Chapter29 市籠署騒動


 市籠署の一階は、半次郎が連れてこられた時よりもさらに狂騒の度合いを増していた。市籠署管轄内の問題人種たちが、安売りセールのように集められてきたかのようだった。
 中央出入り口のある、広い一階のフロアは、長イスや事務机が散在し、はた目には動物園のような賑やかさの中で、粛々と警察署の日常が進行していたのだ。そこはさながら、元気はいいが不満だらけの患者と、怒り狂う医者たちでいっぱいの大病院の待合室といった感じだった。
 入り口に近いほうのひとつのデスクの周りには、一見しただけでは女子高生にも思える、ミニスカートとセーラー服の女たちが二十人近くも立たされて、真ん中でデスクに座ったままの若い刑事が、ぐるりを見回しながら青筋をたてていた。
 「だから、わかっているだろう。当然のことながら君たちは青少年保護条例で、ここへ連れてこられたんじゃない。目に余る客引きのためだ。その上、客は詐欺だとも訴えている、女子高生だと思って騙されたと言ってな。」
 「ダマされるほうが悪いじゃん」
 「何がじゃんだ。似合わない若者の言葉で言うんじゃない。だいいち恥ずかしくないのか、その歳でそんな格好をして。」
 「コスプレのどこが悪いのさ!」
 頭に大きなリボンをつけ、歌舞伎もどきに塗りたくって、猛烈な香水臭を振りまいているひとりがわめきだし、ほとんど同じ格好をしている残りの連中もそれに呼応しはじめる。
 中央通路をはさんだその向かい側では、長イスに小学生らしい五人の子供が神妙に座らせられ、若い婦警がてきぱきと尋問や説教をしていた。彼らの前のテーブルには、畳ほどの大きさの紙が何枚も積み上げられていて、その表面には模様のように整然と何枚もの一万円札が印刷されていた。
 「なんと百億円よ。どうやって印刷したの?」
 「はじめにコピーして作ったお札を使って買った印刷機で。」
 「番号も同じ、すかしも入っていなきゃ、すぐニセ札だってバレるのあたりまえでしょう。」
 「でも、ほとんどの自動販売機は、番号やすかしは気にしないから」
 「こんなに作ってどうする気だったの?」
 「クラスのみんなに一億づつ持たせて、自動販売機で切符を買って、列車に乗っていろんなとこへ散らばって、そこにある自動販売機へ入れまくって、うんとおつりを集めて、またみんなここまで戻ってくる」
 「なんと大犯罪じゃないの!親が悲しむよ。」
 「だから叱られないように、このお札を十万づつパパとママにプレゼントしたら、すごく喜んですぐ使っちゃったみたい」
 署に帰ってきた二人の警官も、防弾着を脱ぎながら聞くとはなしに聞いて、あきれていたが、一人が気づいて
 「その子!」
 と言って婦警に注意をうながした。
 ひとりの男の子がめずらしそうに、婦警の腰のチーフスペシャルのホルスターに触ろうとしていたのだ。
 「触るんじゃないの!」
 婦警は厳しくたしなめ、男の子は首をすくめた。
 その前のデスクでは、見るからに軽薄そうなチンピラがベテラン刑事に締め上げられていた。
 「ここは九頭竜会のシマじゃないだろう。何のための偵察だ?いつからこのへんを狙ってるんだ?」
 「だから道を間違えたのさ。迷っただけだよ。」
 「署の中でも迷ったってのか、いつの間にか地下まで行きやがって。何で取調室の方へ向かった?」
 「トイレを探してたのさ。何でも疑わないでくれよ。俺は丸腰なんだぜ、タバコ以外何も持っちゃいないよ。」
 チンピラにとりたてて疑わしいところはなく、すぐに解放されたが、このときベテラン刑事はタバコを取り上げて調べるべきだった。タバコには超高感度マイクとMDカセットが仕込まれており、半次郎と耕下のやりとり〜耕下が井上月昭の著作に触れたくだりもしっかり録音されていたのだ。
 通路をはさんだその向かい側のデスクの前では、大学教授が怒りの声をあげていた。
 「これは不当な拘束だ。神に誓って私は何もしていない。断固として抗議する。」
 「その、両手の袖の中に隠れている手鏡は何です?」
 「こ、これは自分自身をチェックするためだ。私は常に身だしなみに気を使うようにしている。断じてスカートの中を覗いたりするためのものではない。」
 「なるほど、その格好じゃ確かに気を使うでしょうな。そもそも女装しているのはなぜです?気づかれずに女性に近づくためなのでは?」
 「ちがう!これは、その、あの、き、気分転換だ。私は思索で行き詰ったとき、こうして気分転換をはかるのだ!」
 こうした、ごく日常的な賑わいの中に、さらに雨が降ってきたので傘を貸してくれないかと言ってくる老夫婦も現れ、加えて、雨のしずくを盛大にしたたらせながら、傘をさしたままの一行がどやどやと中央通路から乗り込んできた。
 たまらず、奥のデスクに陣取っていた、一階のフロアの主である、退職間近の警部が立ちふさがった。
 「あんたがたは何だ?何しにきた?」
 傘の連中をかき分けて後方から交通警官が言い訳しながら現れた。
 「すみません、警部。こちらの皆さんは台湾からの旅行者らしいんです、東京タワーへ行く道を聞きたいと言って。」
 「なにも全員で署の中まで入ってくることはなかろう。それに台湾では傘をさしたまま家の中へ入る習慣でもあるのかね」
 「あ、皆さん、皆さん、とりあえず傘を閉じてくれませんか」

 捜査一課と半次郎の一行が、エレベーターを降りてさしかかったのは、まさにこういった市籠署の、活気あふれる日常の只中だった。
 桐生警部がモーゼのように先導し、わめく子悪党や下っ端警官を押しのけて中央通路を進む。
 「そんなにくっつかないで下さいよ、オッサンに迫られても嬉しくない。」
 両側から腕を押さえつけられ、後方も屈強なぶ厚い二つの胸に封じ込められている半次郎がうめいた。
 「何だと、おかしなマネをするんじゃないぞ。」
 右手の小太りの刑事が目をぎょろつかせて半次郎をにらむ。
 「刑事さんこそ、おかしなマネをしないで下さいよ。さっきから密着しっぱなしじゃないですか、俺にその気はないよ。」
 小太りの刑事はからかわれたと思っていきり立った。
 「つべこべ言わず、とっとと歩け!」
 「だからそれだと脚がからまりそうで、歩きにくいんですよ…おっと!」
 言わんことじゃないとでも言いそうに半次郎は前のめりによろけた。
 しかし、両の二人の刑事は左右から半次郎の腕をねじり上げるようにして、その上体をぐいと上向かせた。
 「わざとらしくよろけるな。つまらん小細工をしようなんて思うなよ。」
 小太りの刑事はまるでスキのない様子で、半次郎にヤニ臭い息を吹きかけながら言った。
 「痛てて…でも、ほんとに脚がもつれますよ」
 前を行く桐生警部は後方でボヤく若者をいらだたしく思いながらも、台湾人の一行を押しのけてずんずん進んでいく。
 「おっと!」
 再び半次郎が前に倒れかかった。
 今度はほんとうに小太りの刑事の脚に自分の長い脚がもつれてしまったのだ。
