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 般若心経 気づきの言葉 
藤原東演

   般若心経       人生を変える「気づき」の言葉  藤原東演  成美文庫

一章 遠くを探すな、心を探せ 幸福とはなにか

・ 命が今あることに感謝することそが幸福の原点

二章 自分を捨てなければ「自分」は変わらない

   我を忘れたとき大切なことを思い出す~自我を捨てる

 恥をかくことを恐れず、仕事に打ち込み、なりきってやっていると、いつしか、仕事と自分が一つになっています。

三章 「苦しい」というおびえが苦を呼び寄せる~苦しみを乗り越える

   般若心経のスタートの経文テーマは、人生の困難をどう乗り越えられるのか

   観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五おん皆空 度一切苦厄

 本来の自己に目覚める修行を深めていきます。すると般若の智慧ですべての苦悩が人生の肥やしになっていきます。

四章 むなしくとも平然と生きる生き方~空じるということ

  「勝ちたい」「誉められたい」衝動が人生をむしばむ~色即是空

「舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識やく復にょ是」は、舎利子よ。五おん(自我)は、すなわち空、空はすなわち五おんなり

       馬鹿にされたくない、利口ぶりたいという分別、自我が働き、愚に徹しきれない。人にどう思われてもかまわない。心を空っぽしてしまう。空じるとは自我を離れて、全身全霊で仕事に徹することである。 ※無常無我

自我を空じなければ燃えることができない。燃えるためには愚さがいる。

五章 「見せる自分」ばかりが大きくなっていないか~本当の自分とは

   異なる二人の「私」がいるのは不自然か

 「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」

どんな人の心の中にも天使と悪魔、ふたりの私がいるのです。本当のあなたは、天使と悪魔のちょうど真ん中。そのことに気づけば、悪魔の衝動に負けることなく、天使でいなくちゃと無理することなく、自由な私でいられるのです。。

   ありのままの自分は強がる自分より強い~恐怖の正体

 今東光という破天荒な僧侶作家の不良少年時代のエッセイ「怖い、怖い、怖いことをぐっとこらえ…これが勇気ってものじゃないかと思っていますよ。」。   座禅で5分もすると足が痛くて耐えられません。先輩は「痛いときは痛いもんだ」とアドバイスしてくれました。座禅のとき「痛いときは痛いもんだ」と唱えることにしました。死ぬ時は怖い、苦しいと泣き叫んでもいいのです。ありのままを受け入れる行為は「般若の智慧」の働きなのです。 

   心が変わったときに世界もまた変貌する~無我に目覚める

 「絵描きになるなど、間違った妄想だ、ただ一人の人間であればいいのだ。」と洋画家の林は言っています。

   自分はつくるものではなく発見するもの~不生不滅

 「舎利子よ、この諸法し空相にして」とは、「今まで自分と思っていたのは幻です。その自分を空じることができたとき、わが身そのままの本当の自分が取り戻せるのです。

   生ぜず、滅せず

 苦楽や生死は、離れることができない人生問題です。わたしは「いただいた命だから、死を心配するより「今、ここ」を生き切りたい

   垢つかず、浄からず

 自我がある限り、人は過ちを犯すものです。自分の汚点を気づかしめるなにものか、「本当の自分」が働いている。忍耐強く反省をすることが大切です。

   「今ないもの」ばかりを渇望してはいけない~不増不減※とらわれない心

 ものごとの増減だけに幸福の物差しを置いていると、自我の欲望に振り回されますよ。本当の自己の幸福は増減にかかわりがないことを教えています。

六章 なぜ思いこみを信じて現実を疑うのか~認識の仕方をチェックする

   是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界

乃至無意識界

 この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識なく、眼も耳も舌も意もなく、色も声も香りも味も触も法もなし。限界もなく、乃至、意識界もなし

 無無明 やく無無明尽 乃至無老死 やく無無老死尽

 無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし

先輩の雲水は、おのれのなすべき仕事にただただ打ち込んでいる。お互い人生という二度とない人生という舞台に立っているのです。

何事も修(心のごみを掃く)行と思いする人は 身の苦しみは消え果てるなり 

   「無」の心得があるだけで人生はずっと生きやすい~無受想行識

 「無」とは、「今」「ここ」にわが身も心も投じて、投じている自分も忘れるまでの境地に至るまで徹しなくては不十分だと思いました。

 最近、緑ってこんなにキレイなんだ、山はなんて美しいと感じる。ガンは、ブラス面もある。がんイコール死ではない。

七章 確かな手ごたえをもって意識を変えていく~意識と無意識のコントロール

   理性ばかりが心の管理人になるのは危ない~十二因縁

 無明もなく、また、無明の尽きることもなし。乃至、老も死もなく、また、老死の尽くることもなし。苦の元凶はわが身に秘められた「無明」だと自覚された。①老死②生③有()他人と異なる資質を生み出す力のある「有」によって生まれ出るのです。⑫無明(迷いを支配かる根源力、潜在意思で判断を迷わせる。無明は、過去のよからぬ不快な記憶がよみがえってくる、過去の恨みや屈辱感から「こいつの言うことは認めたくない」ということが意識上にでてきて怒りが爆発するのです。この「無明」こそが人生の苦の元凶と釈尊は気付かれたのだと思います。

   憎しみで無意識が占められていないか

 この無明を闇の衝動と表現し、人間の恐ろしさを告発したのは、哲学者の梅原猛です。「ふだんは理性で抑えているが、いつかは、われわれを離れて、狂気の沙汰を演じるのではないか。」

   よい行いがよい人生をつくるという確実な証明~座禅の効用

 よい行いは、よい種子が阿頼揶識に蓄積され悪い行いをすれば、悪い種子(嫉妬、疑心、屈辱感、怨念)が蓄えられ、無明、心の闇となって何かの拍子に意識の世界に現れるのです。これを除くのが座禅です。

八章 今を磨く、ここに生きる、自分を満たす~楽しんで生きる

   「この世で確かなものはあると思うか」~無苦集滅道

 苦しみを克服する道(方法) 今、ここ、自分を大事に生きる

・ 予期せぬ状況ら打ちのめされそうになったら~心身脱落

 数息観という座禅の呼吸方法、「ひとー」と数えながらゆっくり息を吐いて、「つー」と空気を吸って「十ー」まで、繰り返す。「今日は楽しんでやろう」「どうせやるなら楽しくやろう」「よし専門家になってやろう」

楽しくの上に草冠をつけると薬になる。楽しむことが身体と心の一番の薬ですょ。苦しんでもあせらず、柔軟に苦と歩いていけばいいのではないか。

   自信を過信にしない生き方~無智やく無得

 ギリシャの賢人ソクラテスは、「この男は、知らないのに、何かしっているように思っているが、わたしは、しらないから、そのとおり、知らないと思っている。

   「わからない」と知ることで理解は深くなる~以無得故

 心の泉の音に耳を澄ますと、それが道しるべになった場合が少なくない。泉はいつも「お前は、人にも、おまえ自身にも誠実であったか」と問いかけてくる。わたしは、心にいたみを感じ、だまって頭をさげる。

九章 不安な日々にはもう戻らない~人生の恐れと不安について

   やたら不安がる人の根本的なまちがい~心無圭礙

 「菩提薩菩垂は、般若波羅蜜多によるが故に、心に圭がいなし、圭がいなき故に、恐怖あることなく、一切の転倒夢想を遠離して涅槃を究境す」

 圭がいとは、本当の自分を覆って、網にかけて、煩悩となってその働きを邪魔するということです。大きな幸福が圭がいで、家族そろって食事ができ、他人ともお互い助け合えることです。ブータンの人は、あるものに感謝することと考えているようです。足りるを知る教えを保持しています。

十章 一生かかっても会いたい人~本当の自分

   なんのために生きるのかは自分で決める~般若波羅蜜多

 「三世諸仏も般若波羅蜜多によるがゆえに、阿のく多羅三みゃく三菩堤を得たり」本当の自分に目覚めることこそ生まれてきた人間の使命である。

   ゆるがない自分をつくる言葉群

 本来の自己に眼覚めたときの喜びの歌です。「じゅもん」(信言)が登場します。

故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神しゅなり、これ大明(無明)しゅなり、これ無上(無上の真言)しゅなり、これ等等(比べるものがないすぐれた真言)しゅなり、よく(人生)の一切の苦を除き、(般若の智慧は)真実にして虚ならざるが故に。般若の智慧の完成の真言を説くにしましょう

ぎゃてい ぎゃてい(取り除く) はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか はんにゃはらみたしんぎょう(いった いった 彼岸に行った 完全に行った 悟りは成就された めでたい) 本来の自分にめざめれば、心は安らぎ、活き活きと生きられる、こんな幸せはないでしょう

 
     
     
     

   般若心経のこころ   百歳で般若心経 松原泰道 抜粋

第一 歌

1  散ればこそ花はめでたけれ   

2  見ずや君あすは散りなん花だにも 力のかぎりひとときに咲く(九条武子18871928)

   無常、無我であればこそ、形あるものが出てくる

3 世の中は三日見ぬうち桜かな 大島鬼城  般若心経は虚無感を否定する

4 舎利子見よ 空即是色 花盛り 小笠原長生(18671958)  空であればこそ花が咲く

5 骸骨の上を粧うて花見かな 上島鬼貫(16611738) 関西の松尾芭蕉 

娘もやがてはむくろとなり果てる運命にある

6 青梅はその骸骨の実りかな 俳人 机月

7 楠千年さらに今年の若葉なり 荻原井泉水(18841976)

