Chapter27 公園の乱(二)
| 「いまだ!出せ、半次!」 『ゾウさん』の合図を待つまでもなく、『半次』はアクセルを床まで踏み込み、四輪駆動のバンは四つのタイヤすべてを鳴かせ、すべてから煙を出し、すべてからゴムの焼ける臭いをまき散らすと、猛ダッシュした。前方にあった大噴水の縁にバンパーの右端を激しくこすり、鉄と石がぶつかり合う火花を散らして一瞬よろめいたが、ダッシュの障害になることはなく、コンクリートで舗装された通路を滑るように突き進む。 「半次、芝の中へ入れ!立ち木の下を行くんだ!」 『半次』は返事もせず急ハンドルを切ると、通路から一段高い、芝生の植え込み地帯へどうっとバンを乗り上げさせた。 ミニサイズの丘陵の連なりのようになっている芝の植え込み地帯をいささかも速度をゆるめようとせずに進むため、車体はバウンドし、右へ左へ上へ下へ波に翻弄されるように、いまにもひっくり返りそうになりながらも突き進む。 芝をむしり土を掘り返し、行く手の潅木を押し倒し引きちぎり、手入れが行き届いた公園の緑地地帯をトラクターで耕すように容赦なくずたずたにしていく。芝が途切れて通路に出ても、そのまま横断し、再び大きくバウンドしながら芝生に乗り上げて進む。静かな公園の中を、車とヘリコプターが連動して巻き起こすつむじ風が駆け抜けていった。しかしこのとき、ちょうど公園の反対側の端の花壇に集まりはじめていた子供たちは、この騒ぎに気がつかなかった。 『半次』は一見めちゃくちゃにハンドルを切っているように見えるのだが、しっかりバランスをとっていて、車をひっくり返しはしないし、巧みに高い木の下へもぐり込むように、木の下から木の下へと渡り歩くように、バンを進ませていた。ときおりバンは大きな常緑樹の陰になり、ヘリコプターの死角に入る。 「奴ら、樹を盾にしてこっちの目をくらましているつもりらしい。だが上からは全部お見通しさ、どこまでいったって逃げ切れないぞ。」 「いつまでも公園内で騒がれてちゃやっかいだ。早いとこ仕留めるぞ、バルカンだ!」 捜査官の一言にパイロットはハッとして身構えた。 「ほ、ほんとにやるんですか?!こんな街中でぶっ放すんですか?!いいんですか?あれはかなり強力なものですよ、万一一般人を巻き添えにでもしたら…」 「心配いらん、今どき公園にいるのはホームレスくらいのものだ。奴らは税金も払ってないし、選挙権もない。公園に勝手に巣くっている犬猫も同然だ。流れ弾に当たって死んでも、動物愛護団体は抗議するかもしれんが、都知事は俺たちを表彰してくれるさ。」 巧みに常緑樹の下をかいくぐり池の周りをめぐって、見事なハンドルさばきを見せていた『半次』は、バンが公園内の西のはずれまで来てしまっていたことに気づいて、あわててハンドルを戻した。ヘリコプターのローターの音が遠ざかり、いくぶん水をあけることができたと判断した彼は、ここでさらに差を広げ、まいてしまおうと、芝生地帯からコンクリート舗装の通路に躍り出て、音楽堂方面に向かってバンを全力疾走させた。 このとき『半次』は、さえぎることのない開かれた空間にバンを飛び出させてしまったことに気づいて一瞬ひやりとしたが、上空にはあの生意気なヘリの姿はない。一歩先んじていたのだと安どした。 確かに上空前方にはいなかったのだが、バンの後方、ちょうど急襲できるポジションの樹の陰から、ヘリは、小型の猛禽のような姿を現した。ハヤブサは地上を逃げていく白ウサギの姿を見とめたのだ。 「前方を狙え、まずは威嚇だ。脅して車を止めさせるんだ!」 パイロットは一秒間ためらったのち、0.5秒で安全装置を解除し、0.5秒でレバーのスイッチを押した。 オニヤンマ型の小型ヘリコプターの下腹の部分で、閃光がストロボのように明滅し、 ズババババッ! と、くぐもった音がすると、走るバンの前方に、コンクリートの破片のまじった白い煙の柱がいくつも沸きあがった。 『半次』は急ブレーキをかけたが、間に合わず、バンは煙の柱の中へ突っ込んだ。 バチン!バチン!と金属が金属に穴を開ける音がして、『ゾウさん』のいる助手席のルーフの前の端に大きな穴が開くと同時に、ルーフとの境い目のフロントグラスにも穴が開いて、ガラスの破片が飛び散る。さらに煙が運転席に流れ込んできた。 バンが急に止まったために、勢い余ったヘリはバンをやり過ごし、前方の上空へ飛び去る。 「ちくしょう、当たったぞ、奴ら本気だな。大丈夫ですか、ゾウさん?」 「ああ、なんともない。奴ら、前からまた来るぞ」 前方に飛び退ったかと思われたヘリは、急ブレーキでもかけるように機体を横にして空中を横滑りしていくと、たちまち機首をバンの方に向け、勢いでもつけるようにそのまま後退したのち、振り子が戻ってくるように、バンに向かって急降下をはじめた。 「今度は正面からおいでときたもんだ。よーし、やってやろうじゃないの」 『半次』は言いながら、ギアを入れると同時にアクセルも踏み込んだ。またしても四輪を鳴かせ煙を発して、バンは猛ダッシュ… といっても、正面をヘリに向けたまま後方へ…いきなり猛スピードでバックしたのだ。 ギュィーン!