Chapter22 屋上庭園の決闘(一)
目が回るほど踊り場と階段を駆け巡り、ここが何階なのかわからなくなりかけてきたころ(それでも奴には追いつかない)、スポーツクラブでの鍛え方が足りない足腰は、感覚がなくなりはじめ、足ももつれだしてきた。 駆け上がるつもりが、手すりにつかまってようやく一段づつ上ることができる程度になってきたとき、太いスチールの頑丈な柵が行く手に立ちふさがった。 『関係者以外立ち入り禁止』と英語と日本語とフランス語と中国語で書かれたプレートが取り付けられている柵は、入り口がいかめしい扉式になっていたが、押すと抵抗もなく開いた。鍵はかかっていなかった。 さらに進むと階段がいくらか狭くなり、ついに行く手をドアがふさいだ。さっきと同じ文句が 全面に書かれた、見るからに堅牢そうな鉄のドアだ。 ここか? むろん階段の進む先は一本道だった。この先しか行くところはない。奴はこのドアをくぐっていったのか?とても素手では破れそうもないドアで、取っ手の鍵穴には、客が入り込まないようにしっかり錠がおろされていることは確かだ。ほんとうにこの先へ行ったのだろうか?奴めどうやってここを開けて…と、いぶかしんだとき、あいつがボーイの格好をしていたことに思い当たった。奴はボーイに化けていた。とすれば合鍵を盗み持っていても不思議ではない。 ドアノブをひく。 ドアは簡単に開いた。やはり鍵は開けられていた。いましがた開けていったものなのだろう。再び施錠しなかったのは、あわてていたせいかもしれない。額から首から渓流のように汗を流しながらも、耕下は新たな気力がよみがえる思いで踏み出した。 ドアの中は暗かった。あたりはさらに狭く、階段は急になっている。耕下は頂上間近の山道を踏破する思いでしゃにむに登った。かなりの高さなのだろう、心なしか空気も希薄になってきたような気がする。と、暗がりの中でも、広さが感じられるところに出た。 壁面の一ヶ所に小さな明かりがあり、Rという文字が輝いているとこらから、ここにあるのはエレベーターで、ここは最上のエレベーターホールだとわかった。おそらくは業務用として、エレベーターも一基はここまできていたのだ。エレベーターの横、突き当りの壁らしいところに、その裏側に明るさが感じられ、その壁にあるドアが屋外に通じていることをうかがわせる。 耕下は手探りで取っ手を探し当てると、油断なく身構えて、すっとドアを開けた。 まばゆい光に一瞬目がくらんで何も見えなくなる。 それほど強くはないが、予想外に冷たい風が頬をなでてくるのにたじろぎながら、目を細めて、あたりをすかして見た。その瞬間、耕下はふと我が目を疑い、いきなり異空間に迷い込んでしまったような違和感を覚えた。 いつのまにか自分は、公園の真ん中にいた。 あの、犯人とおぼしきボーイを追って、階段をかなりの高さまで駆け登ってきたはずだ。つまりここは、階段の果て、ホテルの屋上のはずなのだ。なのに自分は、このホテルの前に前庭よろしく広がっている、都が管理する広大な公園の中にいるではないか。 目の前には、手入れが行き届いた生き生きとした緑の芝生が、とほうもなく幅広の長い帯のように、はるか先まで伸びていて、その帯の真ん中へんには、噴水がしつらえてあるらしい巨大な円形の池まである。長い緑の帯の両端は、装飾的な独特なカーブで縁取られている。 まさしくフランス式庭園だった。 あたりから、下のほうから、ほうはいとわきあがってくる車の騒音と、思わず呼吸を速めたくなるような、いかにも高層らしいよどみのない空気、前方に山脈のように浮かんで見えるビルの群れが、耕下を一瞬の幻惑から引き戻した。 屋上庭園。 このホテルには耕下が初めて見る、前代未聞の巨大な屋上庭園がしつらえてあったのだ。十字型に組まれたホテルの棟の、公園側に向かっている、高く長いほうは、全体が、地上にある都立公園の中心部分をそっくりまねたフランス式庭園となっていた。ありきたりな仕事中の場合〜つまり捜査にかこつけて暇つぶしをしている場合〜などであれば、耕下は、この、ビルの波間の、宙に浮く、庭園の景観に長いこと見とれていたことだろう。 この広大さ。 