   千年育った葉はない。断続があって永遠があるのです。今年の若葉にせよ、人の一生にせよ、はかない生命が今ここに生きているところに般若心経の意味があるのです。

第二 意味

1       大いなる智慧の真理を把握する肝心な教え

2       相手になりきってみるという観察の修行をされ、観察が自由自在にできるという修行の人格化された「観自在菩薩」が、空の真実を把握する修行をするとき、五蘊「色・受・想・行・識」をもつ人間そのものは、みな空(①零②無常③無我)なり。決して苦しみがなくなるわけではありませんが、その苦しみにとらわれないと安らぎが生まれます。

3       舎利子よと観自在菩薩が呼びかけます。色は空と異質ではない。迷いと凡夫とは異質なものではありません。空であればこそ色である。無常、無我であるからこそ、目に見えるものがあり得るのです。変わっていかないものは何一つない。動いているとも見えず動いていく谷の水のごとし。

4       舎利子よ、森羅万象はみな空の相(すがた)である。生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず。(不とは、かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろく、ひろく、もっとひろく)生と滅はどこでもありますが、それにとらわれなかったら「生と滅」はあってもないと同じことです。この故に、空の中には色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意(六根)といった認識作用もなく、限界もなく、ないし意識界もない。

5       無明(縁起がわからない)もなく、無明の尽きることもない。乃至、老も死もなく、また老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また得もなし。十二縁起の最後が「老死」ですが、生にも老いにも死にもとらわれずに、それらを超えていくということです。病気も同じです。仏教の思想はすべて比べることは迷いのもとだといっています。老も病気も一生涯の欠かすことのできない一日です。雨の日は雨の日の生き方を工夫し、老死にもひきずりまわされることはありません。

                 -1-

6 四諦つまり、苦(この世は苦)も集(苦の原因は執着)も滅(無常と執着を超える)も道(八正道、

正語などの実践徳目)もなく、これらにとらわれないことです。その結果、ただ現時点の

自分になりきることです。いずれは老いていき、死ぬ時は何もかもすてていかなければ

成りません。自分の体すら自分の思うようにならない預かりものです。

7      自分もない、何一つないということもない。この「無所得」というのがわかるのが「般

若の智慧」です。こころに恐ろしいことは何もありません。一切のあらぬことをいろいろ想像して迷う人生観を遠く離れて、永遠のいのちに目覚めるのが悟りで、心のやすらぎを得ることができるのです。過去・現在・未来を通じて永遠に真理が存在するのです。智慧の完成によって無上の正しい悟りが得られるのです。免許皆伝というのは、仏教にはありません。釈尊は悟りを得られながら亡くなるまで修行を続けられたのです。

8      故に知るべし、「般若波羅針蜜多」という智慧の完成は、そのこと自体に大きな神秘の

働きがあります。大いなる悟りの真言、無上にて無比なる真言は、一切の苦を鎮めるもので、偽りでなく真実である。その真言は、知恵の完成によって次のように説かれた。

9 ガテー(取り除く) ガテー(取り除く) パーラガテー(他の執着を剥ぐ) パーラガテー(他の執着を剥ぐ) ボーディスバァーハー       (自他ともに悟りを円満に成就しよう)

  この真言を、玄じょう三蔵(中国唐代の僧、600洛陽に生まれる。大般若経を後世に残した)は、翻訳しませんでした。「往けるものよ 往けるものよ 彼岸に往けるものよ 彼岸にいけるものよ さとりよ幸あれ。ここに 智慧の完成の心を終わる」と中村元博士は翻訳している。

                   -2

     
     

   般若心経 人生は必ずうまくいく 迷いがなくなる「空」の人生観 公方俊良

   宗教とは大元の教え、二度とない自己の人生をどう生きるかという明快な指針を示したのが大乗仏教を代表する経典のエッセンスである「般若心経」である。

   わすか276文字の短い経典の中に、仏教の真髄がこめられている。大般若経300万字を一万分の一に凝縮したエッセンスです。

   「現代語訳」

 観世音菩薩は、真実に目覚める智慧の行を究められて、身も心もみな空であることを悟られ、一切の苦しみから救われる道を示された。

 舎利子よ、形あるものは空であり、空が形あるものを構成している。

 したがって、形あるものはすべて空であり、空がもろもろの形あるものとなっていて、感覚も、思いも、分別も、認識も、これと同様である。

 舎利子よ、この世の一切のものの真実の相(姿)は、皆空であって、生ずることもなく、ななることもなく、垢()れもせず、浄()らかにもならず、減りもせず、増えもしない。

 故に、空が構成する実相の世界では、形あるものはなく、感覚も、思いも、分別も、認識も、なにもない。

 そこには、眼も、耳も、舌も、身体もなく、心もなく、また、形も、声も、香りも、味わいも、感覚も、心の作用もない。

 眼に見える世界から意識の世界までもない。

 無明もなく、無明の尽きることもなく、老死もなく、老死の尽きることもない。

 また、苦も、苦の原因も、苦のなくなることも、苦をなくす道もない。

 さらに、教えることもなく、悟りをうることもない。

 このように、何も得ることがないということを、菩薩は真実に目覚める智慧によって、あるがままに見ることができるから、心に障りがない。

 心に障りがないから恐れることがない。

 したがって、いっさいの迷いを離れて心のやすらぎに至るのである。

 三世の仏たちも、真実に目覚める智慧によって、完全な悟りを成就されたのである。

 ゆえに、真実に目覚める智慧である般若波羅蜜多の教えは、大いなる霊力をもったことばであり、この上ないことばであり、他に比類のないことばである。

 したがって、いっさいの苦厄(やく)を除き、真実にして虚しさがない。

 そこで、真実に目覚める智慧に至る呪文を説こう。

 すなわちその呪文とは

「行こう、行こう、真実の世界へ行こう、みんなでともに行き、仏の悟りを成就しよう」

知恵と真髄の教えを終わる。

                -1-

   あるがままに受け入れることが思うままに生きる第一歩

般若心経は一言でいうと智慧の教えと言える。般若とはサンスクリット語デ「プジュニャー」で、無常つまり、あらゆるものは変化し移り変わるという法則です。

生老病死をそのまま受け入れることです。

   たくさんの人が考え抜いた結論を尊重する

釈迦が入滅した800年後の三世紀末ごろ作られた。

   人生もキャッチコピーをつけると理解が進む

摩か~梵語のマハー、偉大な、思料を絶するほどすばらしい般若波羅蜜多の教え。

   困難は過ぎ去るという確信を持つ

波羅蜜多~梵語のパーラミター、パラマは最高・究極・完成した状態、「智慧の完成」と訳している。日常生活に遭遇する災厄から逃げることなく、迷いや苦難を心の安らぎに転じる智慧。

   幹と枝葉をはっきり分ける

 心経は核心の教え。正しい悟りに至る心経である。悟りに至る六つの実践徳目は、六波羅蜜(六つの完成)は、布施、持戒、忍にく、精進、禅定、智慧である。この智慧の完成こそが悟りの要である。

○  心経の原点「大般若経」はどう読まれたか

   一会から五会までは、釈尊が霊鷲山で説法する形、内容は空の理法を悟ること。空の生き方を実践すること。大般若経は通読するだけで一日では終わらない。漢訳者の一人が「玄じょう三蔵法師」。慈悲の経典が「法華経」。

○  「これだけは絶対…」という思いを見直す

   観自在菩薩は、観察することが自在な菩薩という意味。世の中一切のものは空であるという道理を悟り、なにものにもとらわれない自由自在な心境に到達したのです。

○  「自分は」を「自分も」と置き換えてみると?

    行深般若波羅蜜多時とは、智慧の完成の修行を究められてという意味です。世のため人のために志をもち、願を立てて行じ続ける生き方こそ菩薩行です。

○  心の「変化パターン」を知っておこう

   「照見五蘊皆空」とは、身をもってすべて空であることを見とおされたという意味です。色(肉体)、受(キャッチして感受すること)、想(思いにとらわれる)、行(とらわれた思いにかかわっていくこと)、識(是非善悪を認識すること)、元首相広田弘きは、「風車 風がふくまで 昼寝かな」という句があります。あるがままを楽しむ、身の処し方といえましょう。

○  「いやだどやる」ことを増やさない

   照見五蘊皆空とは、自らの人生や仕事に打ち込み徹底できたとき、体も、思いも、とらわれも、すべてが解き放たれる。(炎天下の野球は必死になって楽しんでいる。好きに真剣に打ち込み、暑さ、苦しみ、辛さはどこかえ飛んでしまうということです。)

○  苦難は悪だと決めつけない

   「度一切苦厄」とは、あらゆる苦しみや災厄から救われる道を示されたという意味です。一切の人のために苦悩するのが仏の大悲であるのにそれを免れてどうするかということです。自分の中にもあるこの菩薩心を育んでいるか自問したいものです。

○  「考えていたこと」にすぐ着手してみる

  度とは、迷いの世界から悟りの彼岸に渡ること。

○  「思い込みかも?」を思考に組み込む「色不異空 空不異色」

   形あるものは空であるとは、形あるものは絶えず変化し、やがて消滅し空に帰するという意味です。「空であるものが形を構成している」とは、ところが、いっさいのものは、ちゃんと存在しています。マイホームも貯金も形があります。あることもないことも、いずれも心のとらわれかたにすぎないという教えです。石にも太陽、草木にも川のも心があるというのが仏教の発想です。

○  否定するときは徹底して否定しよう「色即是空 空即是色」

   形あるものは空であり、空が形あるものとなっているという意味です。

   般若心の教えの要であり、空の思想を代表する一句として有名です。たとえば、両親がいなければ私は生まれなかった。十五代遡れば三万二千七百六十八人の親がいる計算になります。この中に一人でも欠けていればこの私の影も形もないのです。加えて、自分を支える人となるとまさに無量の数になります。膨大な食物。水、空気と太陽、衣、住、医療、何億という細胞の一つが欠けても重大な影響があるかも知れません。それ自体で存在するものは一つもないということになります。空の思想によって、さまざまな縁によって、生かされ生きている自己の存在に気づかされるのです。

