Chapter25 屋上庭園の決闘(四)

 
 「あれを見てください」
 二人ともヘッドホンをつけていて、会話には不自由しないというのに、パイロットはがんがん響く大声で言い、しかも身振りで指し示した。二人でぎゅうぎゅうの狭いコックピットで、頭のすぐ上で、ローターの回転を感じるヘリともなると、パイロットの会話はこうなりがちなものらしい。なるほど、真上から見ると、十字型のビルであり、その十字の、キリストの頭の上のほうにあたるあたりに、二人の人影が見えた。上から見ると、都会のビル群はオモチャのようでもあるが、オモチャほどかわいくはない。どちらかというと、無機質な岩の谷間の連なりだ。
 捜査官は足の裏がムズムズしていた。
このヘリは、手に入れた誰もが、すぐ使ってみたくなるほど愛らしく、使い勝手のいいものではあるが、かわいらしい見かけどおり、大の男が乗るには、あまりに狭く小さすぎる。定員二人だが、二人乗ると息苦しい。飛ぶ軽乗用車というより、スクーターが空を飛んでいるようだった。おまけにまわりはすべて金魚バチそっくりの真ん丸いガラスの風防ときている。視界がすべて、さえぎるもののない大空であるために、イスにちょこんと座った不用意なポーズのまま宙にぶら下がっているようで、何度乗ってもなんとも落ち着かなかった。ビルが巨大な墓石の林立のように見えてはなおさらだ。保安庁の格納庫からここまで、リニューアルしたヘリのほんの上昇・下降の試乗の一環として、何の飛行許可も得ずに飛んできてしまった。首都のど真ん中は前回の川原とは違う。このまま本庁や議事堂の上を飛んだら、騒ぎになるかもしれない。いや、武装ヘリと知られたら騒ぎどころではないかも…
 しかし、ガンのセットが完了したのち、ただちにここまで飛んで来たのは正解だった。あれから馬子からも耕下からも連絡がなかったということは、できる状態でなかったということだ。
 「あの、屋上に倒れているのは女性のようですが」
 「緑巡査長…」
 「大丈夫でしょうか?」
 「ともかく本庁から救急車を呼んだほうがいいな」
 応援も必要かもしれないが、できれば呼びたくない。ここは耕下と二人だけで容疑者をひっとらえて、自分の存在感を示したい。
 屋上に立っている二人は、このヘリには気づかない様子で真剣に向かい合っているようだ。巨大ビル群に分割された大空の中では、小型のヘリはオニヤンマよりも目だたないのだろう。機体の下の二つの黒い筒がすご味があるものの、アーバンパターンの迷彩が施された、ほっそりした胴体は、新品のラジコンヘリと見まがうほどオモチャっぽく、爆音もコックピットで思うほどすさまじくはないのかもしれない。
 「もうすこし近くへ寄ってくれ」
 「着陸しますか、屋上に?」
 「いや、もう少しだけここから様子を見よう」
 「追いつめているように見えるほうが、捜査官のお知り合いですね」
 「そうらしい」
 銃らしいものを構えながら、慎重にパイプを乗り越えていこうとしている、ずんぐりした男はまちがいなく耕下だ。ということは、屋上の端に立って、長髪をなびかせている、大柄な黒服の男が容疑者ということになる。
 馬子が、ベージュ色のジャケットの胸のあたりを赤黒く汚して倒れているところを見ると、長官もボディガードもやられたと思っていい。奴はやはりテロリストと思ってまちがいない。
 推測は当たった。本能的な予感は的中していた。犯罪者はやはり局長から長官をたどって、手にかけたのだ…短時間にたたみかけてきた…
 何のために…
 自分が見込んだ耕下を差し向けたのは正解だった。
よくぞ、どうにかここまで容疑者を追いつめたと、耕下を大いにほめてやりたいところなのだが、見れば、相手の男は意外にも平然としているようだった。かなりの手練と、警戒するに越したことはない。この期に及んで、どんな隠し球を持っているか、少し出方を見てから着陸してもいい。
 「しかし、あいつはもう動きがとれませんよ」
 こうしてホバリングしていても、他に機影はなく、空から仲間が男の救援に駆けつける気配はない。パイロットの言うとおりだった。
 