という戦闘機のようなひときわかん高い叫びをあげ、バンはコンクリート通路を一直線にバックする。二人とも、ヘリをにらんだまま後ろを振り返ろうともしない。 五十メートルくらい後退したところで、バンは急ブレーキをかけ、けたたましい音とともに前輪を浮かせぎみにしながら、激しくスリップしてタイヤを溶かしつつどうにか止まると、『半次』は電光石火の素早さでギアを入れ替えながら叫んだ。 「いくぜ!ゾウさん、用意はいいかい!」 ゾウさんは左手にワルサーを持ち直し、ウインドーから上半身を乗り出しぎみに、顔と左手を突き出して、正面上空に狙いを定めた。 「いいぞ!」 『半次』は叩きつけるようにアクセルを踏む。バンは一直線にヘリコプターめがけて飛び出していった。見る見る機影が迫る。ヘリとバンは空と陸とでありながら、正面衝突をしそうな殺気をはらんでいた。 ヘリのパイロットがレバーを握り、ズババッ!と掃射するのと、『ゾウさん』がヘリの風防めがけワルサーを連射するのとほぼ同時だった。 しかしこのときパイロットは、バンからの弾道を読んでいた。そして『半次』もまた、ヘリから伸びてくるミニガンの弾道を読んでいた。双方、真っ向からの衝突だけは避けようとでもするように、微妙に中心をずらしていたのだ。 ミニガンの銃弾の雨は『ゾウさん』の銃を握った左手に熱を感じさせるほど近くを飛んで、地表に鋲を打ったが、目標からはそれた。『ゾウさん』の放ったワルサーの九ミリ弾は、パイロットにその弾道が見えるくらいに、風防の近くをかすめたが、ヘリをかすりはしなかった。ヘリとバンはたちまちすれ違い、お互いをやり過ごす。 両者とも目一杯離れたところまで引き下がると、ほぼ同時に反転し、もう一度正面衝突のやり直しとばかりに、全力で前進しはじめた。 心得ているとも。槍を構えて突進し、やり過ごしざまに突っ突き合う。中世の騎士たちによる槍の馬上試合よろしく、どちらかが倒れるまで繰り返す決闘というわけだ。しかし、中世ならぬ今では、お互いとも騎士道精神などは持ち合わせてはいない。 再び猛烈な勢いで急降下をはじめるヘリのコックピットで辺田捜査官は言い放った。 「今度は仕留めろ。動けなくするだけでいい。命中させるんだ。」 パイロットは返事もせず、前方下方からどんどん大きくなってくるバンをにらみつける。もとより言われるまでもない。空から、しかも最強の兵器・ミニガンによる攻撃という圧倒的に有利な立場にありながら、地上をはうバン一匹かたずけられないのでは、対テロ高度対策室機動部隊一番隊(予定)の地位もあぶない。ヘリの面目にもかかわるというものだ。パイロットはさすがに今回で決め≠謔、と腹をくくっていた。弾丸だって限りがある。今度こそ逃げないで、正面から、頭から、あの小生意気なバンの運転席を叩く。 バンはヘリに向かってさらにスピードをあげはじめていた。またしても助手席の長髪の男が身を乗り出し、銃を構えてパイロットを狙っている。今回は奴らも標的をずらさないで突っ込んで来る気らしい。こちらを見上げる長髪の男の顔がぐんぐん近づき、男がかけているサングラスの形までがわかるようになる。あのサングラスの両のレンズに映るヘリコプターの影はどんどん大きくなっているのだろう。パイロットはレバーを握りしめた。 今回は手前から行く。早めに発砲する。ミシンで縫うように、銃弾でコンクリート通路を縫っていき、その先のバンも地表に縫い付ける。 ヘリコプターの下腹に備え付けられた二基のガトリング砲のうちの一基が電動モーターで回りはじめた。内臓する六本の銃身が高速で回転し、ストロボの閃光とともに一秒間に百発の7.6ミリ弾が鉄の夕立となって降り注いだ。行く手にあるものは何であれ、ひと薙ぎで見る影もない残骸になる。ミニガンは死神でさえ舌を巻く、究極の致死マシン、高度に進歩した殺しの芸術作品だった。この掃射を浴びたものは瞬時に地獄なり天国なりへ送り込まれ、苦痛というものを感じる暇がないため、殺される者への思いやりあふれた、人に優しい殺人器具と、ギロチン並みの高い評価を下すむきもある。 コンクリートの破片を含んだ白い弾幕が地表を津波のように進み、バンの運転席に襲いかかった。さしもの不敵なバンの二人組も、バンもろとも無数の穴のあいた、原型のわからない物体になる、とパイロットは確信した。 しかし結果として、パイロットは、バンを運転していた男の腕前を低く評価していたことを、あらためて思い知らされた。 弾幕が縫う直前に、なんとバンは、牛をかわす闘牛士のようにひらりと7.6ミリ弾の雨をかわしたのだ。突進してくると思わせたのはフェイントだった。突然の急ハンドルで、切り込むようにほぼ直角に曲がり、通路から植え込み地帯へと突っ込んだのだった。 安定の悪いバンはそのときの勢いから、強力な遠心力のため、横転しそうに片側の前後車輪を浮かせたが、傾いた側にあった木に車の側面の上部をこすり、その反動で、浮いた車輪は元に戻って車は平衡を取り戻し、難なく植え込みの中を進みはじめた。 バンの動きに気をとられて、パイロットはレバーのスイッチを押しっぱなしだったため、ガトリング砲は誰もいない通路をどこまでも掃射し、ついには突き当たりの植え込みの中まで掃射して、そこにあった一本の常緑樹の大木を薙いでしまってから、ようやく気づいたパイロットによってその火炎の咆哮が止められた。 