   隠れた「完璧信仰」から抜け出す

 「受想行識 やく復如是(ぶにょぜ)とは、感受も思いめぐらすことも、認識することもこれと同じ空ですよ。株がもうかる、おいしいという感覚も、つきつめれば実態のないものです。

   「いつでもある」という感覚を捨ててみる

  「是諸法空相」とは、このようにすべての事象の真の姿は空である。幼いころの懐かしい思い出などは、思い出した一瞬だけで、思わなければ、なにも存在しない。この世から去れば、自分の心の鏡もなくなってしまい、一切を映し出すことはないのです。

執着、とらわれ、過去の思いから離れ、自分の置かれている今の場を喜び、今の仕事や人生に全力投球して生きる、こだわりのないさわやかな生き方がまっとうできるようになります。

  一休禅師(13941481)の句、「生まれきて その前世を知らざれば 死にゆく先は なお知らぬけり」、「生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も」と詠んでいます。死を恐れようと、泣きわめこうとどうにもなりません。生きている今を悔いなく生きることしかないでしょうか。死後、極楽にいけるように仏を頼む

のは、はかないものです。般若心経は輪廻転生を否定しているのです。

   常識論を「不」をつけて再考する

 「不生不滅 不く不じょう 不増不減」とは、生じることもなく、なくなることもなく、汚れもせず、清らかでもなく、増えることもなく、減ることもないという六不の教えです。お金、土地、地位、快楽は、すべていつかは失う、不安定なものばかりです。実体がないからです。六つの欲求にとらわず、空じましょうというわけであります。

   無心の効用を何度も確認しよう

 「是故空中 無色無受想行識」とは、このゆうに、空が構成する実相の世界では、肉体もなく、感受し、想念し、分別し、認識する心もないということです。好きな仕事、責任を持っている仕事は机に向かっても、心の中に不平不満がなく、充実感にあふれ、疲れすら快く思われます。無身と無心の生き方が日常のすべてに及ぶとき、人生を楽しんでいる生き方です。

   表面的な区別に足をとられない

 「無眼耳()()舌身意 無色声香味触(そく)法」とは、眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、心もなく、形も、声も、香も、味わいも、触覚も、心の対象もないとなります。

 眼などの六根と色などの六境が対象をとらえる。面白い、楽しい、悲しい、さびしいなど心の対象をとらえていく。差別と比較、対立を空じていき、表面的な区別にとらわれない。

   幸福も不幸も「人生」としてとらえる

 「無眼界乃至無意識界」とは、目で見て意識する世界から、心で感じ認識する世界まで、なにもない。三猿の図は、いやなことは見ないように、嫌われることは言わないように、不快なことは聞かないようにすれば、楽しい暮らしができるという処世訓です。

死ぬる時節には死ぬがよろしかろう。

   潜在意識の力はどう活かせばいいのか

 鐘を仏と敬いながらつきました。

   いったん否定したことを再検討する

 「無無明やく無無明尽」とは、無明もなく、無明の尽きることもなくという意味です。自分勝手な誤った見解は諸々の煩悩を発生させます。無明とは、人生や真相に無知であることです。

   恐怖を解決する「パスワード」を持つ

 「無老死やく無老死尽」とは、老い、そして死んでいく、私たちの定め。

   迷いが深まる原因を特定する

 「無無明…乃至無老死亦」、つまり愚かな思いをなくせば、無行、つまり愚かな行いもなくなり、無老死、つまり苦悩もなくなると受け止めれば、後悔のない人生を歩むことができます。

                                   -4-

   行動のガイドラインをつくっておく

 「無苦集滅道」とは、苦しみも、苦しみの原因も、苦しみのなくなることも、苦しみを離れる方法もないという意味です。苦集滅道を四諦という。苦諦は、四苦八苦があって人生は思うようにいかないということです。集諦は、欲と愚かさという煩悩がより集まっていることです。滅諦は、欲と愚かさを滅却することです。道諦とは、滅却するためには、八正道を実践することですと具体的な指針を示しています。①正しいものの見方②正しい考え方③嘘をいわず正直に話す④正しい行い⑤正しい生活⑥正しい努力⑦正しい目標⑧心を正しく保つ。

   小さな実践を軽視しない

 四たいの教えを思わなくてもちゃんと行われることです。サッと拾ってゴミ箱にいれる。

   「考えた」で終わりにしない

 「無智厄無得」とは、言葉にとらわれ、理屈ばかりこねまわしたのでは、道理に目覚めることもなく、道理を会得することもないということです。空海は、理屈をいうとかえって迷いを深める。仏の言葉であるからただ心経をよめば悟りにいきつくことができるとしている。一字の真言には千の意味がこめられている。

   人と比較する心をまず静める

 「以無所得故」とは、ものごとはなにも得ることはない、物心ともに執着のない爽やかさをいいます。得ることがなければ、失うものがない。失敗もなく、心の平安を得て、真実の幸せが実感できるのです。人は裸で生まれ、裸で死んでいきます。石ころ一つもあの世に持っていけません。あるもので満足していくことができるのです。

   自分が動くことで人を動かす

 「菩提薩垂」とは、徳のすぐれた、悟りと情けをともに備えた人を意味する。日本では八幡神と結びついた八幡大菩薩が有名です。池を埋め立てる寄進もなく、参道にしたいのですが困っています。自分一人で始めた。村人も手助けをした。これは菩薩である。

   「純粋な心」の力を知る

 「依般般若波羅蜜多故」とは、真実に目覚める智慧によってという意味です。強盗に入られてご飯を馳走した。相手を救わずにはいらせない大悲心。

   欲望を成功源に使おう

 「心無圭礙」とは、こころにある108の煩悩に引っかかることはない。

   困ったときは大局から自分を見る

 「無圭礙故 無有恐怖」とは、心にさわりがないので恐れることはないという意味です。

   人を突き放すポイントを決めておく

 「遠離一切転倒夢想」とは、一切の迷いを離れるという意味です。大根の葉をそのままにしてしまった。今日限りこの寺を出ていってくれ。      -5-

   自信と過信を注意深区別する

 「顛倒夢想」とは、誤った思い、家の家族もお金も縁もいまのままで永続的にあると感じてしまうことをいいます。人生は思うように、自分は結構賢明だ、自らに執着する

これらを四顛倒といいます。平 清盛は、外孫を安徳天皇にした。64歳で死亡、4年後に平家滅亡。世のため人のために生きるという人生のロマンを大切にしたいものです。

   霊魂の存在を般若心経はどう考えるか

 仏教は、基本的に、無我の立場から、魂の存在を否定します。インドの民衆信仰に輪廻転生という霊魂の考えが仏教に入ってきた。チベット仏教は霊魂の存在を肯定しています。中国の先祖信仰では、亡霊を鎮魂する儀式があり、死者の霊が浄土に往来するという浄土信仰に結びつくのです。

   仏陀は現代にも出現するか

 「三世諸仏 依般若波羅蜜多故」とは、過去、現在、未来の仏たちも、真実に目覚める智慧によってという意味です。釈尊の説かれた真理を、不滅の身である仏として呼ぶのです。太陽が照り、空気があり、雨が降って水をもたらし、植物や動物が生成するというように、天地自然、宇宙のすべてが仏の働きということができ、身近に存在するのです。肉体は滅びてもその徳や救いのはたらきはこの世に残る。しかし、目で見えないので仏像を作り、祈り念じるのです。

   過去仏とは? 未来仏とは? 

 過去仏は紀元前1000年ころから釈迦が誕生した紀元前5世紀ごろまでのバラモン経の聖者、六仏でしょう。釈迦が七仏。547000万年ののち弥勒菩薩が人々を教化する。

   なぜ般若心経にはナマの言語が残っているのか

 「得阿のく多羅三みゃく三菩提」とは「完全な悟りを成就されたという意味です。梵語を漢字にあて音写し漢訳せず、原語のままにし、仏の言葉としてそのままのこす。

   「自分原因説」に立ってみる。

 「般若心経」は、「無智やく無得」、知ることも得ることもないと説きました。悟りは本来自らの意志によって得られるものではない。迷い、煩悩を離れれば悟りは成就する。

   「本当の知は無知に似る」という逆説を使う

 「故知般若波羅蜜多」とは、故に真実に目覚める智慧の教えはという意味です。

   いくつかの言葉を深く信じる

 「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」とは、これは大いなる霊力をもったことばであり、明らかなことばであり、この上ないことばであり 他に比類のないことばですという意味です。呪(しゅ)は、梵語でマントラで、真言、神呪、蜜呪とも訳され、真実にしていつわりのない言葉という意味です。腹痛は「アビラウンケンソワカ」ととなえると痛みがなくなる。短気な西有禅師は、「オンにこにこハラタイマイゾヤソワカ」

   疑うことより畏敬を重視しよう

 「大神呪」とは、人々に信仰されている自然神のことです。仏教も、バラモン教の神神である帝釈天などを神々に取り入れました。ヒンドゥー教の大黒天なども仏教を守る守護神として取り入れました。神は人間より霊力があり、六道輪廻の最高の段階である天上界に住んでいます。

   学び心をかき立てるツールを持つ

 大明呪の「明」は、真理に目覚める智慧、「無上」と、この上なくすぐれた、「無等等」は、他に比較するものがないほど尊いという意味です。

   快楽に深入りしない

 「能除一切苦 真実不虚」とは、よくいっさいの苦を除き、真実にして虚しさがないという意味です。快楽を追い続ける限り、人生は苦になるという教え。真実不虚とは、この世でたった一つの真実であるから、信じて虚しさがないと示したのです。

