Chapter32 記者変容


 (一週間前)
 
 大江戸タイムスの政治部記者・南方は今日も元気一杯だった。なにしろ入社二年目の若さで、官邸の担当になったのだ。
 記者になった者なら誰もが夢見る、総理番記者というものになれたのだ。尋常であれば、脂ののりきったベテランか、絶対に間抜けな質問をする心配がなく、しかもお愛想バカ笑いが得意な中堅どころが担当すると決まっている、一種のポストともステータスともいえる役である。それだけ南方の的を得た取材が、社内で評価されているといえる。このまま精力的に仕事をこなしていれば、社内での快速昇進も期待できるし、さらにマスコミ出身の代議士というのも夢ではない。逆に取材される立場になって、記者に囲まれる自分の姿も容易にイメージできるというものだ。
 したがってその仕事場へ行く道々でも、地下鉄の中でも彼は活力に満ち満ちていた。
 いつものように、目的地直前の地下鉄のトイレの鏡で慎重に最終チェックする。護衛官や警備官が一目で番記者とみなすほどのスキのない服装であるのが望ましい。
 曲がっていないネクタイをさらにチェックしていたとき、鏡の中の南方のとなりに、もうひとりの人影があることにはじめて気がついた。
 トイレに入ってきたときは、トイレの中にいるのは自分ひとりだと思い込んでいたのだが、鏡の中の自分に気をとられていたとき、いつの間にか入ってきたものなのだろう。闖入者は気配のしない人物ではある。
 チェックを終わって、出て行こうとして、ふと横に目をやって、ハッとした。
 鏡の中で、自分のとなりにいる人物は、なんと思わず目を見張るほどに、自分によく似ていた。一筋のシワもない、イタリア製のベージュのスーツ、まぶしいほど白いシャツに、紺に水玉のネクタイの柄まで似ている。色白で、少年のような卵形の顔も、ブランドもののふちなしメガネまでそっくりだ。鏡の中の二人は双子の漫才コンビのように見えた。なんとも不思議な感じだった。
 と、となりのコピーのような男は、鏡の中から南方を見て話しかけてきた。
 「大江戸タイムスの南方さんですね。」
 その男が自分の名前と会社まで知っていることにも驚いたが、思わず、
 「は、はあ…」
 と答えてしまった。すると男は
 「私もそうなんですよ。」
 と天気の話でもするようにさりげなく言った。
 一瞬、南方は、自分の重要で特殊な仕事場に関して、もしやこの男がよからぬことを企んでいるのでは、と思いめぐらしたが、
 「何ですって?」
 と返事をせずにはいられなかった。
 男は平然と続けた。
 「体調が悪そうですね、南方さん。しばらくトイレに入っていたほうがいい。三時間ぐらいトイレで休んでいれば、すっきりしますよ。」
 「何だって?あなたは?」
 コピー男はやおらすっと右手を上げて軍隊式の敬礼をした。
 南方は何のことかわからず、思わず鏡から目をずらしてとなりの男の実体を見た。
 男も向きなおって彼を見る。そのせつなの男の右手の動きは速過ぎて、見えなかった。
 敬礼していたと思った男の右手は、そのまま手刀となって飛んできて、南方の肩を打ち据えたのだ。
 衝撃と同時に気を失った南方は、くたくたとその場に崩れる。
 コピー男は慣れた手つきで、床に激突する寸前の南方を抱きかかえると、あたりをうかがい、誰も見ていないのを確認してから、南方の懐をあらためた。
 さっさと必要な物だけを抜き取ったのち、ぐったりしたままの南方を壁によりかからせ、隠し持っていた小さなスプレー缶のようなものを取り出すと、南方の顔と両手のひらに吹き付けた。吹き付けられた気体はすぐさま樹脂となって固まり、指紋をはじめとする皮膚全体の特徴と、顔面の特徴を適確に形取りした。

 東京ポスト紙の政治経済部の記者・能坂は、駅から直接、永田町界隈へとタクシーで急いでいた。もしかすると遅れるかもしれない。マスコミ関係者の入館時間はだいたい決まっている。遅れればその分よけいな手続きが増えることになる。
 家族には徹夜の残業と言っておいた。やたら開放的で魅力的な派遣女子社員との、手当てのつかない徹夜の残業行為のおかげで、予定していた時間に遅れぎみだったのだ。やはり、かの女子社員のアパートは都心から離れすぎていた。
 しかし、彼の乗ったタクシーは文字通りすっ飛んで走り、望みどおりに速かった。
 駅前で彼が今まさに乗り込もうとしていたタクシーを押しのけるように、衝突すれすれに強引に割り込んできて、目の前で客を横取りされたタクシーの怒りのクラクションを意に介さず、能坂をひっさらうように乗せると、そのまま間髪をおかずにダッシュした。さらに、ことさら言いもしないのに、以心伝心で能坂の意を忠実にくんででもいるように、「こっちのほうが近道ですよ」と、渋滞のないわき道や裏道ばかりを、暴走もどきのスピードで走り抜けた。落ち着かない運転ぶりではあるが、どうやらこれで遅れる心配はなくなったと、能坂は一息ついたものだ。
 迷路のような、都会の舞台裏にあたる細い道を、ネズミのように走り続けたあげく、目的地がほど近くなった、とある人気も車どおりも少ない、陰気な坂道の下のほうで、車は静かに路肩に止まった。
 「ん?どうしたんだい、運転手さん?エンストかい?」
 「いや、ここらあたりが休むには最適の場所じゃないかと思ってね。ここだと三時間ぐらい眠っていても、誰にも気づかれる心配はない。」
 「何を言ってるんだ、君。突然何を言い出すんだね!?君が勤務中に怠けるのは勝手だが、客の私は急いでるんだよ!もうすぐそこじゃないか、早く行ってくれ!」
 能坂は運転席に身を乗り出して、怠け癖のあるドライバーに渇を入れた。
 「いや、怠けるのは俺じゃない、あんたなのさ」
 運転手は帽子を脱ぎながら、客のほうを振り返った。
 見たことがある。
 能坂記者は、この男の顔に見覚えがあった。
 それが鏡の中でよく見かける顔、自分の顔だと気づくのにちょっと時間がかかった。もともと似た顔を、さらに無理に似せようとしたような不自然なところはあるものの、こいつは自分そっくりだった。彼が好むSPのような黒っぽい紺のスーツ姿までうりふたつだ。長髪ぎみの長めの髪、薄い唇、浅黒く金属的な長い顔、太い黒ぶちのメガネまで同じだ。しかし、その奥の目は違っていた。強靭さを秘めた、油断のない光りをたたえた目だ。
 「運転手さん、き、君は…」
 運転手の右手の拳が、飛び道具のように飛んできて、記者のアゴを直撃した。
 記者は吹っ飛んで、後部座席に沈みかかる。
 運転手はすかさず、スプレー缶のようなものを取り出すと、記者の両の手のひらと顔に吹き付けて、形取りをした。
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