Chapter24 屋上庭園の決闘(三)


 「動くなっ!そのまま!」
 かん高い、それでいて太さのある声がりんと響き渡った。女の声のようでもある。閻魔の声だろうか。ここは地獄なのか。斬られた感じも、痛みも感じないまま一瞬で死んで、いきなり地獄まできてしまったのか。閻魔とはじつは女だったのか。まあ、考えられないことではない。
 「動かないで!何度も言わせるんじゃないのっ!日本語がわからないのっ!だったら英語で言ってやりましょうか、Freeze!フリーズよっ!」
 決然とした命令口調の中に、自然なのか無理をしてなのか、妙な余裕をおりこんでくる。
 誰に言っているんだろう、聞き覚えのある声だった。前に聞いたときは抑揚のない無感動な声だったが、今の声は心なしか震えが感じられる。
 耕下はそうっと目をあけてみた。
 男はいた。さっきと同じ姿勢で、そのまま固められたように、刀を上段に構えたまま、そんなポーズのマネキンのように、動かずにいた。
 サングラスは耕下をにらみつけてはいるが、どこかしらいらだちが漂っている。
 自分の、ゆるぎない、よどみない動きを、いきなり脈絡なくストップモーションにされ、爆発しはじめるエネルギーと、無理にそれを押さえ込もうとするエネルギーのせめぎあいで、表情に乏しいはずの顔に、いらだちと怒りが少しづつ形となって現れはじめていた。
 邪気なく意外そうに、不思議そうに見つめる耕下の目をみとめた瞬間、男のいらだちと怒りがふくれあがり、だっと下段から振り上げようと一歩踏み出した。
 「動かないでって言ったでしょうっ!」
 またしても決然とした声がひときわりんと響き渡り、同時に高いヒールが一歩、屋上のコンクリート面で地団駄を踏んだ。
 すらりとした長身がエレベーターの前にあった。
 ゆるやかな風が、やわらかな長い髪をなびかせて、いちだんと白く感じられる顔を軽く横切らせ、続いて、明るいベージュのパンツスーツのジャケットをひらめかせて、襟ぐりの大きく開いたブランドTシャツを露出させ、浮き出た鎖骨と、実際には耕下が思っていたよりも大きいと思われるバスト部分をかいま見せた。
 彼女は、決定的な決めのポーズを決めたマネキンのように、スキのない姿勢で、グロック17を右手に構え、左手で右手首をしっかり握って、銃の先のターゲット、つまり男を、完全にロックしていた。
 「馬子ちゃん!」
 馬子はいつからそこにいたのか、まるでその風景には欠かせない約束ごとのような存在感で、そこにいた。
 「やったぞ、うまこちゃん!助かった!ありがとう!ほんとによく来てくれた、危ないところだった、俺はもうすこしでこいつに、上下だか左右だかに、真っ二つにされるところだった。間一髪だった、うまこちゃん。キミはホントに優秀だ、自分で言うだけじゃなく、ホンネで優秀だった。よくわかったよ、うまこちゃん、キミならきっと……」
 「マコよ、警部補。私はマコ。ジョークで名前を呼ぶのはもうこれっきりにしてね。それに、わかったから、もう騒ぐのはやめて。こういう場面で、警部補のがなり声は集中の妨げになるの。」
 なるほど、馬子の表情のない顔からは、緊張のためかいちだんと表情が失せ、目を見開いた能面のようになっている。そして口調は耕下に対しても厳しい。
 「警部補が市籠署の現場からいなくなったすぐあとに、私の携帯に辺田捜査官から電話があったんです。長官護衛に向かった警部補が、もしそこでそのまま犯人に出くわすことがあったりしたら、手に負えなくなるかもしれないから、様子を見に行ってくれって。で、捜査官に教えられたこのホテルまで来てみたら、エレベーターのひとつが動かなくなった、屋上が変だって、ホテルの人たちが騒いでいるじゃない。ともかく屋上からチェックしてみようと思ったわ」
