Chapter36 官邸の変
エレベーターから三階へ降り立った総理一行は、たちまち廊下一杯に広がり、どんなささいなさえぎるものも許さない津波のように、傲然と廊下を進みはじめる。 この廊下は、三階の天井近くを空中回廊のように進んでいる。何本もの円柱で支えられ、手すりは強化ガラス板、仕切りも強化ガラス板でできているため、実際に浮いているように見えるのだ。この廊下の果てがエントランスホールで、そこからいきなりゆるやかな階段となり、正面玄関へと導かれる。この階段や廊下は普通はたいてい使われず、各階の上り下りにはほとんどエスカレーターやエレベーターが使われるが、現在の総理はことのほか、この正面玄関への長い階段がお気に入りで、外部からの公式の官邸への出入りにはほとんど、正面玄関からのこの階段を使っていた。 ここを上るときはいつも、頂点まで、しだいに強大になっていく権力を、一歩一歩踏みしめ、味わっていく思いだし、下りていくときは、下界に降臨する神の気分が味わえる。これこそ男の花道だ、と官房長官をはじめとする側近に常々言っていたものだが、この日以後そんなことを言う人間は少なくなることになる。 「それで、ひったてられる前に見得を切ったというわけだな。」 総理はせかせかと、しかし重量感のある歩みを進めながら、いら立つように言った。 「はい、しかも生放送のカメラの前で…」 第一秘書は、総理に遅れまいと歩みを速めながら、総理の機嫌をそこねるようなことを言った。 「なぜさっさと車に押し込めることができなかったんだ、いかにも罪人のように口もきかせずに。情けない代表の映像が一番のねらいだったはずだぞ。」 「記者やレポーターが多すぎて、一斉に押し寄せてきて、押し返しようがなかったとかで…」 秘書は弁解するように言った。 廊下を進む一行は、中央に総理、その左隣りに、付属品のように第一秘書、その左半歩前、つまり心もち先頭を、次席SPの岩のような肩幅が行き、総理と秘書の右隣りを屏風のように主任SPが進む。それら四人の両側を、約一歩下がって、官邸警備隊の隊長と中堅隊員が、同じ速度でついていく。総理は官邸の中を歩くときでさえ、トイレの中を除いて、最精鋭の四人によって、バリヤーで保護されるように守られていた。 「まあいい。どうせ文字通り引かれ者の小唄ってやつだ。」 「もちろん代表は、型どおりの儀礼的な質問が終わってからすぐに放免されたんですが、そこで再び待ち構えていた記者たちを相手に大見得です。これこそ何の証拠もない、でっちあげ事情聴取の、何よりの証拠だと言ってね。 いまや同盟全体が、代表の言葉をそのまま引用して、激しい抗議行動を展開しています。あちこちで街頭演説をはじめて、内閣不信任案を提出するといきまいています。警察権力を私物化する犯罪行為だとも言ってます。」 「で、マスコミはどうだ?どう反応している?」 「今のところ、同盟の動きを、事実関係を伝えるだけですね。表だった論評はしていません。ことはすべて政府の作為だと匂わせるような、おなじみの皮肉やあてこすりはいくらかありますがね。全体的にとまどっているようで、代表の抗議をうのみにしていいのか、同盟に疑いの目を向ける当局がまともなのか、様子見を決めてるみたいです。」 「同盟が、政府と官憲を同一視しているのにもとまどっているはずだ。まさかそんなことはあるまい、うがちすぎじゃないかってな。ま、マスコミどもは自ら先陣を切って歯向かってくることはあるまい。誰かの尻馬に乗らなきゃ何も仕掛けはせん。奴らの本性は、一番安全で安定している、権力の御用聞きだからな。支持率はどうなんだ?」 「最新のものによりますと、我が党は横ばいです。これも判断に迷っているようです。同盟はいくらか減ってます。」 「みろ、当たったぞ!国民も同盟に疑いの目を向けはじめた。善良な民百姓どもは、いつだって心の底では新参者など信じたくはないんだ。いつもと同じが一番なのさ。ちょっと糸口を与えるだけでいい。これはもっと効くぞ。例の週刊誌に、信頼できる政府筋の話として、同盟に対する疑惑をいろいろ流せ。追い討ちをかけろ。もっと国民を混乱させろ。先行き不透明感が漂って、騒然とした気配が感じられるようになると、人は不安になって、よりいっそう既存の勢力にしがみついてくるものだ。」 一行の行く手に下り階段が近づいてきた。 正面玄関の、閉じられている二重のぶ厚いシャッターも見えてきた。 シャッターの内側、階段の下には、さらに四人の屈強の男がドーベルマンのように控え、偉大な飼い主が下りてくる階段の上方を、無言で、今や遅しと見上げているはずだ。 事実、階段の下には四人の男がいた。 中央側に、黒いスーツに黒いタイの男が二人、その両側に警備隊員。四人は閲兵を受ける儀杖兵のように、等間隔に並んで、うやうやしく階段の上方へ視線を向けていた。 下で迎える護衛が四人、総理を囲んで下りてくる護衛が四人。 総理一行が階段下へ下りたとき、迎えた四人は回れ右をして、シャッターを見る。 ここで、核シェルター用としても使えそうな、頑丈な玄関のシャッターが、アリババの前の岩のようにするすると開き、外で待つ総理専用車の前に、ご主人様一行がお姿を見せる。総理が下界へお出ましになる瞬間だ。 近くの公邸からは、地下道を通って官邸に入るために、これがその日の初の外出となる。これが午前の官邸の公式の行事のひとつで、総理の仕事のはじまりを意味する。 横づけされた総理専用のリムジンに乗り込むまでの十メートルも、官邸内からの続きで、八人のSPと警備隊員が取り囲む。 