常緑樹が根もとから伐採されたように轟音とともに通路に倒れる。 「ちっ、樹を折っちまったぞ。こりゃ都から抗議と損害賠償請求がくるな」 公園の中を銃撃しているという大問題はさておいて、捜査官が思わずつぶやいたのはそんなことだった。 そこから一キロ近く離れた北のはずれ、広々した第一花壇のあちこちに陣取って、思い思いに花を見たり絵を描いたりしていた園児のうちの何人かが、この騒ぎに気づいて、公園の彼方の端を見やった。 その中の、アクションもののアニメが大好きな男の子が 「あれ、きかんじゅうの音だよ」 と言ったのを、隣にいて子供たちの様子をぬかりなく見守っていた、若い、リーダー格の保母が聞きつけ、立ち上がった。 確かに、公園のどこかで騒がしい音がしているのは気になってはいた。自分たちからは離れているが、ヘリコプターが公園の上を低く行ったり来たりしているのも知っていた。はじめは何かの測量だろうぐらいに思っていたが、やがて車のブレーキ音やタイヤの急発進音、そのほかのはじけるような音が聞こえたときはおやと思った。 近くで数人の園児に絵本を読み聞かせていた同僚も同じことを考えたらしい。本から顔をあげて、「何かしら」と同じ方向を見やった。花壇の向かい側から小走りに近づいてきた一番若い保母は、いささか不安げなおももちで、相談するように言った。 「ずっとヘンな音が聞こえてるわ、様子が変よ」 この季節、この時間、公園にいるのはどうやら三十人の園児と五人の保母だけのようだった。例の工事現場のような音以外には、急を告げる人の声は聞こえない。都会の真ん中、警察機構の中心となっている壮大なビルと目と鼻の先にあるこの公園で、異変なぞ起こるはずもない。ここは国で一番安全な公園のはずだ。 しかし、「きかんじゅうの音」と聞いたリーダー格の保母は、何が起こるかわからない現代社会の中で、不吉な予感はそれなりに当てになると、素早く決断を下した。 「子供たちを集めましょう、予定より早いけど、そろそろ帰ったほうがいいかもしれないし」 彼女と二人の同僚はすぐさま、あとの二人の同僚に連絡し、全員で手分けして子供たちに、集まるよう指示しはじめた。しかし、花壇全域に散らばった子供たちは、それぞれの遊びに夢中で、なかなか彼女たちの言うことを聞こうとしない。 第一花壇は、樹木がひしめく公園の中にぽっかりとあいた空間で、広い平らな芝生の中にいくつもの花壇が点在している。ぐるりを樹木が取り囲み、しかもグランドのように視界がきくので、アヒルのような園児たちを管理しながら遊ばせるにはもってこいのところだった。が、やはり広すぎる。離れてしまうと、スピーカーでもないかぎり、金切り声の保母の指導は容易には隅々まで行き渡らなかった。園児たちはいっこうにてきぱき集合しようとはせず、その間にもあの騒音は高まって、近づいてくるようだった。 バンはまたしても、植え込みの中のラフロードを右へ左へ、木の下から木の下へとネズミかリスのように走り回って、上からの追求をかわそうとしていた。しかしヘリは上空の斜め後方からぴたりとバンをマークしている。こんな同じパターンの逃走がいつまでも続けられるわけもなく、彼らの必死の逃亡は、どう見てもその場しのぎの無駄な努力でしかない。そんなことはとっくにわかっていながら、捜査官は、バンのガソリンがなくなって止まるまで辛抱強く待つつもりはなさそうだった。 「樹の陰からでもかまわん、奴らを撃って、車を静止させよう」 「そうもいきません」 パイロットは珍しく反論した。 「さっきのように樹をなぎ倒して、公園をはげ山にしてしまっては、ということもありますが、問題は弾です。このガトリングは一秒間に百発の弾が撃てますが、このヘリに搭載できるのは四千発です。こっちのディスプレイを見てください…」 計器の中央の大き目のディスプレイに触ると、弾丸らしいイラスト表示と数字が現れた。 「残弾はあと二千発。ガトリング一基で撃つと二十秒、二基同時に撃つと、あと十秒で弾切れです。そうなったらワルサーのあるバンのほうが有利かもしれない」 「つまり次の一撃で決着をつけなきゃならんということだな」 彼らが話しているうちに、バンは一本の常緑樹の陰になり、一時的に姿が見えなくなった。 次から次へと石の下へすばやくもぐり込む渓流のイワナもどきにバンをあやつる『半次』は、ヘリから姿が隠れた一瞬のスキをつこうと思ったようだ。得意の急ハンドルでコンクリート通路に躍り出ると、大噴水や小音楽堂方面へめがけ、一目散に車を駆った。 今度はパイロットばかりか捜査官までもが、この逃走者どもの行動をよんでいた。何度も同じ手で逃げ切ろうとするとは、予想外に単純な奴らだ。もっとも、この公園内ではそれくらいしか打つ手がないことも確かだったが。 だからこそ、公園の木々の上ではひときわ異質に見える、鮮やかなアーバン迷彩のスマートなヘリは、どの方向へでもすぐ鼻先を向けられるように、わりと高い位置でホバリングし、白ウサギが繁みの下から飛び出してくるのを待ちかまえていたのだ。 