗議運動へと発展することがあります。

『バトルロワイヤル』のように抗議が宣伝効果を生んでヒットする作品もあります。

そういった作品の製作者にとっては、抗議者はある意味ありがたいカモと言えるでしょう。

しかし、スペル星人のように本当に消されてしまう作品もやはりあるのです。

 

 『コンクリート』が名作であることを、私は正直期待していません。

 その辺の判断は自分で見るまで差し控えますが、試写を見たという人の評論は凡作・駄作というものが多いようです。

 しかし、それに対する非難の声の内容を「実際に見て」みると――現実に「駄作」でした。「駄非難」でした。

 

こういう人達に「補償として何も期待しないように仕向け」るとすれば、どうすべきでしょうか。

もちろん彼らは金銭的利益を得られると思って抗議したわけではありません。

ただ、正義に酔いたいから、とか、2ちゃんねるで祭りに参加したかったから、とか、

誰かを道徳的に見下して優越感を得たかったから、といった精神的な(≠善い)利益を求めていたのです。

 こういう場合、何の補償も得られない状態とは、達成感も誇りも得られなくなることだと思います。

 従って抗議活動が失敗することが望ましいでしょう。また、その批判的記録が残ることはより効果があります。

 

このサイトの活動が成功すれば、製作会社は利潤を得ます。もしかしたら映画自体の品質に見合わないほどの。

別に私はそのことは気にしていません。偶然によってお金儲けをした人がいる、そのくらい構わないでしょう。

 

 また、いつか表現の自由に関する別の問題が浮上した時、この記録が何かのサンプルとして役立つことがあったりすれば

 開設者にとってこれほど嬉しいことはありません。

 

ただし、私の行動理由を他の方に押し付けはしません。

それぞれの立場から参加して下さって結構です。