車に乗ると、白バイが先導し、同じ型、同じ色のリムジンが露払いとして先駆けをつとめ、真ん中に総理の車をはさむように、もう一台の同じ型のリムジンが後ろに続く。総理の車には、たいてい総理と秘書、前後の車にはSPたちが乗り込むというわけだ。歩いていける距離の国会でも党本部でも、この大名行列の儀式は敢行される。 いま総理は、定例だが不定期の午前中の記者会見〜今回は記者たちが、同盟の動きに対する総理の反論コメントをぜひとりたいと熱望していたもの〜をすっぽかすつもりで、外出しようとして、足早にリムジンが待つ玄関へと向かっているのだった。 「で、わしはどっちへ行けばいいんだ?党か、国会か?」 一行は下り階段の最上階へさしかかっていた。 「三役は国会へ向かったそうです。あらかた国会だということは、とりあえず国会かと」 一行は階段を下りはじめた。 「何で奴らは、自分たちで判断できんのだ。何もかもわしが自分で指図しなきゃわからん、ときてるのか。」 階段を一段一段下りて外界が近づくごとに、総理のいらだちはつのっていくようだった。 階段を下りるときでも、一行は自動的に廊下のときのままの行動パターンだった。誰かに一歩先んじることもなく、間隔も変えない。最先頭を次席SP、そのとなりに続く総理と秘書、そのとなりに主任SP、一歩下がって両側に官邸警備隊長と警備主任という、いかなる事態にも即時対応の布陣だ。 「党内にも、同盟の言い分の真偽を確かめたいと言い出す人もいるようで」 秘書はいつでも他人事のようにのん気に言う。 「つまりわしの足を引っ張ろうとする輩だな。そんな奴なぞ放っておいて、なぜ党をあげて、このチャンスをもっと生かそうとしない。かさにかかって同盟を潰そうと本腰を入れようとしないのだ。まったく二世ボンボンどもとボケたじじいどもはひとりじゃ何もやろうとしない…確かにわしが行って、三馬鹿三役の横っ面をひっぱたいて、ハッパをかけるしかないかもしれんな。何としてもこの機会に、同盟の息の根を完全に止めてやるんだ。」 階段下で彫像のように立つSPと警備隊員の四人は、総理一行が下りてくるのを見守っていた。 総理は大声で秘書にまくしたてながら下りてくる。は虫類のような外見にふさわしく、その声は咆哮だった。かなり離れた階段下でも話の内容は判別でき、近づくにつれて咆哮は響きとなってくる。またしても、国民は想像だにしないような乱暴な理屈を、誰はばかることなく披れきしているようだ。 SPも警備隊員も官邸の支配階級の話の内容には一切関知しない。自分の任務以外のことでは、ご主人様が何を言おうが無表情だ。もとより官邸内で総理や閣僚によってかわされる会話の内容はすべて極秘扱いなのだ。彼らの話が政治的だあればもちろんのこと、たとえそれが反社会的、反道徳的、反国民的であったとしても、川の瀬音のように聞き流さなければならない。感情移入や反発など問題外、対象を守るだけのロボットであり、犬であることが何より重要だった。古来よりの番犬の条件だ。官邸の警備隊員もSPもすべて優秀な犬だった。 階段下のSP二人も、警部と警部補という資格を持つ、総理に従う主任たちに次ぐ、ひときわ優秀な犬だった。もし彼らが退職後にでも、ご主人様を裏切って、そこで知りえたあられもない、目をおおいたくなるような事実を暴露する本でも書いたら、ひと財産つくれるだろう。しかし、もちろんそんなことは永劫に実行されることはない。すべては個人の胸に最後までしまわれ、国を揺るがすような醜聞も永久に公表されることはない。 これで職業上の秩序は保たれ、職業上の正義は粛々と遂行されることになるが、ご主人様本人が裏切り者に近いような人物で、国民に対して不誠実であったりした場合などは、さすがに虚しさも頭をもたげてくる。ガードする対象に対する複雑な思いは、ガードするものが誰しも抱くものなのだろうか。 ふとそんな思いが脳裏をよぎった警部補であるSPは、同業の警備隊員さん、あんたも同じ思いを抱くことはあるのかい、と、若く、見るからにごつい、金剛力士のような二人の警備隊員のうちの、自分のとなりのほうをちらりと見やった。 おやと思い、あらためてとなりを見直した。 すぐとなりには、親衛隊員のような制服を着た官邸警備隊員ではなく、黒いスーツのSPがいた。同僚で、自分とはコンビのSPは右どなりだったはずだが。 もちろんこのSPはコンビではなかった。見上げるように背が高く、しかも長髪だ。 見られていることに気づいた長髪のSPは、彼のほうに心もち向きなおると、細い目をいっそう細くして、唇の端に親しみをこめた笑みを見せた。浅黒い金属的な顔がゆがむ。 このSPはいつの間にか、彼と警備隊員の間の二メートルくらいのすき間に割り込んでいたのだ。なのにその気配は全く感じられなかった。 警部補であるSPの胸に、いちどきに疑念と警戒と、言いようのない不安がわきあがった。 「君は?」 「増員を言われて来ました。」 新参のSPは報告するように言う。 となりの警備隊員も、いきなりふってわいて出たような新参のSPの出現にとまどっていて、総理一行から思わず目をそらして、二人の方を見る。 「増員なんて聞いていないぞ」 「そりゃ困ったな、間違えたかな」 新参のSPは、自然なしぐさで、手品のようにどこからか取り出した細いサングラスを、バツが悪いのを隠すためですよとでも言うように、すっとかけ、自分の目の動きを相手から悟られないようにすると、わざとらしくてれたように頭をかくしぐさをして、右手を頭の後ろへもっていった。 