Chapter1 街頭の檄


  (六ヶ月前)
  
  「世の中が悪い、政治が悪い、景気は良くなったというのはまやかしだ、不景気は止まってはいない、と皆さんは嘆きます。何もかも悪くなる一方だと、未来に明るい希望は見当たらない、とも口癖のように言うでしょう。
 ふざけるな、と私は言いたい。すべて皆さんのせいではありませんか。何もかも皆さん自身が悪かったのではありませんか。自ら好んで未来への希望を捨てているからではありませんか。
 現在の社会は皆さんが決断を避け、決断によって生じる責任を回避し続けてきた結果の産物なのです。悪いと思ったら、なぜその時点で変えようとする勇気を持たないのですか。
 かつてクリントン大統領は、「チェンジ」の一言をスローガンにしました。現状に倦んでいた国民は、この若い田舎の知事の一言に魅かれ、あっさりと彼に将来を託したのです。おかげで以後合衆国はさらなる繁栄と、将来への希望を手にすることになります。わが国がバブルの底に転落し始めるのと対照的にです。
 「生き残るのは強いものでもなければ、賢いものでもない。変化するものだ」。
変化することで、かの国は散漫な大国にもかかわらず、強さと健全さを保ち続けています。
 わが国ほど変化を恐れる国はない。 
 何を恐れるんですか、何が怖いのです。現在の、悪くなる一方の暮らしぶりこそ真に恐れる対象ではありませんか。もしかして皆さんはまだ苦しみ足りないのですか。決断を先送りする期間に比例して、苦痛はふくれあがっていきますよ。
 放っておけば、行き着くところ、国民は殺されていく。事実死んでいる。リストラを苦に自殺するサラリーマン、経営難から自殺する中小の経営者、これらの人たちが何人いるか、泣いている家族がどれほどいるのか、目をそらさないでよく見てください。彼らはあなたがたの近未来の姿でもあるんです。
 自ら命を絶つほど思いつめる人たちを悪く言いたくはないが、この人たちもまた、なぜおめおめと、すべて自分で背負い込んで死んでいくのでしょう。悪いのは国民ではない、失政を繰り返しながらも、一点の恥じ入るところもなく、ぬくぬくと現在の政権に居座り続ける為政者なのです。
 なぜ為政者に抗議の矛先を向けないのですか。なぜ、皆さんを苦しめる犯罪者に等しい張本人に一矢むくいようとはしないのですか。皆さんは抗議したり、逆らったりすることより、死ぬことのほうが楽なのですか。まさか、抵抗する勇気を持つよりは、死ぬほうがめんどうがなくていいなどと思っているわけではないでしょうね。
 それでは家畜と同じです。
 意志も自我もなく、それらを主張する勇気もなければ、人間の尊厳というものは存在しない。
 戦後六十年余の間に、皆さんの何割かの家畜化が着実に進行してきた。哲学と精神を欠いた、個人主義戦後占領教育も家畜化に貢献しました。
 六十余年。大戦後六十余年もの永きに渡ってひとつの政党が政権の座に居座り続けたという事実は、民主国家では、わが国を除いて世界のどこにもその例はない。
これは独裁です。独裁国家です。われわれが忌み嫌う彼の国と同じ、完全な独裁国家です。
なけなしの言論の自由がかろうじて残されているということを除けば、国民の精神は全く奴隷化しているではありませんか。
 権力は十年で王朝化します。王朝の権威に浴するものどものために、システムができあがり、
それが国の機構や国民の生活の中に行き渡り、反発するものを突出させない、しっかりした体制となって、国全体を固めます。権力維持のみが最終目的となった体制、国民を食い物にする体制の完成です。
 実際には、不況は止まらない、いつまでも続いている、と皆さんは嘆きます。あたりまえです。
皆さんの努力の結果はすべて、官僚・特殊法人・銀行そして政権政党の政治屋どもの漏斗の中に吸い込まれて消費されてしまいます。皆さんの血のにじむ努力はひたすら空回りするのです。
 この事態がさらに進むと、皆さんも薄々気づいているとおり、彼らの狙いは皆さんの預金や年金に及びます。いや、もうすでに及んでいる。彼らは権益を維持するためには、一方的に皆さんから搾り取る以外に方法を知りません。
 皆さん、今の国会議員の顔を見て、不思議に思わないのですか。親とそっくり同じ顔の息子や孫が、親と同じ席に当然のことのように座っているこの状態はいったい何でしょう。まるでクローン人間じゃありませんか。これは私物化です。一部の人間による政治の私物化にほかなりません。なぜこのような状態を許しておくんです。コピーだって、続けていけば、どんどん粗悪に文字がかすれていくじゃありませんか。彼らは優秀だから、自力で選挙を勝ち抜いたからそこにいるわけじゃない。皆さんの事なかれ主義が、決断からの逃避が、悪しき惰性をのさばらせているだけなのです。
 これはまさに階級社会です。わが国は、人々がそれと自覚しないうちに完全な階級社会となり、国民の多くは心の中でそれを受け入れてしまっているのです。
 江戸時代の再来じゃありませんか。
 家畜は楽でしょう。考えることも、決断することも、責任を負うこともなく、今を生きることだけに思いをはせていればいい。すべては支配階級がやってくれます。自我を持つことも個性もいらない、漂っているだけでいい。しかし所詮家畜は食われる運命にある。行き着くところ、誰も彼も屠殺場へ連れていかれ、黙々と肉になって、支配者の皿の上に乗るのです。
 豚はストレスを与えると簡単に死にます。ちょっと苦しいことがあると、すぐに自殺したがる類の人に似ていませんか。そろそろ気づいてください。もう家畜化の進行を止めましょう。皆さんの意思で意外に簡単にできるのです。
 わが国には市民革命の歴史がない。
 国民自らが立ち上がって、ときの支配者を追放したことはないのです。三百年の永きに渡った江戸幕府を倒したのは、一部の武力集団でした。そのとき、当時の大多数を占める被支配階級は、観客のようにこれを眺めていただけでした。支配者に対し何の疑いもなく盲従したがる性格は、江戸時代に培われたものなのでしょう。
 いまこそ、いまこそ、この国の歴史始まって以来初めて、国民ひとりひとりの勇気と、
意志の力と、自覚が試されています。どうか現在の、皆さんを搾取し続ける支配者を追い落とし、自分たちの運命を自分たちの手に取り戻してください。彼らを当選させないでください。
 我々に、私に、一票を投じてください。
 私こそ皆さんの代表者です。皆さんの幸せのみに働き、結果を出します。勘違いしないでください、政治家というものは、皆さんのご主人様ではないのです。皆さんが選ぶ道具なのです。役に立たない道具はすぐに廃棄する勇気を持ってください。道具に振り回されていると、道具と共に磨り減っていくだけです。有史以前から独裁国家はすべて滅亡する宿命にあります。現在の、確実に潜在し進行する不況、社会の不安、混乱、停滞といった澱みは、滅亡しようとしている今の独裁体制に、私たちが巻き込まれているだけなのだということにも気づいてください。
 私たちは、資金もなく、人員にも事欠く、小さな小さな団体です。落選しても当選しても借金だけが残ります。それでも、現在のこの国の有様を見るにつけ、やむにやまれず立候補しました。無謀でも微力でも、少しでもなんとかしたいという、やむにやまれぬ思いです。
 私は、当選したときには、一ヶ月でなんらかの結果を出します。それが今の私の約束です。
どうか、この、無名で無力で、いまの演説しかない私に、あなただけの一票をください。
 変えようという勇気を持って決断すれば、そこに希望が生まれます。」


