Chapter35 コントロール室異聞
「失礼しまァす。清掃にきましたァ。」 監視モニターコントロール室内のドアのわきにある小さなモニターに間のびした若者の顔が映った。 「遅くなってすみませぇん。」 「遅くないよ、いつもより早いじゃないか」 コントロール室のドア近くにいた職員が答えた。 「見たことのない顔だね。」 「見習い中です。正社員ではありません。先週もこちらへ来たんですが、この部屋は初めてです…あの、ドアを開けていただきたいんですが…」 「そこのミゾにカードを入れるといい」 「見習いにはカードをあずけてくれません。」 見るからに鈍重そうで、いかにも先輩に意地悪をされそうなタイプではある。 「わかった。こちらから開けよう。」 職員は、若い見習い掃除屋のために、少しばかり融通が利かせた。警備隊員も多少の慣例規則の省略などには、いちいち目くじらをたてたりしない。 「ありがとうございます。」 若い清掃作業員は、開けるなりおどおどした様子でこそこそと入ってきた。 「それはまた、トイレのモップみたいだな。いつもはもっと最新型の掃除機じゃなかったのかね、あのバッテリー式の。」 年中モニター画面の中をのぞいて監視している職員だけに、間違い探しのようなことは得意だった。しかし、致命的なほどうかつなことに、かんじんの間違いについては見のがしていたのだ。官邸ともなれば、作業員も請負会社の中で前歴のしっかりした者が当たる。見習いなど存在しなかった。 「それも、どこにあるのかわからなくて…」 いよいよ鈍重な見習い作業員だった。 「ともかく、さっさとやってくれ。」 いささかわずらわしくなってきた職員はうるさそうに言った。 「はい。」 見習いは人が良さそうにうなずくと、鈍重そうなしゃべり方とは裏腹に、きびきびした動きで床を磨きはじめた。 職員は見るとはなしに、その見習い作業員の右の耳に目がいった。色白の耳たぶに小さな点が見える。あれはピアスの穴なのだろう。この若者にも、官邸が仕事場と聞いて、ピアスをはずしてくるくらいの気配りはあったようだ。官邸の清掃は別に、軍隊式の訓練を受けた、国内トップのエリート作業員が行う必要はないが、腰の定まらないフリーターにしか見えない、気の利かなそうな若者がやっていいというものでもあるまい、と職員は思った。 モップを動かす以外は、さして取り得もなさそうな見習いだったが、作業にかかる前には、プロらしい目の配りで、コントロール室全体を見回し、それなりに作業の手順をおしはかっているようだった。 もちろん、このとき半次は、無駄なく、できるかぎり短時間に効果をあげる自分の動きをイメージしていたのだ。 十人いる。二十秒か。警備隊員二人はリボルバーをぶら下げている。もう少し、さらに十秒くらいは長引くかもしれない。 奥のほうからせっせとモップを動かし、熱心に磨いてきた見習いは、やがて一息入れるようにモップの動きを止めると、さすがに感心したようにモニター群を見上げながら言った。 「すごいですね、テレビ局みたいだ」 近くのイスに座っていた職員は、 「ああ、ドラマは映らないけどね。でもこれが官邸の安全を守ってるんだ。」 と、いささか誇りをこめて解説した。 「で、これは何なんです?」 見習いは人なつっこそうに、モニター画面壁下の、三人の職員が座っているイスの前にある卓を指した。 「コントロールパネルだな。カメラの調整、室温、空調、施錠、電動隔壁の開閉…官邸内の何でもコントロールできる。もちろんコンピューター制御だけどね。」 もうひとりの職員は、観光客に解説するように得意そうに答えた。 警備隊員の一人は、いささか気にさわった。清掃員の見習いは、いくら物珍しく見えたとはいえ、見学者のようなせんさくめいた質問を発すべきではないし、職員はそんな連中などまともに相手をするべきではない。 「このスイッチは何です?」 見習いは好奇心のやまない子供のようだ。 「警視庁へ直通のマイクのスイッチだ。