どんぴしゃりだった。獲物はガトリングの銃身の延長線上をまっしぐらに走り出していった。少なくとも五秒は、確実に致死モードの射程内にすっぽりと収まっているはずだ。しかもガトリングにとっては五秒も必要ない。 捜査官のうながしも合図も必要なかった。むしろそのような暇を与える間もなく、パイロットはちゅうちょせずスイッチを押した。 ズババババッ! 左右二基のストロボが超高速できらめき、地上に、硝煙とコンクリートの粉塵のまじった噴水をわき上がらせると、それはたちまち地表を縫ってバンに追いついた。 金属の裂ける音が掃射音の後を追う。バンはリアから引き裂かれ、ちぎれた金属片が紙切れのように空を舞う。一瞬のうちにバンはボディの後ろ半分をえぐりとられ、一部シャシーが骨のように露出するまでになった。さすがに後部タイヤもパンクしたらしく、よたよたと動きが鈍くなったかと思うと、力尽きたように止まってしまった。 「やったぞ、仕留めた」 パイロットが興奮を押し殺して、さも当然といった口調で言った。 「まだ用心しろ、油断のならない奴らだろうからな」 捜査官も興奮を抑えてつとめて冷静に言う。 「ただ今の射撃時間は三秒、7.6ミリ弾はあと千六百発残っている。今度反撃してきたら、奴ら、レゴブロックなみの細かいパーツに分けてやりますよ」 パイロットは持ち前の驕慢さと調子よさを取り戻していた。 オニヤンマのような迷彩ヘリは、停止したバンの後方上空にぴたりと腰をすえ、油断なく待った。バンは停止したまま動かない。誰も出てくる気配はない。出てきたところでヘリの銃口から逃れるすべはない。おそるおそる出てきて、のろのろ両手をあげるしかないのだ。 捜査官は完全な武装解除と降伏をうながすべく、マイクを握りスイッチを押した。 と、そのとき、バンの助手席のドアがゆっくりと開き、自動的に動いてでもいるかのように、やがて大きく開け放たれたまま止まった。中の人物の姿は見えない。 パイロットはガトリング砲を二連掃射モードにしたまま、スイッチに指を置いたまま見守った。 捜査官もバンの開いたドアからかたときも目を離さず、ゆっくりとマイクに向かって言った。 「『それでいい、ひとりづつ、ゆっくり降りるんだ。降りたらこっちを向いて手をあげ…』」 機外の小さなスピーカーから、捜査官の声がひときわ朗々と公園の一角に響き渡る。 と、そのときだった。 開け放たれたバンの助手席のドアから黒い大きなボールがころころと転がり出た、と、一瞬、パイロットも捜査官も思った。 それは、ぽんぽんはずみながらくるくると回転してバンから遠ざかったところでぴたりと止まって、人間の形になった。 あの男だった。 ホテルの屋上から飛び降りた、黒いスーツの男だ。 上空から見る捜査官には、男は動きを止めても、まだボールのように丸まっているように見えた。しかしパイロットは捜査官より早く、男が立ち膝をしているということに気づいた。さらに、男は、この時点でガトリングの射程外に逃れているのだということにも気づいてぎょっとした。 男は長髪に縁取られ、細いサングラスの乗った顔をヘリに向け、右手を伸ばしてヘリを指している。左手で右手をささげ持つように支えている。右手の先にある黒いものは… バヒュッ!バヒュッ! オートマチック銃特有のくぐもった火薬の破裂音〜ついさいぜんも聞いた〜がして、男の右手の先で閃光がきらめいた。 パイロットは自分めがけて飛んでくる九ミリ弾丸の先端を見たような気がした。 ヘリの機体に軽い衝撃が走り、同時に金属が金属を叩く音と、何かが砕ける音が聞こえ、ヘリのコックピット内は薄い煙とパニックがたちこめた。 機体が大きくかしぎ、捜査官は、誰ひとりとして乗ったことがない絶叫ジェットコースターに乗った気分をいやというほど体験するはめになった。しかもこのコースターは故障していて、アトラクションの演出ではなく何かに激突するのだ。 まわりの景色がぐるぐる回転し、自分たちがどこにいるのかわからなくなる。あたりのものが次々とヘリに向かって迫ってくる。 捜査官は、墜落すると思った。この高さではうまくすると助かるかもしれない。しかし奴らを追いかけ、捕まえることはできまい、そうなるまでには何日も病院暮らしをしなければならないだろう。 特大オニヤンマのようなヘリコプターが空中でもんどりうって後退するのを見定めるまでもなく、黒服の長身の男は風のようにバンの助手席に舞い戻って、運転手に叫んだ。 「よし、いいぞ半次、出せ!」 兄弟のように似た形のサングラスをかけた、ブロンズ色の髪の若者は 「さすがはゾウさんだ、何をやっても一流だねえ。射撃の腕も衰えちゃいねえ」 と、あきれたように言うと、アクセルを踏み込んだ。 くず鉄寸前のようだったバンは息を吹き返し、全体を震わせながら、往時とは比べものにならないくらい遅いが、それでも十分あたりを威圧するスピードで、金属やゴムの破片を撒き散らしながら、一直線に公園内を突っ切りはじめた。 まさに大地に激突しそうに降下したヘリコプターが、その勢いよく回転するローターで、ひときわ高い常緑樹の先端を跳ね飛ばしたとき、パイロットはようやく恐怖と混乱から抜け出し、絞め殺そうとでもするように操縦を両手でしっかり握りしめて、どうにか機体を立て直した。 