 さっきよりも大きく倒れそうになり、左手の刑事に寄りかかったが、強い力で押し戻されたため、今度は小太りの刑事のほうへ寄りかかろうとして、意地悪くさっと上体をかわされたために、床にうつ伏せに倒れそうになったが、そこに突っ立っていた台湾人観光客のリーダーらしい老人の持つ傘の柄の下の部分につかまって、危ないところで体を支えた。
 老人の手から傘を抜き取るのと、それを両手に持ち、傘の柄の先で左手の刑事の胸にあてみの一撃を食らわせるのとほとんど同時だった。(このとき老人は口の中でわしの傘は≠ニモゴモゴ言った)
 胸を突かれた刑事が衝撃でのけぞる前に、傘をくるりと回し、今度は柄の先を小太り刑事のアゴへ見舞った。
 突っ立ったままの若者を残して、両脇の二人がくたくたと沈むように倒れかかったのを見ても、後方を固めている二人には何が起こったのかわからなかった。それほど半次郎の動きは素早く、小さく、適確だった。
 後方の二人がえっと目を見開いたとき、半次郎は首だけを回してちらりと後方の刑事を見やり、にやりとしたと思う間もなく、傘をすっと手の中で浮かせ、先端のとんがり部分の近くを握り直すと、そのまま振り上げ、一気に左後方の刑事の肩へけさがけに振り下ろした。
 刑事はみねうちに一瞬呼吸が止まり、そのまま床に叩きつけられる。と、返す傘で右後方の刑事の面を打ち据える。懐の銃に手を伸ばす間もなく、刑事は目の前に無数の星座を見つつダイビングするように床に沈んだ。
 あっという誰かの悲鳴と、後方の一瞬の不穏な動きに、振り返ろうとした桐生警部に、誰かが激しく体当たりし、警部は天地が逆転するような衝撃を味わったあげく、コブができるほど床に頭を叩きつけられた。
 反射的に起き上がろうとしたが、起き上がれない。
 重いもの〜誰かの足〜が胸の上に乗っていた。
 見ると、はるか上方から、ブロンズ色の髪の毛の下の白い顔の中の、らんらんと光る目が見下ろしている。
 くそっ!と無理に起き上がろうとして、首に痛みを感じた。自分の顔の前に、銀色に光る細長く鋭い剣がある。傘の先端が首を貫く寸前まで押し付けられていた。
 見下ろす若者の目には、あの取調室で見たときの、ごく普通の若者の面影は微塵もない。この若者は、一瞬のうちに冷酷な使い手へと変貌したのだ。
 若者は油断なく桐生警部を見据えながら言った。
 「おい、そこの密着ずきの刑事さん、こいつの鍵をよこせ。」
 若者が傘を持つ手をすこし震わせると、鎖がチャリンと鳴った。傘を持つ両手には手錠がかかったままだったのだ。
 ふたりの刑事はアゴをさすりながら、呆然としたまま上半身を起こす。
 「早くしろ!でないとお前のボスが喘息持ちになるぞ。」
 傘の先端をより深く警部ののどにくい込ませる。警部はぜいぜい言いながら命令した。
 「渡せ!こいつに鍵を渡すんだ大蟻!」
 小太りの大蟻刑事はのろくさくしぶしぶポケットに手を突っ込むと、鍵を取り出した。
 「ゆっくり、こっちへ放るんだ。おかしなマネはするなよ。」
 と若者はにやりとしながら言う。
 聞こえないように舌打ちしながら、大蟻は若者のほうへ鍵を放った。
 左手で傘を持ったまま、右手でたやすく鍵を受け取ると、手首を器用に回して、たちまち鍵をはずし、再び手錠を閉じて、右手の人差し指に手錠の輪を入れてくるくる回してから鍵も手錠もポイと捨て去った。
 このころには騒々しかった一階のフロアはどんどん静まっていき、ほぼ全員の目がフロアの中央の半次郎に向けられはじめていた。ほとんどの人がこのフロアで異変が進行しつつあることに、ようやく気づいた。
 円形劇場の舞台俳優のように周りから注目を浴びながら、半次郎はあくまでもさりげなかった。
 「さて、ささやかなショータイムもそろそろ終わりだね。じゃあ、このへんで失礼するとしようかな」
 言うなり脚に力を込め、桐生警部を踏み台にだっと飛び退った。
 
 裁断されていない偽札の山ともじもじしている小学生たちを見比べ、全く信じられないことが起こる世の中だと、感慨を新たにしていた若い婦警はいち早く、署内でも信じられないことが進行しているのに気づいた。あろうことか警察署の只中で、法と規律の発信場所のようなところで、聖地を冒涜する行為が行われている。
 ひとりの、手錠をかけられた、容疑者の若い男が、見知った顔ではないが、明らかに警官とおぼしき人物を踏みしだき、その首に傘の先端を剣のように突き刺そうとしていたのだ。たちまち茶髪の若い男は手錠をはずし、放り投げる。
 何か行動を起こさなければと、腰のチーフスペシャルに手を伸ばしかけたとき、いきなり若者は婦警に向かって走り出した。と、思う間もなく通り過ぎて見えなくなった。なんて足の速い若者だろう。若者の行った方を振り返ろうとしたとき、腰のホルスターに誰かの手が触れるのを感じ、また小学生だろうと思って、
 「さわっちゃダメだって言ったでしょ!」
 とたしなめた。
 そのとき、いきなり何者かに後方から抱きすくめられ、両手の自由がきかなくなってしまった。続いて一本の腕が後ろからヘビのようにからみつき、婦警の首はおそろしい力で横向きに傾けられた。同時に頭のすぐ後ろから声が聞こえる。
 「悪いな、婦警さん。ちょっとだけつきあってもらうよ。」
 若い婦警は、後方からはがいじめのようなかたちで、いなくなったと思った茶髪の若者に組みつかれていたのだ。
 それほどたくましくは見えない若者だったのに、両腕は万力の爪のように婦警の胴体を締めつけてきて、全く自由を奪ってしまった。その上、頭を押さえている左手にも同じような力が込められているため、婦警の首は今にも折られそうなほど、どんどんひん曲げられる。婦警の胸を包み込みながら前に伸ばされた右腕の先に黒く光るのはまぎれもない、ホルスターから抜かれたばかりの、銃身の短いチーフスペシャルだった。
 「さて、皆さん、ご苦労だが、しばらくそのまま時間が止まったと思って、じっとしていてくれないか、俺がいなくなるまで。」
 言い終わると、婦警と一体になったまま、じりじりと中央出口の方へ後じさりしはじめる。
 あっけにとられて何もできないでいる全員の中で、只一人桐生警部が我に帰って、行動を起こした。
 「くそっ!」
 と床から飛び起きると、さっと懐に右手を突っ込んで、手入れが行き届いたCz75を取り出し、若者の方へそのピカピカの銃口を向けた。
 「待て!この野郎!よくもやってくれたな、逃がしはしないぞ!一歩たりとも貴様をここからは出さん!」
 「おっと、解説しなきゃわからないのかい、刑事さん。俺の前には、この素敵な婦警さんがいるんだぜ。あんたが撃てば婦警さんに当たる、それともこの人の細い首が折れるのが早いかな。どっちもまずいだろ、刑事さん。」
 「気安く刑事さんなどど言うな!私は警部だ。本庁捜査一課の桐生警部だ。」
 職場内部の階級や名声のひけらかしは若者には何の効果もない。
 「誰でもいいけどさ、ナントカさん。とにかくじっとしててくれないか、しばらくの間。」
