Chapter15 街路の襲
局長は慎重に外の様子をうかがいながら、用心しいしいノブを回した。 ノブはなめらかに回った。鍵はかかっていなかったのだ。 ほかに仲間はいはしないかとおそるおそる戸を開けた。 誰もいなかった。そこも同じようにガランとして、人の気配のない、ほこりだらけの広々とした部屋だった。それでも部屋全体がおぼろげに見渡せるのは、向かい側の壁の真ん中にあるドアのまわりのすき間から白々と光がもれてきているせいだった。 右足をひきずりながら、あせって転んで大きな音をたてたりせぬように、気を配りながら、それでも自然と早足になりながら、部屋の中央を滑るように横切る。緊張で胸の音が太鼓のように高鳴って聞こえる。早足になると右足の痛みが少し大きくなる。 どうにか対岸のドアにたどりつき、ノブを回した。 ノブは簡単に回った。これも鍵がかかっていない。奴らはあきらかに油断していた。逃げられまいとタカをくくっていたのだ。 いかなる悪党にもつけいるスキというものはある。悪党が気の緩む一瞬のスキをねらうのだ。自身の油断が悪党にとってこそ命取りにつながる。ひよわな平和主義者〜体力のない平安貴族に見える局長は、機転をきかせて、見事に凶暴な悪党を出し抜いてやったのだ。あれだけ痛めつければ何もできまい、するまいと黒ズボンは思ったにちがいない。インテリ階級や高位に安住する者は、現実の肉体的暴力に直面したときは女々しいだけだと。 黒ズボンの油断に加えて、思ったとおり茶髪の若者は気がきかなかった。言いつけどおりやるだけの子分でしかなかったのだ。コンビニの店員同様、茶髪というやつは悪党中にあっても、局長にとって何より幸いだったことに、やはり間抜けでしかなかったのだ。 一連の過酷な尋問の後で、イスに座ったまましばらくはぐったりとうなだれたままでいた。 黒ズボンは若者を残し、いなくなった。気配から外に出ていったらしい。局長と向かい合うように、どこからかイスを持ち出して座り、暗がりから局長を見張っていた若者は、しばらくして居眠りをはじめた。薄茶色いシルエットになっている頭の部分が、こくりこくりと下へうなだれはじめる。 局長は眠ってはいなかった。若者が完全に眠りこけたと見定めたとき、 「君、君、」 と声をかけた。 若者は浅い寝息をたてただけで、聞こえた様子はない。 「おい、君っ!」 局長は語気を強めた。 寝入りばなを起こされた若者は、電流でも流されたようにびくっとなり、寝ぼけた様子であたりを見回してから、ようやく局長を見とめた。 「君、トイレへいきたいんだが、こいつをほどいてくれないか」 局長は縛られたままの両手をもそもそ動かした。 若者はまだ寝ぼけた様子で、しばらく局長を見ているふうだったが、 「トイレか…」 と言ってイスから立ち上がると、指示でもあおぐようにあたりを見回した。 やがて黒ズボンがいないことに思いあたると、ようやく決心したように、 「トイレだったら仕方がないな」 と言って、局長の後ろにまわると、局長の両手のヒモをほどきはじめた。 いましめを解かれた局長は若者と同じくらい自由になった。 だが、ハンディがあるので慎重にふるまう。 「トイレはどこにあるんだね?」 イスから立ち上がろうとしたとき、思わず 「うっ、痛たっ!」 とうめいて再びイスに沈みこんでしまった。 「大丈夫か?」 若者が親切ごかしの声をかけた。 「足が、足が痛くて…」 局長は傷つけられた右足の、膝のあたりを両手でつかんで、さも痛そうに顔をゆがめる。 「痛み止めが切れたか…、包帯を替えたほうがいいかもしれないな。どれ、傷を見てやるよ」 若者はちょっとさがって、薬箱らしいものから包帯とガーゼを取り出すと、局長の足もとにかがみこんだ。見抜いたとおり、彼を痛めつけたこの若者は、人の言いつけだけを聞く、考えのない若者だった。自分の管理下にある、しかも自分より年上の老いぼれた人間が自分にはむかうことなど思ってもいない。 局長は座ったまま左足で思い切り若者の顔を蹴り上げた。 若者は勢いよくのけぞって、吹っ飛んだ。 床にころがりながら、何が起こったかを悟って、それでもとにかく局長を取りおさえようと、這いつつ、局長の足をつかまえようと、右手をのばしてきた若者のアゴを、立ち上がった局長のいま一度の効果的な左足キックがとらえた。