 男は耕下のほうを見ながら、配管パイプを乗り越えたときの俊敏さで、ひょいと後ろ向きに飛び上がり、ひらりと一段高いフェンスに飛び乗った。耕下は息をのむ。
 幅広の、城塞の外壁のようなフェンスとはいえ、接しているのは何もない空中だ。この屋上庭園は、飛行機など空をゆくものに見せるためのもので、一般客を入場させるためにつくられたものではないことは明らかだった。とび職でもないかぎりたいていの人は、こんなビルの屋上のフェンスによじ登ろうなどとは思わないし、その上に立とうなどとはもってのほかだ。フェンス越しにはるか地上をのぞき込むだけでも、足がすくみ目まいがする人が多いだろう。
 耕下は、追いかけて、競うようにフェンスに上ろうなどという気は毛頭なかった。
 ここまで来ると下の騒音がいっそう激しく聞こえる。ホテルのビルの正面の国道には、いつもと変わらぬ忙しさが満ちていて、屋上にいる耕下の不安なぞ、どこ吹く風だった。フェンスの真下には、人々がせわしなく行きかう歩道があり、それに沿って、牛の群れの疾走のような、無数の車の流れがとめどなく続いている国道がある。
 地上で見ていれば、何のへんてつもない都市の風景だ。しかし、30メートルの高さから見下ろせば、それは、落ちたら二度と這い上がれない、悪意あるうごめく奈落だった。
 男は、自分がどこにいるのか関心なさそうに、ポケットに手をつっこみかげんに、ぶらぶらとフェンスの上を歩き出す。耕下がいることさえ忘れているような様子だ。
 「おい!待て!やめろ、いいかげんにするんだ!さっさとそこを下りろ!」
 耕下は銃を構えたまま呼びかけた。
 こいつはいったいどうしたことだ。さいぜんまでの殺気に満ちた剣客の面影がない。すてばちともいえる無関心な態度だ。
 こいつはこの瀬戸際で、俺をひやひやさせてからかっているだけなのか。それとも自分がしでかした大それた不始末を、ここで自ら清算してしまおうという気になっているのか。
 耕下は構えていた銃をさっと退いた。
 「わかった、よくわっかたよ、お前が高所恐怖症でないってことは。俺が誰にでも保障してやる。だから、そこから下りてこい。もうあきらめたんだろう、お互いに今日の仕事は終わりにしないか、下のロビーでコーヒーでもおごってやるぜ。」
 男はちらりとサングラスの奥から、耕下のほうを見た。そしてくるりと向きを変えると、こんどはフェンスの上を反対方向へと歩き出す。
 「なあ、もうプレーは終わった。ゲームオーバーなんだよ。そこは行き止まり、ここで終わりだ。あんたはかなりの達人なんだろう、ならばここは達人らしく負けを認めて、折れてくれないかな。人間素直でありたいもんだ。俺は素直な奴とは、話し合いの余地があると思ってる。」
 こんなところでネゴシエーターのまねごとをしようとは思わなかった。俺を殺そうとし、馬子に重症を負わせた奴、二度でも三度でも殺してやりたいような奴だが、しかし、ここで消えられてすべてを終わりにされてしまっては元も子もない。こいつは一連のテロ行為とおぼしき襲撃事件の唯一の手がかりなのだ。
 男は助けを待って時間をかせいでいるのだろうかとも考えた。さっきからヘリコプターが上空を飛び回っているのには気がついていた。あれがこの屋上に強行着陸し、奴はそれに乗って怪盗のように去っていく…という可能性はないとふんだ。そうであれば、とっくにあのヘリは耕下を攻撃してきているだろうし、だいいちこの男は一度も空をうかがっていない。ヘリもまた、かなりの高みでホバリングしたままのようだ。むしろヘリは辺田捜査官のオモチャである可能性のほうが高い。辺田も下手に動いて、この崖っぷちの男を刺激しないようにしているのだろう。
 このとき、ビル風らしい一陣の風が吹いて、男の長髪を乱し、あわせて黒いジャケットとズボンのすそをはためかせ、そして、天と地の境に突きたてられたピッケルのような長身の男をぐらつかせた。耕下は思わずうめく。一瞬ふらついた男は、あわてて体勢を立て直して、フェンスの上に踏ん張った。耕下はほっと息をつく。自分のちょっとしたぶざまなありさまを自嘲するように口をゆがめると、男は耕下のほうを振り返り、そしてフェンスの外の空中へと一歩踏み出した。