 桐生警部の胸に、傘を首に押してけられて、床にモップのように転がされた屈辱がよみがえり、かつてないほどの憎悪がわきあがった。
 「大蟻!大蟻!」
 警部は怒りに燃える目を若者に向けながら、大声で自分の背後に呼びかけた。
 遅まきながら警部にならって若者の方へ銃を向けていた警部の部下たちのうちの、小太りで脂ぎったひとりが、
 「は、はい」
 と返事をしながら、名前を呼ばれたテリヤのように忠犬然としゃしゃり出ると、警部の横に立ち、並んで銃を構えた。
 「もっとこっちへ来い」
 警部はなおもうながす。
 大蟻刑事は緊張しきって、まん丸な目を若者に向けたまま、そろそろとなおも警部に近づく。
 「もっとこっちだ!」
 「は、はい」
 「もっとだ、俺の前に出ろ。」
 「え?ええっ…?」
 「いいから出るんだ。」
 「はい」
 大蟻刑事はつばを飲み込み、震えるように小刻みに動く両手でSIGザウエルを構えながら、若者と婦警に向かって警部より半歩先に踏み出した。
 「よし、それでいい。」
 言うなり警部は大蟻刑事をがっと捕まえた、というよりその陰に隠れた。
 左手で大蟻刑事の肩をつかんで、無理に若者のほうを向かせ、Cz75を構えた右手を大蟻刑事のわき腹の陰から若者に向ける。同じような体格だが、大蟻刑事のほうが小太りなため、桐生警部はほぼその陰に隠れてしまうかたちになった。
 「どうだ、小僧、これでおあいこだな。お前は婦警を、俺は大蟻を盾にしている。これでイーブンってわけだ。」
 ようやく警部の意図に気づいた大蟻刑事は、たちまち青ざめ、銃を構えたままあえいだ。
 「やっ、やめてください、警部!」
 さすがの若者も一瞬あっけにとられ、たまらず言った。
 「おいおい、何てことをする気だ?!あんたそれでも警官かい?仲間が弾に当たってもいいのかよ?」
 「やかましい!我々は治安を守ることに日夜腐心している。このような崇高な任務の遂行には犠牲がつきまとうのは覚悟の上だ。お前のような凶悪犯の逮捕に、この程度の付帯被害は予想の範囲内だ!」
 「お、お願いです、警部…」
 大蟻は両方の手を合わせそうにして言った。震えが大きくなり、今にも銃を放り出して、その場から逃げ出しそうだ。
 「心配するな、大蟻。お前の仇はすぐにとってやる。」
 「まだ、やられてません…それに心配してるのは私の仇を討ちの成否じゃなくて、その前の…」
 「お前が殉職したら、お前の息子の家庭教師代は俺が出してやる。」
 「ローンもあるんです…でも、私が心配してるのはそれでもなくて、私の命のほうです…」
 「本気なのか?!あきれたな…そんな手でくるとは。こいつはちょっと弱ったな…」
 さすがの若者も、なすすべもなく手をこまねく様子になった。
 「お前のような悪党を捕まえるのに、いっさい手段は選ばない。本庁の心意気をとくと見ておけ!大蟻刑事は、お前の弾を何発でも喜んで受ける用意がある。」
 「い、いえ…じつは…そのような用意は、心の準備は全くできておりません…どうか、警部、お願いですから…」
 大蟻は小声で必死で懇願したが、桐生は全く無視した。
 「いくぞ、小僧!」
 自分の進撃の言葉を合図に、桐生警部は、盾を持って進む古代の重装歩兵のように、前の大蟻刑事を押して無理に歩かせながら、じりじりと若者と婦警に向かって進みはじめた。
 「ひええええ…!」
 大蟻は悲鳴をあげ、目をつぶりながらも、銃を構えた両手を前に突き出す。今にもはずみで引き金を引きそうだ。
 「それ以上近づくと本当に撃つぞ!」
 若者は婦警を抱く腕と、銃を持つ手にさらに力を込めた。婦警からひっと悲痛な悲鳴がもれる。
 「やってみろ!こっちだってお前をはずさないところまで近づいているぞ!」
 この桐生の言葉に若者は、さらに銃を前に突き出した。
 それを見た桐生は、ひっと息をのんで、大蟻の背後に顔を隠す。大蟻刑事もまた首をすくめる。
 しかし、これは若者が反射的にとった単なる脅しのポーズで、まだ引き金を引いてくる気はないとふんだ桐生警部は、そろそろと大蟻の背中から顔を出し、銃を構え直した。
 「どうした、撃てまい。お前は撃ってくる度胸なんてないんだ、小僧め!」
 桐生は、自分が時間かせぎをしているうちに、署内にひしめいて息を殺している警官のうちの誰かか、署内の異変に気づいた外にいる警官あたりからの救援の動きを期待していたのだが、若者もそれくらいは気づいていて、手いっぱいの姿勢で銃を構えながらも、油断なく四方に目配りしていて、署内の動きはしっかり封じていた。
 ここに至って、四人が突っ立って見合ったままの、完全な膠着状態におちいった。
 つまりさしもの不敵な若者・半次郎も完全に行き詰ってしまったのだ。これではどう動いても四人ともただではすむまい。その上時間がたてばたつほど半次郎に不利になっていくことは確かだ。
 ついに意を決した半次郎が、かなり無茶な行動を、今まさに起こそうとしたとき、
 「もういい、そこまでだ。」
 と聞き覚えのある声が響き渡った。
 進行しかけた事態が寸前で断ち切られたように止まる。
 舞台効果を狙ってでもいたかのように、一階フロアの奥の、エレベーターの方の暗がりから出てきたのは耕下警部補だった。
 桐生のヒステリックな言動に感染し、すっかり緊張しきって固まってしまい、固唾を飲んで破局を見守るしかなかった、警官たち、容疑者たちをはじめ一階フロアの全員は、落ち着き払った、自身ありげな耕下の登場に、ほっと息を抜き、ほんの少しだけ緊張をゆるめた。
 これは半次郎も同じだった。常軌を逸しがちな、この本庁の警部とやらよりは、少しでも手の内のわかった、刑事らしい刑事のほうが取引はしやすい。
 「誰かと思えばさっきの刑事さんか。出てくるのが遅かったな。でも、まあ、いいさ。あんたなら話がわかる。そこでいきり立っているエラい刑事さんに、危ないから銃を下ろすように言ってくれ。」
 耕下はゆっくり出てくると、大蟻を抱きしめるようにしがみついている桐生警部のやや斜め後方に立った。
 「それはお前だ、半次。」
 「何だって?!」
 「銃を下ろすのはお前だと言ったんだ、半次。」
 「半次、半次とずいぶん気安く呼んでくれるじゃないか」
 「お前がさっき、呼んでもいいと言ったろう。いいから銃を下ろして、その娘を放せ。もう悪あがきは終わりにして、さっさと本庁の取調室へ行け。
 お前の負けなんだよ、半次。将棋でいえば詰みの状態さ。」
 「何を言ってるんだ。こっちにはまだエースの札があるんだぜ。これからじゃないですか、刑事さん。」
 「その人質がエースの札ってわけか。笑わせるな、自分の姿をよく見てみろ。今のお前は女を盾にする、ただの卑劣な子悪党じゃないか。
 おい、半次、お前さっき何と言った?現代には武士道が必要だと、ご大層なことを言ったな。武士道こそ現代に必要な行動規範だと。と、いうことはお前もその武士道の信奉者なんだろう。じゃあ今、お前がしていることは武士道に沿ったことなのか。女の陰に隠れてこそこそ逃げようとする卑怯未練なやり方が、天晴れ武士道なのかよ!」
