Chapter21 階下憂乱
| エレベーターホールには、三基のエレベーターが向かい合って、合計六基ものエレベーターのドアが並んでいるが、どれも素早く機能的に動いているような割には、稼動階数の表示が空しく点滅し続け、なかなか耕下のいるところまでやってこない。 やっと開いたドアにいち早く乗り込んだが、そこは声高に自国語をわめきちらす台湾人らしい一団でぎゅうぎゅう詰めの状態だった。ボタンを押す間もなく、五階でもないところまで運ばれ、一団の波にのまれてそこで降りるはめになる。あせった耕下は、そこでちょうど時を同じくして扉を開けた、向かい側の一基のエレベーターに滑り込む。しかしそれは、こんどは日本人の団体客らしいのを満載していた。「五階を…」と言うひまもなく、今度は下へ連れていかれる。 急ぐときに起こりがちなささやかなすったもんだのあげく、ようやく五階のエレベーターホールまでたどりついたが、向かい合ったエレベーターを乗り降りしたおかげで、一瞬方向を見失った。 この建物は、細長い巨大なモノリスのような棟が交差して組み合わさってできており、上空から見ると、十字架のかたちになっている。エレベーターホールからすこし歩くと、ビルの中心、廊下が十字路になっている部分に行き着いた。 中央に立つと、廊下が四方に放射状に果てしなくのびているように見えた。どこに510号室があるのか見当もつかない。一べつしたところ、どの廊下も深夜の巨大客船内なみに静まりかえり、人影らしいものは見えない。長官がいるであろう部屋のドアの両側に番犬よろしく立っているはずのSPの姿らしいものも見当たらない。各部屋が広いせいか、個室のドアとドアの間隔も大きく保たれている。 いらだってきた耕下は、やみくもにいちばん近くにあったドアに近づいた。ドアの中央に505と浮き出た金文字が見えた。この先か。次のドアへ進む。次のドアはなんと504だった。ちがった。逆だったのか。振り向いたとき、離れたところにすらりとした人影が見えた。エレベーターに乗ろうとしているらしく、こちらへ向かってくる。 近づくにつれ、あのボーイだとわかった。長官への電話を取り次ぎにきた、背の高い、ぶ厚いレンズの眼鏡の,一流らしいいんぎんさを身につけたボーイだ。ボーイはすぐに耕下をみとめ、すべての客に対してするように、口もとにわずかな笑みをたたえながら、温かみのこもった軽い会釈をして、耕下のわきを通り過ぎようとした。耕下は、とまどっていたところでいささか見知った人間にあったため、ほっとして話しかける。 「ちょうどよかった、長官がお入りになった部屋はどちらですか?」 「え?」 はじめ耕下が誰か気がつかないふうだったが、すぐに、 「ああ、さきほど長官とお話ししておられた…」 と、思い当たってくれた。 「長官にもう一度お会いしたい用事ができたて、引き返してきたんですが、ここは広いので、どの部屋かわからなくて」 「こちらです。」 間髪をおかず、耕下の意図を理解したボーイは、右手をあげ、右側へと伸びている廊下の奥を指した。 「長官はまだいらっしゃいますか?」 「おられます。」 「ありがとう」 耕下はすばやく言い捨てて、示された方向、今いる廊下と交差している廊下の方へと早足で向かいかけたが、つと立ち止まって振り返った。 「ちょっと待った、こちらの部屋は530号室からはじまっている。510号室の部屋があるのはこっちの廊下なんじゃないですか?」 と、いままでいた廊下に続く方向を指す。 「はあ……?」 ボーイは、耕下の言っていることが理解できないといったけげんな顔をしている。 「どうもよくわからないな、ボーイさん、悪いが510号室の前まで案内してくれませんか?」 ボーイはけげんな表情からとまどいの色をあらわにした。 「あの、私、今、急ぎでフロントに呼ばれておりまして…恐れ入りますが、少しの間お待ちいただくわけにはまいりませんでしょうか?すぐに別の者をよこしますので」 「それだけじゃないんだよな」 耕下はかまわず、ボーイを見すえて一歩近づいた。 「お巡りが犬と呼ばれるのには一理ある。この仕事をしていると、自然と鼻が犬なみになるんだ。特にある種の臭いに対しては敏感になる。ボーイさん、今そこであんたとすれ違ったとき、ふっと何度か現場でかいだことのある臭いがした。血の臭いだ」 ボーイの顔にはますますとまどいの表情が広がる。急に耕下に問い詰められて脅えてもいるようだ。 「…それでしたら、あの、私、たった今、540号室のお客様に、昼食のステーキをお持ちいたしましたので…レアのステーキですが…」 「いやちがう」 耕下はさらに近づき、ボーイと真正面に向かい合った。 「こいつは牛の血の臭いじゃない、人の血だ。しかも出たての血だ。」 さっきまでボーイの顔にはりついていた、とまどいや脅えはすでに消え、かわって何の表情もない、浅黒い金属的な顔になっている。