 「いいところに来てくれたぜ、これこそほんとの天の配剤ってやつだ。今のキミは天使に見えるよ、いつもステキだが、今は特に輝いて、モデルよりステキだ」
 「わかりきったことを言わなくてもいいわ、警部補。それよりこの様子だと、もしかして長官は…?」
 耕下は渋い顔でうなずいた。
 「こいつの、その、柄も鍔も目貫も見えないおかしな刀からは…刃先から血の臭いがしている。…はじめ長官に会って、警告だけはしたんだが…こいつに裏をかかれたらしい…」
 「油断しないで、警部補!」
 馬子はあらためて、長身の男の両手の先に浮いている、抜き身の刃文のおぞましさに思い当たったらしい。かたときも男から目を離してはいないが、銃を構える両手にさらに力をこめた。
 「大丈夫さ、もうこいつは手も足も出ない。おい、わかったろう、剣術使い!いまお前を金縛りにしている彼女は、舞網署一有望な新人だ。頭も切れれば銃の腕もたつ。お前の心臓はもう完全にロックされてしまった。正確に言えば、右心房のどこへでもグロックの弾が到達するってことだ。刀と銃じゃ勝負にならん、年貢の納め時だな。」
 あいかわらず、どこからもつけいるスキがないほど完璧に見える構えのままの男は、しかし、自分の立場を思い知ったようだ。その迫力と殺気、眉間の深い縦じわは凍りつき、行き場を失ったようにそのままだ。
 「お前は確かに、腕の立つ刀剣マニアなんだろう。刀を持った相手や、丸腰の人間には効果があるんだろうさ。柄を見えなくしたりするハイテクな工夫もあるしな。だが、そもそも銃社会の現代にそんなものを持ち出してくるという時代錯誤が運のツキだったな、さっさとその刀を捨てろ!」
 ここに至って男はついに観念をした。
 うなる犬のように歯をむき出しにし、サングラスの下の顔半分を大きくゆがめて舌打ちをすると、スイッチを切られでもしたように全身の力を抜き、下段の構えをゆるめて解いた。
 そのまま、ふんとすねるような態度で、刀を握った両手を前のほう、馬子がいるほうへ突き出す。そのまま両手を開いて、ぽろりと刀をコンクリート通路に落とす、ものと耕下は思っていた。
早くも、この不敵な男を署までしょっぴいて、尋問している場面を思い描きはじめていた。
 そのとき耕下の、そして馬子の一瞬の虚を突くように、男は見えないような速さで、左手を動かし、シュッという小さな音とともに、左手の手のひらを垂直に向けて、馬子を指した。
 同時に馬子から
 「あっ」
 という小さなため息のような声がもれる。
 それを聞きとめたらしい男は、左手をまっすぐ伸ばしたまま、意識するように、口の端をゆがめた。サングラスで隠されていない顔の下半分にゆっくりと笑いが広がっていく。
 耕下は一瞬、無言劇の腹芸を見る思いで、当惑気味に二人を見つめる。
 馬子に変化が現れはじめていた。
 見開かれていた目が、いっそう、飛び出るのではないかと思えるほどに見開かれ、腰だめの銃構えの姿勢から、さらに少しづつ上体を前かがみに下げていく。腰の曲がった年寄りのように背中を丸めはじめていた。
 どうした、何があったのだ、何か起こったのか?
 「うまこちゃん…?」
 耕下はあらためて緊張をうながそうと、声をかけた。
 そしてそのとき馬子のジャケットに気がついた。馬子ちゃんはバッジをつけていたっけ、こんなおかしなバッジを?
 ちょうど男が左手の手のひらで指す先のベージュのジャケットの胸のところに、バッジのようなものがあった。まるで馬子の胸から棒がはえてきたような不自然なかたちでジャケットにくっついている。すべて銀で細工された小さな短い棒。と、そのジャケットに接している銀色に光る部分のまわりのベージュ色の生地に何か染み出してきたようで、バッジのまわりの部分を小さく黒く染めだしたかと思うと、少しづつ大きくなりはじめ、色も赤黒く変わっていく。
 小柄だ!