 拍手はなかった。
 傘を叩く雨の音、行きかう人々の、水溜りの路面を踏みつける無数の靴音、車の通り過ぎる音が渾然一体となった、ただの騒音が無感動に響いている。
 彼の熱弁は都会のいつもの風景を微動だにさせなかった。何とも知れぬ騒音の一部となって消えただけだ。
 彼は雨に向かって演説をしたような気がした。虚しさにちょっと顔をしかめる。はじめてはみたものの、場違いで、気まずい。
 街頭に立ち始めて一週間、よくなったのはあがらなくなったこと、どうにか筋の通った話ができるようになったことだ。
 彼の後ろでずっと傘を差しかけ続けていた、一人しかいない運動員の若者が、
 「なかなかいい話し振りでしたよ」
 と車のドアを開けながら言った。
 「そうか、でも誰も聞いちゃいなかったな」
 彼もため息混じりに応じる。
 「そうでもない。地下鉄の入り口にいたホームレスらしいのがひとり、拍手をしてましたから」
 「願わくば、そのホームレスに選挙権があってほしいよ」
 彼はがらにもなく、雨に濡れたドーベルマンのように背を丸め、のっそりと車に乗り込んだ。
 若者は彼のもっともな気落ちを、いささかも気に留めるふうもなく、陽気に言う。
 「次からは、もっと踏み込んだ、具体的な政策の話をしましょう」
 「そうだな‥‥」
 という彼のつぶやきは、若者が勢いよくドアを閉める音にかき消された。

 彼らは気がつかなかったが、彼の話を聞いていたものが、ホームレスのほかにあと二人はいた。彼らのずっと後方、駅の奥のほうから、中間管理職サラリーマンふうの男と、それよりかなり役職が上といった感じの男が、行きかう人ごみ越しに彼らを見守っていたのだ。
 「いかがですか」
 目下らしい男が、車に乗り込んだ二人から眼を離さないまま、となりの男に聞いた。
 「うむ」
 年かさのほうもじっと駅の外側にめをやったままうなずくように言う。
 「元レンジャーですからね、筋金入りですよ」
 「うむ」
 年配のほうは考え込むように目を細めると、くだんの二人の車が、遠大な川の流れのような車のライトの洪水の中に飲み込まれ、テールランプがその波間に消えるまで見送っていた。
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