このモニターのうちの一つは、いつも警視庁のコントロール室へ送られてるんだ。」 「すごいな、この電話で警視庁のお巡りさんともお話ができるってわけですね」 「そう」 清掃員見習いは何を思ったか、やおらその受話器を取り上げ、耳に当てると、警視庁と書かれたスイッチを押して、通話中のライトをつけながら、受話器に向かって話しかけた。 「こちら総理官邸です。只今モニターの点検のため、二十分ほど送信を停止します。」 「了解、お早めに願います。」 警視庁の担当者がいとも簡単に反応した。 すかさず見習いは、警視庁送信モニターのOFFスイッチを押し、そのモニターは暗くなった。 いましがた気分よく見習い清掃員に語ってやっていた職員は、完全に虚を突かれていた。 「きっ、君っ!いっ、今、な、な、何を?!…」 まことにさりげない思いがけない若者の行動が理解できていない、若者をはさむように卓の前に座っていたもうひとりの職員も、いきなりの展開に、目を丸くするのも忘れ、なすすべもなくただ若者を見上げている。 若者は、キツネにつままれでもしたように、声も思うように出せない職員を見下ろすと、口の端ににやりと笑いを浮かべたまま次の行動を起こした。 まさに電光石火の早業だった。殴られた二人も、ほとんど何が起こったかわからなかった。 右手にモップを持ったまま、見習い清掃員の左手の拳が、右側の卓に座っていた職員のみぞおちをとらえ、そのまま右手を反動のように後退させて、肘で左となりの職員のアゴを一撃した。拳法らしい手の動きは速過ぎて、油断をしている人間や、心得のない者にはほとんど見えない。二人の職員はたちまちぐったりとイスにもたれかかったり、卓につっぷしたりして、のびた。 このとき、卓に座っていた三人目の職員がようやく、ひとつのモニターが暗くなっていることに気づいたが、どうせなら見習い清掃作業員の動きに気づくべきだった。 見習いはさっとその職員のそばによると、左手の手刀で後ろからその職員の肩を一撃した。職員はうっ!といううめき声とともに身体を揺さぶられると、上半身をぐったりと卓の上に投げ出した。この間、3秒。 続いて見習い清掃員の若者は、くるりと向きなおり、練習し尽した舞いを舞台の上で舞いでもするような、無駄もためらいもない動きで、右手のモップに左手をそえて上段に振りかぶると、室長たちがついているデスクに向かう。 半月型の大きな透明アクリルテーブルで、しきりにパソコンを叩いていた副長と係長は、それぞれ後ろから肩にモップの柄の一撃を受け、係長はノートパソコンのキーを鼻の先で叩こうとでもするかのように、いかにもパソコンが大好きですとでも言いそうに、キーの中に顔をうずめ、副長は、液晶デスクトップパソコンのマウスを持ったまま床に転がり、パソコンも引っ張られて、副長の顔の上に落ちた。 部下が二人、いきなりのびてしまったのに驚いた室長は、思わずデスクから立ち上がろうとして、振り下ろされたモップの柄に肩を激しく激突させた。室長はモップにはたき落とされるようにイスに崩れ落ち、続いてそのまま床に崩れ落ちた。 約六十キロの体重が床に落ちるすさまじい音に、少し離れた向かい側で、官邸外部の周辺道路のモニターを監視していた職員と、そのとなりで天気モニターをチェックしていた職員が遅ればせながら気づき、異変を察知した一人は壁にあった非常ベルに手を伸ばし、一人はただ逃げようとした。そして同時に、遅ればせながら狼藉者に気づいた、デスク近くにいた官邸警備員の一人が、とっさに腰のホルスターに収まっていたミリタリーポリスリボルバーを抜きかける。 見習い清掃員はモップを水平に持ったまま、後ろへ床をごろりと一回転し、非常ベルを押そうとする職員と、逃げようとする職員の間で立ち上がると、モップを一秒に満たない速さで左右に往復させ、左右の職員のみぞおちを突いて、黙らせた。 二人が床に転がるやいなや、モップを持ち直し、だっと踏み出して、ほんの三メートルの距離から、今まさにリボルバーの引き金を引こうとしていた警備隊員の小手を打ち、銃を叩き落す。 