Chapter34 微行の略


 官邸一階の記者会見室のとなりの、各社の報道関係者でごったがえす番記者控え室へ落ち着いても、能坂記者は、三脚を引き渡すために、TYOテレビの取材クルーを捜したりはしなかった。 部屋の片隅で、三脚を逆さにして広げぎみにしてから、三本の脚をつないでいる芯の部分の下のほうの空間を片手でつかむしぐさをしたのち、それを三脚の脚の外へ取り出すしぐさをし、右手にその取り出したものを持つしぐさをしたまま、左手には三脚を抱えて、番記者室を出て、すぐ近くのトイレへと向かった。もちろん報道記者が三脚の調整をしたり、トイレへ行ったりしても、そこにいる同業者たちは、誰ひとり注意を払ったりはしない。控え室内でのもっぱらの話題は、疑いをかけられていまや危機的な状態に陥っている野党の同盟のことだった。
 
 豪華ホテルのトイレのような、広いトイレの中で、能坂記者は、誰も入ってこず監視カメラもないことを確認してから、右手に持ったものを、隅にある物置用の台に載せるしぐさをしたのち、さらに三脚の脚の内側の部分から長い棒のようなものを取り出すしぐさをすると、それを背中に背負うしぐさをした。そして仕上げとばかり、内ポケットからコードつきのモニターイヤホンを取り出すと、右の耳にセットした。このイヤホンはダミーではなく、館内のSPへの連絡はすべてが傍受できるようになっている。黒っぽい紺のスーツはSPにそっくりであり、コードつきのイヤホンもSPのトレードマークのようなものである。
 ここで、いささか間の抜けた印象のある太い黒ぶちのメガネをはずしてしまえば、能坂記者は、一見しただけでは、そのまま無表情なSPそのものに見えた。ジャケットの背中に、見えない何かがあるように、細長いくぼみが、斜めぎみに縦に走っているのがかすかにわかるところが、普通のSPと違っていた。
 物置台の上からは、姿の見えない時計でもあるように、なぜか時を刻むかすかなデジタル音が聞こえている。
 能坂記者に続いてトイレに入ってきた南方記者は、能坂記者にあいさつをするでもなく、やおらベージュのスーツを脱ぎ、素早くジャケットもズボンも裏返すと、もとのように着なおした。裏返されたスーツはポケットのたくさんついた紺色の作業着のようで、続いてその作業着のポケットから安っぽい紺色のキャップを取り出してかぶると、こちらの仕上げはこれとばかり、トイレの道具入れからバケツとモップを取り出した。いまや南方記者は、一見したかぎりでは、仕事中の清掃作業員だった。

 地下二階の危機管理センターは普段は機能していず、警備隊が見回る程度で、広大なセンター内は照明も消えている。
 その上の地下一階の官邸内コントロール室は、24時間、昼は増え、夜は減るものの、監視員が詰め、テレビ局のコントロール室のように壁面一面に埋め込まれたたくさんのモニター画面をチェックしている。
 総理の執務そのものが何人ものぞくことのできない機密であるばかりか、総理以外は触れることのできない機密もある部屋として、監視カメラは設置されていない総理執務室を除く、館内の各部屋、各廊下などに取り付けられた監視カメラが、常時生の映像を送ってくるのだ。
 いましも、コントロール室長と副長が、デスクでパソコンに向かい、二人の職員がイスに座ってモニターをながめ、そのとなりのもうひとりのイスに座った職員は、電話をとって外部と何事か話していた。他に三人の職員が立ったまま、今日の官邸内での行事予定について検討していたが、やがて一人が室長と並んでデスクに向かい、二人はモニターに目を向けた。
 この部屋には他に、官邸警備隊員二人もそれぞれ部屋の両端に陣取っていて、お茶を飲んだり、こんなつまらない穴ぐら勤務から配置換えになる方策を真剣に考えているとき以外は、とりあえず、館内モニターや、この室内そのもののモニターに、モニターパネルの両側から金剛力士像のように目を光らせているのだ。
 モニターはコンビニの監視カメラのように自動的に切り替わりながら、館内のいたるところの映像を、角々に立つ官邸警備隊員の姿とともに映し出してくる。仁王立ちの警備隊員のほかに、どこかのカメラが、もたもた歩く清掃作業員の姿と、きびきび廊下を歩いていくSPの姿も映し出していたが、どちらも官邸では、総理や大臣や記者の群れと同じく、きわめて自然な光景で、特に念入りに注目しなければならないほどのものではなかった。
 二階の職員用の廊下の職員用の小階段の近くでひとり立っていた警備隊員のほうへ、廊下の奥からひとりのSPがつかつかと近づいてきた。
 もともとSPは誰でも顔が同じに見える。個々に紹介されても見分けがつかないというのがホンネなのだが、警備隊員はこのSPを見たことがなかった。長身で、SPにしては長髪だったからだ。自信あふれるプロに特有の尊大さは、まぎれもない、国のトップを守るSPのものである。
 SPは鋭い口調で、警備隊員にあいさつもせず聞いてきた。
 「総理はどちらなんだね?この時間だと閣僚室か?」
 「第一秘書のかたと、執務室ではないでしょうか。」
 警備隊員は知らず知らずかしこまって答えた。
 「もっと警護を厳重に、増員しろとのことで、私が来た。」
 SPの中でも階級の高そうな、大物ぶった言い方をする。
 「まもなく国会へ向かわれることと思いますので、正面へおいでになります。」
 警備隊員は顔で小階段を指した。そこを上ればエントランスホールの奥へ出る。
 総理は、執務室のある五階から四階へエレベーターで下り、四階の正面階段を下って、三階の正面玄関へ向かうのだ。
 官邸は傾斜地をそのまま利用し、土台を平らにならすことなく建てられているため、向きによって階数が違う。低地側の三階が高地側の一階、つまり正面玄関にあたっている。
 「うむ」
 SPは礼も言わず、目だけでうなずくと、小階段を上って三階へ向かった。
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