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私は軽い鼻炎持ちで、耳鼻科によく通院しています。
上京したての頃、どこの病院がどういう診療をしているかさっぱり分からず
いや、そもそもどこに病院があるのかも分からず途方に暮れかかったことがありました。
そんな時、学校の近くにあった耳鼻科にふと立ち寄ったのです。
そこは、ものすごいおじいさんが先生をしておられる、ものすごい小さい病院でした。
最新式の機械など一切無く、長年の勘と言うか、腕一本で治療してくださる病院でした。
すごく暖かい病院です。
先生は真っ先にこう仰います。「やぁ、いらっしゃい」と。
こんな病院はじめてです。
ものすごく居心地のいい病院です。
そもそも、私は機械仕掛けの病院をあまり快く思いません。
腕一本で患者を救える医者ほど、名医であると思います。
たしかに機械は素晴らしいですが、停電などで機械が一切止まったらどうするのでしょう?
やはり普段から腕一本で患者を救ってきた医者ほど、私は好きなのです。
これは、私が原始人を尊敬していることから来ていることなのでしょうが。
さて、その暖かい病院ですが、残念ながら今月一杯で閉院してしまうことになってしまいました。
「私の妻が重病で入院してしまってね、これからはつきっきりで看病したいんですよ」
と、先生は仰いました。すごく悲しそうな顔をされて、そう仰ったのです。
ものすごく大切な場所を失ってしまうような気持ちになりました。
今月末、最後の通院をする時、感謝の気持ちを、伝えます。
こんな時、言葉の非力さを痛感するのでしょう。
ほんとの気持ちは、言葉という受け皿では、受けきれません…

久しぶりに、あるCDを聴きました。
それは、高校のときに編集したCDで、当時よく聴いていた曲がたくさん入っていました。
5年ぶりくらいに聴く曲の数々…
「あのとき、あんなことしたっけ」とか「あのとき、こんなこと考えてたっけ」と、
いろいろ思い出しながら、しみじみと曲を聴いていました。
聴いていて、なんだかウキウキと嬉しくなっている自分に気づきました。
なぜ、懐かしい曲を聴いただけでウキウキと嬉しくなったのでしょう?
うーん、考えてみましたが、よく分かりません(笑)
というか、あんまり何も考えずに、何回も同じCDを聴き、しみじみ嬉しくなっていました。
それでも、そもそも「懐かしい」とはなんなんだろう?と途方もないことを考えみたりしていると、
必然か偶然か、高校時代の友だちから久しぶりに連絡が入り、しばし談笑。
これって、高校時代の懐かしの曲をたまたま聴いたお陰なんかなぁ?と不思議に思いつつ、
やっぱり何回も同じCDを聴き、しみじみ嬉しくなっていました。
もし、たまたま高校時代のCDを聴いていなくても、同じように高校時代の友だちから連絡が入ったんかなぁ?
それとも、高校時代のCDという一つの「引き金」を引いたお陰で高校時代の友だちとつながったんかなぁ?
うーん…
なんか、こういうのっていいなぁ、と思いました。
みなさんも、懐かしのCDを聴くとか、そういうことしてみてください。
そしたらきっと、「いつも」と違う何か懐かしくて嬉しいことが起きるような気がします。

「私は、面接では顔で人を選びます。」
という話を聞きました。実は私も人を見るときにかなり顔を見ます。
これは、顔が美形であるとか、そういうことを見ているわけではもちろんありません。
顔が表す「その人が今までどんな人生を送ってきたか」というメッセージを見るのです。
何かを「なんだよこれ」と恨んだとします。すると、その時に恨みの念が顔に現れます。
では、そうやって恨んでばかりの人生を送った人の顔はどうなるでしょう?