痛さに右手を押さえながら、銃を拾おうと、床にはいつくばろうとする警備隊員は、モップの柄のけさがけの一撃を浴びて、そのまま床にのびてしまった。 「動くな!」 このとき、部屋のもう一方の隅にいた警備隊員、つまり、この監視モニターコントロール室の中で、気を失わせられることなく残った最後の一人は、すでに銃を抜いていて、向きなおった見習い清掃作業員に銃口を向けていた。 若者はそれに気づいて動きを止める。 最後に勝った! 仲間は全滅だが、自分だけ生き残ったと思った警備隊員は、高性能トランシーバーを出して、官邸四階の警備隊員本部へ連絡しようとした。大胆不敵な狼藉者は制圧した。官邸の危機は俺一人でくい止めた。大手柄だ。しかしこいつは油断がならない。逃げていた天誅団という不逞のやからだという可能性もある。早く援軍を呼ぼう、さらに非常ベルも華々しく鳴らそう。 若い掃除人から片時も目を離さず、右手に全神経を集中させて、目標から狙いをはずさないようにしているが、トランシーバーの相手はまことにもどかしいことに、なかなか応答してこない。 あわてて送話ボタンを押し間違えていたか!? 一瞬トランシーバーに注意がいったすきを清掃員は見のがさなかった。 モップを持っていた両手をバネじかけのように動かし、モップの先でアクリルのテーブルの上をさっとなぜた。 テーブルの上にあったノートパソコンはモップにはじき飛ばされ、羽を広げたままの蝶が水平に回転するように、円盤のようにくるくる回って、警備隊員のトランシーバーに当たり、トランシーバーもろとも床に落ちて、ガシャンという音とともに、両方とも機能不全の欠陥品となった。 警備隊員が悪態をつく間もなく、若者は、持っていたモップを槍のように一直線に投げ、警備隊員の右手の銃もはたき落とした。 銃は、はずみで床を滑って、アクリルのテーブルの下へもぐり込んだ。 これで銃もトランシーバーもなくなった。 一瞬のうちに有力な援軍は絶望的になった。なんとも心細い丸腰状態になってしまったが、それは若者も同じだった。条件は同じなのだ。 若い清掃作業員は、準備する暇をあたえず、警備隊員につかみかかろうと、だっと飛び出した。 警備隊員も、思わず両手を広げて身構えた。 こうなれば取っ組み合いの決闘だ。 組むなら自身がある。なにしろ自分は大男だ。その上、柔道と剣道の有段者でもある。相手は自分に比べれば、やせて小さい。情況は自分に有利になったかもしれない。敵は一瞬で室内のほとんどを倒すほどの使い手ではあるが、不意をつかれたこともあるし、なにしろやられたほとんどは素人だったのだ。援軍も本部も締め出し、腹を決めてこいつとの対決に集中すれば、捕らえられる可能性はある。殴り倒して捕まえてやる。 若い清掃作業員は、空手のような構えから、いきなり右手の拳を繰り出してきた。 それくらいは予想できた。 身体を開いてさっとかわし、右手でパンチを繰り出す。 若者はガードに入るのが一瞬遅れ、警備隊員のパンチをアゴと首に受けてしまった。 それほど大きなダメージではないが、衝撃で吹っ飛び、壁にぶつかって跳ね返った。 若者は、思わぬ不覚に目をパチパチさせながら、警備隊員に向きなおって構え直す。 思ったとおり、この若僧は、武器を持たせると相当だが、素手の格闘となると、さほどではなかった。 若者はまたしても拳法の構えで迫ってくる。 今度は、飛び込むと同時に、右手を剣のような状態にして突き出し、警備隊員の顔面を狙ってきた。 それも予想できた警備隊員は、自然に身体が動き、よけると同時に、その若者の右手を捕まえてねじりあげてしまった。このまま腕を折ってしまおう。このダメージで、若者は再起不能になるに違いない。 しかし、若者は苦悶の表情を浮かべながらも、左手でかろうじて警備隊員の腹を突いてきた。 やむを得ず、警備隊員は、若者の右腕を振り回して、投げるように若者を放り出した。 若者はまたしても壁に激突し、今度は足もとをふらつかせながら立ち上がった。 