内側の、真ん中に池のある、緑の芝生をフィールドだとすれば、、そのまわりの、コンクリートの上を二重にめぐる太いパイプラインはトラックだ。ここは空中に浮かんだ陸上競技場と見えなくもない。 しかし、そのトラック〜パイプラインの横の通路〜を悠然と、池の方へ向かって歩いていくのはアスリートではない。広い肩幅と長身を揺らしながら、影のように遠ざかっていくのは、まちがいなくあのボーイだった。 耕下は腰の後ろに右手をやると、流れるような動作で銃を抜いた。 「とまれ!そこで止まれ!聞こえただろう、止まれと言ってるんだ。日本語がわからなけりゃ、英語で言ってやろうか。アメリカのお巡りは、言いながら撃つらしいぞ」 リボルバーの銃口は、ぴたりと男の背中の真ん中に向けられる。 男は歩みをゆるめると、やがてその場に立ち止まった。 そして深呼吸でもするように、胸を張って背筋を伸ばした。 しかし、観念したように見えるポーズではない。両手はだらりとたらしたままだ。 「よーし、それでいい。ききわけがいいというのはいいことだ。人間の持つ美徳の一つだな。では、そのまま、ゆっくりこっちを向くんだ。ゆっくりだ!」 長身の男は、言われたとおりにゆっくりと、上体を揺らしながら、耕下に向きなおった。喪服のような黒い上下のスーツ、しみるような白いシャツ。もはやボーイ用のタイはしていないが、まちがいなくあのボーイだった。 浅黒い金属的な長い顔。豊かな長髪が風に揺れて、その広い額にかかる。もはやあのぶ厚いだて眼鏡はない。かわりに、影のようにその顔を横切っているのは、細い、濃い色のサングラスだった。目の表情は読み取れないが、サングラスを通してもその鋭さが伝わってくる。高い鼻りょうと対を成して酷薄さを演出している薄い上唇は、直線的に引き結ばれてはいるが、心なしか、片方の端がゆがんでいるように見え、にやついているとも受け取れる。 「逃げ足の速いボーイさん、やっと追いついたぞ。ではこんどはゆっくりと両手をあげてもらおうか」 耕下のリボルバーの銃口は、いまは男の胸のど真ん中に向けられていて、標的をロックでもしてしまったかのように、いささかのゆるぎもない。 男は、だらりとたらした両手をゆっくりゆっくり広げながら上げていった。 丸腰だった。 背にも腹にも全く武器らしいものは帯びてはいないとみとめた耕下は、いささか安堵して、ほっと息をついた。 だがまだ油断するわけにはいかない。スーツのポケットに小型銃がしのばせてあるかもしれないし、耕下のように腰の後ろに、ベルトに銃をはさんでいるかもしれない。 耕下の静止がないためか、男はなおも言われたまま、両手を上げ続け、肩よりもさらに高く上げ、完全なホールドアップの姿勢をとり終えても、なお上げ続けている。 「そんなに高く上げなくてもいいぞ、手錠がかけにくくなるからな」 男を見すえたまま、右手でリボルバーを構え、左手でポケットから手錠を出しつつ、静かに男に近づく。 男は、耕下の言葉など聞こえていなかったかのように、機械仕掛けで動いているような、なんとも自動的な動きで、両手を頭の後ろへもっていく。もはや抵抗のつもりは全くない、という意味の意思表示のつもりなのだろう。と、シュルンと金属的な音がして、男の両手が、それまでの緩慢な動きが嘘のような突発的な動きを見せ、そして瞬時に停止した。 耕下は何が起こったのかわからなかった。 目をパチパチさせて、あらためて男を見つめる。 男の両手は、その金属的な顔の横にあった。 右手で拳をつくり、その下に左手で拳をつくっている。 バッターがバットを構えるようなポーズだった。 何かの拳法か、おまじないのつもりなのかと、あっけにとられていた耕下は、やがて男の顔の上に目がいって、息をのんだ。 厚い雲を切り裂いて、一筋の陽光が寒々と地上に降り注ぐ。 耕下と男はスポットライトを浴びるように、その陽光の中にいた。 陽光を突き刺すように天空に向いて、白く輝いているのはまさしく、先が鋭く尖った細い刀。雲のかげんで陽光が揺らめいたとき、それは、表面がガラスのように研ぎ澄まされた鉛色の金属へと変わる、巨大なカミソリ、日本刀だった。男は日本刀を握りしめて、耕下と向かい合っていたのだ。いや、正確には握ってはいない、日本刀の刃は、刃だけが独立していた。