ぶ厚い眼鏡の奥にある、重たそうな両のまぶたがゆっくりと下がり、細められた両目がじっと耕下を見つめる。背の高いボーイは、ずんぐりした耕下を見下ろす形となった。エレベーターホールの真ん中で、二人の男は、瞬間的に石にでもなったように、無言で見合った。 と、片側のエレベーター扉の列の真ん中の扉が開いて、小太りの、上品そうな白髪の婦人が現れた。婦人は、目の前でホテルのボーイと客がにらみ合っているのを見て、はっとした。婦人のことなどまったく眼中にない、真剣で険悪なその場の空気に、見るからに人のよさそうな丸顔の老婦人は、一瞬、なんとも気まずくなり、ともかくこの場をとりつくろうと、思わず 「きょうは雨が降りそうもないので、傘を部屋までおきにきましたの」 と、手に持った傘を軽く上げ、誰にともなく言って、二人の間をすり抜けようとした。 次の瞬間、ボーイの両手が目に見えない速さで動き、婦人の丸々とした体をがっきと捕らえると、背中からはがいじめにするように、自分の胸に抱きとめた。哀れな老婦人は悲鳴をあげる間もなく、ボーイの付属品のようになって、耕下のほうを向かされる。 「さすがだな、警部補。鼻が利くじゃないか。おっと動くな、手を後ろへやるな!」 しまった、こいつ本人ばかりに気を取られていた。思ったより動きの素早い奴だ。 「その人を放せ!関係ない人を巻き添えにするな!」 「そうはいかんな、警部補。おかしなまねをするなよ、もう一歩近づいたら、この奥さんの首が折れるぞ」 いつの間にかボーイの右手が婦人の側頭部に当てられていた。婦人の顔がいきなり真横に傾く。婦人がかけていた金縁の眼鏡が吹っ飛んだ。何が起こったか理解できず、叫び声もあげられなかった老婦人は、ここでようやく、自分が生命の危機に陥っているらしいというただならぬ事態に気づき、目を恐怖に見開いて、ひいいいいいい…と悲鳴をあげた。 「その人を放すんだ!」 耕下は身構えたまま、横から飛びかかろうとする。 「よるなと言ったろう!」 ボーイは、耕下の突進を防ぐように、盾にした婦人を左右に振り回す。婦人の悲鳴は、さらに首が強烈に曲げられたため、か細くなる。ボーイは、全身にバネのようなしなやかさと屈強さを秘めている。もうちょっと力をこめただけで、婦人の首は細い枯れ枝のように折れるだろう。 急がねば… いきなり婦人が耕下に飛びかかってきた。ボーイが、物でも放り投げるように、突き飛ばしたのだ。婦人はボウリングのボールのように耕下に激突し、耕下を巻き込んでどうっと床にころがった。 「助けて、助けて、誰か助けてください、どうかやめてください…」 婦人は半狂乱に手足をばたつかせ、耕下の上で泣きわめき続ける。 「奥さん、落ち着いて、落ち着いて下さい、そして私の上からどいて下さい…」 コビトカバにのしかかられたカメよろしく、床の上でもがいていた耕下は、しばし婦人の体重に閉口しながらも、どうにかすり抜けるように婦人を押しのけた。床の上でけいれんするようにふるえ続ける婦人を尻目に、ボーイの姿を捜す。婦人が降りてきたエレベーターのドアがぴたりと閉まるところだった。 逃がすものか。 エレベーターのドアの上の階数表示はたちまち下の階へと進みはじめる。正面から出て行く気だ。 残り五基のエレベーターの乗降ボタンを素早く押しまくる。やはりこのエレベーターはどれも、早いようで実は遅いのだということを実感した。やっと来たと思った一基は通過して行ってしまった。業を煮やした耕下は、非常階段を探してあたりを見渡した。が、非常口の表示はどこにも見当たらない。廊下の端か、そこまで走るのか……あった!右端のエレベーターのドアの脇の、ホールの天井近くに、EXITの表示が見えた。ホテルのムードとそぐわない、まるで建物の危険性をアピールするかのような、つや消しで不体裁な非常口の表示は巧みに壁に溶け込ませられていたのだ。 取っ手らしい小さな金属のつまみを起こして回し、その壁面を押す。壁が開いて、意外に広い階段が現れた。だっと飛び込んで駆け下りる。 途中まで降りたとき、はっと思い直して、来た階段を駆け上って引き返した。まだ呆然としている婦人が座り込んでいるホールに出て、エレベーターの階数表示を見る。 やっぱり! 奴が乗っているはずのエレベーターの階数表示は、下ではなく、いまや上へと向かいはじめている。下ると見せかけて逆へ行く…人を食った奴だ。こんなふざけた野郎には、強引な態度で臨むのが一番だ。 あたりを見渡す。 あいかわらず空気が抜けたように放心したままの婦人と、婦人が落とした傘がころがっていた。素早く傘を取り拾い、エレベーターのドアに向かって突進する。傘の先端をエレベーターの扉の真ん中の隙間に無理やり押し込み、先がもぐり込むと、さらにぐいぐい押し込みながら、扉をこじ開けようとする。