恨みの念が顔に現れることが多く、顔の筋肉がどうしても恨みの相を表す顔を記憶してしまいます。
筋肉と言うものは意識的にすぐには変えれないもので、そういう人の恨みの相というものはなかなか消えません。
つまり、その人の顔には平常時でも恨みの相がどうしても残ってしまうのです。
一時的に強烈な意識で筋肉をコントロールして恨みの相を消せたとしても
ふとした瞬間に、必ず恨みの相が現れてしまいます。
ふとした瞬間の表情…そうです、ここにこそその人が今までどんな人生を歩んできたかが色濃く現れると思います。
だから、冒頭の言葉をより正確に言えば「人を見るとき、一瞬の表情を見ます。」ということです。
相手を思いやれる人、芯の強い人、負けず嫌いな人、恨んでばかりの人、怯えてばかりの人…
どんなにとりつくろうとも、一瞬の表情にこれらが色濃く表れてしまいます。
洞察力を磨けば、その一瞬の表情から、ほんとにその人の人生がだいたい分かってしまうそうです。
占い師という職業の人は、そういう意味で、洞察力の優れた人なのかもしれません。
また、一瞬の表情以外にも私がよく「見る」ものがあります。
声です。
声にも、「その人」が色濃く現れます。
姿勢もです。
姿勢にも、「その人」が色濃く現れます。
一瞬の声の変化、一瞬の姿勢の変化、そこに本当に色濃く「その人」が現れます。
その人が話している内容よりも、その人の表情や声や姿勢…そこから得られる情報のほうがよりその人のことを知れます。
その「一瞬の変化に現れる人物像」と「その人の意識が働いている状態の姿」が大きく違えば
その人がひどくウソっぽく見え、「あぁこの人は演じてるな」ということが見えることもあるそうです。
無理にこんな顔してるな、無理にこんなこと話してる声だな、無理にこんな姿勢してるな、というふうに。
日常生活でしみついた筋肉の形状というものは、本当によくその人の「今まで」を教えてくれます。
冒頭で挙げた面接官に出会えたら本当に幸せです。
上っ面の言葉で人を見るのではなくて、その奥深くを見てくれるのですから。
そして私も、上っ面ではなくてその人の「本当の姿」をしっかり見れる人になりたいです。
いや、それよりも何よりも、上っ面の姿で本当の自分を隠さない、真に強い人間でありたいと思います。

体は箱。その箱の中身は?中身いかんで箱は変わる…
大学に入学する直前の年の暮れ、一本の電話がかかってきました。
それは、中学時代の部活の友だちの死を告げる電話でした。
非常につらかったのですが、お通夜に参列いたしました。
葬儀屋のマニュアル通りにすすんでいくお通夜にかなりの憤慨を覚えながらも、順調に式は進み
いつしか、棺おけの中で眠っている友だちと対面するという段になりました。
みんなぞろぞろと並び、棺おけの中に眠っている友だちを順番に見ていきます。
「見世物じゃないんやぞ」と、今度は激しい憤りを覚えながらも、私も列に並んでいました
そして、対面しました。
やはり、友だちは棺おけの中で静かに眠っていました。
生きている人には決してできないであろう安らかな表情を浮かべ、静かに眠っているのでした。
その瞬間です、今まで感じていた憤りなど跡形もなく消え去り、何かを超越した不思議な気持ちが体中に一気に起こりました。
「え?なんで、なんでこいつ動かへんの?」
「俺は…俺はなんで動いてんの?」
「こいつには、生きてた時と同じ、動いてた時と同じ体が、しっかりとした体がまだあるやん?」
「なんで、なんで、なんでこいつが動かずに、俺は動いてるんよ…なんで…」
「なんでこいつが死ななあかんのや!なんで俺だけ生きてんのや!」
「て言うか笑えよお前、て言うか起き上がれよ!なんでそんな顔して寝てんのや?おい…」
「なんで…なんで…」
気がつけば私は泣いていました。おかしいくらい、泣いていました。
今、自分がこうしてここに生きていられると言う奇跡。
今、生きてた頃と同じ体を持ちながらも、もう二度と動かない友だちがここにいるという奇跡…
生きているとは一体どういうことなのか、わけがわからなくなりました。
「体って、つまり、なんやねん!体があるだけじゃ、生きることは許されへんのか!」
どうしようもない混乱。前後上下左右、すべてが混乱。
初めて直面した、強烈な「死」。そして、強烈な「生」。
そのとき、ふと思いました。「これが…これが魂っちゅうもんか」と。
体は箱でしかない。そこに、魂が入ることで初めてその箱は動けるようになる。
魂が入った箱だけが、生きることを許される。
では、魂とはなんぞや?電池みたいなもんか?いや、違う。
心や。魂は、心なんや。そう、心。
物理学的観点に立てば、心も結局は電子の運動によって引き起こされる現象の一つでしかないのでしょうが
じゃあ、うまく電流を流しさえすれば、心の抜けた体という箱は動くのかと言うと、そうでもないでしょう。
動きはするものの、それは「生きている」とは呼べない動きになるでしょう。
箱を生かすもの…それが心。心がなければ、箱は箱のまま。
でも、生きている人間を見ると思います。心って、すぐに毒されてしまうんやなぁと。
「ほんとの心」で動けている人って、いったいどれだけいるのでしょうか?