「捜査官、捜査官…」 ひびだらけのヘリの風防から前をしっかり見すえながら言う。 捜査官もようやく、死にもケガもしなくてすんだのだという事実をかみしめる。 「ああ、何だ…?」 「目が…よく見えない、顔の右手のほうを拭いてくれませんか…」 特別捜査官は、自分の冷や汗を拭こうと思っていたハンカチを取り出し、パイロットに向けた。パイロットの顔半分は赤黒い血でおおわれ、右目をふさいでいる。割れた風防ガラスか何かで、額の上のほうを切ったらしい。 簡単に済む仕事、無敵なはずの機動ヘリだったのに、このパイロットにも思わぬ危険を強いてしまった。彼らが相手にしたのは予想をはるかに上回る、容易ならぬ相手だった。 「…傷は…どうですか…?」 「大丈夫だ、血はもう止まっている」 捜査官はショックで青ざめたパイロットの顔をていねいに拭いてやりながら答えた。 「そうか、傷は浅いか……よし!」 青白いパイロットの顔に少しだけ赤みがさした。 「…よくもやりやがったな、頭にきた、頭にきたぞ!」 自分が無事だとわかって、ショックがのどもとを通り過ぎたパイロットは、ダメージを怒りで覆い隠すべくすぐさま立ち直った。 「見ろ!俺はお前らに撃たれても、ヘリを墜落させるような間抜けじゃない、ナメるなよ。今度はこちの番だ!よくも俺の機を傷だらけにしてくれたな」 「正確にはきみ個人の機ではないがね、前にも言ったけど」 「今までは公式の分だ、ここからは俺個人の分だ。きついお仕置きをしてやる、残りの全弾をいっきにぶちこんでやる! …で、奴らはどこだ、どこへ行ったんです、捜査官?」 「反転してみてくれ、濠側へ向かった可能性が高い。そのまま晴海通りへ出るか、公園内に車を乗り捨てていくか…」 大噴水をやり過ごし、小音楽堂が遠ざかり、公園の中心から離れていくのを横目にしながら、ガタガタ進んでいく走る廃車といったバンの中で、助手席の長髪の男は口をゆがめて笑いを形づくり、シートに沈み込んで満足そうに言った。 「ちょっと手間取ったが、これで予定どおりだな。まっすぐ桜田門までいってくれ、そこでこいつを乗り捨てて、歩こう。ご苦労だな、運転手さん。」 この上機嫌に、話しかけられた若者が、ルームミラーに目をやりながら水を差した。 「まだだ。まだですよ、ゾウさん。まだ終わってない。聞こえませんか、あの音。あの人たちも意外にしぶといねえ」 むっと顔を上げた『ゾウさん』の耳に、聞き覚えのあるこしゃくなローターの音が低く小さく響いてきた。それはしだいに大きく高くなる。後方を振り返り、ヘリの姿を確認するまでもなく、『ゾウさん』はちっと舌打ちをした。サングラスの上の広い額に縦にしわが走る。 再びジャケットの内ポケットの、もう一丁のワルサーに手を伸ばしかけた『ゾウさん』は、このとき目のすみに、かなり離れたところの小さな動きをとらえた。 「半次!右へやれ!花壇へ出るんだ!」 言われた半次は返事もせず瞬間的にハンドルを切る。 バンはよたよたとほぼ直角に曲がって、見るからにのどかな、鉄柵で囲まれた狭い、花壇への通路へ割り込むと、そこを手負いの獣のようにうなりを上げて走りはじめた。 「よし、あの突き当たりを左へ曲がって、そのまままっすぐだ。」 『半次』は、リモコンスイッチを押されたテレビの素早さと忠実さで『ゾウさん』の指示に従う。 次の瞬間、『半次』の視界にもはっきりと行く手のもの、『ゾウさん』が目標にしたものが入ってきた。人がいる。 うら寂しく寒い、虚無が散歩をしていたような公園に、入って∴ネ来、人の姿を見たのはこれがはじめてだった。 子供だ。大勢いる。 小さな花のような、色とりどりのジャケットやセーターを着た子供たちが、第一花壇の広い芝生の一角に集まっている。二、三人の保母らしい大人の姿、まだ集まる途中の子供たちの姿も見える。幼稚園か保育園の屋外授業の一団がバンの進行方向に、うずくまるカルガモの親子よろしく、まさにターゲット然と留まっていたのだ。 すでに子供たちも異変に気づいていた。ほぼ全員の目がバンのほうに向けられている。 車とはいえないような傷だらけのものが、煙を発し、うなりをあげ、見るからに恐ろしげな姿で、自分たちのほうへ向かってこようとしているのだ。何人かの子供たちが、呆然とたたずむばかりの保母の陰にまわって隠れようとした。 「何のつもりだ、ゾウさん?」 『半次』は思わずアクセルをゆるめながら言った。 「いいから、あのガキどもの後ろへ回りこめ!」 「まさか!」 「そうだ、あのガキどもを盾にする。いいところにガキどもがいたもんだ、ガキどもがいたんじゃ奴らも撃てまい、奴らがまごついたところを、今度こそワルサーで撃ち落す」 パイロットが思わず叫び声をあげた。 「大変だ、あんなところに子供がいる!何てこった!」 バンは一直線にj子供たちの集団へ向かっていく。 見失っていたバンを再び発見できた喜びもつかのま、パイロットの顔にはたちまち困惑が広がる。奴らは、あのガタガタのバンでは追いすがるヘリを振り切れないとふんでいる。