そして助けでも求めるように、今度は警備隊員の方を向いて苦笑いを見せる。 そのとき、金属がこすれるような小さな音とともに、鏡の反射のような細長いきらめきが、空気を二つに分けるように縦に走った。 南大門の左右に安置され、伽藍を守る、見るからに勇壮な金剛力士、何者をも畏怖させずにおかない、この、無敵さを誇示する木製の像も、しかしやはり不意の攻撃には弱いのだろう。 左に位置して要人の守りに当たる金剛力士、すなわち、新参SPのすぐとなりにいた警備隊員は、左肩からけさがけに一閃された。 カミソリの鋭さ以上、ナタの重さ以上を備えた幅のある長い金属は、警備隊員の肩骨を断ち、肋骨を次々と断ち、その中の肺も両断した。ほとんどまばたき≠フ速さで、警備隊員本人にも、肩にきた衝撃が何か、気づこうとする暇すら与えなかった。 長髪のSPは、たちまち抜いた刀をかえし、振り向きざま、今度は下段から斬りあげる。 警部補のSPは、警備隊員とは逆の太刀筋で、胸から肩口にかけ、真っ二つにされた。 警部補のSPは、瞬間的に自分の半身を襲った衝撃と、それに続く瞬間に噴き出した自分の血しぶきが、何のことか、まだ判断できずにいた。 警部補SPのとなりにいた、警部の資格を持つSPは、先ほど来の警部補SPと新参SPとの会話を聞いていたために、目は総理一行に向けたまま、右どなりにも注意を払っていた。このため、突然狼ぜき者者に変身した新参SPの、思いがけないふるまいにも、対応とはいわないまでも、見極める余裕はあった。 「お、お前は…」 言いながら反射的に懐のワルサーP99に手を伸ばそうとする。 斬りあげた刀を流れるような動作で持ち直し、八双ぎみに構え直した、長髪でサングラスの、SPの制服を着た不埒者は、そのまま警部のSPへ向かって飛ぶ。 斬りかかるかと思いきや、左手のひじで、懐に手を突っ込もうとしていた警部SPを押しのけ、突き飛ばしてやり過ごすようにすれ違うと、左端にいたもう一体の金剛力士=警備隊員に飛びかかった。 警備隊員とは仲間であるSPのユニフォームを着てはいたが、普段のSPにはふさわしくないサングラスをかけた、長髪の男の、白刃をたずさえての猛襲に、警備隊員は本能的にホルスターのミリタリーポリスに手を伸ばしたが、実線慣れしていない身は、いかにも動作が現実離れしていて、襲撃者の動きに比較すると、ものういほど遅かった。 サングラスの長髪男は、斜め八双に構えた刀身を引くようにして、警備隊員の胸をはらった。 長髪の男の構えた両手の先に、宙に浮くように刃文をきらめかせていた刀は、警備隊員の胸骨と肋骨とを、それが守る肺その他の臓器もろとも真っ二つにした。 面と向かって対峙した自分をやり過ごし、自分ではなく、警備隊員に太刀を浴びせられ、意表を突かれてしまったと悟った警部のSPは、しかし、ここで体勢を立て直し、斬られたばかりの警備隊員側へ向き直りざまに、懐からワルサーを抜き放って、まさに抜き撃ちに引き金を引こうとした。 が、そこに長髪のSPの姿はなく、驚きに目を見開き、信じられないといった表情のままで胸から血を噴き出しつつ仰向けに倒れていこうとしている警備隊員だけがいた。 「き、君、しっかりしろッ!」 警備隊員に声をかけようとした瞬間、警部SPの胸をどすんと衝撃が襲った。 思わず視線を下に向けたとき、そこに、警部のほうを向いている、まっすぐな刀身の刃の部分をみとめ、胆をつぶした。全身に激痛と衝撃が走る。 警備隊員を斬ったサングラスの男は、そのまま立てひざでしゃがみこみ、その場で刀を後ろに向かって、肩に背負うようにしながら、そのまま切先を突き出したのだ。 切先は警部SPの肋骨を切断し、肺を突き抜け、脊椎をかすめて、警部の背中に突き出ていた。 痛みと自分が刺されたことの衝撃で、警部はたちまち気が遠くなり、構えたままの右手のワルサーは目標を失い、銃口は空中をさまよう。 と、サングラスの男は、自分の肩の上、警部SPの胸の前に、刀の柄を持つようにささげて空を握っていたいた両手を、刀の柄でも放すようにパッと離した。抜き身の刀身だけが警部の胴を貫き、シュールなアクセサリーのようにその胸と背中で光っていた。 続いて男は、今にも倒れそうにフラフラしている警部SPの横にぴたりとつき、両手で包み込むように警部SPの右手をささげ持った。つまり警部の右手の人差し指の上から自分の人差し指を押しつける。そしてそのまま、ダラリと下がりかけていた警部の右手を上へもっていく。 かくて、宇宙銃のようなワルサーP99の銃口は、階段上へと向けられたのだ。 男がいきなり行動を起こしてからここに至るまで、この間四秒弱。 階段を下りてくる総理一行の中で最初に気づいたのは、油断なく前方を見ながら先頭を下りてきた次席SPだった。 気づいても一瞬のとまどいがあったのは、あまりに事態が予想外のことであったために、当然といえば当然のことだった。SPたちが内輪もめをしようなどとは、思いもよらなかった。 下で待ち構える一団の中で、何かがキラキラきらめき、ひらひらと舞うように誰かが猛烈な速さで動く。あれは白刃であると気づくのにはそんなに時間はいらなかった。 だとすれば、これまで都下を騒がせて逃走している、天誅団と名乗るテログループらしい輩と思い当たるにも時間はいらない。 柄の見えない奇怪な日本刀を操るという不敵な刺客、これが本庁も手を焼く二人組の襲撃者一味だというのか。 まさか!?そんなはずは…!? よりによってこれほどの、国の中枢部へやすやすと侵入してきたということへの驚きは禁じえない。