 なんてことだ!こいつは一瞬のすきに左手で、刀の、見えない柄に隠していた小柄を抜き放って、馬子の左胸に命中させてしまった。小柄は柄を残して深々とジャケットに突き刺さっていたのだ。
 馬子はたちまち目の焦点を男からずらし、同時に男に向けていた銃も下を向かせ、前後に上体を揺らしたかと思うと、そのままどうっと仰向けに倒れかかった。
 「う、うまこちゃん!」
 耕下は思わず走りより、馬子が、投げ出された砂袋のようにコンクリートの屋根床に倒れる寸前に抱きかかえた。同時に、銃を持ったままの馬子の右手を、そのまま自分の右手で包みこむようにして持ち、男に銃を向けるのを忘れない。
 「動くなっ!この野郎!……馬子ちゃん、しっかりするんだ……!」
 馬子は焦点の定まらない目で空を見ている。
 馬子の体重が耕下の左腕にかかってくる。馬子は大柄な割にはほっそりしていて軽かった。うつろな顔からどんどん血の気が引きはじめている。
 「なんてこった…なんてことをしやがる、この野郎!殺してやる!殺してやるぞ!」
 耕下は馬子と男と交互に見やりながら、馬子の力のない右手を握りしめ、グロックの引き金にかかった馬子の人差し指の上を包む自分の人差し指に力をこめる。
 男はこの状況にも全く動じない。
 耕下は引き金を引きっこないとタカをくくったような態度で、悠然と刀を持った右手を上げると、たちまち背中の見えない鞘にパチンと抜き身を納めた。
 「そんなことより、さっさと救急車を呼んだほうがよくはないか。その娘は危険な状態にあるに違いない。正確に言えば、俺の小柄は彼女の右心房に達している可能性がある。」
 「くそっ!黙ってろ!うまこちゃん、馬子ちゃん、気を確かに持ってくれ!傷は浅い、大丈夫だ!結婚もしないうちに死ぬんじゃない……」
 馬子はぐったりしながら細い声で言った。
 「マコよ、マコって呼んで…。…大丈夫、警部補。そんなに耳もとでどなられると頭が痛いから……傷は浅い、とは思わないけど、私は大丈夫だから、あいつを逃がさないで……」
 言いながらも少し顔がゆがめられ、目がとじかげんになる。
 耕下は迷っていた。馬子の胸から小柄を引き抜いて血止めをするか、このまま救急車を待つか。傷が心臓まで達していれば、引き抜くと同時に血が噴出し、ショックで瞬時に彼女の命は消えるかもしれない。
 判断がつかないまま、傷の状態を見ておこうと、そっとジャケットをめくった耕下は、次の瞬間、思わず歓声をあげた。
 「やったぞ、馬子ちゃん!助かった、大丈夫だ!君の大好きな携帯のおかげだ、携帯が君を助けた!このくそナイフは携帯に刺さってたぞ、ホントに傷は浅いっ!」
 小柄は馬子の胸のポケットに入っていたピンクの携帯のど真ん中に突き刺さっていた。折りたたまれた自動オープン式のプラスチックの携帯を貫通して、先端が馬子の胸にわずかにめり込んでいたのだ。小柄は弾丸のようなスピードで飛んできたというわけだ。
 耕下はためらわず、小柄の柄の端を、自分の指紋をつけないようにつまむと、慎重に、携帯ごと馬子の胸から引き抜いた。血まみれの携帯と小柄をジャケットにぶら下げたままにして、ハンカチを取り出し、馬子のブラジャーの下に押し込んで血止めにした。馬子の胸が予想外に豊かだったことも、深手に至らないことにつながったのかもしれない。
 傷は浅いと知らされて、ささやかな応急手当をされても、馬子の状態はよくならなかった。ショックのせいか、どんどん力が抜けていき、目は半分開いているが、見てはいない。
 「もう大丈夫だ、馬子ちゃん、この傷はすぐ治る、そして君の昇進に大いにプラスに…」
 耕下の声に励まされたのか、馬子は気づいたように目を開けかげんにし、耕下を見た。表情が完全に消えたうつろな顔が痛々しかった。
 「…なんだか…気が遠くなってきて…もうダメみたい……」
 「ダメじゃないって!」
 「…言っておきたいことがあるわ、警部補…聞いてくれる……?」
 「なんだい?つらいならむりしてしゃべらなくていい、あとで病院で聞こう」
 「…たいしたことじゃないんだけど…警部補、ネクタイが変よ…」
 「だから、こいつはさっき、あいつに刀で切られて…」