 痛いところをつかれた。
 若者の、少年のような白い顔がみるみる紅潮し、ぐっと歯をくいしばるのがわかる。右耳のピアスがかすかに震えはじめる。
 「…とっ、時と場合によっては、目的のためには手段を選んでいられないってこともあるさ…」
 押し殺した低い声で言う。
 「時と場合によってはっていうんじゃ、何でもできる。信念など無きに等しいんじゃないか。言い逃れも武士道にもとることだと思うがね。」
 若者は婦警を抱きとめたまま、全身をわななかせ、上目づかいに底からにらむように、燃えるような目で耕下をにらんだ。
 心臓の音が聞こえるほどのしばしの静寂ののち、若者はふうっと長いため息をもらすと、スイッチが切れたように、たちまち全身の緊張をゆるめ、耕下から目をそらすと、伏目がちに言った。
 「刑事さんの言うとおりだな。まちがっちゃいない、まちがってるのは俺のほうだ、くそっ!刑事さん、いや、舞網署の耕下警部補、あんたって人はときたま、まともなときのゾウさんみたいなことを言うぜ。確かに俺は言うこととやることの筋が通っていなかった。公園のときのゾウさんと同じだ」
 意外にあっさりと兜を脱いだようすになると、婦警の耳もとで
 「悪かった、婦警さん。いきがかりでとんだ思いをさせてしまった、どうか許してください。誓って言うが、はじめから、何があってもあんたを傷つけるつもりはなかったし、傷つけなかった。申し訳なかったです。」
 と言うと、するりと婦警の首から右腕を抜いて、両腕を開き、婦警を自由の身にした。
 いましめを解かれた婦警は床にどっと崩れ落ちたが、たちまち
 「ひいいいぃぃぃ!」
 と悲鳴をあげ、四つんばいのまま、走る犬よりも速く若者のそばを離れ、耕下と桐生の間をくぐり抜けてフロアの奥へと去り、そこにいた同僚たちに抱きかかえられた。
 ひとり取り残された半次郎は衆人環視の中、ばつの悪そうな、青白い顔の普通の若者にもどっていた。
 やがて半次郎はゆっくりと顔を上げ、観念したように耕下を見ると、右手のチーフスペシャルを床へ放り出し、ゆっくり両手を上げた。
 ことの急な成り行きを、大蟻刑事にしがみつきながら、あっけにとられて眺めていた桐生警部は、万事に窮して身動きがとれなくなっていたところを耕下に救ってもらったことに感謝の念を示そうとはしなかった。ただ単に自分が、若者に対して有利な立場になったとだけ確信した。しかも絶対的な優位だ。チャンス逃す手はない。
 桐生にとって、自分をフロアに転がして赤っ恥をかかせてくれた憎い若者との対決はまだ終わってはいなかった。構えた銃をいっこうに下ろそうとしていないのがその証拠だった。それどころか、後生大事な名茶器のように抱きかかえていた大蟻の体躯を、目障りだとでもいうふうに
 「どけっ!」
 と突き飛ばして、脇へうっちゃった。
 右手に構えた銃はそのままだ。よく光るCz75はぴたりと若者の胸の真ん中に向けられている。
 桐生のもくろみに気づいた耕下が、桐生に向かって
 「よせっ!」
 と叫ぶのと、
 「死ね、小僧」
 と桐生が勝ち誇るのが同時だった。
 その直後、Cz75の先端からオレンジ色の閃光と、オートマチック銃特有の湿った轟音が飛び出た。
 桐生の目に宿った、一種狂気めいた光に気づくのが遅れていたら、若者の胸骨は血と肉の混じった破片となって飛び散っていただろう。
 0.0何秒かの差で9ミリ弾は若者の左腕をかすめ、横に飛んだ若者はそのまま床に転がった。
 弾は虚しく空を切ったと桐生は舌打ちをしたが、そうではなかった。
 「ぎゃああああぁぁぁぁ!」
 と、けたたましい怪鳥のような悲鳴がおこり、桐生には、得体の知れない、人間のように見える、けばけばしい塊がごろりと床に転がったのだ。
 セーラー服らしいものをまとい、フランス人形のような、わけのわからない髪型をした、どう見ても高校生には見えない女が、太い右足を宙に突き出し、その太ももを両手でささげ持つように押さえながら、大声でわめいている。その膝のあたりから、赤黒い血の糸が一筋二筋、めくれ上がったミニスカートのフリフリのパンティーに向かって流れていくのがわかる。
 若者を捕らえそこなった銃弾は、一階フロアの入り口近くのデスクで取り調べを受けていた、女子高校生をかたった売春集団の一人に命中したのだ。
 「血だ!血だ!ぎゃあぁぁぁぁ、血が流れた!痛い!痛い!超痛い!死ぬ!死ぬ!完全に死ぬ!死んでしまう!人殺しぃ!人殺しぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!」
 見たところ、弾は膝の皮膚をかすめただけだったが、その30がらみの、おぞましい化粧をした太った女は、パニックになり、元気一杯わめきたてたあげく、白目をむいて失神してしまった。
 パニックはたちまち他のセーラー服連中に伝染した。
 「やられた!カンコが撃たれた!おまわりにやられた!殺されてしまった!何もしてないのに、
ちょっとカモって、ちょっとバックれただけなのに、殺されちまった!」
 「これってヒドくない!最悪じゃない!人殺しじゃない!皆殺しじゃない!あたいたちもやられる、確実にやられる!」
 「助けて!助けて!おまわり、おまわりはどこ!助けてーッ!」
 一人は両手で顔をおおって泣き崩れ、一人は頭をかかえて叫びながらうずくまり、一人は立ったままひきつけを起こして失禁し、二人は抱き合って倒れこむという倍のパニックに発展した。
 それを機に一階のフロア全体がいちどきに沸騰したようなパニックとなった。
 参考人や容疑者、事情を聞かれるだけの目撃者や、苦情を訴えに来ただけの市民や、交通事故で調書を提出にやって来ただけの市民らが、我勝ちに中央出口に殺到し、それぞれ左右から出口へ走ってきた詐欺と恐喝の参考人が、出口の前でハ合わせして昏倒し、スリの容疑者がそれにつまづいて倒れこみ、後から来た連中がそれにつまづき、出口の前はたちまち倒れてうごめく人間の山ができた。
 警官たちもまた、我勝ちに机の中に入れてあったり、ホルスターに入れたままになっていたり、銃器戸棚の中に納められていたりした銃へと走り、同僚や容疑者や参考人にぶつかって、悪態をついたり、突き飛ばして押しのけたりした。
 女装教授を取り調べていた刑事は、教授に組みつかれて床に倒れこんでしまった。教授は、怖い怖いと言いながら、刑事の胸に顔をうずめてむしゃぶりつく。放せ!放しなさい!と言いながら、刑事は必死でホルスターから銃を出そうとする。
 ニセ札小学生たちは、裁断されていない畳のようなニセ札の束を屋根のようにかぶって、全員カメのようにその下にもぐり込んだ。
 防弾着を脱いで掛けたばかりの警官たちは、あわててそれを着なおそうとする。