ありえないはずだ… 第一秘書のとなりに並んで下りてきた主任SPも、ほんの少しだけ遅れて、異変に気づいた。 いきなり 「止まれ!」 かん高い声で一行をうながしたが、党の優柔不断なウスノロ連中を効果的にこらしめる方策を話し合うのに夢中の総理と秘書官は耳を貸さず、どんどん下りようとする。 「みんな止まるんだ!!」 先頭の次席SPが足を踏ん張り、大声で言って、ようやく一行は気づいた。 総理と秘書官はけげんそうに次席SPのほうを見る。 一歩遅れて一行のしんがりをつとめていた警備隊長と警備主任も、ここでようやく異変に気づいた。 下で待ち構えているはずの二人の警備隊員と二人のSPの動きがおかしい。四人とも今にも倒れそうによろよろフラフラしている。制服の一部が赤黒く見える者もいる。 事実、一人また一人と崩れるように倒れはじめた。 一人だけ、倒れまいと気丈に持ちこたえている者がいる。ひとりのSPだ。 いや、あのSPは立たされているのだ。後ろから支えられて、立たされている。 その陰に隠れるようにしているサングラスのSPは、倒れかかっている同僚の右手を両手でかかえている。(その先にはワルサーがあるのだが…) 次席SPは、相手が天誅団なる不逞の輩かもしれないと気づいたとき、不可能だ、ありえないと思うと同時に、いち早く現実を肯定し、その上であくまでもこちらが優位にあると直感した。 奴よりは高い、視界のいいところにいる。しかも相手が得意としているらしいのは、現に今しがた振り回していたと思われる日本刀だ。刀は白兵戦用の武器だ。これだけ距離が離れていたのでは、なんの威力もない。その日本刀で階下の部下たちの虚を突いて倒したのは驚異だが、せいぜいそこまでだ。 次席SPは、長髪の、SPを装った襲撃者が、階下の彼の部下の一人の胸を日本刀の刀身で串刺しにして、その横に立ったのをしっかり見きわめ、ちゅうちょせず抜き撃ちで一弾のもとに倒そうとワルサーを抜き放った。 抜く動作がよけいだった。 このときすでに長髪の襲撃者は、瀕死のSPの、ワルサーを持つ右手をぴたりと階上の総理一行、その中の最初に行動を起こそうとしている次席SPに向かって構え、照準を定めていた。 バヒュッ! ワルサーのせきこむような轟音がし、次席SPは胸のほぼど真ん中を九ミリ弾丸で強打されて、後方へ吹っ飛び、仰向けに階段に叩きつけられて、そのまま敷き物のように動かなくなった。 秘書官のとなりにいた主任SPは、次席SPより一呼吸遅れたが、銃を抜いていた。 内ポケットの高性能小型送信機で、不審者侵入と応援要請の一報を入れるよりも、とにかく攻撃してくる敵を征圧するのが先決だ。それにここの様子は館内テレビカメラでとらえられているはずだから、ほっておいても援軍はすぐ来る。 たった今、階段下できらめいた閃光に目標を定める。 しかし、下方の、長髪の侵入者にとっては、主任SPが銃を抜いて狙いを定める時間の半分以下でこと足りた。ささげ持った警部SPの、ワルサーを握ったままの右手を横へずらすだけで、主任SPへの狙いはぴたりだった。 バヒュッ! またしても轟音が響く。 主任SPのワルサーより早く、階段下の警部SPのワルサーが火を吹き、ほとんど意識のない警部SPにとっては不本意なことだが、自分の銃で自分の上司を撃つ結果となってしまった。 九ミリ弾は、主任SPの、これまた胸のど真ん中を撃ち抜き、主任はわッ!という悲鳴とともに、前のめりに階段に倒れ、そのままずるずると二、三段滑り落ちたのち、力尽きた山椒魚のように動かなくなった。 この時点で、後方にいた警備隊員主任はすでに腰のホルスターから、銃身の長い、威力のあるM10ミリタリーポリスを抜いていた。ワルサーよりは命中率のいい、一撃必殺の銃だった。 しかし敵は、日本刀で串刺しにしたままのSPを盾に、その陰に隠れようとする。 そのSPの、ワルサーを握った右手はこちらに向かってかかげられたままだ。 あのSPは、日本刀で刺されていては、もはや見込みはあるまいが、それにしても、このままではSPに当たってしまう。刺客を仕留めるのに盾のSPの息の根を完全に止めてしまっては… 一瞬ちゅうちょしたとき、その、盾をつとめるSPの右手の先が バヒュッ! という音とともに光った。 警備隊員主任は胸に衝撃を受け、その衝撃で後ろへ突き飛ばされた格好となり、階段にしりもちをついたが、そのまま、じっくり階段のあるこのホールの天井を眺めようとでもするように、ひっくり返った。 階段上の、武装している最後の一人、警備隊隊長は、ベルトにつけられたケースの小型のトランシーバーで応援を求めるべきか、銃を抜くべきか、0.5秒間逡巡したのち、やはり猶予なく差し迫った脅威に対するために、ミリタリーポリスを抜いた。 隊長である自分が、よもや自ら銃を構えるような事態になろうとは思いもよらなかった。自分の主な任務は、隊員へのもったいぶった訓示と、総理の後方にもっともらしい置き物のように控えていることだけではなかったのか。銃の抜き撃ちなど考えたこともない。西部劇でもあるまいし。自分がいつも部下たちに訓示していることの、お約束のフレーズは、身を挺して総理を守れ、相手を確かめろ、だった。武装しているかどうか確かめろ、敵のどこを狙ったら手傷だけですませられるか。マスコミに過剰防衛の責任を追求されて天下り先をフイにしないためにはどうすればいいか。 実力行使は隊長の仕事ではない。隊長はもったいぶった態度と、人をよせつけないようないかつい顔で十分なはずだ。