Chapter19 回廊変事
| 510号室。三部屋続きがそれ以上に思えるゆったりとしたスイートだ。 眼下には公園の樹木が広がり、いるだけで豊かな気分にさせられる豪華な部屋だが、こんなところを使う人間のほとんどにとってはあたりまえのことであり、ことさらに味わったりしない。当然のことながら、完璧なまでの防音がほどこされ、外部の音も内部の音もいっさい漏れることはない。窓の外でミサイルが炸裂しても、隣の部屋でマシンガンを乱射しても、この部屋では瞑想にふけることができる。ここだと言葉の端を聞きかじられることもなく、大事な話もじっくりできる…はずなのだが、かんじんの話し相手がいない、つまり電話がかかってこない。 長官はイライラしていた。ボーイの話では、すぐにでも、かの最高権力者の声が電気のワイヤをくぐって鮮明に聞こえてくる、と思っていたのに。 部屋の外では、西島とその相棒が、足を踏ん張り、両手を後ろにまわして、軍の衛兵のように立っていた。両手を振り上げてポーズをとったら、山門を守る金剛力士といったところだ。二人のいる廊下は、さすがに、これまた豪華ホテルの威容で、並みのホテルの倍近い広さがあり、床にはこれまた、秋の草原ふうの毛足の長い絨毯が敷きつめられ、あらゆるものの音を吸収するしくみだ。天井の明かりは、わざと明るさがセーブされ、廊下全体をクラシックなセピア色に染めている。廊下は北から南へのびるものと、東から西へのびるのものとが、この先のあたりで交差しており、彼らがいる部屋は西へむかう棟の中間部あたりだった。あのボーイの個人的な気配りか、上からの指令でか、お偉方の内密の会話だということに気を回して、人の少ないフロアの部屋を選んでくれたらしく、この時間は他の部屋に出入りする客も、廊下を歩く客も誰ひとり見かけない。 と、廊下が交差している角から人影がひとつ現れて、こちらへ向かいはじめた。人影は老人のような歩き方で、廊下の中央をゆっくりゆっくり一歩一歩進んでくる。全体が影のようで、どういう人物かはっきりしなかったが、紺色らしいスーツを着た、男らしい。 影が現れた当初から、そちらを注視し、油断なく見守っていた二人のSPは、人影が見きわめられるくらいに近づいてきた時点で、二人ともふんと鼻を鳴らし、視線を正面の虚空にもどした。 さっき、一行をここの部屋まで案内してきた、例のボーイだったのだ。 今度は別な部屋の用事なのだろう、もっとてきぱき歩けばいいものを、今回はやけにゆっくりしている。あまりに動きが遅いので、相棒よりボーイに近いほうに立っていた西島は、つい再び目を向けた。 ボーイの様子は、さっきとは少し変わっているような気がした。西島はすこししてから、ボーイはいまはあのぶ厚い眼鏡をかけていないのだということに気づいた。しかもその目は、なんとも鋭く西島を見つめている。 ボーイの様子はどこか尋常ではなかった。西島の視線を受けながら、ボーイは両手をだらりと下げ、ゆっくりゆっくり近づく。西島は妙な気分にとらわれた。男の歩いてくるさまは、かつて見た映画の、テレビから抜け出してきて、見ている人間に近づく妖怪に似ていた。あれは確か、呪いの力で目の前の人間に危害を… この、ボーイの姿をしている男は、何ひとつ危険な武器らしいものは身につけてはいないが、西島は、そしてその相棒も、不安になった。 「おい、きみ!」 西島は鋭くとがめるように言った。 それを合図ととったかのように、ボーイはバッとその場に立ち膝になると、右手を頭の後ろにおいた。と、シュルンと金属がこすれる音がして、マジックのように光るものが現れた。同時にボーイはたちまち立ち上がり、拳を握った右手を高々とあげると、左手の拳をその下にすえた。 西島は大きく目を見開いた。 ボーイの両の拳の上にある、光る、薄く細長い金属は、まぎれもなく日本刀の刀身。ボーイの手もとはなぜかよく見えないが、その上にある、巨大なカミソリのようなものは、確かに殺気に満ちた日本刀だった。 ボーイは、右上段の構えから、すっと両の拳を自分の顔の右側にもってくる八双の構えに移った。刀の刃先は全体が西島に向いている。 「私は刀を使った犯人の手口を知っているつもり…」 西島は耕下の言葉を思い出しざま、左手でジャケットの前を開き、右手を左脇の下のホルスターに収まっているワルサーのグリップへ伸ばした。 「つぇい!」 というボーイの声とともに、八双の構えからそのまま振り下ろした剣先が、西島の懐にめり込むほうが、西島の右手が、ワルサーを握りしめてホルスターから出し、引き金を引くより一瞬早かった。 ザヒュッ! という皮膚と肉を断ち切る音がし、日本刀の剣先は、西島の防弾チョッキの襟の隙間から入り込み、西島の皮膚と皮下脂肪と増幅筋と胸筋を両断し、鎖骨と肋骨を断ち、あわせて防弾チョッキをも切り裂いた。 