 耕下は息をのみ目を見開きつつ、間に合わないとわかっていても、落下していく男を抱きとめようと、踏み出そうとした。
 すさまじい悲鳴を残して男の姿が視界から消える…
 …ことはなかった。
 男は一歩踏み出したまま、空中に止まっている。
 さらに一歩、また一歩踏み出し、見守るうち男はどんだん耕下から離れて空中を歩いていった。耕下はあっけにとられ、目を疑った。バカな!何だこれは?!どうなっている?目がおかしくなったのか?!こいつはイリュージョンのマジシャンだったってわけか、それとも空を歩く超能力者なのか……
 何度か目をしばたいたのち、ようやく男の足もとに気がついた。
 男は板に乗っていた。
 屋上の内側から外へ向かって鉄板らしい、30センチくらいの幅の薄い鉄板がまっすぐに伸びていたのだ。男の動きにばかり気をとられて気がつかないでいた。よく見るとその板は、フェンスと配管パイプを橋渡しするように、屋上の内側に長く伸び、もとのほうは二本のパイプにワイヤーでしっかり固定されていて、フェンスから外側に出ているのはせいぜい五メートル程度だった。ちょうど水泳の高飛び込みの飛び込み台よろしく空中にぽつんと突き出ているのだが、はるか下にあるのはもちろんプールではない。なぜこんなところにこんなものがあったのか。作業用のゴンドラでも吊り下げるためのものなのだろうか。
 男はなおも悠然と細い板の上を歩き続けていたが、ついに板の端まで到達して立ち止まってしまった。板の上を歩いて、耕下から少し遠ざかったとはいえ、男の絶体絶命の状態は少しも変わってはいないのだ。フェンスの上よりさらに恐怖度を高めただけではないか。地獄行き特急をほんの何秒か遅らせただけのように思えた。
 針の先に乗っているような男は、見るからに不安定で、見ている耕下のほうが冷や汗が出、体が震える思いだった。男の周りには何もない。黒い細い体躯をすっぽりと取り囲む虚無の空間は、30メートル下の騒音に満ちた地獄に直結していた。気まぐれな風のほんの一吹きでまっさかさまだ。もはや逃げ場はない。残る道はひとつしかないだろう。耕下はもう声もなくただ見ているしかなかった。
 男は首を回して耕下に最後の一べつをくれ、口をゆがめてにやりとしたかと思うと、まさに飛び込み台から飛ぶように飛んだ。
 
 「落ちた!あいつ落ちたぞ!」
 パイロットは叫びともうなりともつかない声をあげ、同時に操縦桿を引く。捜査官も、
 「むっ!」
 と身を乗り出して、額が風防のガラスにくっつきそうになる。ヘリは機首をホテルの正面に向け、国道側へ回り込む体勢をとる。
 
 男は両手を体の側面にぴたりとくっつける気をつけのポーズをとりながら、頭から落下していく。空気を切り裂く最も無駄のない姿勢、スキーのジャンプの選手のポーズさながらに、まるでスポーツをする思い切りの良さと正確さ、ドライさで、飛び込み自殺を敢行したのだ。
 顔はまっすぐ正面を、つまり何秒後かに激突する大地に向けられている。激しい空気抵抗にあいながらも吹っ飛んでいないサングラスの下の両目は、おそらくしっかり見開かれ、迫る地表を見すえているのだろう。
 耕下も思わずフェンスから乗り出して、男の落下をのぞきこんだ。男は、己が顔面よ大地にめり込めとばかりに落下していく。これでは男の顔は残るまい。体も同じだ。人間か何かの見分けもつかなくなるはずだ。死体以下の残骸のようなものでは、手がかりになることはさらに難しくなるかもしれない。鑑識と実況見分と交通整理と後かたづけをする連中はうんざりする仕事をすることになる。ホテルもまたとんだとばっちりだ。
 男は一糸乱れぬ姿勢で、彗星のように一直線にホテルの側面を落下していく。
