Chapter20 長官の避


 耕下が思い直してホテルの駐車場から引き返したのは、やはり辺田のこと、辺田の言ったことに思いがめぐってきたためである。あのSPたちの口調からすると、辺田はどうにもこうにも浮いた存在のようだ。いかにも急ごしらえで、でっちあげの印象のある部署では無理もない。しかし、辺田の実体はよくわからないという点を差し引きしても、まわりからうとまれながらも、ともかくぬけぬけと仕事をこなしているらしい様子は、いささか耕下の共感を呼ぶところがある。自分にも似たところがあったじゃないか、以前は。いや今も。
 目下のところ辺田には部下らしい部下というものはいないようだ。だとすれば耕下が辺田の意をくんで動ける唯一の人間なのかもしれない。辺田には、他の組織に対しても命令できる権限などなさそうだが、頼まれた手前、責任を感じる。一応信頼されていた自分が、何ひとつ果たせず、おめおめ引き下がったというのは自分のプライドにもかかわる。まもなく辺田は、どうやってどこに降りるのか知らないが、ヘリでここまでやってくるという。そのとき耕下がいないのを知ったら、どう思うだろう。
 耕下は、辺田という人物に一度も会っていなかった。電話でばかり一方的なことを言い立ててくる、つまりタイミングよく茶々を入れてくる辺田とはどんな人物なのか見てみたい。なぜテロ対策室なるものがあり、どんな組織なのかも確認したい。
 また、よしんば辺田の言うとおり、長官に危機が迫っているとしたら、犯人が局長襲撃犯と同一だとしたら、なにやら抜け目のなさそうな犯人のことだけに、どうにかして長官に近づき、あるいはSPなども容易にあしらってしまうかもしれない。そこに思い至ったとき、回転ドアをくぐる足が早まった。ともかく長官の近くで辺田が来るのを待とう。またあのSPたちにつまみ出されるかもしれないが、奴らには奴らの理屈があるように、こちらにも理屈はあるのだ。いちいち気後れすることはない。
 フロントを過ぎて、エレベーターへ向かう。
 たしか510号室と言っていた。
 
 ドアチャイムの鳴る音に、ドアスコープからのぞいて見ると、例の、ここへ案内してきた、長身のボーイが威儀を正してこちらを向いている。
 「何か用ですか?」
 「コーヒーをお持ちしました。」
 なるほどワゴンには銀の盆にのせたポットとコーヒーカップがある。
 長官はコーヒーなぞ飲みたい気分ではなかったが、待っている総理からの電話もなかなかかかってこないこともあったので、
 「いま開けます」
 とドアを開けた。
 ワゴンを押すボーイを部屋に入れ、ドアノブを放して、ドアがひとりでに閉まったとき、ふと、戸の外にいるはずの二人のSPはどうしたんだろうと、いささかいぶかしく思った。二人ともいなかったようだが…いや、すこしドアから離れた、視線から外れたところに立っているのだろう。
ボーイは盆をコーヒーテーブルに移す。長官は再びベッドサイドのクラシックな電話台に乗っているクラシックスタイルの電話の前にもどった。
 「総理からの電話、まだこないんですよ。あなたがとりついでくれましたよね。ちょっと遅いんじゃないかな…」
 ボーイに軽く不満を言うが、ボーイは無言でカップにコーヒーを注ぎ続ける。
 「ねえ、ちょっと君…」
 と、無視するボーイをたしなめかけたとき、
 「局長があんたのことを話してくれた」
 と声がした。
 長官ははじめ、どこから聞こえた声だろうととまどったが、ここには二人しかいないし、ボーイの声に似ている。
 無関心そうにコーヒーを注いでいたボーイは、注ぎ終えると、ゆっくり顔を上げた。重くたれたまぶたの下の細い目が、長官を刺すように見る。そしてがらりと変えた重い口調で言った。
 「局長はあんたの指示で動いていたと言っていた。詳しいことが知りたければ、あんたに聞くといいとアドバイスしてくれた。だから聞きに来た。」