若者はうめき声も出さず完全にのびてしまった。 ノブをつかんで静かにドアを押す。 かすかなきしみ音をあげながらドアはゆっくり開いた。 強烈な光が目を射抜いた。しかしそれは今まで暗がりにいたために感じる強烈さで、実際にはそれほど強い光ではなかった。かなり離れたところに小さくにじんで見える街灯の光だった。 うしろから音が聞こえたような気がして、ぎくりとなった。茶髪が息を吹き返したか。 おそるおそる背後をうかがうが、暗闇の空間に動きはない。茶髪はのびたままなのだ。 ほっと息をつくと、そっとドアから頭を出し、あたりをうかがった。 そこは人一人がやっと通れるくらいの、壁とコンクリートに囲まれた狭い通路だった。 人はいない。通路の先にも、あの黒ズボンの男の姿は見えない。 用心しいしい外へ出た。外気の寒さに思わず身震いする。外は薄暗かった。 ロレックスをすかして見ると、針は六時を回っている。明け方か。一晩閉じ込められていたことになるのか。 寒さがしみる右足をひきずりながら、通路を歩き出した。ここはどうやら廃ビルの裏手らしい。 出口を離れるにつれ、あたりが少し明るくなり、どこか遠くの車の音らしいのも聞こえてきた。行き止まり先にほの見える明かりを目指して通路を曲がると、いきなり街灯が並ぶ広い通りに出た。 早朝のこの時間、ここには車も人通りも全くなく、別世界のように静まりかえっていたが、この通りには見覚えがあった。どこだろうといぶかしがるうち、通りのむこうにそびえるビルに目がいった。あれは…あれは、まりなのマンションでないか…。 まちがいない確かにまりなのマンションだ。なんとこんな近いところにいたのか。 ともかくも誰かに早く助けを求めなければ。まず医者に、右足を早くしっかり治療してくれと。いや、その前に警察に、自分は誘拐されたと。いや、その前に長官に知らせなければ、自分はやむを得ずしゃべってしまったと。そして早く手を打たねばと、知らせなければ。 しかし、何よりも前に、とにかくまりなに会いたい…。 局長は、はやる心をおさえて冷静になった。誰にも知られないに越したことはない。あるいはことはすべて秘密裏に行わなければならないかもしれないのだ。秘密裏にあの誘拐犯どもの始末をつけなければならないかも。この姿を誰にも見られないほうがいい。 ともかくまりなの部屋まで行って、まりなに手当てをしてもらいながら考えをまとめよう。 幸いにまだ人も車もいない。見られる気づかいはない。右足をひきずりながらも滑るような早足でまりなのマンションへと向かった。まりなの部屋の暗証番号を思い出す。若いまりなはマネージャーと浮気さえしていなければ部屋にいるはずだ。 マンションの五十メートルくらい前まで来たとき、ふいに前方に人影を見とめてはっとした。いましがたマンションから出てきたようにも、ずっとそこにいたようにも見える。人に見られるのはよくはないが、まあ一人ぐらいはしかたがないだろう。できるだけ関心をひかぬように、顔を伏せがちにしてすれ違おう。 近づくにつれ、前方の人影が、男らしいことに気づいた。太った男ではないが、がっしりと背が 高い。影のように黒い、礼服のようなスーツに身を固め、あらぬ方向を見ている。 長髪ぎみの豊かな髪が波打っている。なぜか見覚えがあるような… 局長はぎょっとした。それと同時に横を向いていた男は、薄暗がりの中でも、お互いの確認ができるようにとでも言いたげに、局長に向き直った。 長身の男の、波打つ長髪は、影よりも色のサングラスにたれかかっている。サングラスの奥には鋭い目があり、局長を凝視していることだろう。直線的な鼻と薄い唇。金属的な顔だ。顔が明るいのは白いシャツが反射している反射しているためなのだろう。シャツは唯一浮き上がっているように明るい。まわりがひときわ黒いためだ。 影の色のジャケットに、闇のような黒のスラックス…局長は思わず立ち止まった。 この男はまさか、あの黒ズボンの男… 少なくとも足もとは似ている。 男は飲み友達でも相手にするような慣れたそぶりで、局長を見すえる。 こいつだ… 局長は我知らず一歩さがっていた。 