しかし、隊長のそのいかつい顔は、階下の只一人の襲撃者に対して、何らの効果も及ぼしていないことは確かだった。 いま、長髪の、サングラスをかけた襲撃者は、自分が突き刺した日本刀を巧みに避けて、瀕死のSPを左手で倒れないように抱きかかえ、右手でSPのワルサーを持つ腕をささげ持ち、その銃口を警備隊長の額に向けていた。 警備隊長は、M10ミリタリーポリスを持った右手をまっすぐ、せいいっぱい伸ばして、下の男がかけているサングラスの真ん中へんを狙い、悲鳴のように叫んだ。 「お、お前は、お前は、何者だ?!こ、こんなことをして、この官邸から出られると思っているのか!けして、けして逃がしはしないぞ!総理にも指一本触れさせは…」 バヒュッ! と音がして、警備隊長はその場で、にわかじたての踊りでも踊るようなしぐさでくるくる回ったかと思うと、そのまま階段に崩れ落ち、さらに階段を下へとごろごろ数段転がった。 背の高い雑草が刈り取られでもするように、SPや警備隊員が一瞬のうちになぎ倒されるのを、総理と秘書官はあっけにとられて見ていた。目の前で起こったことがのみ込めず、ただ突っ立ているしかなかった。 しかし、四六時中生きた人間の城塞に囲まれ、それに慣れきっていた二人は、自分たちを守っていたすべてが地べたに崩れ落ちたとき、久しく触れたことのなかった冷たい外気=冷酷な殺気が迫ってくるのを感じた。それを前にして自分たちはなんと無防備なことだろう。 長い間忘れていて、自分たちには関係ないことだろうとさえ思い込んでいたイメージ、恐怖≠ェひたひたと、強烈な現実感を伴って足もとからはいあがってきた。 たちまち第一秘書はパニックにとらわれ、自分が総理秘書官であることさえも忘れてしまった。 キャーッ!と悲鳴をあげるや、くるりと回れ右し、総理を残して階段を駆け上がりだした。 バヒュッ! 逃げる秘書官の背広の背中のほぼ真ん中に、見えない巨大な画びょうで留めでもしたかのように黒い穴があいた。その瞬間、秘書官はあっ!と叫び両手をあげると、マラソンランナーがゴールテープを切るような格好で、階段に倒れかかり、そのまま階段の一部になりでもしたかのように動かなくなった。 総理のまわりに林立していた屈強の取り巻きたちは、嘘のように倒れ果て、大ホールの中にはうすら寒い、生気のない静寂と、明らかな血のにおいがたちこめていた。 総理はいまだに事態がよくのみ込めていなかった。何よりも、信じられない。驚愕ととまどいと孤独と恐怖がないまぜになった渦の中にいた。砂漠の真ん中にたった一人、裸でいるように心細かった。 むしろたった一人のほうがはるかにましだったのだが、一人ではない。はるか階下で、こちらを見上げている襲撃者がいた。離れていても、奴が自分をはたと見すえているのがわかる。 あの男はまさに死神のように見える。 今ようやく気づいたが、なんとSPの服装とは喪服のように不吉だったのではないか。 影のような黒いスーツ、深い紺色のタイは、無機的な印象を和らげはしない。光る墓石のような色の白いシャツ。長髪の下の浅黒い金属的な顔を横切る濃い色のサングラスは、飛びかかる寸前の獣の目のように光っている。 なぜ非常ベルが鳴り渡らない。SPや警備隊員が倒れるというような、考えられないほど重大な事態に立ち至っているというのに、なぜ官邸の内も外も静まり返り、誰ひとり気づこうとしないのだ。 甘く見ていた。奴らを甘く見ていた。 天誅団などといきがって名乗り、ただ世間を騒がせて喜んでいるだけの、単なる反社会的な少数分子と、軽視しすぎていた。 THADの特別捜査官が大仰に言っていた、「背後に大きな組織があるかもしれません」を聞き流し、「たまたま警戒の手薄な要人を襲撃して、テロリスト気取りをする、頭のおかしい愉快犯。犯人のモンタージュはできています。すぐに逮捕しますよ。」といった本庁捜査一課の話を真に受けていた。 主計局長=経企庁長官というラインこそ重視しなければならなかったのに、「一人や二人の犯人ではもう何もできるものではありません。捕縛は時間の問題です。」という安易な報告のほうを信じようとした。権力者特有の油断だ。自分は生まれながらの支配者で、常に天≠ノ守られている強運の持ち主、あまつさえ庶民などは自分の居城の官邸などへは近づくことすらできまいと信じていた。しかし犯人は白昼堂々、国家一の要塞に、のれんでもくぐるように易々と押し入ってきたのだ。 長髪の襲撃者は、サングラスの目を総理に向けたまま、警部SPの胸、刀の刃の元のほうが出ているところの手前の宙を右手で握るしぐさをすると、シャッ!という音とともに、刀身を警部SPの胸からいっきに引き抜いた。傷口から、蛇口を開けでもしたかのように勢いよく赤黒い血が噴き出す。 警部SPはほとんど意識がなくなっているのだが、ヨロヨロと倒れない。 男は右足を上げ、じゃまだとばかりに警部の身体を蹴り倒した。と同時に右手に持った刀の抜き身を一振りする。細かい血が霧のように階段に降り注いだ。 このとき総理は、あらためて純粋な恐怖に襲われた。刀は包丁と同じなのだ。肉を切り骨を絶つ。 男は左手をだらりと下げて軽く拳を握り、右手を少し上げて、使い慣れた携帯電話でも持つように刀を持っている。男の右手は空中を握っているのに、その先に光る刀身だけが、見えないピアノ線で吊られてでもいるかのように、宙に浮いている。日本刀の長い刃。 「天誅団と名乗った連中は、柄の見えない日本刀を操っていたそうです。