 中央通路に一列に並んでいた台湾人観光客たちは、持った傘を避雷針のように立てて、雷でも避けるようにその下にしゃがみ込む。
 「みんな撃つな!撃ってはならん!」
 という耕下の叫び声は虚しく悲鳴や怒号にかき消された。
 桐生は自分の一発が引き起こしてにまったパニックにただ青ざめ、呆然と突っ立っている。大蟻もそれに合わせるように、口をだらしなく開け、目の前の混乱を見つめるだけだ。
 手のつけられない狂騒の渦だった。

  なすすべもなくセーラー服売春婦たちの取り乱しぶりを見ているしかなかった担当刑事がいち早く我に返り、ホルスターからチーフスペシャルを抜き取って、目標を捜した。
 半次はとっくに行動を起こしていた。
 だっと床から起き上がると、最初に傘を借用させていただいた台湾人観光客のリーダーのうしろにいた、もうひとりの傘を立ててうずくまっていた、リーダーによく似た丸顔の台湾人から、借りるよと言って傘だけさっと奪い取った。
 セーラー服担当の刑事が、そいつを捨てろ、動くんじゃない、と銃を向けるより、半次の傘の先のほうが早かった。
 たちまち傘を下段から振り上げ、チーフスペシャルは宙に飛び、さらに床に転がって、打ち込まれたアイスホッケーのパックのように床面を滑って、見えなくなった。
 すかさず半次は傘の中ほどで、くだんの刑事の額を打ち据える。
 「うわっ、痛ぇ!」
 刑事は額を押さえるとそのまま昏倒、失神した。
 セーラー服担当刑事とほぼ同時に行動を起こしていたのは、女装教授にしがみつかれて床にねじ伏せられていた担当刑事だった。
 起き上がりざまに、からみつく教授を手荒く払いのけ、なおもむしゃぶりつこうとする教授をものともせず、チーフスペシャルを両手で構えると、ぴたりと若者の顔に狙いを定めた。
 が、このとき、刑事の腰にぶら下がるようにしがみついていた教授が、ここに至っていよいよ錯乱し、なにを思ったか、いきなり刑事の局部にズボンの上から咬みついた。
 「ぎゃあああぁぁぁ!」
 刑事は悲鳴をあげ、思わず構えた銃もろとも天井を振り仰ぐ。
 半次は一瞬のスキを見逃さなかった。
 たちまち傘を横に薙ぎ、刑事の手からチーフスペシャルを跳ね飛ばした。
 返す傘でけさがけに刑事の肩を一撃する。
 刑事は叩き壊される積み木のように崩れ落ち、教授が覆いかぶさるようにしがみつきなおした。
 パニックを圧する勢いで鮮やかな立ち回りを見せる若者。しかしこれは、いっとき呆然としていた桐生と大蟻を正気に戻らせてしまった。
 一般人の集団パニックにはこれまで直面したことがなく、しかも自分たちが引き起こしたことであればなおさら、手のほどこしようもなく途方にくれるばかりだが、目標が定まれば、しかも相手が一人、犯人であれば再び自分たちの出番。制圧は得意な通常の仕事だ。加えて若者に対する憎悪と怒りが倍の勢いで燃え上がる。
 再びCz75を持ち直し、今度こそはずさないように、刑事を傘で打ち据えたばかりの若者の脳天めがけ連射した。
 弾道の帯で若者を薙いだことになる。
 市籠署一階のフロアの空気は上下真っ二つに切り裂かれたが、若者は真っ二つになりはしなかった。
 その場で宙返りをし、銃弾の矛先を難なくかわすと、そのまま中央通路の床にごろごろ転がって、向かい側のデスク群まで転がり、ニセ札の山をかぶった小学生たちのわきをすり抜けた。若者を捕らえそこなった銃弾は再びセーラー服の一団を襲ったが、今度は全員が床に伏せていたために、むなしく壁や窓を破片にしただけだった。
 若者はがばっと起き上がると、傘を前方に構えたまま、窓際へと走る。
 防弾着を脱いだ直後、壁際に立ち尽くしたまま騒動に巻き込まれた二人の警官は、強力な犯人がいきなり自分たちに向かってきたのにまずあわて、
 「うわわっ!」
 と悲鳴をあげて突進してくる若者から飛びのいてしまった。
 半次は苦もなく掛かっていた防弾着のひとつを手にする。
 飛び退いた二人の警官は、ここでようやく自分たちの職業と使命と、すでにホルスターからチーフスペシャルのロングバレルを抜いていたことに思い当たり、とっさに脅えてひるんでしまった自分たちのふがいなさにも腹を立て、失点を挽回しようと、若者に向けて思い切って引き金を引いた。
 二発の弾はあやまたず若者に向かって飛び、ブスッ!ブスッ!と衣服にめり込むにぶい音がした。
 若者は着弾の衝撃で上体を少し揺さぶられる。
 が、倒れはしなかった。
 倒れるどころか、逆に警官二人に向かってくる。
 弾がめり込んだのは、若者が左手にかかげた防弾着のほぼ真ん中だった。
 自分たちの発砲が効果をあげなかったことを悟った警官二人のうちひとりは、次の攻撃に移ろうと、防弾着をかいくぐり、若者の側面に回りこんだ。が、そこで傘の鋭い先端の突きの一撃を胸に受けてしまった。若者が手かげんをして、さらに急所を避けていなかったら、まともに胸を貫いていたほどの衝撃だった。警官は吹っ飛んで床を滑ったのち、動かなくなった。
 もうひとりの警官は、呼吸を合わせるように、反対側の側面に回り込もうとしたが、突きからそのまま勢いよく一直線に逆戻しした傘の柄にアゴをとらえられ、これまた床にKOされてしまった。
 この間に、いつの間にか若者がかかげる防弾着は桐生の方へ向けられていた。
 若者は呼吸の乱れもなく、傘を持った右手を下げ、傘の先端が床面とすれすれになる。
 下段。
 と、若者は桐生に向かってつかつかと進みはじめる。
 桐生はとっさにマガジンキャッチボタンを押してマガジンを落下させた。すでにマガジンはカラで、ホールドオープン状態になっていた。Czの銃口は若者に向けたまま、ポケットから新しいふたつめのクリップを取り出してグリップに押し込み、スライドキャッチをはずして初弾を薬室へ送り込んだ。
 一歩下がっていた大蟻は、桐生を補佐するポーズをとりながら、じつは陰に隠れようとしていた。
 若者は伸ばした左手で防弾着を盾のように構え、最前の桐生のやり方と同じ、古代ギリシアの重装歩兵のように前進してくる。
 桐生は、防弾着には隠れていない脚か頭の部分を狙うつもりでいた。
 しかし、若者の姿は突き出された防弾着の陰にすっぽり隠れがちで、見ようとしてもはっきりとは見えない。つい、注意が視界の中央の防弾着にいってしまい、ほかはぼやけてしまうのだ。
 桐生は相手の術中にはまりかけているのかもしれないと気づき、焦った。
 剣法にこんな場面がなかったか。達人が中段の構えで迫ってくると、格下の者は相手の剣以外何も見えなくなってうろたえるのだ。
 しかしこれは刀の勝負ではない。
 桐生は記録的な速さで引き金を引き、オートマチック銃は機関銃のように作動して、数秒で全弾を撃ち尽くした。
 銃弾はすさまじい勢いで防弾着を縫い、若者は衝撃で防弾着もろとも小刻みに揺さぶられる。さしもの防弾着も破片をあたりにまき散らしてボロ雑巾のようになったあげく、数発の弾に貫通されてしまった。
 やったか!当たったか、小僧に!?