 ホテルの正面の、国道をはさんで向かい側にある公園の入り口の門の下に、なすことなくしゃがんで往来を見つめていたひとりのホームレスは、男がホテルの屋上から落ちていくのを真正面で見ていた。なんて格好よく落ちるんだ、こんなにきまったポーズで自殺する奴は、そんなにはいまいと漫然と思ったが、そう思いつつも、男が歩道に激突する瞬間には目をつぶろうと決めた。これまで会社で家庭でずいぶんとろくでもないものを見てきた、これ以上悪夢のもとになるようなものは必要ない。しかし、男が落ちる先にあるのは歩道ではなかった。
 耕下は、男のぴったりとそろえられた両足の裏が、どんどん下方へと遠ざかっていくのを、なすすべもなく見ていた。この上は真下の歩道に、巻き込まれて二次被害になる通行人がいないのを祈るばかりだ。
 しかし幸いに通行人はいなかった。下にあるのは歩道ではなかった。歩道を隠して白い箱があった。車〜バンが一台、歩道の上にでんと据えられていた。石の歩道であれ車のルーフであれ、男にとってはどのみち同じことだ。ルーフの鉄板をへこませて、血しぶきをまき散らしながら大きくバウンドし、国道に叩きつけられて、行きかう無数の車の下敷きになり、ミンチ状態になるわけだ。それとも車のルーフを突き破って中に飛び込み、両足をぶざまにルーフにはえさせて止まるか。あのバンこそ災難だ。
 その耕下の心配を察したように、また男の落下にあわせたように、ルーフの真ん中がさっと開き、バンの屋根に黒い穴が口のように開いた。
 じつはこのバンは、今朝がたいきなりホテルの前にやってきたものだった。交差点で車道から歩道に乗り上げると、通行人の迷惑を顧みず、強引に歩道をずんずん進み、ホテルの正面、エンブレムのある壁面の下でぴたりと止まった。そこで、黄色いつなぎ服を着て黄色い作業帽をかぶった作業員らしい若い男が降り立つと、たちまち車の周りに赤いコーンを立て、通行止めと工事中というプレートまで林立させた。
 あわてたドアボーイの報告を受けて、血相変えてやってきた副支配人に、細いサングラスをかけたつなぎ服の若者は、帽子からはみ出したブロンズ色に染められた髪をかきながら、歩道の補修にやってきましたと、いかにもへらへらと能天気に答えた。ホテルの前の歩道が破損していたという認識はないと、副支配人が退去を命じるふうに言うと、割れた歩道にけつまずいたと、ある通行人から区の生活課に苦情があったそうなんです、区の仕事なんですよと、都のマークを車のフロントグラスの前に貼ってみせた。さらにすぐ終わります、すぐにいなくなりますからと悪びれずにへりくだった。右耳で光る小さな金のピアスが妙に印象的な作業員だった。都でも経費を浮かせるためか、得体の知れない下請けを使っているなと、あきれた副支配人だったが、若者の妙に人なつっこい態度に気勢をそがれて、ここにいられるとお客さんの邪魔になるんだ、できるだけ早く作業を終えて帰ってくれたまえ、とだけ言い残して引き下がった。
 できるだけ早く帰るはずが、たいして工事をしている様子もないまま車はそこに留まり続け、上から人が降ってくるまで居座っていたというわけだ。
 男は、開いたバンのルーフの口にまともに飛び込んでいった。
 これでは乗っていた人も巻き添えだ、あのバンはもう使い物になるまい。耕下は、男が乗員を巻き込んで車のフロアに激突する、にぶいくぐもった音を聞きたくないと、思わず目を閉じた。
 目を閉じたところで、耳をふさがなければ音は聞こえてくる。しかし、音は聞こえてこなかった。下から聞こえてくるのは、あいかわらずの通りの騒音ばかりだ。
 予想と違ったことに違和感を覚えて目を開けた耕下は、はるか下方に、まだ男の両足の裏が耕下のほうを向いているのを見とめた。ちょうどそのまま、バンのサンルーフに飛び込んだままの状態で止まっている。男の頭だけが車のフロアにめり込んだままなのだろうか。
 と、男の両手が動くのがわかった。男は生きている!サンルーフに半身を突っ込んだままもがいているのだ。
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