上空から見るパイロットと捜査官は、いち早くバンのもくろみを知った。 「子供たちを人質にとる気か!」 「いや、盾にする気だろう、くそっ!奴らとことん逃げる気で、どこまでもやる気だ」 「これはまずい…」 「これはまずいよ、ゾウさん。ゾウさんらしくない。子供を人質にとるような卑劣な手だ!」 「やむを得まい、ここで捕まるわけにはいかん。心配するな、子供を盾にしたら、奴らは撃ってこない」 「でも奴らが撃ってきたら、流れ弾が子供たちに当たったら…」 「ぐずぐず言ってるひまはない、急ぐんだ!」 ヘリはたちまちバンの後方の上空に迫ってきた。 「こうなったら、子供たちの手前で仕留めるぞ、ガトリングだ!」 「しかし近すぎる、危険です!」 「いいから!一気に全弾撃ってコナゴナにするんだ!迷ってるひまはない!」 地上ばかりでなく、ふいに上空に現れた、何やら殺気だった機械に、子供たちはさらに目を丸くした。好きな乗り物が現れたとはしゃぐ子供はひとりもいなかった。陸空から、呼吸を合わせるように、好意的でない雰囲気を発散させて迫ってくる場ちがいな鉄の塊に、誰もが身をすくませていた。楽しかった遊び場の第一花壇は、見たこともない異質な場所に変わろうとしていた。 保母のひとりは無意識に、近くにいた何人かの子供たちを守るように両手で抱きかかえ、またもうひとりは両手を広げて、できるだけ多くの子供たちを自分の背中に隠そうとしたが、リーダー格の若い保母は、迫ってくるバンに警告しようと、前に乗り出した。 ヘリはバンに追突できそうなくらいの距離まで迫り、ガトリングの絶好の射程内に入った。 「いまだ!撃て!」 捜査官が戦いの犬のような雄たけびをあげる。 しかしパイロットはスイッチに指を置きながら、ためらっていた。 この距離では間違いなくバンを蜂の巣にできる。しかしバンの先には子供たちがいる。バンを貫通した千六百発の7.6ミリ弾が、あの集団の前方にいる子供たちまで届いてしまったら… 「ここまで追って、奴らを逃がすわけにはいかん!何が何でも仕留めるんだ!撃てっ!」 「しかし、付帯被害(コラテラルダメージ)が…」 「ええい、くそっ!」 捜査官は業を煮やし、右手をパイロットの方に伸ばすと、ガトリングのスイッチを握ったパイロットの手を、上から握りしめてスイッチを押そうとした。 焦ってあわてふためいているヘリコプター上の二人にとって、次にバンがとった行動は、全く予想外で、まさしく虚を突いたものだった。 一瞬スピードを落としたとみるま、そのまま猛烈なスピードでバックしはじめたのだ。 バンはたちまちヘリコプターと上下で交差し、ヘリの下をくぐり抜ける。バンをやり過ごしてしまいながら、勢い余ったヘリコプターは急ブレーキをかけるような技もなく、そのまま進んでたちまち園児の集団の上を通り過ぎた。パイロットが、自分の(スイッチの上の)右手をおおった捜査官の手を即座に払いのけていなかったら、千六百発の7.6ミリ弾は子供たちの上へ降り注いだところだった。 虚を突かれたのはヘリコプターの二人だけではなかった。 「どうした半次!何をする気だ!なぜ下がる?!前へ進め!!」 黒服の男が、濃いサングラスの奥から怒りに燃えた目を、運転する茶髪の若者に向ける。 若者は顔を前に向け、ルームミラーを見るだけでハンドルを操り、車を、その車の今の状況では最高のスピードでバックさせつつ、不敵に言い放った。 「いけねえよ、ゾウさん。そんな話は聞いてない、聞いてませんよ。何があっても一般人に危害を及ぼすなど問題外だ。それでは筋が通らない。俺たちがことを起こしているのはそんなことのためじゃないはずだ。一般人を、しかも子供を巻き添えにするなんて、宗教や民族の名をいいことに弱い者を殺して喜ぶ、中東やロシアの変態どもと同じじゃないか。ただの犯罪者と同じですよ。」 車は大きくバウンドし、年かさの男は言い返す言葉をのみ込んだ。 若者はルームミラーをにらんだまま鋭くハンドルを切る。 車は車体の後部がほとんどないので、ルームミラーからの視界はいい。がたがたバックさせたまま、若者は、するすると花壇の入り口の鉄柵で囲まれた狭い通路へ、機械のような正確さで車を侵入させる。第一花壇の芝生がどんどん遠ざかっていった。 「しかし、今は緊急の場合だぞ、半次!緊急の場合はやむを得ん!」 黒服の男はなおも若者を責める。 「緊急の場合は何人子供を殺してもいいってんですか!」 「子供に危害が及ぶとは限らん!」 「ゾウさんは明らかに子供を盾にしようとした。俺は断る!」 「バカめ!そんな甘いことだと…」 長髪の男は、茶髪の若者の胸ぐらにつかみかかろうとしたが、いきなり向きを変え、思い切り顔をしかめると、右手でダッシュボードをガツンと叩いた。 「…くそっ、確かにお前の言うとおりだ。お前は正しい。目的のためにはなにをやってもいいってわけじゃない…。 だがな、半次、お前が天晴れに筋を通すおかげで、俺たちは7.6ミリの弾をたらふく食らって、蜂の巣だか死骸だか見分けがつかないくらいになるぜ。さぞや清々しい気持ちで、心残りなくあの世へいけることだろうさ。」 「逃げ切ってみせますよ」 若者は口の端に余裕の笑みを浮かべると、再び鋭くハンドルを切る。 