すべてこの世は、人為的なものであれ、自然なものであれ、有限で相対的である。

   「元は同じでは?」と常に問いかける

 「故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」とは、そこで、真実の知恵に目覚める呪文を説こう。すなわち、呪文を説いていうにはという意味です。空と現実とは本来一つのものを錯覚して別のものとして混乱している。

   「みんなで」の気持ちを忘れない

 「ギャてい ギャてい 波羅ギャてい 波羅僧ギャてい 菩堤薩婆か(ぼうじそわか)

とは、行こう、行こう、真実の世界に行こう、みんなでともに行き、仏の悟りを成就しよう。座禅をして心経をからだ全体で受け止めたとき、空が得徳できると説いている。

   空とは無心に生きる

 お茶をだされればお茶をのみ、食事のときは、あるがままに食事をするだけのことです。

   とらわれずに生きる

 無も空も不も大差はない。てずれも一切否定、空の教えに帰結するのです。空は、梵語で、シューニヤといい、~を欠いていることを意味する。インドの無名の数学者がゼロを発見した。初期仏教では、空虚、欠如、今日は、有でもなく、無でもなく、しかも有であり、無であるという解釈である。あればあるように、なければないように、なにものにもとらわれないものの見方考え方をいうようになった。

   死を恐れずに生きる

 空とは生死にとらわれない生き方と言えます。織田信長に焼き討ちにあった快川和尚は、座禅し「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」、仙崖和尚は臨終に際して「死にとうない、死にとうない、ほんとうに、ほんとうに」

   喜びに満ちて生きる

 臨済宗の祖・臨済義玄のことばに、「随処に主となれば、立処みな真なり」置かれた立場で主人公となり精いっぱい頑張り満足する人だけが、やすらぎの人生を送るのです。

   思慮深くいきる

 釈迦の教えをまとめたのが経典。空の思想は、人々の執着を絶つための手段であり、無執着の実現を目指すものです。

   心に虚無を住みつかせないために

 あることも、ないことも離れて、苦行主義と快楽主義の中道を説きました。仙人のような者もいるが、そんなやつは人間ではない。

   「ああ、ままならない」と泣かないために

 人生は、究極は、幸せに生きたいということではないでしょうか。幸福の基盤は、生活を支える充実した仕事を持つこと、健康な家族と明るい家庭でしょう。これらがいつまで続くか分からないのが世の道理です。人生は思うようにならないですよと仏教は諭し、一切の転倒した夢想を避ける道を説いています。

   人から受け入れられていると実感するために

 生きがいとは、誰かのために生きることです。余った水をそこらにまき散らしても生きてこない。草木にやれば草木も水も生きてくる。

   なぜ般若心経は奇跡や天地創造をいわないのか

 今この世でもっとも不思議な現象は、いま自分が生きていること、呼吸をし、心臓が脈打って血液が全身をかけめぐり、欠かさず新陳代謝を繰り返し、物を見、声を出し、思いをめぐらす頭脳をもつという自分の存在ではないでしょうか。

   信念をしっかりと持つために

 浄土宗と浄土真宗は他力本願「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえるだけで修業も必要なし。般若心経は、一切空という悟りを開くことで人皆が仏になれるという教えですから自力であるといえましょう。一神教は人は絶対に神になれない。

   悪のはびこる現実と対処するために

 石川五衛門「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ

   仏教はなぜ衰えたのか

 キリスト教37.5%、イスラム教19.4%、ヒンドー教17.5%、儒教11.2%、仏教9.8%

でインドでは13世紀に仏教は滅び、中国では社会主義政権になって仏教は退けられました。衰えた理由の一つは6000巻以上の経典の多さです。内容に統一性がなくあいまいです。そんな中で、大乗仏教の核心を説く般若心経に出会ったのです。

   どの宗教を信じても結局は同じではないのか

 聖書は「愛」、コーランは「戒め」、般若心経は、ひとしく皆をやすらぎの境地に導く最高の「智慧」の教えである。

   揺るぎのない「自分」を確立する

   神も仏もなんでもアリはご都合主義ではないか

 神道(自然崇拝、先祖信仰、般若心経の空と共通する、理屈を言わないことを本旨とする)と仏教は、日本人の心を育てた車の両輪なのです。       -8-

   宗教に欺かれないために

 精神科に「前世は釈迦だった」という救世主妄想病の人が一人や二人います。信仰宗教の教祖によくあるタイプです。家族の絆を絶つ宗教、奇跡や霊を売り物にする、やたらと御カネ布施を要求する宗教は危険です。

   「般若心経」を読じゅすると「功徳」は本当にあるのか

 仏典は、生命と宇宙の真理を説かれた、この世で最善のものです。善因善果、悪因悪果。般若心経で現世利益(家族のこの世での幸福など)という功徳は可能です。

   どんな「善運」に恵まれるのか

   犯した過ちは消せるのか

   お守りに効果があるのか

 楽な生活と長命がかなう。

   「祈ればかなう」はウソっぼくないか

 ここに心経一巻を書写し、慎しみて日本国永遠の発展を祈念し祭る 佐藤栄作願文

 目標に向かって実践を促す。

   「とむらう」とはどういう作用か

 しょうつき命日、開経偈、般若心経、施食文、回向文

   欲の「方向」を少しだけ変えよう

 欲張ってつかんでばかりで嫌われるし、かといって施しばかりでも成り立たない。

 経営者は儲けては施し、施しては儲ける

   性の悩みに「水路づけ」をしておく

 男女の差別をも空じていく境地に至ることが般若心経の空の考え方です。

   「今ここ」で幸せになろう

 あるがままに生き、あるがままに死んでいく。ながい間、看病していただいてあのがとう。

                   -9-

     
     

お経の意味がよくわかるハンドブック  松涛弘道(まつなみこうどう)PHP

序章 お経は誰のためにあるか

死者をともらい、同時に生きているわれわれのためにある。お経とは、今から約2500年前にインドでうまれて、人間の真実の生き方を悟った釈迦の教えを指したものです。

第一章 なぜお経が生まれたか?

(1)   仏の教えを説く「お経」の内容とは、仏となった釈迦の教えで、釈迦の創造物ではなく、その言葉を通じて「宇宙の摂理」(真理)を語ったものです。

(2)   お経に説かれた仏教の基本的教えとは、「四苦八苦」の原因をとり除くために「涅槃の境地」(仏の世界、この世の無常、無我の世界から超越した浄らかな悟りの世界)四苦(生老病死)八苦(加えて、愛する者との離別、嫌いな者とも会わねばならない、求めるモノが得られない、求めなくとも得なければならない苦しみ)

第二章 お経はわれわれの人生の指針

(3)  いろいろある「お経」の特徴は、釈迦をはじめ数多くの「仏」(釈迦以外にも宇宙の摂理をを悟った人たちも「如来」といて尊崇)がわれわれにはたらきかけてくる。

・ 歴史上の人物である釈迦如来

・ 宇宙の摂理、本体である大日如来

・ 宇宙の摂理のはたらきである阿弥陀如来

(4)  われわれにとってお経とは、われわれがよりよく生きるための指針で、聞きての問に答えるべく誰でもわかるように説いた言行録である。

第三章 読経の始めに唱える文

(5)   仏の世界に向かう「三帰依文」、いすれの宗派でもこの「三法」の教えをお経を読む前に称える。釈迦()とその教え()、それに従う集団()を敬う。後世の仏教者は仏像と仏画(仏宝)、お経(法宝)、僧侶(僧宝)をも敬う対象にしてきました。鎌倉時代の道元は「仏は大師なるがゆうに帰依す、法は良薬なるがゆえに帰依す、僧はすぐれた仲間なるゆえに帰依す」と述べている。われわれが本来の自己に忠実になり()、自分のこの世でなすべきことを確実に行い()、周囲から信用、尊敬されるように誠実に生きること()です。

(6)   自分の心身を正す「」懺悔文」、浄らかな心を保つ必要から。今日までなした悪行は、みな貧(とん、むさぼり)、怒り、無知の三毒()による。まともな人間になるよう悔い改めることを誓います。孔子も「過ちて改めざる、これを過ちという」と喝破しています。罪は、社会への奉仕でお返しすることが大切です。

(7)   読経のプロローグ「開経偈」、読経を始める前に、この一文を称える。

第四章 世の中の真実を示すお経

(8)   この世のありようを示す「般若心経」、紀元前後にインドで作られた「空」を説いたお経。…最後の老も死もなく、老と死がなくなることもありません。苦も苦の

               -1-

原因も、苦を滅することも、苦を滅する道もありません。… 偉大な知恵を得るための真髄を説くお経。般若(真理)とは自他へのとらわれを捨てた境地。お経の最後「生き往け、生き往け」とは、寿命が尽きる最後の最後の瞬間まで心身ともにはたらき続けることをいいます。その後は宇宙の摂理、仏、天命にまかせることです。

「いつまでもあると思うな親と金」、仕事に成功、結婚してもそこで安心するなということです。

(9)   仏と一体となる「舎利礼文」、釈迦の遺骨を尊崇するとともに、愛しい故人の遺骨をも讃える。仏の遺骨の本体である法心(宇宙の真理)を表わす仏塔を心から礼拝します。さらに人がなくなると「仏」として崇拝するようになりました。エジプトでは、ピラミット王の遺体を祀りローマ時代には遺骨崇拝が一般化しています。

(10)  永遠の仏を讃える「自我偈」、「妙法」とは世の中を色メガネ、偏見にとらわれないで、本当の姿をありのままに観ることを指しています。「蓮華」というのは、すべての人には汚れの多い俗世間にあっても、「仏性」がそなわっており、仏を念ずれば救われると説きます。日本では、先祖をもホトケと呼んでいます。大乗仏教では、「仏」を如来という。釈迦は方便として入滅したのであり、この世で現にはたらいているというのです。