 「君は?君は誰だ?」
 長官は驚きの目でボーイを見ながらも、ちらりとドアのほうを見やる。
 「SPなら来ないぜ、となりの部屋へ放り込んでおいた。俺はボーイだからな、どの部屋でも開けられる。」
 長官はさっと受話器をとった。ボーイが長身を折り曲げるように身をかがめ、右手を背中にやるのと同時だった。
 きらりと一筋の光があり、バンッ!と音がすると、クラシックな木製の電話台の上に細長い包丁がめり込んでいた。それが日本刀の刃であり、電話台とともに電話線も切断していたことに気づいた長官は、衝撃を受け、受話器を落としてしまった。
 ボーイはカッと音をさせ、めり込んだ刀を軽々と引き抜く。日本刀のギラギラ光る抜き身は、ボーイの握りしめた右手に先に、刃だけが宙に浮いている。しかし長官は、さし迫る危機を前にして、その不思議な現象に驚いている余裕はなかった。
 「だっ、だっ、誰だ!君は、いったい…」
 「知りたがりやさ」
 言うなり、ボーイは左手で長官の胸ぐらをつかまえ、荷物でも運ぶようにぐいと持ち上げると、そのままソファーに投げ落とした。
 叩きつけられた長官は、全身がソファーの底に沈みそうになる。
 「さあ、教えてもらおうか」
 「……おっ、教えるって……な、何を……?」
 ボーイは、いいかげんにしろとでも言うようにふんと鼻を鳴らした。ウエーブのかかった長髪が額にたれかかる。その奥の目は、オパールのように表情がない。
 「局長が俺に話したことは事実かどうかさ」
 「……何を…何を言っているのかわからないな…。…局長の言ったことと私と、何の関係があるんだ…」
 「あんたも局長と同じように人見知りするタイプのようだな。局長は足に五寸釘を打ってやったら、急にうちとけて、まるで愛人にでも話すように親しげに、洗いざらい話してくれたぜ」
 「ご、拷問か…拷問したのか…局長を、拷問したのか…なんというひどい…」
 「あんたの場合、どこまでいったら、俺にタメ口をきいてくれるのかな」
 暖房がきき過ぎているわけでもないのに、長官の額には汗がさかんに露を結びはじめる。
 「局長は何を話したんだ…」
 長官が空気が抜けるように言った。
 「局長が担当している仕事の方面のことさ。台所事情の話だな、週刊誌の小さな記事に端を発する。」
 「だっ、誰か!…」
 叫んで立ち上がろうとした長官の下腹を、ボーイは左足で踏みつけて制した。
 「動くな」
 そのまま足に力をこめ、長官が痛さにうめき声をあげるようになるまで、急所にめり込ませる。そして、長官には一メートルほどにも見える刃渡りを、ゆっくり長官の顔に近づけてきた。
 「…な、何が…何が知りたいんだ…」
 「事実か否か」
 切先の少し下、ふくらから横手の部分の刃を長官の右目の下にあて、ゆっくり下に向けて頬を這わせる。皮膚の上から汗が削ぎとられる。
 「床屋じゃないからな、カミソリは得意じゃない。手もとが狂ったら許してくれ」
 「……ああああああ……」
 長官は悲鳴に近いうめき声をあげる。
 「わかってくれたようだな、長官。親友になろうぜ、隠し事のない親友に。」
 長官は目でうなずいた。
 ボーイはすっと刀を長官の顔から離し、自分の背後に隠すように刀を後ろへもっていった。同時に足も退いて、長官を圧迫から解放する。長官は電気の供給が遮断されたかのようにぐったりとなった。
 「で?」
 ボーイは事務的な口調になった。
 「上はどこまでいってるんだ?」
 長官はボーイの顔を見ずにうつろに話し出した。
 「……おそらくは外務大臣…防衛庁長官……そして…そして…もちろん総理だ……総理は、まちがいない…大本だ……ほかに何人かの閣僚も知っているかもしれない……党の三役の誰かもかんでいるらしい…言い出したのは党の連中らしいからな……具体的な方針…はっきり言えば、計画と言うべきか…おおざっぱなものだが……計画らしきものは、防衛庁長官の側近だ……」