 と言い返そうとしたとき、がっくりと馬子の力が抜け、溶けるように耕下の腕の中に体重をあずけてきた。
 「馬子ちゃん…」
 「なるほど、携帯が盾になっていたとは、俺としたことがぬかったな。狙いは正確だったんだが」男は二人のすぐそばにいて、あたかも馬子の容態を心配する同僚でもあるかのように、長身を折り曲げて馬子をのぞきこんでいた。
 耕下はぎょっとして声をあげるところだった。馬子に気をとられるあまり、一瞬男から目をそらしていた。男は一秒もしない間に、大胆にも二人にふれられるところまで近づいていたのだ。
 「うっ、動くな!今度こそ容赦しないぞ!」
 耕下は、向けたグロックをそのまま、力のない馬子の手から抜き取ると、しっかり自分の右手に納め、あらためて男の胸に狙いをつけた。
 男は耕下の警告にも全くひるまない。両手をおどけたような芝居がかったしぐさで広げると、後じさりをはじめた。不思議なことに、あの、刀を構えていたときの殺気はまるで感じられない。男の急な接近に気づくのが遅れたのも、男が殺気を発していなかったせいだった。男はそのまま上体を揺らして、なんだか愉快そうに、屋上庭園を散歩でもし出しそうに、ひきさがる。
 耕下は男から目をそらさないまま、静かに馬子を床面に寝かせると、ゆっくり立ち上がり、左手で銃を構えた右手首を持って、しっかり男を銃の致死射程範囲内にロックした。このグロックには弾が何発込められているのか知らないが、必要なら全弾ぶち込むつもりでいた。この大柄な男の体重を鉛の玉でさらに増やしてやる。
 これまでは事件の捜査にすぎなかった。だが、同僚が目の前で傷を負わされてしまった今は、もはや私事だ。自分の至らなさも思い知らされ、誇りも大いに傷つけられてしまっては、なおこのまますますわけにはいかない。いまや、客観的な捜査を遅らせも進ませもする個人的な怒りが加わっていた。
 「心配するなよ、警部補。そろそろ時間だ、俺は退場するよ。」
 言うなり男は身をひるがえすと、長方形に伸びた屋上を、突端へ向けて走り出した。耕下は、まだしかし発砲しなかった。銃を構えたまま男を追う。どうあがいてもこの先は行き止まりなのだ。
 案の定、男はたちまち長方形のビルの屋上の北の端に達し、立ち止まってしまった。
広大な長方形をした屋上は、その縁が枠取りされたように高くせり上がり、ビルの外壁と同じ石造りの、幅一メートル弱、高さ一メートル強のフェンスとなっていて、その内側に配管パイプが二重にめぐらされている。つまり内側のパイプで行き止まりなのだ。
 耕下も走るのをやめると、ゆっくり男に近づいた。
 「さあ、どうした。さすがにこれで終わりのようだな。もうどこへも逃げられまい。なんならもう一度刀を抜いて、得意の剣術で向かってきたらどうだ。それとも小柄を投げるのがいいか。剣道をやるんなら、いさぎよく一本とられたことを認めるんだな」
 耕下は相手を威圧するために勝ち誇った。
 しかし、男はこれほど追いつめられていても、余裕ある態度を崩さなかった。サングラスの下の目の表情は見えないが、息ひとつ切らさず、あいかわらず口の端をゆがめて薄ら笑いのような表情を浮かべながら、値踏みするように耕下のほうを見る。と、軽い動作でジャンプしたかと思うと、手前の配管パイプに飛び乗り、続いて縁に近いほうのパイプもひらりと乗り越えた。
 このホテルの北端は、南端も同じだが、長方形の巨大なブロックのような棟が組まれてできた十字形のてっぺんの部分にあたる。この面は国道や公園に面した、正面の顔にあたる部分だ。国の中枢へとつながる、大河のような車の流れが絶えることなく続く国道を見下ろす、この細長い正面は、壁面が縦に三列の帯に分かれていて、真ん中の広めの帯の部分は客室の窓がなく、のっぺりしていて、屋上の近くの高みにホテルのエンブレムが誇らしげに刻まれている。
 男が進んでいったのはこの部分の屋上だった。
 もう男の先には、屋上と空中をさえぎる最後のフェンスしかない。
 「どこまで行く気だ、止まれ!」
 言いながら耕下の胸を悪い予感がよぎった。
 「何をする気だ?!」
 こいつ、まさか…

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