第五章 人生にやる気をもたらすお経

(11)  すべての人を救う「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」、「普門」とはすべての人を救う入口を意味している。観世音菩薩は、いかなる苦難に遭っても、救いの手を差し延べてくださるという。悪人かに追いかけられて逃げられず、崖っぷちから墜落しようとするとき、観音様の力を念じるならば、負傷することはないでしょう。

観音とは、この世のあらゆる悩みや苦しみを「観」聞き届けて救ってくれる宇宙の摂理をさします。江戸時代の白隠禅師が「衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求めるはかなさよ。たとえば、水の中にいて、喝を叫ぶがごときなり」とのべているように、観音様は実はわれわれ自身の中にもはたらいているのです。お経は読まれる経典があってはいれない。すなわちこころの中に自分と他がなくなる境地、つまり一体となるべきだといっている。観音様は33の姿に変身してこの世にあらわれます。あなたの周囲の人や自分自身に勇気と知恵、慈悲を感じる時、そこに観音様は実在しはたらいているのです。

(12)  「観音経」のエッセンス「十句観音経」(じっくかんのんぎょう)42文字で観音経を要約したもの。もろもろの悪をなさず、よきことをなし、自らのこころを浄めることがこころの教えである。

(13)  使命感をうながす「四誓偈」(しせいげ)、仏になるまえの法蔵菩薩が、ずての人を救うまではけっして自分だけが救われて極楽に往生しないという「四つの誓を立

                                    -2-

てた文です。①人々を救うために48の願を立てること ②貧苦にあえぐ人に財と仏の教えを惜しみなく施すこと ③自らの名声がすべてに行きわたること ④自らの智慧の光が人を照らすことです。人生に目的がなくても生きられます が、自分にできそうな宿題を課し、実行することが生きがいにつながるのではないでしょうか。

(14)  求道者の生き方を示す「修証義」(しゅしょうぎ)、明治時代、道元の「正法眼蔵」を要約し、仏教の教えを一般に広めるたに作られたもの。救道心を起こすとは、自分が仏になる前にすべての人を救おうと誓い、努力実行することです。

菩薩の誓いを行うべきこと、他を利益するには四つの利他行があります。①むさぽらない布施の行、②慈しみのことばをかける愛語の行、③恩を着せない利他の行 ④すべての人と一体化する同事の行です。布施とは無条件で損得を超えて相手に施し、喜んでいただくこと。一本の草花でもを施すことで徳を積んだことになります。ひとづてに愛語を聞くときは、魂に響くものです。優越感や劣等感に浸る人に対し平等に接し、相手を救おうと心掛けること、人の役に立つ生き方をすることです。

    同事は、相手も自分も平等だと一体化、同化することです。

第六章 表現するのがむずかしいお経

  (15)  不死の境地をうる「阿弥陀如来根本陀羅尼」、陀羅尼(呪文)を漢字に音写したもの。

  (16)  慈悲心をもたらす「大悲心陀羅尼」

  (17)  究極の和合を説く「般若理趣経」、空海が罪深い人々を救うためにこのお経を勧めた。

第七章 人生に救いをもたらすお経

  (18)  仏の世界を表わす「阿弥陀経」、釈迦が阿弥陀如来のいます極楽浄土の世界を説いたもの。かって性格心理学者の宮城音弥さんは、人間の性格を「冒険人、逃避人、追求人、無執着人、享楽人、義務人」の六つにわけました。仏教ではまともな自己とは、さしずめ六方の中心に位置する自由人的生き方を指しているようです。このお経の筆者は、偏向しがちな人間がまともに生きるために、宇宙の摂理のもとにある本来の自己を中心においた「曼荼羅」を提示し、その周辺にその人間を守護する仏たちを配したと考えられます。曼荼羅とは、サンスクリット語の音写字で、悟りの世界を図示したもの。

  (19) 称名念仏を説く「一枚起請文」、法然が、臨終のときに遺言として弟子たちに伝えたもの。ただひたすら「南無阿弥陀仏」と称えれば必ず救われると信じるだけでよいのです。阿弥陀如来に出会うことも、極楽浄土に往生することもすべてこの言葉に含まれているのです。

     かってギリシャの思想学者エピロスは、「われわれが生きているかぎり死は存在しない。死が存在するときはわれわれはもはや生きていない」い述べたことがあります。           -3-

        もし「死」は存在しないとすれば、死を考えるのはばかげたことと思います。それよりも生きている間は、自分のこの世でなすべきことに専念し、いざ死ぬときはいかにやすらかに死ねるかを考えたほうがいいのではないでしょうか。

  (20) 一期一会を説く「白骨の御文章」(おふみ)、人生は無常で、一期一会であることを警告したもの。…朝に紅顔ありて夕べには白骨となる身なり。浄土真宗・蓮如、が記した「五帖御文」の一節で人生の無常を詠んだものです。自分の人生を大切にし、人との出会いを「一期一会」の気持ちで大切にすることです。その自分のいる場所が「浄土」であり、その浄土に生かされている自分を喜んで生きていくことを「往生」というのです。ここで発せられるのが「南無阿弥陀仏」という念仏で「おかげさま、ありがたい、かたじけない、もったいない」と言っているのと同様です。

  最近、凶悪犯罪が増え、いつ、どこで、何をされ、死ぬかもわからない「一寸先は闇」の時代にあります。「会うは別れの始め」で、いつ別れ、死んでもいいという覚悟で生きているでしょうか。

第八章 読経の終りに唱える文

   (21) お経のエピローグ「摂益文」(しょうやくもん)、「これ以上苦しい時はない」という経験をつまないと一人前になれない。闇があるから、光がある。闇から出てきた人こそ、本当に光の有難さがわかる。仏の光を浴びることを勧めたもの。

   (22) 願を託す「回向文」(えこうもん)、念仏などの功徳を他の人にも施してともに救われることを願う。

   (23) 人生の四大指針「四弘誓願」(しぐせいがん)、他の人とともに悟り、救われることを誓う一文。すべての人を悟りの世界に導くことを、無数の迷いを絶つことを、無数の仏の教えを学ぶことを、悟りの道はほど遠いのですが、必ず会得することを誓ます。

               あとがき

     いったい「お経」に何の意味や価値があるのでしょうか。仏教では、生前中は自己中心的生き方を改め、健康な間は精いっぱい働くことをすすめているのです。自分のなすべき仕事に専念し、いざ死ぬ羽目になったら、すべて仏に任せるのです。禅者鈴木大拙師は晩年、「私は今、死神とどちらが勝つか闘っているんじゃ」と語ったことがあります。98歳で亡くなる寸前まで、親鸞の「教行信証」の英訳に専念し、いざ死ぬときは、あの世に往生することを願っていたようです。「かって自分が存在しないときがあったことなど、誰も気にしない。とすれば、自分がいなくなるときが来ることも、何でもないはずだ」と喝破した英国の評論家がいました。宇宙の摂理のもとで縁あって与えられた存在であり、したがって生きている限り能力を生かして働かせていただき、その間、絶えず周囲の人々の問いかけに応じ、お互いが納得し合う人生を送ることによって幸せになれるのではないでしょうか。                            -4-

     
     

お経の意味がよくわかるハンドブック  松涛弘道(まつなみこうどう)PHP

序章 お経は誰のためにあるか

死者をともらい、同時に生きているわれわれのためにある。お経とは、今から約2500年前にインドでうまれて、人間の真実の生き方を悟った釈迦の教えを指したものです。

第一章 なぜお経が生まれたか?

(1)   仏の教えを説く「お経」の内容とは、仏となった釈迦の教えで、釈迦の創造物ではなく、その言葉を通じて「宇宙の摂理」(真理)を語ったものです。

(2)   お経に説かれた仏教の基本的教えとは、「四苦八苦」の原因をとり除くために「涅槃の境地」(仏の世界、この世の無常、無我の世界から超越した浄らかな悟りの世界)四苦(生老病死)八苦(加えて、愛する者との離別、嫌いな者とも会わねばならない、求めるモノが得られない、求めなくとも得なければならない苦しみ)

第二章 お経はわれわれの人生の指針

(3)  いろいろある「お経」の特徴は、釈迦をはじめ数多くの「仏」(釈迦以外にも宇宙の摂理をを悟った人たちも「如来」といて尊崇)がわれわれにはたらきかけてくる。

・ 歴史上の人物である釈迦如来

・ 宇宙の摂理、本体である大日如来

・ 宇宙の摂理のはたらきである阿弥陀如来

(4)  われわれにとってお経とは、われわれがよりよく生きるための指針で、聞きての問に答えるべく誰でもわかるように説いた言行録である。

第三章 読経の始めに唱える文

(5)   仏の世界に向かう「三帰依文」、いすれの宗派でもこの「三法」の教えをお経を読む前に称える。釈迦()とその教え()、それに従う集団()を敬う。後世の仏教者は仏像と仏画(仏宝)、お経(法宝)、僧侶(僧宝)をも敬う対象にしてきました。鎌倉時代の道元は「仏は大師なるがゆうに帰依す、法は良薬なるがゆえに帰依す、僧はすぐれた仲間なるゆえに帰依す」と述べている。われわれが本来の自己に忠実になり()、自分のこの世でなすべきことを確実に行い()、周囲から信用、尊敬されるように誠実に生きること()です。

(6)   自分の心身を正す「」懺悔文」、浄らかな心を保つ必要から。今日までなした悪行は、みな貧(とん、むさぼり)、怒り、無知の三毒()による。まともな人間になるよう悔い改めることを誓います。孔子も「過ちて改めざる、これを過ちという」と喝破しています。罪は、社会への奉仕でお返しすることが大切です。