男が握った拳の上数センチのところに、抜き身の刀がふわりと浮かんでいたのだ。 「おい、おい、これはいったい何だ……?」 耕下は深刻な状況の中に唐突にふってわいた珍妙な現象に、めんくらうと同時に、場違いなこっけいさも味わった。 「おもしろい、面白いな。この場の雰囲気にふさわしい、気の利いたアトラクションってわけだ。マジックで、とげとげしい気分をやわらげてくれるつもりなんだな。やるじゃないか。」 耕下の軽口にも、男は石のように表情を変えない。そして石のようにポーズも変えない。 「それはどういう仕掛けになっているんだ?ピアノ線で吊ってるのか、磁石で浮かせているのか……?……ははあ、柄が透明になっているんだな。透明に見える布かなんかがあるってのは、どこかで聞いたことがある。柄も鍔も透明で、鞘も透明だったら、さぞや持ち運びには便利だろうな。空港の探知機では、ひっかかるかもしれんがな」 耕下は、相手につけ入る一瞬のスキを見つけようとして、話しながらも、空中の刀身をちらちらと観察した。 こいつはまちがいなく日本刀、正真正銘の真剣だ。しかもよく切れるワザもの。そして今しがた斬ってきたばかりだ。抜き身全体が濡れたように光っているのは、脂が乗っているためだ。おそらくは長官とSPたちの脂だろう。抜き身の刀の不気味さに、思わず怖じ気が、足もとから全身にはいあがる。それを見すかしたように、男は右足を一歩踏み出し、全身がずいと耕下に、わずかに近づいた。 「動くな!動くんじゃない!俺が何を持っているのかわかっているのか!銃だぞ。お前がいくら使い手でも、いくら居合いの達人でも、刀の先が伸びる速度よりは、鉛の弾が飛ぶほうが速い。もう勝負はついてるんだ。お前が刀を使えるほど器用だってことはもうわかったから、さっさとそれを置け。これ以上手向かおうとするなら、本当に引き金を引かなきゃならなくなるぞ。」 男は表情を変えない。 黒メガネからは本当の表情がよみとれない。引き下がるそぶりも見せない。 「たぶん、そいつで長官に手を下したんだろう。今までの、日本刀を使った殺しにも、お前は一役かっているはずだ。凶悪犯を撃つのに遠慮はいらない。俺の係長は反対するだろうがな」 耕下は自分にも言い聞かせるように言った。 過去に犯人を撃ったことは二度、いずれも急所をはずして狙っている。 男は耕下の言葉に何の関心も示さぬように、ぐっと顎を引いた。 「やめろ!刀を捨てろ!」 耕下の右手も、男の心臓から少しも狙いをはずそうとはしていない。 男は勢いをつけるように刀を少し上げぎみに、後ろに引いた。 まさしく斬りかかる寸前の構え。 「ちっ!」 耕下は舌打ちをしつつ、顔を歪めて引き金を引いた。 轟音と火花と同時に煙が立ちこめ、火薬の臭いが鼻をつき、男は、胸に横綱の突き押しでもくらったように、もんどりうって倒れる…… ことはなかった。 何も起こらなかった。 耕下の銃は、突然、石にでもなったように静まり返っていた。 「え?!」 あわてて右手の銃と男を見比べる。 男はいよいよ刀を振り上げる。 さらに男に向けて引き金を引いた。 何も起こらない。銃はうんともすんとも言わない。 さらに引き金を二度、三度引き絞る。 引き金は動くが銃は発火しない。 ここで気がついた。 なんという間抜けだ。あきれるほど初歩的なミスだ。 撃鉄を起こしていなかったのだ。 耕下の銃はシングルアクションのリボルバーだ。一発撃つためには、一発ごとに撃鉄を起こしてシリンダーを回転させなければならないのだ。やたらと発砲しないため、一発ごとに頭を冷やすため、(そして撃った以上は相当な効果がみこめる大口径でもあるため)一動作多い、これにしていたのだが、係長の言うとおりダブルアクションのSWにしておくべきだった。男を追うのと、その突然の奇態な行動に目を奪われて、しかも経験のない勝負にいくらかあがっていて、撃鉄を起こすのを忘れていた。 撃鉄を起こそうと、あせって親指を撃鉄にかけた瞬間、 「せいぃ!」 という気合の一声と、風を切る音がまじって、日本刀の刃が、裁断機のように、耕下の脳天めがけてまっさかさまに落ちてきた。 |
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