 桐生が確かめようとしたとき、Czの銃口をふさぐように、ずたずたになった防弾着が押しつけられてきた。
 「なかなかだ。まずまず性能のいいチョッキだね。軽くて衝撃をよく吸収する。でも防弾性に関してはあと一息ってところかな。」
 言いながら若者は防弾着の陰からひょいと少年のような顔をのぞかせた。
 と、防弾着をCzに押しつけてひねり上げ、防弾着ごと銃を放り投げた。
 あらがう間もなく傘の先端が両足首を襲い、桐生警部は強烈な脚払いをくらわされて、押し倒される芸者のような情けない格好で床に転がされた。
 なんとこの権威や秩序の成り立ちすら知らないような、街の野良猫のような若者に無様に倒されるのは、これで二度目ではないか。本庁では知らぬもののない腕利きが、ピアスをした茶髪の小僧に打ち負かされるとは最大の恥辱だった。許せない…この小僧だけはこのまま生かしてこの署を出すわけにはいかない。
 しかし、あふれかえる桐生の憎悪の念を押しつぶすように、若者の足は、肋骨も折れよとばかり容赦なく胸を踏みつけてきた。さらに傘の鋭い先端がまたしてものどに深くくいこんでくる。
 「ま、待て、待ってくれ、参った。わかった、私の負けだ。」
 深くのどを突かれた桐生は、しわがれ声でどうにか言った。
 「助けてくれ、降参する。殺さないでくれ、お願いだから…」
 桐生はらつ腕刑事とは思えないような、今にも泣き出しそうな哀れっぽい顔で若者を見上げ、ちらりと大蟻の方を見る。
 すぐそばで桐生が一瞬のうちに倒されるのを口を開けて見ていた大蟻は、あわてて持っていたSIGザウエルを床へ置き、両手を上げて手向かう意思がないことを示した。
 「あっさりと負けを認めるとは、あんた案外いさぎよい人なんだな、刑事さん」
 「君の勝ちだ。この署ではもう君に手向かいするものはいない。君は武士道の信奉者らしいから、抵抗しない相手を手にかけたりはしないだろう」
 「いや、そんないい覚悟の人の志をくんで、恥をかかせないように速やかに息の根を止めてやるのも礼儀のひとつ、武士の情けってやつだと思ってるよ。それに俺は、自分を殺そうとした奴に対しては遠慮しないことにしている。あとあとのことがあるからな。」
 若者は傘を持つ手に力を込めた。
 「待てい、半次!それ以上は許さんぞ。俺も警官に敬意を払わない奴に対しては遠慮をしないことにしている。」
 声と同時にカチッと撃鉄を起こす音が聞こえた。
 ハッとして一瞬動きを止めた若者は、やがてふっと息を抜くと、気のないようすで桐生を見下ろしたまま、うんざりしたように言った。
 「やれやれ、またあんたですか、警部補。さっきと同じじゃないですか。あんたって人は、俺がキメのポーズをとると、決まって水を差してくれるんですね。」
 半次は傘を持つ手をゆるめないまま、ゆっくりときびすを返して、声の方を見た。
 意外なことに耕下警部補は半次の目線よりずいぶん高いところにいた。
 壁際に近いひとつのデスクの上に敢然と立ち、右手をまっすぐに伸ばして、その先に持ったリボルバーで半次を指し、下界に裁きを下す神の像のように堂々としていた。
 確かに耕下は神に優るとも劣らぬ有利な立場にいた。勝負は終結したと誰もが納得した。長きにわたった市籠署の騒乱は収拾へと向かったのだ。
 若者は舌打ちをしながら、しかたなさそうに桐生警部の首を貫く寸前まで食い込ませていた傘をすっと引く。
 桐生はようやく緊張が解け、力が抜けて、そのまま溶けて流れてしまいそうなくらいに床に横たわり直した。すぐに立ち上がる元気はなかった。若者にさんざん恥をかかされ、危ないところを所轄の格下に助けられたが、これもやはり恥に変わりはない。
 若者は桐生の胸を踏みつけて乗り越えると、ゆっくり耕下に向きなおり、右手に傘を持ったまま両手を広げ、手向かう意思がないことを示した。
 …と、思えた直後に、左手を傘の柄に据え、傘を振りかざした。
 耕下が、うむっ!と銃を持つ右手に力を込めるのもかまわず、今度は上段に構えた傘をゆっくり倒し、下段へともっていき、さらに再びゆっくり同じ速度で上段へもっていく。そしてまた下段へと繰り返し、速度が少しだけ速くなる。つまり耕下の目を回そうとでもするかのように傘をぐるぐる回していたのだ。
 耕下はこの期に及んでの若者の行動の意図がわからず、いささか虚を突かれた体になっていたが、油断はしない。
 「もうおかしなことはやめろ。それは何のマネだ、半次?」
 半次は傘を回す動きを止めないまま、口の端を歪め、不敵な笑みを浮かべると、いたずらっぽく言った。
 「知ってるでしょう。映画を見たことがないんですか、警部補?これがあの有名な円月殺法ですよ!」
 言葉が終わらぬうちに傘を耕下に向かって投げつけた。
 傘は槍のように一直線に耕下の顔に向かって飛ぶ。
 先端が耕下ののどに突き刺さる寸前でリボルバーで叩き落としたが、このときの衝撃で、愛用のリボルバー、ピースメーカーシビリアンもまた耕下の右手からはじけ飛んだ。
 傘がガランとデスクの上にころがる。
 若者は傘を放った瞬間、その行方を見定めもせず、くるりと背を向けると、出口へ向かって中央通路をダッシュした。
 一番はじにいた台湾人観光客を突き飛ばし、出口へ到達しようとしたとき、耕下が鋭く呼び止めた。
 「逃げるな、武士道!情けないぞ!」
 半次は雷に打たれたようにその場に釘付けになる。
 耕下はさらに追い討ちをかける。
 「勝負を投げて敵前逃亡とは心底情けないな。言ってることとやることがまるで違うじゃないか、エセ武士道の臆病小僧!」
 耕下は、自身確証はなかったが、幾分この若者の弱点を見抜いているところがあった。手段は選ばないやり手の若僧だが、自尊心が強く一本気で血気盛んだ。つまりゆうずうがきかない。痛いところをつかれると逆上しがちなのだ。
 立ち止まった若者は再度耕下に向きなおった。目に怒りがある。
 「よーし、それでいい。それでいいぞ、武士道。俺と最後の最後まで勝負をするんだ。つまりお前がくたばるまでな。」
 若者が少し意外に思ったことは、デスクから下りた警部補は銃を持っていなかったということだった。かわりに若者が投げつけた傘を持っている。
 と、傘を正面にもってきて、先端を若者に向け、左手を右手の柄にそえる。
 傘をしっかり中段に構え、一歩踏み出しながら言った。
 「どうだ、半次。これこそ武士の情けってやつじゃないか。お前の得意なもので、お前と同じレベルで勝負をしてやろうっていうんだからな。天晴れ正々堂々の武士道だぜ。文句はあるまい。」
 若者はたちまち相好を崩し、目は笑っていないながら、口を大きく歪めてニヤニヤ笑いを浮かべながら言った。
 「おやおや、本気で言ってるんですか、警部補?」
 「もちろん本気さ。使い手はお前だけじゃないってことを教えてやる。」