第一花壇の入り口から完全に抜け切ったバンは、車体を一回転させ、今度は正面を向いてコンクリート通路をよたよた走り出した。 公園の上空を大きく旋回した、小さいながらも、いまや血に飢えた猛禽のような威厳の備わったヘリコプターは、すでにこちらへ機首を向け、まっしぐらに突入しようとしていた。 騒動などこれっぽっちも起こしそうにもない高級な人種ばかりが出入りする高級なホテルで、時ならぬ騒動が起こってしまったらしいと、あわてふためき右往左往するホテル従業員たちを無視してフロントまでやってきた耕下は、そこで辺田捜査官の連絡でやってきた救急隊員たちと出くわし、てみじかに屋上に横たわる馬子のことを説明して頼んでから、公園へ駆けつけるべく回転ドアから走り出た。 ホテル前の国道では、いまだにバンが強引に横断した後遺症が続いていて、道の中に数台の車が止まったままでおり、渋滞やクラクションの連呼が激しさを増していた。見ると、公園側の路肩に何台かのパトカーが止まっていて、明らかに交通整理と現場検証を始めようとしていた。 バンにぶっつけられた車のドライバーたちの連絡でやってきたものだろうが、ホテルの中でも、そしておそらくは公園の中でも、さらに大きなことが起こっているというのに、それを知ってか知らずか、与えられた職務にのみまい進しようとしている交通警官たちの姿はどうにも間抜けに見えた。 耕下は右手に高々と警察バッジを振りかざし、急ブレーキをかける車をにらみつけ、警官らしい傲慢さで、混雑する国道を堂々と押し渡った。 公園に入って、大噴水の横を走りぬけ、この世ならぬけたたましい騒音がする方へ向かったとき、目に入ったのは、ハチ合わせしようとして、お互いに向かって突き進む生き物のようなバンとヘリコプターの姿だった。 ヘリがバンに襲いかかっているのか、ボロボロのバンが傷だらけのヘリに挑みかかっているのか、吸い寄せられるように近づいていく。もはや静止不可能な最終局面に向かっていることは確かだった。 軽快な外観には不釣合いな華々しい閃光がヘリコプターの下腹の部分にきらめき、くぐもった破裂音が響き渡る。 瞬時に硝煙とコンクリートの破片のまじった噴水が地上に無数に林立した。 バンは寸前で急ハンドルを切り、体をかわして鉄の夕立から逃げ切るつもりだった。しかし、いかんせんスピードが出なかった。7.6ミリ弾の雷雨は助手席側を確実にとらえ、フェンダーとタイヤをズタズタにした。 バンは大きくかしいで、コンクリート通路をはみ出し、芝生地帯に乗り上げると、バランスを失って運転席側を下にして横倒しとなり、勢いあまって、見事な投げ技をくらった巨漢の柔道選手のように、地表をどうっと滑り続けて、いくつもの潅木や植え込みを跳ね飛ばしたり、その車体側面で押しつぶしたりしながら、三十メートル近く進んだのち、その先にあった常緑樹の大木にフロントをしたたか激突させてひしゃげさせてから、ようやく動かなくなった。 と、ボロボロの鉄くず同然の車体のどこからか煙があがりはじめる。 走りよっていく耕下の方角からは見えなかったが、遠くから保母に抱きかかえられながら一部始終を見ていた園児たちの何人かは、このとき、つぶれた車の、上になった助手席側のドアがあき、黒い影が飛び出したのを見た。 黒い影はホテルとは反対方向、半蔵門側へけもののようなスピードで走り去った。 つぶれてねじれて横たわった車体を包む煙は見る見る濃くなっていき、下になった運転席側のタイヤからはちろちろと火も見えはじめた。どこかで油漏れでもしていて、それが引火すれば、車全体が燃え上がってしまうだろう。もしも運転していた奴らが閉じ込められているとすれば、ともかく引きずり出して助けなければならない。 (武器は何も持っていない)耕下は用心しながらも車に近づいた。 上になって空を向いている助手席のドアがハッチのように開いたままになっていた。さては逃げたか。 ともかく確認しようと車体をよじ登り、助手席のドアから中をのぞき込んだ。 いた。 誰かが、底のほう、運転席にあたるところでひとりうごめいている。 「おい、お前!」 両手で自分の足をつかまえて、さかんにひっぱっていた男は、耕下の声にハッとして顔を上げた。 割れた黒い細いサングラスが、片方の耳から顔の前へぶら下がっている。ちょっと見には少年のようにも見える若い男だ。色白の顔があちこち血のにじんだ擦り傷でまだらになっている。ブロンズ色と金色がまじった縮れた髪の毛からのぞく、右耳の金色の小さなピアスが妙に印象的だった。作業員用の黄色いつなぎ服もあちこち破れ、中から着古したトレーナーがのぞいている。 若い男は上方に耕下を見とめると、目を明るく輝かせ、仲間にでも話しかけるように屈託なく言った。 「足が、曲がってしまったハンドルに引っかかってましてね、どうにも抜けないんです。手を貸してくれませんか」 「足だけか、他にどこもケガしてないか?」 「足だけです。引っ張ってくれれば出られます。お願いしますよ」 子供のように耕下に両手を差し出した。どうにも、耕下たちをてさんざんてこずらせた凶悪犯には見えない。 