傘は柄の近くまでもぐりこんだ。開いた隙間に左手を突っ込み、傘を持った右手も力まかせに押す。扉は中が見えるほどに開いてきた。さらに力を込めて押し開き、上を見上げる。 むき出しの鋼鉄とコンクリートの臭いが、エレベーターシャフトの乾いた風に乗って、下から突き上げてくる。奴を乗せたエレベーターの箱の底部が、ぐんぐんとうなりをあげて、上へ上へと遠のいていくのが見えた。 身体をドアの中に半分入れ、体重でドアを開けながら、右手を後ろにまわした。 警官に限らず銃を携帯する者は、脇の下か、腰の横または後ろにホルスターを吊るし、それに銃を入れている。抜きやすいためと、暴発したりしたときに被害が少ないようにと、銃口は常に下を向くように身体にセットするのがふつうだ。ところが耕下はこのきまりに従っていない。銃がいくらか長めであるということもあるが、ベルトと垂直に交差させてホルスターを取り付けるのではなく、ベルトに沿って、つまり銃身がベルトと平行するように、腰に横向きのホルスターをくくり付けている。常に背中から隣の人を狙うように、銃身は横を向いているわけなのだが、耕下の銃は旧タイプのシングルアクションリボルバーで、撃鉄を起こさない限り暴発の心配はないし、暴発したときの用心に、ホルスターの底は厚い皮で何重にも覆っていた。その上、銃がずり落ちないように、ホルスターの口の部分がバネ仕掛けで留め金になるという仕掛けを特注することも忘れていなかった。なによりも、こうして背中の腰のあたりにセットしておくのが、耕下にとって一番都合がいいのだ。銃の重さや長さに気を取られることなく動きやすいし、急ぐときに意外と抜きやすい。 ちょうど今のようなときに。 耕下はするりと銃を抜き取ると、エレベーターシャフトの中に右手を構えた。 耕下はためらわなかった。 あいつが血の臭いをさせていたということは、長官がやられたということを意味する。 二人のSPも同じだろう。苦もなくやってのけたとすると、相当な奴にちがいない。しかし、奴がどんなに手ごわく抜け目のない奴であろうと、自分は犯人のすぐそばにいた、すぐ近くにいながら、まんまと犯行を許してしまったのだ。阻止することができたはずなのに、してやられた。しかも自分は犯人と向かい合った。天誅団とおぼしき連続殺人犯の姿を見た。(見たことのない顔だった。あの井上月昭と似てはいるが、おそらく違うだろう。とらえどころのない殺気がある) 奴は未曾有の凶悪犯だ。このまま逃がすわけにはいかない。辺田の言ったとおり、事態はテロの様相を呈しつつある。ここで捕らえなければ凶行が続くかもしれない… いや、それよりも何よりも……野郎!コケにしやがって!何が何でも、死骸にしてでも、ここで決着をつけてやる! 撃鉄を起こすと、上昇していくエレベーターの底部分、ワイヤーのあたりへ向けて引き金を絞った。 がぁん!がぁん!がぁん!と轟音がシャフト内にこだまする。 エレベーターの底に、きぃん!きぃん!という音とともに火花が散った。 静かに上昇していたエレベーターだが、どこか遠くでくぐもった音が聞こえ、ボーイは、立っている床に何かがこんこんと当たる気配を感じたかと思うと、がくんといきなりエレベーターが止まった。降りるべき17階でもないのに。 そのひょうしに、エレベーターの室内灯がふっと消えて、またすぐに灯った。しかしエレベーターは止まったきりだ。すぐに動き出そうとはしない。どうやら警部補の仕業らしい。やる気十分ってわけだ。 ボーイは表情を変えず、襟のボーイ用タイをむしり取ると、ぶ厚いレンズのだて眼鏡も放り投げ、ぐっとエレベーター室内の狭い天井を見上げた。天井全体が蛍光灯の照明になっているが、どこかを押せば、保守点検用の天窓が見つかるかもしれない。 奴をエレベーターの箱の中に閉じ込めることができた。 ここから見ると、どうやら八階のあたりだろう。このまま故障しててくれ。八階までいってから、見張りながらフロントに連絡し、エレベーターを動かしてもらって、八階のドアの前あたりで、気どったポーズで銃を構えて、ドアが開くのを待つとしよう。 耕下は再びくだんの非常階段にとって返し、八階までいっきに駆け上がった。 八階のエレベーターホールに出ようとしたとき、続きになっている階段の、はるか上のほうを駆け上がっていくらしい足音を聞きつけた。 奴だ。 エレベーターの箱から抜け出し、八階のドアをこじ開けて、エレベーターホールに出、この非常階段をいち早く駆け上がって、耕下に先んじて上の階を進んでいるというわけだ。 大柄に見えたが、リスのようにすばしこい奴ではないか。 耕下はちゅうちょせず、非常階段をさらに上へと駆け上がった。 |
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