光を吸収する素材…一種の新兵器を用いている可能性もあります…」 長身・長髪の死神はサングラスを総理に向けたまま、ひとことも発することなく、首相官邸の玄関大ホールの階段を上りはじめた。背筋をぴんと伸ばしたまま、上半身を全く揺らすことなく、ゆっくりだが着実に近づいてくる。 総理はまばたきも忘れ、大蛇ににらまれたネズミのように身動きもできない。 総理まであと十段というあたりまできたとき、男はぴたりと歩みを止めた。 と、顔は総理に向けたまま、やにわに右手を下方へまっすぐ伸ばし、刀で床を突き刺そうとする。 ズッ!という低いにぶい音と同時に、うっ!といううめきが聞こえた。 刀の先は階段にうつ伏せに倒れていた主任SPの背中を突き刺していた。 重症の主任SPは、それでも必死で職務をまっとうしようとし、死体になったふりをして男をやり過ごしてから、どうにかワルサーを構えて、この手ごわい男を後ろから撃とうとしていたのだ。 日本刀は主任SPの心臓を貫き、主任の企みは一瞬でついえた。 男は主任SPの体が完全に動かなくなったのを刃の先で確認してから、何事もなかったように再び階段を上りだした。 ついに総理から五段下まできたとき、男は左手を右手の拳の下へもっていき、両手でしっかりと刀を握り、水平から八双へもっていく構えをとった。 身動きできなくなってはいたが、総理はたまらず、しぼり出すように言った。 「お、お前は何者だ?!なぜこんなまねを…目的は何だ…?!」 男はだっと足を速めると同時に両手を振り上げる。 「ま、ま、待て…」 という暇はなかった。 三段をひと足で飛んで上がった男は、 「でーい!!」 という気合いとともに日本刀を振り下ろした。 総理は右肩にけさがけの一撃をくらった。 切先は背中にまで達し、日本刀は薄刃のギロチンのように、総理の鎖骨、肋骨、肺から大たい骨近くまで上半身を瞬時に裁断した。 衝撃と圧迫感で、総理は思わず階段にしりもちをつく。 ショックと、経験したことのない、痛みを超えた痛み。 赤黒い噴水のように噴き出す霧のような血で、視界がかすみ、斬り下げたままの姿勢でうずくまる男の姿もぼやけてくる。 自分の顔にかかる自分の血が、衝撃に打ちのめされたままの総理を、次の行動へかりたてた。 逃げなければ、とにかくこの場から逃げなければ… 総理はうめきながら、どうにか立ち上がると、襲撃者に背を向け、階段を上りはじめた。足もとはおぼつかなく、止まることなく流れ続ける血で、気が遠くなりかける。 こんなバカな!国家の最高権力者がこんな目にあうなんて…しかも官邸内で!わしは夢でも見ているのか。官邸警備隊は何をしているんだ、五十人もいる警備隊員は!監視カメラで逐一わしの行動を見ているはずじゃないのか。なぜ助けにこない… たったひとりの男に、国内最高のはずの要塞を突破されて、しかも狼ぜき三昧を許してしまうとは… ありえない、想像すらできない。この国のあらゆる常識に、規範をなしているパターンに反している。権力者とは不死身のはずじゃないか、誰ひとり手出しできない、手を触れることすらできない、神がかりの能力者であるはずだ。 それに…わしのしたことは確かに平成の大獄とやゆされたが、わしは井伊直弼でも犬養毅でもないし、今は、安政年間でも昭和のはじめでもない… とにかくこいつから遠ざからねば… 総理はふらふらとさらに階段を上りだした。 痛みだかなんだかわからないほどの気の遠くなるような痛みの中に、なんだか身体がふたつに分かれるような、妙な感覚がまじってくる。手負いの総理はことさら無防備に、襲撃者に背を向けていた。 あと一歩で階段を上りきる。 ここを上って、なんとかこの階にいる他の警備隊員に、この事態を知らせる。手遅れになる前に助けてもらう。 斬ったままの姿勢で、逃げようとする総理を見送っていた男は、ふたたびすっと両手をかかげ、その先に浮く刀身を八双に持ち直したかと思うと、だっと駆け上がって追いかけ、さらに獲物の背後から左肩をけさがけにした。 斬られた勢いで背中に圧力を受けた総理は、階段を上りきり、階上の通路へ押し上げられたが、そのままその場に崩れ落ちた。 もう動けない… 身体が左右に切り裂かれた。それがはっきりとわかる。 しかし、まだ意識はある。心臓はやられていないらしい。しかし血が盛大に流れている。 意識があるうちは望みがある。 両手を踏ん張って、はって逃げようとしたとき、真ん中の、首と背骨の部分を残して、体の左右だけが逃げていくような気がして、その恐ろしい、悪趣味なマンガのようなイメージに、さらに意識が遠のいた。 もはや痛みは超越し、意識が行きつ戻りつする中に、ひとつの疑問がまたたいた。 こいつはいったい何者なんだ…この国の国民なのか。国民はすべておとなしい、言われるがままの家畜のはずだ。こいつもわしの家畜の中の一匹なのか。バカな…家畜が飼い主に逆らうなぞ… いままさに、生死の境い目のこのとき、総理の心にふいに浮かんできたのは、自分の勝利が確定的な総裁任期延長動議のことでも、テレビ局に就職させてやった(むろん、すぐにうまみを諭して世襲議員にするつもりの)二人の息子のことでも、マンションの購入だけで三億円もかかってしまった、タレントの愛人のことでもなく、自分が何かに似ている、何かのようだという、奇妙な感慨のようなものだった。じつにそっくりかもしれない… 先日、駐日大使たちを招待した料亭での夕食会のこと。板前は世界のVIPを前に、見事な包丁さばきで魚を生きたまま調理し、一同を感嘆させたものだ。あのときの食材そっくりだ… 自分もまた今、生きたまま見事に三枚におろされてしまったのだ。 