変にかっこつけたり、変にかわいこぶったり、変に意地はったり…心で体が動いていても
「ほんとの心」以外で生活している人が多いような気がします。
心が毒されてしまっていると感じます。
偉そうなことを言っている私も、毒された心でもって動いてしまうことは多々あります。
その度に思い出します。友だちの死で感じたことを。
「ほんとの心」で、生きていられる幸せを。
でも、この話は人間に限ったことではありません。
家という箱、商品という箱、作品という箱、人間関係という箱、世の中は箱だらけです。
その一つ一つに、「ほんとの心」こめることのできる人でありたいです。
もちろん、まず自分という箱に「ほんとの心」が入っていないとできないことですが。
余談ですが、出会いという箱にも、きちんと「ほんとの心」を入れれていたならば
友だちが死んでしまう前に、生きて会えていたのかもしれません。
「いつでも会えるわ」と、なめた心に毒されていたために、出会いという箱まで殺してしまいました。
体は箱。その箱の中身は?中身いかんで箱は変わる…
みなさんは、箱に、いったい何を入れますか?
→
私は犬が大好きです。だから犬を見るのが好きなのですが、犬を見ていてよく思うことがあります。
「犬と人間て、体の構造がこんなにも違うのに、なんで犬は人間の口やら鼻やらを認識しているのだろう」ということです。
でもこれは犬に限ったことではないようです。猫などその他の哺乳類もそのようです。
誰に教えられるともなく、口は口、鼻は鼻、と認識できている理由はあるのでしょうか?
逆に言えば、人間が犬などを見るときもそうです。
「これが鼻ですよ」と人間の顔で学ぶことはあっても、犬の顔で学ぶことはないでしょう。
でも、人間の鼻さえ認識していれば、特別に教えられなくても犬の鼻がどれなのか認識しています。
これは、常識のようですが、よくよく考えるとものすごく不思議なことのような気がします。
生物学的にきちんとした理由があるのかもしれませんが、私は知りません。
知らないからこそ、ものすごいロマンを感じます。
まったく違う種が、まったく体の構造が異なる種が、どうしてお互いの体の各部を認識しているのか?
機能として体の各部を理解できているということでしょうか?
つまり「物をそこから食べる部分=口」のように、機能として捕らえているのでしょうか?
「においをにおう部分=鼻」と理解しているのでしょうか?
形は違えども、機能で体の各部を理解している…すごいことではありませぬか。
進化する前に哺乳類が同じ種であった時の遺伝子がそうさせているのでしょうか?
何億年という長い年月を経た今なお、種を越えて哺乳類が体の各部を機能別に認識しているというのですから。
だからこそ人間は、爬虫類や昆虫の耳や口の場所を知って驚くのかもしれません。
「え!そんなとこにあるの?」とか、「そんなふうに使うの?」とかいうふうに。
この現象は、道具にも及んでいます。
例えば標準的な鍋を知った後、標準形とかなり形が違う鍋に出会ってもそれを鍋と認識できます。
初めて見る道具でも、だいたいなら「ここを握るんかな」とか「ここから覗くんかな」とか分かります。
そして私は、そんな『常識』を覆す道具に出会った時、たまらなく嬉しいです。
あるいは、常識的な道具を、非常識な使い方で使ってみてうまくいったとき、ものすごく嬉しいです。
むしろ、常識的な使い方を覆すことを日々もくろんでいます。非常識な奴です。
ひどい時には現今の歩き方まで疑って、もっと効率的な歩き方があるはずだ、と変な動きで移動することもあります。
そうしたあと改めて、何億年と言う遺伝子の継承によって形成された『常識』の素晴らしさを再認識するのです。
やっぱ、この『普通の』歩き方って、素晴らしいんやなぁ…などという感じで。

いよいよ3月です。3月なのにまだこの寒さです。寒いの苦手です。
最近、買い物を間違えてしまうことが増えてしまいました。
シャンプーの詰め替えパックを買った時のことです。確かに私の中では、あれはシャンプーでした。
空のシャンプーボトルに詰め替えパックの中身を入れて、いざ髪を洗おうとすると…
やたらめったら泡立ちしません。
そうです、私はシャンプーを買ったつもりがコンディショナーを買ってしまってたのです。
もっと見た目で明らかに異なるようにしてください!
歯磨き粉を買った時のことです。確かに私の中では、あれは歯磨き粉でした。
それでいざ歯を磨こうとすると…
今度はやたらめったら泡立ちました。そして、味がものすごく変でした。
そうです、私は歯磨き粉を買ったつもりが洗顔料を買ってしまってたのです。
見た目に紛らわしい外装にしないでください!
ピーナッツが入っていない柿の種を買ったつもりが、ピーナッツが入ってました。
私は柿の種だけが食べたかったのです!
特別セールで安くなってる野菜ジュースを買ったつもりが、普通の定価のほうの野菜ジュースでした。
値段が倍くらい違ってびっくりしました!
後姿を見て、知り合いかと思って元気に声をかけたら、かなり別人でした。
ごめんなさい!
うーん、もうすぐ春が訪れるのですね。春はあけぼの。