今や警備隊員は完全に優勢だった。体格も腕力も勝っていた。 あと一発でこいつをKOできる。 こちらから出て行って、おみまいして、決着をつけてしまおうと、一歩踏み出したとき、若者はいきなりその場で、左足を軸にフィギュアスケーターのように身体を回転させると、コンパスの脚のように伸ばされた右足を大きく回して、警備隊員の横っ面を蹴り飛ばした。 警備隊員は蹴られた勢いで身体を回転させられてしまい、床に転がった。これは思ったよりも効いた。はじめて一本とられた。 ここが勝負どころだと思ったらしい若者は、さらに一撃を加えるべく、そのまま同じように回転して、さらなる右足の回転蹴りでとどめをさそうとした。 立ち上がろうとしていた警備隊員には、これがよめた。 自分の横っ面が再度張り飛ばされそうになった寸前で、ガードした両手で若者の右足をがっきと捕まえ、そのまま思い切り引っ張って、ついに引き倒した。 若者が倒れるやいなや、空飛ぶ巨大なガマガエルのように飛んで、仰向けの若者の上におおいかぶさる。馬乗りになって若者を尻にしくと、その首を絞めにかかった。 若い清掃作業員の白い顔は見る見る紅潮し、ふくれあがった。 このままケリをつけよう。このまま絞めるか、首を折るかして息の根を止めてしまったほうがいい。こいつに対しては、チャンスを逃しては危険だ。ちゅうちょしないほうがいい。警備隊員は全力でしめあげた。 若者は絶体絶命のすさまじい形相のまま、どんどん顔を赤黒く変色させる。目が飛び出そうに見開かれ、開けられた口からも舌が飛び出そうになる。 と、それまで踏ん張っていた若者は、次の瞬間がっくりと力が抜けた。 やった!ついに倒した!と、思わず気を抜いて、絞め続ける手がわずかに緩んだとき、若者は素早く顔を少しだけずらして、警備隊員の右手の指に噛みついた。 「ギャーッ!」 警備隊員が悲鳴をあげて手をはなしたすきに、若者は全身を回転させ、乗っていた警備隊員を振り落とした。 若者は、とにかく、巨大な猿のような警備隊員の手から逃げ出そうとするように、ネズミのようにはって、警備隊員のそばから遠ざかろうとする。 噛まれた指をおさえながら、我に返った警備隊員は、逃がすものかと追いかける。 若者はまさしくネズミのようにこそこそはって、アクリルのテーブルの下にもぐり込む。 当初とはうって変わった情けない逃げ腰。しかしそのはっていく先の床には、さきほどの、警備隊員がその手から吹っ飛ばされたミリタリーポリスリボルバーが転がっていたのだ。 警備隊員もいち早くこのことに気づき、そうはさせじと若者に飛びかかり、背中からはがいじめにするようにおおいかぶさった。 若者は、親亀を背に乗せた孝行な小亀のように、警備隊員を背にしょったままアクリルテーブルの下にもぐり込む。 これが若い清掃作業員の手だったと気づいたときは遅かった。 若者は腕立て伏せの要領で勢いよく立ち上がった。 背中の警備隊員は、そのまま後頭部をアクリルテーブルの底にしたたか激突させた。 さらに、二度、三度、若者は腕をつっぱらせる。 さらに、二度、三度、警備隊員は後頭部をテーブルの底に打ちつける。 自分の体重よりはるかに重いものを載せて、力強く腕立て伏せする若者の体力も、警備隊員の想像の域を超えていた。 四度目でついに警備隊員の意識が遠のき、若者の背から床へ転がり落ちて、のびた。 若者はふらふらしながらも、立ち上がって時計を見た。 予定より二分オーバーしているが、支障をきたすほどではない。 もはや自分以外動くものはなく、静まり返った監視モニター室の中で、ひとり顔を上げてモニター群を見た。 モニターのひとつには、五階の総理大臣執務室から出て、エレベーターへと向かう総理の一行と、もうひとつのモニターには、三階のエントランスホールへ向かって階段を上っていく、ひとりの長髪のSPの姿が映し出されていた。 |
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