こんなことなら、警視庁内の食堂か、自衛隊の方面隊の中庭にでも官邸をおくべきだったのか。いや、戦いというものを知らない平和ボケの警官や、軍人もどきが何万人いたところで、ひとりの強固な意志にはかなうまい。 こいつは、この襲撃者は、全身から殺しのオーラが立ち上っている。六十年以上平和が続いた中で生きてきた人間のようではない。まるで過去から、侍の時代からやってきた男のようだ。 総理はどんどん意識がぼやけ、視界が狭くなりつつあった。 顔を横にして、頬を床面につけているため、じゅうたんと廊下の壁の下部しか見えない。 その狭い視界に黒いものが割り込んできた。 黒い一組の靴。手入れがゆきとどいているようだ。つま先を総理の方へ向けている。横に誰か立っている。 目玉だけをどうにか動かして、そろそろ見上げる。視線が靴の上の黒いズボン、長い脚をはっていく。こいつは黒いスーツを着ている。そしてシャツは白い… そのはるか上から、長い浅黒い金属的な顔と、地獄の深淵のように黒いサングラスが見下ろしていた。 その男の長髪の上に何か光るものがあった。 この男は両手で刀身を振りかぶっていた。 まだやる気か…もうわしは目玉もろくに動かせない身だというのに、まだやる気か… 唇をかすかに震わせて「待て」と言おうとしたとき、総理の顔のほうをめがけて、白刃がまっさかさまに振り下ろされた。 ものすごい轟音、爆発音が響き渡り、この区画一帯の空気を震わせた。 そのときこの地区にいた人間=目立つのは議事堂や官邸を警備する警官たちだが=は、ほとんどが音波で身体を揺さぶられたような気がした。 発信源である首相官邸は、カメラの手ぶれのように、ぶれるように揺れた、と、前庭に控えていた連中は思った。続いて官邸の南側=主に公用車が並んで出入りする、正面の北門とは反対側=の一角から黒い煙りが、とほうもなく太い柱となって昇りはじめた。 官邸の正面入り口で、シャッターが開いて総理一行が出てくるのを出迎えようとしていた二人の官邸警備隊員、その外側に控えてあたりに目を光らせていた四人の警官は、胆をつぶした。正面玄関の前に横づけされて、主人たちを待っていた公用車群の運転手たち、アプローチに点在していた警官たちも同じだった。 今の爆発音は明らかに官邸の中から聞こえてきた。ただならぬ事態を思い知らせる轟音ではある。彼らの位置からは、黒い煙りははっきりとは見えないが、こげ臭い煙りの臭いが漂ってくると同時に、たちまちその切れ端らしいものが流れてきた。 二人の警備隊員は顔を見合わせた。明らかに官邸内で異変が起きた。しかしシャッターには何の変化もなく、誰も出てこようとはしない。これは早急にシャッターを開ける必要がある。しかも外側から。しかし開閉スイッチはどこにあるんだっけ… 予想もしなかった事態に直面し、二人はまごついた。彼らの近くの警官たちも、あたりをうかがうだけでなすすべもない。 アプローチにいた警官たち、さらに正面出入り口となる北門を警備していた十名の警官たちは全員持ち場を離れ、正面玄関へと走りよった。官邸前の道路側や議事堂衆議院門付近を警備していた警官たちも、爆発音に衝撃を受けたものの、いち早く官邸の煙りに気づいて、北門、そして官邸正面へと駆け出し、官邸正面のシャッター前はたちまち、緊張した顔の人垣ができあがった。 「何だ、何が起こった?!火事か?中の警備隊は、SPは何をしている?!」 「なぜ連絡がとれない?!どこから煙りが?」 「とにかくここを開けろ!中に入るんだ!!」 シャッターの前にいた二人の警備隊員は汗まみれになっておろおろするばかりだ。 「シャッターの開閉スイッチはどこにあるのか…今捜しているんですが…」 「早くするんだ!!これは内側から開けるのか?!」 ぐずぐずするうちにシャッターの下や壁との隙間あたりから黒い煙りが漂いはじめる。 「まずいぞ!早く開けろ!他の入り口へ回れ!中へ入るんだ!!」 「おーい!誰か中から開けてくれ!」 何人かの警官が叫びながらシャッターを叩きはじめる。 「よし、とにかくこいつを上げよう!皆で力を合わせて押し上げるんだ!」 誰かが言い出し、全員がシャッターの下へ手をあてて強引に持ち上げようとしたとき、いきなりスルスルとシャッターが上がり出し、わずかにできた隙間から二人の人影が転がり出た。 轟音と煙りから、官邸の中では只ならぬことが起きていると、身構えていた、シャッターの外の警備隊員や警官たちも、出てきた二人の姿を見て息を呑み、思わず半歩下がって遠巻きにした。 二人とも墓場から這い出したゾンビのようだった。 身につけているものは、鋭利な刃物で切り裂かれでもしたようなボロボロの布切れだった。かつては警備隊員の制服だったらしいそれは、血らしい赤黒いしみでまだらになっている。それをまとっている二人の顔も、赤黒い血や真っ黒な煤でおおわれ、誰かの見分けもつかない。ひとりの、背が高く見えるほうは、本庁からの先任係長らしいのだが、外にいた二人の警備隊員にしてみれば、もうひとりのほうは仲間らしいこと以外は、名前も階級も見当がつかない。二人とも傷を負っていることは確かで、先任係長らしいのが重症らしい。すっかり身体をもうひとりにあずけ、ささえるほうもよたよたと、どうにか担いで出てきたが、たちまち二人ともその場に崩れ落ちた。 二人を一条の煙りとともに外にひねり出したシャッターは、スルスルとすぐにもとのように閉まりはじめる。 「いかん!閉まらせるな!そいつを上げろ!」 