 「アハハハハハ…、こりゃおかしい。俺が言ってるのは、本気で俺に勝てるって思ってるかってことですよ。」
 言うなり、若者に突き飛ばされて、中央通路に転がったままでいた台湾人観光客の手から傘をもぎ取ると、下段に構え、耕下と対峙した。
 「その身のこなしだと、少しは一刀流をかじっているのかもしれないが、俺の腕は二桁も三桁も違いますよ。」
 落ち着き払って構えた若者は、さすがに本人の言うとおり一分のスキもない。
 さすがの耕下も、若者を立ち止まらせるためとはいえ、抜き差しならないまずい挙に出てしまったかと後悔したが、すでに遅い。
 「こいッ!」
 と傘を構え直した。
 「あのねえ、警部補。言っておきますが、正眼は守りの構えだ。仕掛けるには一動作遅れて、とかく不利なんですよ。」
 若者はあくまで余裕がある。
 「この前、お前の相棒もそんなことを言ってたな。だがな、正眼のいいところも今見せてやる、どぇい!」
 耕下は、若者の胸のど真ん中を貫けとばかり、中段に構えたまま、いきなり一歩踏み出す、というより飛び込んだ。
 ふいをつかれたが、若者は反射的に一歩飛び下がり、耕下の傘の先端をかわすと同時に、下段から己の傘を振り上げ、耕下の傘を払いのける。
 横に飛ばされながらも、これを予期していた耕下はたちまち傘を返し、正眼へもっていきざま、同じように若者の胸を狙って踏み込む。
 若者は振り上げていた傘を振り下ろして、今度は耕下の傘を下へ払い、そのまま押さえ込もうとする。
 組み伏せにかかる若者の傘から自分の傘をさらに下げたまま後退させ、振りほどいた耕下は、そのまま自分の傘を八双の構えにもっていくが早いか、水平にして、若者の顔めがけ先端を打ち込んだ。
 「でーい!」
 が、若者は難なくかわし、耕下は一瞬目標を見失ってまごついた。
 このとき風が頬から側頭部をかすめた。
 若者の、下段から振り上げる必殺の切先がなぜたのだ。
 傘の先端があと一センチ長くなくても、耕下のアゴから耳にかけてパックリ裂けていたことだろう。
 耕下はあわてて、世にも凶暴な傘の先端の持ち主である若者に向きなおる。
 思ったとおり、若者は呼吸ひとつ乱してはいない。
 こいつは確かに、あの長髪男よりも上手だ。
 耕下などとても相手になりそうにない剣客だと思い知ったが、自分の脅えを必要以上には悟られまいとむきになる。
 市籠署一階のフロアはまたしても水を打ったように静まり返り、そこにいる全員の目が中央通路の出口近くで行われている二人の決闘に向けられていた。一階全体が蜂の巣をつついたように混乱した挙句の果ての、この対決の決着は誰にも想像がつかない。秩序の府たる警察署内で、衆人環視の中で、男二人が傘を持ってチャンバラごっこをしている、なんともシュールな光景ではあったが、そのミスマッチがおかしいと笑い出す者はもちろん一人もいなかった。傘をぶっつけ合う二人からはまぎれもない、息を呑むような殺気が発散されていたのだ。
 圧倒されて、あっけにとられ、口をあけて見守る周囲の中に、しかし抜け目なく行動を起こそうとする者もいた。
 桐生警部は、目は対決する二人に向けながら、内ポケットから静かに最後のクリップを取り出し、Cz75に押し込んだ。そして大蟻を肘でつつき、目配せする。大蟻もそっと自分のSIGを拾い上げた。
 「やるぞ、俺が合図をしたら、奴を撃て。」
 小声で指図する。
 「しかし、このまま撃つと、警部補にも当たります。」
 「しかたがない、凶悪犯を逃がすわけにはいかん。」
 「警部補は警部の恩人ですよ。」
 「前にも言ったろう、犠牲はつきものだ。」
 
 耕下は自分の気おくれを悟られまいと、たたみかけるように仕掛けた。
 中段の構えから、下段に構えている若者の傘めがけて飛び込む。
 振り上げられた傘と、振り下ろされた傘がぶつかり、どちらも曲がり、今にも折れそうなほどにしなう。
 が、やはり若者の気合いが勝った。
 耕下は傘もろとも放り投げられるように飛び退かされる。
 どうにか持ちこたえた耕下は素早く上段から斬り込んだ。
 若者も同じように上段から振りかぶってきた。
 ここで両者の傘が再びがっきとぶつかり、今度はそのまま吸いつくように組み合う。傘によるつばぜり合いだ。台湾人観光客の持ち物である傘は、意外にもかなりの衝撃や圧力に耐える強度を誇っており、これほどのすさまじい酷使にも折れも曲がりもしない。
 両者の顔がにらめっこでもするように接近する。両方がお互いの目を射抜くようにのぞき込む。
 耕下には、押されながらも、相手の右耳のピアスや、額に浮き出た青筋に目をやる余裕があったが、腹立たしいことに若者はそれ以上に落ち着き払っていて、楽しんでいるようにさえ見えた。
 「警部補、煙草臭過ぎる。ヘビースモークは万病のもとだ。」
 「お前こそ、色白過ぎる。日焼けサロンにでも行ったらどうだ、坊や。」
 二人は四つに組んだ相撲取りのように組み合ったままなのだが、耕下は署の内側に背を向け、若者は出口側に背を向けていた。桐生警部から見ると若者は耕下の陰になっている。
 やがて耕下が地力を発揮して力が勝ってきたかのように、若者を押し返しはじめたが、実際は若者がじりじりと出口へ後じさりしはじめたのだ。
 「警部補、あんたって人は、剣において努力ををする人だということは認める。剣の修練では愚直さこそ重要なものだ。しかしその愚直さは、できる者の前では無意味なものだということを思い知らせる結果になってしまうのは残念なことだ。
 そろそろカタをつける。」
 若者は持つ傘に力を加え、ぐっと耕下をにらみ返したとき、目の隅に、後方で銃を構える桐生と大蟻の姿を認めた。
 若者はふいに右足を上げて、耕下の腹に当てると、思い切り蹴りざまに自分も後ろへ飛んだ。これと桐生の合図がほとんど同時だった。
 「いまだ、撃て!」
 桐生と大蟻は同時に二人めがけオートマチック銃の引き金を連打した。
 雷のような轟音と稲妻のような閃光が空気を揺るがし、市籠署中央出入り口のガラスに9ミリ弾が次々とめり込み、細かい破片をまき散らす。しかし、強化防弾ガラスはクモの巣のようにヒビを走らせながら割れはしなかった。
 「やめろ!やめろ!撃つんじゃない!」
 床に転がって弾幕を避けることができた耕下は、傘を上げて振りながらわめいた。
 このとき若者は傘を放り出して外へ飛び出していった。
 「やめろと言ったらやめるんだ!撃つんじゃない!」
 言うまでもなかった。すでに桐生の銃も大蟻の銃も全弾撃ち尽くし、ホールドオープンの状態になっていた。
 起き上がりながら、桐生を厳しくたしなめようとした耕下の耳に、外の通りから急ブレーキの音とクラクションの音が同時に入り、耕下はあわてて若者を追って外へ飛び出した。
 