男は突然、右手を首の後ろにおいて、頭のうしろをかくようなしぐさをすると、その右手を垂直に立ててから、まっすぐ水平に横にのばした。そのときシュルンと低い金属的な音がした。 男の、固く握ったこぶしの上に目がいったとき、局長は息を呑んだ。 こぶしの上に細く長い金属が浮かんでいたのだ。 それは昇りはじめた太陽を受けて、その細長い片方の側を白く光らせはじめる。 研ぎすまされた日本刀だった。 柄の部分はよく見えないが、この男は確かに右手に日本刀の抜き身を持っていいる。 恐怖が局長の足もとからはいあがった。 と、男は、右手のこぶしとその先にある刀を自分の顔の右側にもってきて、さらに左手でこぶしをつくり、右手の下のほうにおいた。バットを持つバッターの構え、八双の構えだ。 この男は待ちかまえていた。そしてあの刀で自分に向かってこようとしている。奴らが使う武器は釘だけではなかったのだ。 「おあああああ、わわわわわ」 局長は取り乱し、恐怖にかられてだらしない叫び声をあげながら、後じさりすると、たちまち男に背を向けて一目散に逃げ出した。が、右足をひきずりながらなので、それほど早くは走れない。 カカカカカカ…とすかさず後ろから追いすがる音に、振り返って見ると、あの男は、刀を構えたまま、獲物に迫るチータのように素早く追ってくるではないか。 「ひええええええ」 局長はかつて経験したことのない恐怖にかられ、しゃにむに走った。 しかし背後の音は着実に近づいてくる。 「誰か、だれか、だれか、助けてくれ…」 人に見られたくないと思ってはいたが、もはやそれどころではない。 彼の叫びが通じたように、つごうよく、はるか前方の路肩に小さなオレンジ色の車がちょこんと止まっているのが目に入った。 しめた!これは助かるかもしれない。 「だれか…」 局長は前方の車に悲鳴で叫びかけた。 必死のアピールのかいあってか、前の車は後方の動きに気づいたらしく、局長に答えるように 運転席のドアがあき、運転手が顔を出した。 局長はすこし元気づけられ、 「おーい、た、た、たのむ、助けてくれ…」 とその若い男に叫んだ。 男は異変に気づいたようでもあるが、ただ驚いているのか、じっとこっちを見つめている。 かなり離れていても、その色白の顔と、黒いサングラスが鮮やかな対照をなしているのがわかる。もっと鮮やかなのは、金色のような茶色に染められた髪だった。 局長は走っていきながら、不可解な思いにとらわれた。 いま前方にいるこの男は、もしかしたらさっき私が蹴飛ばした茶髪の若者ではないか。 思わずちゅうちょして、走る速度が一瞬にぶったそのすきに、横をすりぬけるように、刀を持った黒服が、だっと飛んで追い越したかと思うと、刀を構えたまま、着地するようにぴたりと止まった。 局長は黒服から離れていなくてはまずいと思ったが、はずみがついているので簡単に走りは止められない。黒服の横を通り抜けて追い越してしまった。 このとき、男は刀を振りおろした。 刀は局長の肩から背中にかけて、けさがけに一閃した。 あざやかな一太刀だった。 鋭く重い鉄の刃は、局長の左の鎖骨を断ち切り、その下の肩甲骨を両断し、左の肺とそのまわりを取り囲んでいる八本の肋骨を一緒に、チーズケーキでもカットするように、真っ二つにした。局長は肩を強く叩かれたような気がしたが、痛みは感じなかった。追い越した以上はできるだけ男から遠ざかろうという思いで、走りを早めたつもりだった。しかし、どうも自分の走りがおかしい。思うようにスピードが出ない。足だけ動かしても体がついてこれない感じだった。 やがて、身体の右半分は前に行くが、左半分は後ろへ下がりがちなのだということに気づいた。そして、ようやく自分の身体は二つに別れようとしていることに思い当たった。左腕を含む身体の左半分は、後ろへ下へと、むかれたバナナの皮のように垂れ下がろうとしていることがわかった局長は、恐怖と衝撃でくたくたとその場に倒れこんで、そのまま意識を失ってしまったため、局長をこんな目にあわせた黒服が乗り込んだ、あのオレンジ色の車が走り去るのを知ることはなかった。 |
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