一人の警備隊員が叫び、何人かの警官が素手でその金属板を引き上げようとした。 「だめだ、開けるな!閉めるんだ…」 ふりしぼるようなしわがれ声がした。 見ると、出てきた背の高いほうの警備隊員が、上半身だけ起き上がり、目をむいて必死で声を出そうとしていた。 「開けてはならん!奴らはまだ中にいる、逃がしてはならん…」 「何事です!一体何が起きたんです?!」 外にいた警備隊員の問いに、手傷を負った男は、うつろに目をさまよわせながら、うめくように言った。 「武装した何人かが侵入してきた…」 「何ですって?!テロリストですか?!」 「…だろうな…」 「いったい、いつ?どこから?!」 「わからん、とにかくいきなり現れた…我々は奴らの持っている刃物でやられた…不意を突かれて、どうにもできず…奴らは銃も持っている…我々警備隊員やSPたちと銃撃戦になった、まだ続いている…負傷者が多数出た、人質も多数かもしれん…もっと、もっと、応援を呼んでくれ…」 「そいつらは何者です!何のために?!」 「…さあな…官邸を見学に来たんじゃないことは確かだろうな…」 「爆発がありましたね、あれは何です?どこで?」 「奴らが持ち込んだ爆発物だろう…(爆発は)プレスルームの近くと、もう一か所はどこだかわからん…」 「我々はまだ誰も中に踏み込んでいません、どうしたらいいのか…」 このとき当座の指揮を下せる人間はこの場にはいなかったらしい。若い警備隊員と同じように、若い警官たちは、今の時点でどう決断を下したらよいか途方にくれていた。 「とのかく周りを固めろ、誰も出入りを許すな…それから…作戦をたてて…」 傷を負った警備隊員は話すのも考えるのもつらそうだった。 「総理は…総理はどうされました?!」 「総理は…」 このとき、かついできたもう一人の傷を負った警備隊員が、死んだ魚のような目をしたまま起き上がりながら割って入った。明らかに総理の安否について、強い印象を受けているようすだ。 「総理は」 先任係長は、それを制するように、どうにか努力して語気を荒らげ、話の主導権を自分以外にそらせまいとした。 「総理は…傷を負われた…」 取り囲む一同が息をのむ。全員が悪い事態を予期し、同時に責任の文字も頭のすみにちらつく。かつてないほどの憂いに上乗せするように、先任係長が追い討ちをかけた。 「これを…」 ボロボロの制服の内ポケットから、小さな四角い物を取り出した。 「このディスクを誰か本庁へ届けてくれ…すぐにだ。国家の機密が入っている。極秘扱いのものだ…総理から直接手渡された…」 言うなり、前にいた警備隊員に手渡しつつ、マラトンの戦いを伝えた伝令のようにがっくりとつっぷした。 「いかん、救急車はいるか!すぐ救急車へ運べ!しっかりして下さい…」 そのまま息絶えたかと思われた深手の警備隊員は、まわりの声にあらためて気がついたように、目を大きく見開き、傷を負っているとは思えないような勢いでがばっと上体を起こすと、ディスクを渡した隊員の腕をつかまえてつかれたように言った。 「いや、私が行く!自分で行く…この手で総監に手渡す!」 「しかしその傷では…」 「…大丈夫だ、大丈夫だとも…これくらい…」 渡された隊員からディスクをむしり取るように取り返した。 「…じ、自分も行きます…」 彼をかついで出てきたもう一人が、残った最後の使命感をふりしぼるように言った。 「我々を車に乗せてくれ…」 「何人かに護衛させます」 警官の一人が申し出た。 「いや、いい…。先導車もいらん。今は一人でも多く官邸の警戒に当てるんだ。さらなる奴らの攻撃があるかもしれん…」 傷を負った先任係長とその部下は、最も彼らに近いところにとまっていた首相車に、かかえられて乗せられたが、係長はその途中でも指図した。 「外も警戒しろ、出るものと入るものを警戒するんだ。官邸への突入はまだ待て。体制が整うまで本庁の支持を待て…」 弱々しいながらもしっかりした口調で下される、傷ついた先任係長の指示は、一緒に乗り込んだ、同じように息も絶え絶えのもう一人が、 「出してくれ」 と運転手にうながすまで続いた。 これまでは総理以外は乗せたことがなかった、強力な防弾が施された黒い大型の首相車は、瀕死の二人の警備隊員を乗せ、猛然とダッシュして官邸北門を飛び出した。 続いて、今しも官邸へと参集し続ける周囲の警官たちを尻目に、弾丸のように突っ走り、桜田門方面へと全速力で坂を下る。 タイヤをうならせ、車体をきしませ、バンパーを路面にこすらせて火花をまき散らしながらカーブを曲がり、桜田門正面への道路へ向かったと思った瞬間、機械ならではのすさまじい咆哮をあげて、路肩近くへ一瞬停車したと思うと、運転席のドアが割れるように開き、中から物体が路肩の植え込みめがけて放り出された。 と、たちまちドアは閉まり、タイヤは破裂しそうな煙りとうなりをあげ、あわて怖れる付近の車の群れの流れを切り裂いて、本庁正面と逆の方向へハンドルを切ると、そのまま、近くの何台かの車に次々と接触しつつ、たちまち体勢を立て直してスピードをあげ、ジャンプ台を下ってゆくスキーヤーのように小さくなっていった。このときには、傷ついていた二人の警備隊員は、(一人は運転しながら)ボロボロの制服を脱ぎ捨て、乱れた髪形のかつらもはずし、顔や手についていた血のりを拭き取りはじめていた。 植え込みに放り出されてうごめいていた物体は、首相車の運転手だった。 |
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