 市籠署は下町の大通りに面している。前の通りは昼夜を分かたず車の流れが耐えることがない小さな運河のようだ。行きかう車も、歩道を行く人々も都心のような一種均整のとれた統一感はなく、色も形もまちまちのものがことさら雑多に混じり合い、活気と騒音を競っている。
 逃亡者が姿をくらますには都合のいい状況だった。
 耕下は一瞬、若者はとっくに行方をくらましてしまったと思った。日常の喧騒以外何も見えなかったせいだ。
 ともかく自分から遠ざかっていくはずの、あのブロンズ色の髪を捜そうとしたとき、耕下が立っている歩道の百メートルほどむこうに、数人の人だかりを見とめた。そのそばに銀色のスポーツカータイプの車が停車している。立っている人の足もとに何かが横たわっていた。人々の脚の間からブロンズ色の髪らしきものも見える。
 さっきのブレーキ音に思い当たり、耕下は歩道を走った。

 「この人がききなり出てきて…ブレーキを踏んだんだけど…あんなに飛んじゃうなんて…」
 顔を真っ赤にしながらあたりを誰彼なく見回し、倒れている人物におおいかぶさるようにかがみ込んでいる人物に話しかけている身なりのいい男は、銀色の車の持ち主らしい。
 耕下は息を呑んだ。
 半次は頭から血を流し、口の端からも血をあふれさせ、糸が切れたマリオネットの人形のように歩道に横たわっていた。ブロンズ色の髪が血で額にへばりついている。目はかたく閉じられ、顔の色はいよいよ白かった。
 署を飛び出した勢いで、強引に通りまで突っ切ろうとしたあげくの果てらしい。あれほどスキのない達人にしては、なんとも不用意でお粗末な結末だった。
 「肋骨は折れてはいない。脈も呼吸もまずまず…問題は頭だな。陥没してはいないようだが…」
 慣れた手つきで半次の首筋や手首にさわり、胸に耳を当て、目をこじ開けて瞳孔を見ていた男が、立ち上がりながら言った。灰色の髪と灰色の口ひげ、度の強いメガネをかけたひょろ長い男で、言い方に自身と威厳がある。耕下はこの人物にどこか見覚えがあった。
 「失礼ですが、あなたは?」
 問いかけた耕下に気がついて向きなおった。
 「はあ、その角の協同総合病院の外科の副医長の瀬島です。通りかかりまして…」
 「そうでしたか、私は警視庁舞網署の警部補・耕下といいます。この男は事件の重要参考人なんですが、市籠署で取調べ中に逃亡をはかりましてね」
 医師は心底驚いたように言った。
 「なんと!…そんな人だったんですか!…それはまた…」
 「で、どうなんです、先生?」
 「命に別状はありません。脈も呼吸もしっかりしています。車にはねられたにしては、見たところ、思いのほか重症じゃない。どうやらスポーツマンのようですね、受け身で被害を小さくしたようだ。ただ…」
 「車にはねられるとは間抜けだな、所詮は小僧だぜ。だが、これでもうどこへも逃げられまい。」
 息を切らして言う声に振り返ると、走ってきたのだろう、桐生と大蟻が汗を流しながらのぞきこんでいた。あとから市籠署の連中も次々に駆けつけてくる。
 「いいザマだ、さんざん手を焼かせやがって。自業自得ってやつだな。死んだのか?」
 「見かけはひどいが、大丈夫だそうだ。」
 耕下が若者に視線を戻しながら言った。
 「よし、大蟻、救急車だ。警察病院へ運ぶ。俺も行くぞ。」
 勝ち誇る桐生にひょろ長い医師が静かにうながした。
 「そうですね、できるかぎり早くして下さい」
 「ちょっと待て、こいつ死んだフリをしているんじゃあるまいな」
 桐生はやにわに医師を押しのけると、ぴくりとも動かない若者の上にかがみ込んだ。
 「こいつは油断のならない奴なんだ。何を企んでいるな知れたもんじゃない。おい、小僧、これ以上コケにしようなんて考えるなよ」
 言うなり、横たわったままの若者の胸ぐらをつかみ、ぐいと引き上げる。
 「聞こえてるのか、小僧!」
 「やめるんだ、警部、重症かもしれないんだぞ!」
 たまらず耕下がたしなめる。
 「わかるもんか、この野郎、芝居してるのかもしれん。どうだ、小僧!」
 振り回すように若者を揺さぶった。
 「おやめなさい、そんなことをしてはいけません」
 医師も止めようとする。
 そのとき半次の口から大量の血が歩道に流れ落ち、その首はがっくりとうなだれた。
 「いかん、大変だ!」
 医師が叫び、桐生は自分が調子に乗ってしでかしたことに気づいて、あわてて手を放した。
 若者は両方とも白目になった目をうすく開けはじめる。
 「まずい、急いだほうがいい。とりあえず私の病院へ連れていきましょう。すぐそこだ、タクシーでいい。タクシーをつかまえてくれ!」
 耕下がタクシーを止める間に、医師は携帯で自分の病院へ、検査と手術の準備を指図した。
 タクシーが止まるや否や、医師が若者の肩を抱え込んで、耕下が脚を持ってタクシーの後部座席へ押し込んだ。
 耕下が助手席に乗り込んで同行しようとすると、呆然と見ていた桐生はたちまち我に返り、抜け目なく叫んだ。
 「待て!警部補!大蟻が行く。大蟻、お前が乗り込んで病院まで行け。そいつから目を離すなよ。俺もすぐ行く。」
 「何でもいいから早くして下さい!」
 医師は若者の頭を膝の上に乗せながら言い、タクシーは大蟻が乗り込むのを待ちきれないようにダッシュした。
 タクシーを見送ったのち、しばらくしてから、耕下はあの医師を、いや医師と雰囲気や身のこなしがよく似た人物をどこで見知っていたかようやく思い出してぎょっとなったが、そのときはもう手遅れだった。

 医師の指示で、大蟻が意外に思ったことに、タクシーは病院の建物の横の救急入り口ではなく、正面入り口につけられた。大蟻は急いで助手席から降り、開けられた後部座席から、若者の脚を持って、医師とともに担ぎ出そうとした。若者は医師の膝枕に、死んだように目を閉じたままだ。
 医師が連絡したはずなのに、巨大な総合病院の玄関には、救急用の担架も看護婦も来ていず、院内の誰ひとりとして彼らのために駆けつけようとはしていない。
 大蟻はなんてルーズな病院なんだと不満をつのらせつつ、
 「とにかく、こいつを車から降ろしましょう」
 と、奥の医師へ声をかけた。
 それを聞いた医師は、膝の若者の顔をのぞきこみ、
 「半次、目を開けろ」
 とうながした。
 と、若者は、流れた血で汚れていないほうの左のまぶたを大きく開いて、ぎょろりとあたりを見回すと、外の大蟻をきっとにらみつけた。
 大蟻は、ぐったりしていたはずの若者が、いきなり片目を大きく見開き、自分を鋭く見つめてきたので、一瞬あっけにとられた。
 次の瞬間、若者の右の拳が大蟻の顔の真ん中に飛んできた。
 半次の強烈なパンチをまともに食らった大蟻は、病院の玄関に大の字になって昏倒した。
 大蟻が吹っ飛ぶのと、医師が灰色の長髪のかつらを取り、
 「車を出せ!」
 と運転手に命じるのと同時だった。
 タクシーはタイヤを鳴かせ、ゴムの焦げる煙をまき散らして、病院前から大通りへと滑り込んだ。
NEXT


トップページへ