(7)   読経のプロローグ「開経偈」、読経を始める前に、この一文を称える。

第四章 世の中の真実を示すお経

(8)   この世のありようを示す「般若心経」、紀元前後にインドで作られた「空」を説いたお経。…最後の老も死もなく、老と死がなくなることもありません。苦も苦の

               -1-

原因も、苦を滅することも、苦を滅する道もありません。… 偉大な知恵を得るための真髄を説くお経。般若(真理)とは自他へのとらわれを捨てた境地。お経の最後「生き往け、生き往け」とは、寿命が尽きる最後の最後の瞬間まで心身ともにはたらき続けることをいいます。その後は宇宙の摂理、仏、天命にまかせることです。

「いつまでもあると思うな親と金」、仕事に成功、結婚してもそこで安心するなということです。

(9)   仏と一体となる「舎利礼文」、釈迦の遺骨を尊崇するとともに、愛しい故人の遺骨をも讃える。仏の遺骨の本体である法心(宇宙の真理)を表わす仏塔を心から礼拝します。さらに人がなくなると「仏」として崇拝するようになりました。エジプトでは、ピラミット王の遺体を祀りローマ時代には遺骨崇拝が一般化しています。

(10)  永遠の仏を讃える「自我偈」、「妙法」とは世の中を色メガネ、偏見にとらわれないで、本当の姿をありのままに観ることを指しています。「蓮華」というのは、すべての人には汚れの多い俗世間にあっても、「仏性」がそなわっており、仏を念ずれば救われると説きます。日本では、先祖をもホトケと呼んでいます。大乗仏教では、「仏」を如来という。釈迦は方便として入滅したのであり、この世で現にはたらいているというのです。

第五章 人生にやる気をもたらすお経

(11)  すべての人を救う「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」、「普門」とはすべての人を救う入口を意味している。観世音菩薩は、いかなる苦難に遭っても、救いの手を差し延べてくださるという。悪人かに追いかけられて逃げられず、崖っぷちから墜落しようとするとき、観音様の力を念じるならば、負傷することはないでしょう。

観音とは、この世のあらゆる悩みや苦しみを「観」聞き届けて救ってくれる宇宙の摂理をさします。江戸時代の白隠禅師が「衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求めるはかなさよ。たとえば、水の中にいて、喝を叫ぶがごときなり」とのべているように、観音様は実はわれわれ自身の中にもはたらいているのです。お経は読まれる経典があってはいれない。すなわちこころの中に自分と他がなくなる境地、つまり一体となるべきだといっている。観音様は33の姿に変身してこの世にあらわれます。あなたの周囲の人や自分自身に勇気と知恵、慈悲を感じる時、そこに観音様は実在しはたらいているのです。

(12)  「観音経」のエッセンス「十句観音経」(じっくかんのんぎょう)42文字で観音経を要約したもの。もろもろの悪をなさず、よきことをなし、自らのこころを浄めることがこころの教えである。

(13)  使命感をうながす「四誓偈」(しせいげ)、仏になるまえの法蔵菩薩が、ずての人を救うまではけっして自分だけが救われて極楽に往生しないという「四つの誓を立

                                    -2-

てた文です。①人々を救うために48の願を立てること ②貧苦にあえぐ人に財と仏の教えを惜しみなく施すこと ③自らの名声がすべてに行きわたること ④自らの智慧の光が人を照らすことです。人生に目的がなくても生きられます が、自分にできそうな宿題を課し、実行することが生きがいにつながるのではないでしょうか。

(14)  求道者の生き方を示す「修証義」(しゅしょうぎ)、明治時代、道元の「正法眼蔵」を要約し、仏教の教えを一般に広めるたに作られたもの。救道心を起こすとは、自分が仏になる前にすべての人を救おうと誓い、努力実行することです。

菩薩の誓いを行うべきこと、他を利益するには四つの利他行があります。①むさぽらない布施の行、②慈しみのことばをかける愛語の行、③恩を着せない利他の行 ④すべての人と一体化する同事の行です。布施とは無条件で損得を超えて相手に施し、喜んでいただくこと。一本の草花でもを施すことで徳を積んだことになります。ひとづてに愛語を聞くときは、魂に響くものです。優越感や劣等感に浸る人に対し平等に接し、相手を救おうと心掛けること、人の役に立つ生き方をすることです。

    同事は、相手も自分も平等だと一体化、同化することです。

第六章 表現するのがむずかしいお経

  (15)  不死の境地をうる「阿弥陀如来根本陀羅尼」、陀羅尼(呪文)を漢字に音写したもの。

  (16)  慈悲心をもたらす「大悲心陀羅尼」

  (17)  究極の和合を説く「般若理趣経」、空海が罪深い人々を救うためにこのお経を勧めた。

第七章 人生に救いをもたらすお経

  (18)  仏の世界を表わす「阿弥陀経」、釈迦が阿弥陀如来のいます極楽浄土の世界を説いたもの。かって性格心理学者の宮城音弥さんは、人間の性格を「冒険人、逃避人、追求人、無執着人、享楽人、義務人」の六つにわけました。仏教ではまともな自己とは、さしずめ六方の中心に位置する自由人的生き方を指しているようです。このお経の筆者は、偏向しがちな人間がまともに生きるために、宇宙の摂理のもとにある本来の自己を中心においた「曼荼羅」を提示し、その周辺にその人間を守護する仏たちを配したと考えられます。曼荼羅とは、サンスクリット語の音写字で、悟りの世界を図示したもの。

  (19) 称名念仏を説く「一枚起請文」、法然が、臨終のときに遺言として弟子たちに伝えたもの。ただひたすら「南無阿弥陀仏」と称えれば必ず救われると信じるだけでよいのです。阿弥陀如来に出会うことも、極楽浄土に往生することもすべてこの言葉に含まれているのです。

     かってギリシャの思想学者エピロスは、「われわれが生きているかぎり死は存在しない。死が存在するときはわれわれはもはや生きていない」い述べたことがあります。           -3-

        もし「死」は存在しないとすれば、死を考えるのはばかげたことと思います。それよりも生きている間は、自分のこの世でなすべきことに専念し、いざ死ぬときはいかにやすらかに死ねるかを考えたほうがいいのではないでしょうか。

  (20) 一期一会を説く「白骨の御文章」(おふみ)、人生は無常で、一期一会であることを警告したもの。…朝に紅顔ありて夕べには白骨となる身なり。浄土真宗・蓮如、が記した「五帖御文」の一節で人生の無常を詠んだものです。自分の人生を大切にし、人との出会いを「一期一会」の気持ちで大切にすることです。その自分のいる場所が「浄土」であり、その浄土に生かされている自分を喜んで生きていくことを「往生」というのです。ここで発せられるのが「南無阿弥陀仏」という念仏で「おかげさま、ありがたい、かたじけない、もったいない」と言っているのと同様です。

  最近、凶悪犯罪が増え、いつ、どこで、何をされ、死ぬかもわからない「一寸先は闇」の時代にあります。「会うは別れの始め」で、いつ別れ、死んでもいいという覚悟で生きているでしょうか。

第八章 読経の終りに唱える文

   (21) お経のエピローグ「摂益文」(しょうやくもん)、「これ以上苦しい時はない」という経験をつまないと一人前になれない。闇があるから、光がある。闇から出てきた人こそ、本当に光の有難さがわかる。仏の光を浴びることを勧めたもの。

   (22) 願を託す「回向文」(えこうもん)、念仏などの功徳を他の人にも施してともに救われることを願う。

   (23) 人生の四大指針「四弘誓願」(しぐせいがん)、他の人とともに悟り、救われることを誓う一文。すべての人を悟りの世界に導くことを、無数の迷いを絶つことを、無数の仏の教えを学ぶことを、悟りの道はほど遠いのですが、必ず会得することを誓ます。

                  あとがき

     いったい「お経」に何の意味や価値があるのでしょうか。仏教では、生前中は自己中的生き方を改め、健康な間は精いっぱい働くことをすすめているのです。自分のなすべき仕事に専念し、いざ死ぬ羽目になったら、すべて仏に任せるのです。禅者鈴木大拙師は晩年、「私は今、死神とどちらが勝つか闘っているんじゃ」と語ったことがあります。98歳で亡くなる寸前まで、親鸞の「教行信証」の英訳に専念し、いざ死ぬときは、あの世に往生することを願っていたようです。「かって自分が存在しないときがあったことなど、誰も気にしない。とすれば、自分がいなくなるときが来ることも、何でもないはずだ」と喝破した英国の評論家がいました。宇宙の摂理のもとで縁あって与えられた存在であり、したがって生きている限り能力を生かして働かせていただき、その間、絶えず周囲の人々の問いかけに応じ、お互いが納得し合う人生を送ることによって幸せになれるのではないでしょうか。                                 -4-

     
     

                              2010 .5.10  小沼正廣

   長い戒名ほど立派なのか  ベスト新書 加藤 廣 若桜木 虔

(戒名の研究 小沼正廣)

  戒名の付け方のおさらい(P104)

XX院 YY ZZ居士」の付け方

     院号~XX

人生観や信条、最も大切に思っていることなどを二文字で構成する。

  「読教院」「教学院」「教心院」「知教院」「常全院」「教遊院」「知遊院」

    ・「遊」~仏教の悟りや戒律、仏、霊的なことを表わしている文字(P995)

    ・「知」~知性を表わしている文字(9)

     道号~YY

         趣味、特技、職業などを表現する二文字で構成する。また、宗派によって選ばれた文字がある。浄土宗では「誉」、日蓮宗では「日」となる。浄土真宗には道号がなく「釈」の文字を入れる。