タイヤの炎が強まり、耕下も熱を感じはじめていた。ぐずぐずしている暇はない。 耕下は身を乗り出して、運転席に上半身を入れ、若者が伸ばした両手をそのまま取って、ぐいと引き上げると、続いて若者の両脇の下に手を入れて、引き抜くように引っ張り出した。さらに若者が、開いたドアのふちに両手を置いて踏ん張り、自分で運転席の外へ乗り出す。 ますますひどくなる煙の中、耕下が先に車から降りて若者を抱え下ろし、肩を貸して車から遠ざかる。若者は挟まれていたらしい左足を引きずっていた。 燃える車から十分離れたと思われたところで、若者を常緑樹の大木の根もとに寄りかからせて座らせた。 そのとき、ボン!と軽い爆発が起こり、運転席が炎に包まれた。 「危ないところだった。ありがとう、助かりましたよ。」 息を切らせて真剣な表情で炎を見やったのち、耕下を見上げた若者は、さも感謝するように笑いかけて言った。 「礼を言いたいのはこっちさ、よくぞ死なずに捕まってくれたよ、長官襲撃の犯人野郎。聞きたいことが山ほどあるぞ」 若者は耕下の好意的でない返事に、ばつが悪そうに目をそらすと、顔をしかめて左足を動かして、樹に寄りかかり直したが、ふと思いついたようにまたも気安い調子で話しかけた。 「ホッとしたら一服したくなった。タバコはありませんか?」 同僚にでも言うようになにげなく言う。 耕下はつられるように、つい懐からつぶれたラークの箱を取り出し、若者に差し出そうとして、いきなり思い直したようにひっこめた。 「ない!お前にやるタバコなぞない」 若者は眉を吊り上げると、肩をすくめ、しかたなさそうにため息まじりに下を向いたが、すぐに耕下に向きなおってけげんそうに言った。 「刑事さん、ネクタイが変ですよ。」 「ああ、お前の相棒が仕立て直しをしてくれたのさ。奴はどこへ逃げたんだ?あの車にはいなかった。あの剣術使いが簡単に死ぬはずがない。お前をおいてさっさと逃げちまったってわけだな。いま追いかけて捕まるようなタマでもなさそうだ。だが、お前という手がかりがいる。奴のことをじっくり聞かせてもらおう、署へ連行する。」 耕下は若者を起き上がらせると、強引に肩を貸して担ぐように抱え上げた。 若者は耕下と同じような背たけだった。がっしりしているようなきゃしゃなようなところもあるが、全身がバネのようにしなやかであることは肩を通して伝わってきた。 (こいつもあの日本刀を使うのか) 歩き出そうとしたとき、前方から、これ見よがしに存在感をみなぎらせて走ってくる人影がいやでも目に入った。 高価そうな、バーバリーらしいコートをひるがえし、高価そうなオーダーメイドらしいスーツをなびかせている男だった。 男は息も切らせず二人の前で立ち止まると、 「捕まえたか、なるほどこいつが犯人ってわけか」 と、耕下のほうは全く無視して、よりかかる若者をにらみつけて言った。 朗々と響き渡るような声。耕下は、この見たこともない男が名乗る前に、誰だかわかった。想像していたとおりだった。 男はやっと耕下に視線を移すと、目の奥に友好的な笑いをかすかに感じさせて言った。 「耕下警部補ですね、電話では何度か話したが、お目にかかるのは今がはじめてだ。対テロ高度対策室の特別捜査官、辺田和門です。」 耕下よりもひとまわり年かさだろう。無理も無駄もない落ち着きよう、秀でた広い額、ぎょろりとした目には有無を言わさぬ一方的な威厳がある。 耕下は気おくれせぬように、しかしどこか同志めいた親しみを感じさせるよう心がけて言い出した。 「舞網署の耕下仙人です。あの…」 捜査官は、耕下の言いたいことはわかっているとばかりに、言をさえぎるように、うるさそうに言った。 「心配ない、緑馬子巡査長はいま集中治療室にいる。命に別状はないそうだ。」 「素早い手配に感謝します。」 「だが長官やSPたちはそうはいかなかった」 「では長官は?」 捜査官は眉間にしわをよせ、小さくうなづいた。 「君は迅速に行動してくれたが、長官たちは油断しすぎていた。そのうえ襲撃者がしたたかすぎた…。全くたいした連中だな、君たちは。」 若者を鋭くにらむ。 「大それたことをしでかした割には、ずいぶん若いな。コンビニの店員みたいに見える若造じゃないか」 耕下と辺田のやりとりを珍しそうに見ていた若者だが、辺田の視線に居心地悪そうに横を向いた。 「こいつは片割れです。主犯らしい男は逃げました」 捜査官はすべてわかっているというように軽くうなづいた。 「本庁の一課に半蔵門一帯を捜索するように言っておいたが、無駄だろう。 それにしてもお手柄だったな、警部補、長官襲撃犯をその手でつかまえてくれたんだから。よくやってくれた。」 「捜査官のヘリの威力ですよ。それに、都心のど真ん中で、一台の車がコナゴナになるくらいに派手に攻撃して、犯人だけをかすり傷ですませるなんて、はんぱなテクニックじゃない」 耕下のささやかな皮肉も、捜査官には賛辞としか受け取られなかったらしい。当然だよとでも言うようににやりと笑ったが、ふと気がついたように、あらためて耕下をまじまじと見つめて言った。 「警部補、君のしているネクタイだが、いくらか短かすぎるんじゃないか」 |
| NEXT |