 「財政上の問題との関連は?」
 「…むろんそれに起因している」
 「毒を皿にまで広げたってわけか」
 長官は無言でうなだれている。
 「証拠が欲しいな」
 「…え…?」
 「証拠になるものを残しているはずだ」
 長官は我に返ったように背筋を伸ばした。
 「…脅す気なのか?恐喝が目的だったのか…?!」
 「まあな」
 「そうだったのか、証拠をネタにゆすろうとする政治ゴロだったのか!?」
 長官は怒りと軽蔑をあらわにした。
 「政治研究社といってもらいたいね」
 「正体を明かしたボーイはぬけぬけと悪びれない。
 「なんて奴だ、誰がお前のような者に…」
 ふいに長官の頭の右側面が冷たくなった。目の脇に白く光る壁がある。ボーイの刀は目にもとまらぬ早わざで、長官の頭に当てられていた。それがむずむず動き、長官の右耳のつけ根に刃が当たる。長官は再び息をのんだ。
 「ディ…ディスクがあるはずだ…」
 長官はあわてて白状した。
 「…官邸の中にディスクがあると思う…た、たぶん総理の執務室に保管されている…。…計画の骨子…初期から発展した場合の対応を網羅したものだ…。…バ…バランスシートのディスクもそこにあるかもしれない…」
 「執務室のどこだね?」
 「…た、たぶん金庫…し、しかし、注意しておくと…他の人間は開けられないぞ。官邸を新しくしたときに、最新のものにしているはずだ。…私でも、君にも無理だ」
 「たぶん網膜か、手のひらで個人を確認するというたぐいだな」
 「…その上、官邸は警備も最新で、厳重だ。いかに君たちが大胆でも歯が立つまい。私のようなものには手出しができても、総理や官邸となると無理だ。あきらめて退散したほうがいい、りこうな人間ならそうするね…」
 「なるほど、しかたがない、そうするか。いい話を聞かせてもらった」
 ボーイはいともあっさり言うと、心もち頭を下げ、左手を首の後ろにもっていき、ささえるように構えると、右手の刀をひるがえして、首の後ろを刺すようなしぐさをする。
 パチンと音がして、刀が見えなくなった。
 ボーイはしばらく長官を見下ろし、にらんでいたが、やがてあきらめてように両手を広げると、くるりと踵を返してドアに向かった。
 助かった……
 長官は全身から力が抜け、椅子に沈み込んでしまった。にわかには信じられないが、とにかく奴は引き下がったのだ。凶暴な刺客をどうにかあしらうことができた。今を切り抜けられればどうにでもなる。この恐喝者の正体も見当がついた。必ず逮捕させて、この仕返しをしてやる。奴の顔だって、しっかり記憶に焼きつけた。逃がしはしない。
 長官は去っていくボーイのうしろ姿をにらんだ。長官の心の中の歯ぎしりが聞こえたかのように、ボーイはドアを開けようとノブに手を伸ばしながら立ち止まって、背中を向けたまま言った。
 「ところで聞くが、長官。あんたはこの件を知っていて、その前からもいろいろ知り、かかわっていたようだな。なんとも思わなかったのか?自分としての判断はないのか?」
 元気を回復しつつあった長官はいまいましそうに言った。
 「私は内閣の一員にすぎない。決断は総理が行うことだ。私はどうこう言う立場にない。」
 「立場にない…か。いつか総理の椅子にふんぞり返って座っていたペテン師野郎があみ出した、便利な無責任用語だな。やっぱり御用学者ってのは御用聞きの茶坊主でしかないってわけだ。ふざけた野郎だ、お前なんぞ、その地位にいる立場にないぜ」
 ボーイはくるりと振り返ると、右手を首の後ろにあて、長官に向かって突進した。
 驚いて立ち上がろうとする長官の頭に、ボーイが居合い抜きに抜き放った刀が激突した。
 刀は頭皮を破り、頭蓋の前頭骨にめり込んで、大脳新皮質を傷つけた。


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