目を大きく見開いてボーイを見たまま、何が起こったのか実感がないまま、ワルサーを握った右手をボーイのほうに向けたまま、西島はどうっと前のめりに、ボーイのほうに倒れこんだ。 ボーイはさっと身を引いて、西島の巨体をよけざまに、左手を剣の根もとから離し、西島が持っていたワルサーを、銃身の部分をつかんでひょいと奪い取った。西島は赤い霧のような細かい血煙をあげて、物体のようにころがった。 「お、おまえ、何をする…」 西島の相棒は、予想もしていなかった急襲と、同僚の受難がにわかには信じられず、取り乱し、色を失いながらも、意外に慣れた動作で、危機のさいに無意識にとる行動規範にのっとって、右手をジャケットの内側につっこみ、ワルサーのグリップをつかんだ。 ボーイはそのままの姿勢で飛ぶように突進し、西島の相棒に激突した。はずみで相棒は、ドアのわきの、赤と金の唐草模様で色取られたシックな壁紙がはられた壁に背中を叩きつけられる。 ボーイは両腕の腹で西島の相棒の胸を押しつけ、握った両の拳で相棒の顔をおさえつける。日本刀の刃は相棒SPの顔の近くにはない。しかしボーイの拳の間には、目には見えないが、確かに棒のようなものがあった。刀の柄の部分だ。 その見えない柄で相棒の顔をぎゅうぎゅう押しつけてくる。相棒の口と鼻、アゴが押されてひん曲がる。両手を封じ込める押さえ技に、ワルサーのグリップを握った手は懐から出せない。背丈は同じくらいの長身だが、巨漢のSPに比べれば、半分くらいにきゃしゃに見えるボーイなのだが、腕力はすさまじい。しかもその金属的な顔には余裕がある。 「どうしたい?警視庁が誇るSPさん、そんな調子じゃ赤頭巾ちゃんも守れないぜ。」 銃を抜こうと必死で押し戻そうとする西島の相棒SPの努力を嘲笑うように言う。言うが早いか、いきなりボーイは飛びのいて、廊下の向かい側の壁すれすれまで退いた。強烈ないましめを突然解かれたSPは、思わずあっけにとられる。その手は懐で銃を握ったままだ。 ボーイは、口の端をゆがめた笑みを絶やさないまま、闇の中から獲物を狙うは虫類のような冷酷な目でにらみ、刀の剣先を下にさげて後方へもってゆき、刀を背後に隠すような脇構えの型をとった。さらに右足をすっと後ろへ引く。 「どうだ、これでおあいこだぜ、同じ条件ってわけだ。試してみようぜ、お前が抜いて引き金を引くのが早いか、俺の刀が早いか」 もはや胸を押さえつけられてはいないのに、西島の相棒は胸が苦しかった。この男は決闘をしかけているのだ。 脂汗が額から幾筋も糸を引く。 オートマチック銃と日本刀ではいうまでもなく銃が勝る。 しかしこの条件ではどうだろう。 こっちをのんでかかっている余裕からも、この男の腕は並ではない。床につっぷしてぴくりとも動かない西島を見るだに、いままで一度も感じたことのなかった恐怖が膝をはいあがってくる。 しかし自分は選び抜かれたプロなのだ。右翼をとりおさえたこともある。修練も積んでいる。相棒がどうなろうと、自分がどうなろうと粛々と長官を守り抜かねばならない。 「いくぜ」 ボーイが言った。 西島の相棒SPは、この先もし自分が無事だったら、この時のこの男の顔は生涯忘れないだろうと思った。ウエーブがかかった豊かな長めの髪と、浅黒い金属的な面長な顔。重くたれたまぶたの下の細い目。 西島の相棒SPが懐からワルサーを引き抜くと同時に、ボーイは頭から床に飛び込むように、床の上をSPに向かって一回転した。 西島の相棒SPが、ワルサーの銃口を向けた先には誰もいず、向かい側の壁があるだけ。あのボーイの姿はなかった。 敵は逃げたと思った瞬間、胸に重い衝撃を感じた。 床を一回転ころがって、起きる勢いを利用して、はずみをつけた剣先が、刃を横に、水平になって迫ってきて、ジャケットごと防弾チョッキと皮膚を貫いて、胸筋を突き抜け、肋骨の間をするりと抜けて、心臓の上をかすめたのだ。 SPは、自分がされたことへの衝撃と驚きで、大きく目を見開いたのち、あっという間に意識が遠のき、銃を持ったまま、立ち上がって向きなおったボーイのほうへ倒れかかって、意図せず自分の体重のせいで、さらに深く刀を自分の胸に刺し入れるところだったが、ボーイは左足を上げて、その巨体の腹のあたりを足でおさえ、ボーイ側に向かって倒れこむのを制すると、足に力を込め、ドア側の壁に蹴りつけた。 刀身は血の奔流とともにSPの胸から引き抜かれ、SPの力のない巨体は、背中を壁にぶっつけたのち、ずるずると床に崩れ落ちていったが、ボーイは、倒れる前に、SPの右手から、引き金が引かれる間がなかったワルサーをひょいとむしり取ることを忘れなかった。 |
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