  将棋、花壇、家庭菜園、読書、剣道、治安、警護、教育

・「剣将」「剣勝」  「読教」

    ・「勝」~武勇などを表わしている文字で有名人26回使用

     戒名~ZZ

  本人の好きな文字などを入れ、二文字で構成する。一文字は自分の俗名からとる場合も多い。(諸大名や有名人500人の調査)

  「心正」「正広」「正勝」~本名は「小沼正廣」

・心~諸大名や有名人500人の調査では97回で、戒名に使うべき文字の上位、安定した心の状態を表わす文字

・正~50回、良い性質を表わしている文字)

・広~26回、豊かさ、繁栄、成功している文字)、勝(26回、武勇などを表わしている文字)

     位号

 男女・年齢・位別で選択。通常男子なら居士、大居士、女性なら大姉、清大姉あたりとなる。

  「居士」「信士」

  小沼家先祖の戒名

    俗名 小沼嘉市 行年55歳 昭和4051日  嘉雲誠祥信士   臨済宗

       小沼かや   78歳 平成元年 628   円可寿徳信女     臨済宗

       小沼幸枝   63歳 平成21727 日 亮周院桂護幸栄大師 真如苑

  小沼正廣の戒名()

知遊院剣勝正広居士  暇つぶしに考えました。参考にしてください。自宅より

     
     

   日本人のためのイスラム言論  小室直樹 

1      イスラム教

ユダヤ教の神(ヤハウエ)とキリスト教の神、イスラムのアッラーの神は、名前こそ違

うが同じ神である。アッラーは天地創造の絶対神で、どこにでもおられ、天地とすべてのものを作り支配している。

(1)  イスラムの預言者マホメットが現れてから、千三百年、神アッラーの教えを大天使ガ

 リエルが、マホメットに伝えた言葉をまとめたのがコーラン。イスラムを支える「五つの柱」、信仰告白「アッラーの他に神なし。マホメットはその使者である」と絶えず口でとなえる。第二の義務は、礼拝(夜明け、正午、午後、日没、夜半の5)喜捨(施し)断食、巡礼(一生のうち最低一度)。外面的行動で表す。宗教上の戒律は、国家の法律であるので人間が等しく規範を守らなければならない。僧侶は存在しない。イスラムのハラムはブタ、肉食動物、爬虫類、昆虫、酒類など。ハラルは牛や羊などの草食動物、ニワトリ、カモなどの鳥。勝手に規範を変えれば神への反逆行為である。

(2)  異教徒だからという理由で殺したりしない。宗教を強制しない。コーランはイエスは

人間だといている。左手は不浄の手。偶像崇拝を許さない。イスラムの聖地メッカに安置されているのは聖なる黒石である。タリバンは、バーミヤンの石仏をミサイルで攻撃した。イスラムの教えを広めるための戦争(聖戦、ジハード)は義務である。キリスト教とは比べものにならない平和的宗教である。

(3)  コーランは読誦するもので、そういう意味である。コーランは詩である。暗記は信者

にとって当たり前である。悪いことをしたものは、罰が与えられ、善行にはご褒美が与えられる。仏教の因果律ではないか。アッラーは慈悲深く、救済リストを書き換えてくれる。この世の宿命は神が決定する。来世の運命に関しては因果律が成り立つ。イスラム教でも、最後の審判があり、アッラーがすべての人間を蘇らせ、完全な肉体を与えて、個別に救済を決定し、神の国「緑園」に入り暮らしやすく、食べ物に困らない世界に入る。天界の美酒がいくらでも飲める。緑園に入りそこねた人たちは、完全な肉体を持ち地獄に落ちて大蛇、サソリになやまされる。永久の時を苦痛のなかで過ごす。死ぬことはないのだから。

(4)  なぜ、ムスリムたちは死を恐れないのか。コーランに「アッラーの路に斃れた人々の

ことを死人といってはならない。彼らは生きている。汝らはそれが分からないだけの、こと」、最後の審判のとき、イスラム教徒はすべて完全な肉体を与えられ、イスラムの教えを守るために死んだ者は、緑園、天国に入ることができる。

(5)  1099年十字軍は「聖地奪還」に成功し、1187年エジプト王はエルサレム奪回に成功

した。3世紀に渡って、十字軍との戦いに翻弄され16世紀ころまで、イスラムのジハードが勝利していた。常備軍・トルコ帝国の親衛隊は15世紀の初頭である。ヨーロッパで組織された軍隊はナポレオンである。モーッアルトやシュウベルトの時代に「トルコ行進曲」が作られた。19世紀に入るやエジプト、パレスチナ、シバノン、シリア、イラク、クエート、リビア、…はヨーロッパの支配下におかれた。中近東にはイスラムの香港や台湾も生まれない、なぜイスラムには商業活動や利潤追求そのものを全面否定する思想がない。イスラム教では、神の力は現世に現れる。この世に起きていることすべてはアッラーの神の御計らいで人間はそれに逆らうことはできない。アッラーの神は努力して善行を行い、正しい信仰を持てば、それを評価して救済してくださる。この世のことは今更どうしょうもないから心配はいらない。

(6)  イスラム教徒は、神との約束を守るが、横の関係では約束を破って平然としている。

 アッラーは頸動脈よりも近くにいるとコーランに記されている。契約もとどのつまり縦の契約であって、人間同士の横の契約なんて成立しようがない。中東の人は買い物をしてもありがとうとは言わない。イスラムの人はありがとうは神にとうのである。そして、契約が守れない状況が発生しても、これはアッラーの神の思し召しによるものと考え、しかたがないと思うのである。違約金などは考えない。アッラーの前にすべての人間は平等である。貧しい人への喜捨を義務化するのも平等主義から生まれた。

 イスラム教は男女平等を説いた宗教である。一夫多妻を認めたのは、男性信者がジハードでたくさん死んだので、未亡人に経済的基盤を与える措置であった。イスラムには人間の上に立つ「王という概念、国という概念」もない。

(7)  湾岸戦争(1990)で十字軍コンプレックスを増幅した。アメリカ軍による、メッカの

あるサウジアラビヤ進駐である。許すまじアメリカ、イスラム過激派は聖戦を開始した。 

2 キリスト教

(1)  キリスト教は、規範を完全否定して生まれた。信仰のみの宗教である。ユダヤ教を土

台に生まれた。イエスを予言者として神が派遣し、キリスト教を創設し、パウロが完成させた。人間はすべて神から与えられた原罪を背負っている。いくら努力しても必ず悪いことをしてしまう生き物である。本当に大事なのは、神を信じ、イエスを信じ、自分の罪を自覚することである。神の恩恵によって救われる。全て規範を排除して「信仰のみ」が大切。神がこの世を作り、人間を作り、法則を作った。僧侶はいてもいいし、いなくてもいい。イエスは完全な人間であり、同時に完全な神である。人間に原罪を与えたのは神である。その現在をイエスが十字架にはりつけになることで解除した。よって人間は救済されることが可能になった。イエスは処女のマリアから生まれたと聖書に書いてある。人間が神を産むことが可能か。マリア信仰を愚かなことと批判したのがマホメットである。

(2)  日本人が気付かないキリスト教の異常性。心をつくして主なるあなたの神を愛せよ。

自分を愛するようにあなたの隣の人を愛せよ。これより大事な戒めは他にない。これには見返りを求めてはならない。無条件である。ナイチンゲールやマザー・テレサが生まれた実例である。インデアンを皆殺し、黒人奴隷を商品扱い。神を信じない異教徒は、もはや人間ではない。その実例が旧約聖書に書いてある。旧約聖書で示された「異教徒は殺してもよい」という神様の方針は、キリスト教でも有効である。

(3)  イエスはユダヤ教の律法を否定して新しい宗教を作りあげた。「時は満ちた、この地

上にとつじょとして現れる神の国は近づいた。悔い改めて福音(良い知らせ)を信ぜよ」最後の審判に不合格になれば、神様は人間に永遠の死を与える。

(4)  十字軍は強盗、強姦、略奪、殺戮につぐ殺戮をした。異教徒は根絶やしにする。この

世に起ることは全て神の意志である。神の前には人間は無力である。これがキリスト 教独特の予定説である。人間が信仰を持つことが神の救済決定に影響を及ぼさない。どんなに善行をつみ神を信じ、隣人を愛しても、神の決定は覆らない。神を信じる人はあらかじめ救済が決定されていて、異教徒は救済されないことがはじめから決定されている。神があらかじめ救済リストを作っている。中世のクリスチャンはほとんど聖書を読んでいなかった。自分が信仰しているというのは救済リストに載っているのではないかという推定がなりたつ。個人救済である。

(5)  聖書では、人の死は仮のものと教えている。あなたが死んでいると思っているのはそ

う見えるだけである。最後の審判が始まると、神は人間に完全な肉体を与えてよみがえらせてくださる。そこで、救済された人間は神の国で永遠の人生を送る。有罪判決があったものは永遠の死が与えられる。霊魂だけが天国に入るという思想もない。地獄もない。

(6)  資本主義も近代合理科学も、キリスト教徒のヨーロッパ人たちだけが作り出せた。

 地球上で、ヨーロッパ人のみが資本主義を成立させ、近代デモクラシーを成立させ、数学、物理といった近代科学を生み出した。宗教改革の指導者たちはキリスト教の教義をイエスやパウロの時代の姿に戻そうとした。中でも重要なのが予定説である。「その人が救済されるか否かは、すべて神によって決定されているというカルバンの思想である。予定説の要諦は「神に選ばれ救われる人は、神の御心のまんま行動するに違いないという点にある。この思いつめた生活こそが、彼らのエスト、行動様式を変換せしめた。プロテスタンティスムが現れると、伝統主義は放逐されてしまった。これに拍車をかけたのが、カトリックの「行動的禁欲」である。信仰のためには、一秒、一瞬、一刹那たりともなまけることをせずに行動すべし。「祈りかつ働け」というスローガンである。世俗の仕事こそが天職である。天職、労働を遂行すれば救済される。この思想こそが、資本主義の精神の母胎にかったとマックス・ウエーバーが指摘した。もし隣人たちが必要とし、手に入れたく思っているならば、必ず市場で売れるに違いない。そうすると当然利潤が生まれてくる。これは高利貸しなどとはまるで違い、隣人愛を実践した表れではないか。キリスト教は商業や利潤を徹底的に排撃する宗教から、資本主義を擁護し、利潤追求を奨励する思想となった。神との契約を絶対守らなければならないと同じように、人間同士、お互いに平等で契約も絶対守らなければならない。ここに近代資本主義が成立した。キリスト教は「神」を愛し隣人を愛せよ」を根本教義にしている。無条件かつ無限の愛である。キリスト教の結婚は、新郎新婦は神に誓うのであり、相手に誓うのではない。だから、カトリックは離婚を禁止している。西欧社会が平等の観念にたどりつくのは、マホメットより1000年近く後のこと。

3 ユダヤ教

(1)  二大宗教の母胎となったユダヤ教

旧約聖書が経典。イスラムと同じ規範宗教。預言者モーセに神が与えた十戒。規範は、一万二千ベージに及ぶ。豚肉をたべない。これがエスト、行動様式である。僧侶はしない。カナンの地で行われた侵略と大虐殺が神の計画と援助のもとに行われた。異教徒の虐殺は正義なり。この趣旨が旧約聖書に書いてある。ユダヤ人たちは第二次大戦後再びカナンの地に戻った。このトバッチリをうけたのがパレスチナ人である。

(2)   ユダヤ教の神とキリスト教の神は、同じなのかどうか。古代イスラエルの人たちが発見した神は苦難をも、もたらす神である。普通の神は不幸を解決してやさしい。しかし、イスラエルの神は人格を持った神で、少しでも気に障るとたちまち人間を苦しめる。アブラハムに始まる全預言者は不幸になった。神様は何をなさっても自由だし、人間には批判する資格もない。この苦難、不幸は選ばれた民であるがゆえに、わざと神が与えたものである。ユダヤ教は儒教と同じく集団救済の宗教である。神が与えた規範をきちんとまもっていれば、いつの日か世界の主となれるだろう。救済はユダヤ人のみに与えられている。契約を一所懸命守っても救済されるのか。

(3)  モーゼの十戒に、あなたの神、主の名をみだりにとなえてはならないとある。「あな

た方の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤハウエ…これがとこしえの私の名前である。」なぜか、神の名前を呼びお願い事をすることになる。神は人間の願をかなえてくれると思うようになる。呪術の本質は、神をして人間に従わせるということになる。

.(4) ユダヤ教には霊魂という概念は存在しなかった。エジプト人は黄泉の国を信じ巨大な墓を作り、死体をミイラにした。

(4)  古代イスラエルの民は、神との約束を守らなかった。神の怒りを買って、王国はほろ

び、その後も長い間、民族離散の不幸な道を歩まねばならなかった。ユダヤ教のメーンテーマは契約履行教である。

4       日本教~仏教徒や儒教徒にならない。そのエッセンスだけを吸収する。

(1)  儒教徒のエストは、親に対して孝、君に対して忠。儒教の葬式くらい大変なものはな

い。哭き女など。儒教は、個人の救済ではなく、集団救済を目指す。天下、政治を良くしない限り人間は救われない。日本人は規範が大嫌いな民族で無規範宗教のキリスト教は入ってこれた。規範とは、これをしろ、あれはするなという命令。儒教が日本に伝わると論語一本やりになった。論語の地位を向上させたのが、朱子学である。仏教の戒律は、戒とは釈迦が定めた悟りにいたる行動規範であり、律は出家者の共同生活における生活ルールである。在家信者は五戒、僧は二百五十条、尼僧は三百四十八条、仏教は釈迦をもって創始者とするが、仏教の教えは釈迦が考案したものではない。誰の教えでもない、科学である。生老病死を釈迦が発見した。法前仏後。守る守らないは、本人の勝手で、規範の強制力はない。生老病死という苦しみから逃れられないのは「煩悩」があるからである。煩悩を断ち切らないかぎり、苦は消滅しない、人間は救済されない。釈迦が煩悩から脱却する方法、その一つの修行を発見した。出家して俗人と違う生活をする。仏教においては僧侶が不可欠。儒教は僧侶はいらない。修行者は私有財産はだめ、金儲けもだめ、結婚も、酒も、殺生も、悟りを妨げる。修行者の指針であり、これを破っても釈迦は仏罰を下さない。戒律は徹底的に個人的であり、俗社会とは関係ない。仏教の救済は途方もない年月がかかる。人生、前世、前前世、…で罪深いことをした事実は「悪因」となって救済を妨げるかもしれない。人間は何百台も輪廻転生をしてきた。しかし、修行善行を積み重ねていき、煩悩から解放されると仏になれる。この涅槃に入るのが真の救済である。全ての生きものは死んで、生まれ変わって六道、つまり、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に転生する。弥勒菩薩でさえ成仏まで五十六億七千年もかかる。仏候補を菩薩と呼び四十一の位があり、その一番上が弥勒菩薩である。奈良の唐招提寺に鑑真和上像がある。鑑真が苦労して日本の仏教になかった戒律を伝えたるため、七百五十三年に失明して日本に上陸した。仏教伝来は二百年前の六世紀半ば。奈良の東大寺には奈良の大仏、慮舎那仏(びるしゃなぶつ)がある。天台宗を開いた最澄が戒律を実質的に廃止した。一遍、法然、親鸞、日蓮、これらはみな比叡山で修業した経験を持つ。天台本覚論は「人間は迷ったままでも成仏できる」煩悩をかかえたまま悟りをひらくことができるとした。本覚とは、生きとし生けるものは本来、悟りが備わっているという考えである。もはや戒律を守ることも修行も必要がない。煩悩をかかえた人間そのものが仏である。

(2)   法然、親鸞は「南無阿弥陀仏」と称名するだけでだれでも成仏できる。「阿弥陀仏」にすがれと説いた。親鸞は妻帯してしまった。聖徳太子が夢の中に現れて、お許しになったからだと伝えた。日蓮はただひたすらに「南無妙法蓮華経」と題目を唱え「法華経の功徳にすがれ」と説いた。鎌倉時代に現れた親鸞や日蓮は自力救済の可能性を否定し、キリスト教にきわめて相似したものになった。

(3)   大安、仏滅、友引などは道教の流れをくむ陰陽道の思想である。七夕や十二支も道教が起源になっている。日本教にも「日本人らしさ」、「善いこと、悪いこと」を決める道徳律は存在する。日本においては平安時代いらい、仏教の影響で四足の獣は食べない。猪は、山鯨で鯨の一種であるから食べて良かった。兔は一羽と数えることによって鳥でもないのに食べて良かった.キッネ、鹿なども薬として食っているので商売していた。般若湯という隠語で酒を飲む僧侶。徳川慶喜は豚肉を好物にしていた。明治維新になって初めて、スキヤキなどの肉を日本人が食べるようになった。日本教のエストは規範に合わせて行動が変わるのではなく、人間に合わせて規範がかわる。なぜ日本にキリスト教が爆発的に信者をふやさなかったのか、それは神道との相性がよくなかったことにある。神道と仏教を融合させた「本地垂迹説」。根本の物体より具体的な姿を垂れるという意味の言葉である。仏教は実在論を否定する。ものがあるというのは妄想で、本当にあるのは認識だけである。日本古来の神様も、すべての諸仏が姿形を変えて日本に現れた。応神天皇は八幡神()の姿である。伊勢内宮は救世観音又は毘盧那仏。およそあらゆる神様は、皆 、菩薩や観音を本地仏にするようになった。これを神仏習合という。神様はみな仏様の生まれ変わりだということで、神道のおかげで仏教は普及した。

(4)  仏教は悟りを求めるものであり、仏像を拝む教えではないはずである。神様仏様にすがれば願いがかなうというのは呪術である。なにとぞ病気が治りますように。釈迦は死後の世界、極楽や地獄などは語らなかった。修行者は、飲酒やセックス、金儲けを禁じている。

5 「殉教の世界史」イスラムのジハードと中国の刺客、その相似性

司馬遷は史記の中で刺客列伝、暗殺者賛歌を書いた。ほとんど面識のないものの頼みを聞き、代理殺人者となって歴史に名を残せた。士は己を知る者のために死す。豹は死して皮を留め、人は死して名を留める。中国人は歴史の中に名を刻むことで永遠の生命を得る。中国の諸王朝は名前こそ違うが、支配体制も、秦から新まで、その本質は変わらない。クリスチャンは救済を確信とていたから、どんな苦痛を与えられても、死についた。マルクスは、歴史や社会の法則も変化し、古をもって鏡となすという思想は生まれてこない。シーザーを殺し、リーンカーンを殺し、ケネディを殺しても誉められない。

暗殺者は社会の進歩を阻む犯罪者に過ぎない。

 イスラムの歴史観も中国と本質的には同じである。世の中が乱れてきたら、それは変化の予兆とは考えない。コーランとマホメットが示す正しい世の中からはずれてきたと考える。イラン革命は、パーレビが絶対やってはいけないことをやったからである。シスラムの教えを踏みにじる近代化政策をやった。ついにイラン革命が成就したのは、ひとえにムスリムたちの殉教精神があったからである。