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虚界門 Episode01 第1章
西暦2085年11月15日 6:02 P.M.(東部標準時) その日のニューヨーク市《ニューフロント・シティ》の天気は、真っ黒な雲から酸性雨の小雨が 降るという、中途半端で、とても憂鬱な雲行きだった。 灰色の重々しい雲は、沈んでいくタ焼けの太陽を覆い隠し、低気圧が重い空気を生み出す。 カレンダーは2085年の11月15日。世界中を巻き込んだ、21世紀中期の深刻な世界恐慌と、世 界紛争の集結から約30年が経っていた。奇跡的な復興遂げたこの世界の五大強国とされるア メリカ合衆国。その最大都市であり、依然として世界都市として威厳を放つニューヨーク市に、 2040年代過ぎの、世界バブル経済の頃から新たな街が建設された。 マンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、そしてスタテンアイランドの五つの地区。 この地は現在、五大行政区とは言われておらず、《ニューフロント・シティ》が人工島に建設さ れ、新たな地区となっている。 《ニューフロント・シティ》の都市は、海上の上に浮かぶ新とし人工島群と、陸側、スタテンアイラ ンドと言われていた地区、そしてブルックリン地区にちょうど半分ずつまたがり、マンハッタン、 ブルックリン、そして大陸とは橋で繋がっている。 この新都市は、幾重もの高層ビルと環状道路を抱えている。その人工島群の中心部には、地 上150階建てという高さの、世界最高の高さのビル、ニューフロントセントラルビルが建ってい る。多くの超高層ビルを従えてが堂々と建っていた。21世紀初頭のテロで破壊される前の、旧 時代の貿易センタービルの栄華を取り戻したいがごとく。その内部には国際連合本部もあっ た。 急激なニューヨーク市の人口増加は、21世紀バブル期に、人工島を建設するほどの都市開発 に拍車をかけたが、世界恐慌により一端は途絶えた。しかし近年になり、つぎはぎをするかの ように再開されてきている。 その代表的な存在が、他のビルを従えるように建つ、一つの超巨大高層ビル。それは依然と して世界最大都市と言われるニューヨーク市の、21世紀後半のシンボルだった。 上空より降り注ぐ雨は、ビルの隙間を網の目に走る道路にまで降り注ぎ、継ぎ接ぎの布のよう な舗装されたアスファルトを濡らし続けていた。 「あたしは、もっと楽な仕事だと思っていたのにな…」 『アメリカ』の民と、英語だらけのこの市街地に、別の国の人間と、その言語があった。それは 『日本人』の香奈だった。 押し殺した息を口から吐きながら、その細いウエストと脚を、スカートとブラウスから露出させ、 『日本人』の割には真っ白な肌、そして華奢な体を、建物と建物の間にある狭い隙間に押し込 み、彼女は小さくしゃがんでいる。黒に茶が少し混ざった長い髪の中に見える彼女の顔は、と ても落ち着いてはいない。目線も一箇所を向いていなかった。 そして、彼女の側にある、時代遅れの産物である木箱の上には、黒いコートを着て、眼鏡をか けた長身の男、太一が堂々と立っていた。彼はビルの隙間から外の裏通りを見つめその鋭い 視線を送っていた。 「全然楽じゃあないよ。かなりヤバイって…」 香奈は、太一に向かって言っていた。 彼女の問いに、太一は何の反応も見せなかった。自分の言ったことを聞いているのか、と香奈 は思うが、当の本人は、何が起こっても変えないという冷静な表情で、狭い建物の隙間の外を 見つめていた。 その外の通りは、バブル期直後の急激な都市開発の名残り、15、6階建ての古びた建物の隙 間を走る裏路地だった。 と、そこを、深緑色の軍服と防弾スーツを着て、同じ色のヘルメットをかぶり、最新型の短銃や 小型のマシンガンを持った者達が、焦った様子で走っていく。それは、世界紛争以後、この国 でその活動規模を拡大した、治安維持からテロ、暴動鎮圧にまで活動する、『政府軍』の兵士 数名だった。 太一と同様にして香奈もそれを横目で見ると、彼女はとても嫌そうな声で、 「ひゃあ、あんなものまで持っているよ。もう嫌になっちゃう…」 と愚痴を言ったが、彼女の方をチラリとだけ見た、真剣な顔の太一は、無表情でそれを黙殺し ていた。 昨日の夜11時頃、太一と香奈の2人は、東京の防衛省本部から緊急の呼び出しを受けてい た。 呼び出しから1時間もかからずに、それぞれの車でそこへと到着した2人は、防衛省長官、原 隆作のオフィスに通されていた。 壁には巨大な世界の、そして日本の地図、伝統ある姿は変わらない国旗。額縁に入る歴代長 官達の写真。それらに囲まれた原長官のデスクの後ろにある。大画面の窓からは、暗闇に浮 かぶ東京、そして、東京湾上に広がっていく、新都市区画の街並みがよく見えた。 さらにそこには、ブランドの黒いスーツを着て、青いネクタイを締め、年の割りに長身で、白髪 が眼鏡を掛けた渋い顔と見事に融合した中年の男、原 隆作がいた。彼は、高価な回転椅子 に身を埋め、太一と香奈をデスク越しに並んで立たせた。 「夜遅く、わざわざご苦労だった。さて、電話でも言った通りに今回、君達に与える任務の全て は、そこに残らず書いてある」 と、長官は低い声でニ人に言いつつ、落ち着いた、ヒノキの重厚なデスクの上に置いてある紙 の書類を指差して言った。 太一は立ったまま、そのホッチキスで留められた書類をデスクから手に取った。書類には細か い文字がびっしりと印刷されている。彼は、黙ったままそれを1ぺージ目から読み始める。 「何て書いてあるの?」 隣にいる香奈は、太一の読む書類にぬっと顔を覗かせ、その内容を素早く読み取ろうとした。 「アメリカのニューヨーク市、《ニューフロントセントラルビル》における、不穏な動き及び活動の 調査…?」 と、静かな声で原長官に尋ねたのは、太一だった。彼の声は低い男の声だが、よく通る声で、 静かな声でも耳に届く。 「《ニューフロントセントラルビル》は知っているだろう」 「《ニューヨーク》のビルですよね」 と香奈。 「そのビルでだ、数週間ほど前から、黒塗りの高級車に乗った人物が何人か出入りしていると の情報を、向こうの協力者から入手した」 窓の外の夜の街を眺めながら、彼は太一と香奈に背を向けて言うのだった。 「不蕃な人物…、ですか?」 太一は、原長官の背中に問う。 「白衣を着た男が数人…、政治家界隈のこの辺りでは珍しい」 「白衣?」 と、再び太一。 「まだ正確な事は分かっていないって事だ。その人物達は科学者かもしれないし、医者かもし れない。ただ、数週間前から毎日出入りしているとだけ、私は聞いている。毎日欠かさずに、だ とさ」 香奈は、その細い眉を寄せて、少し考える。 「ニューヨークから離れたところって、最近では、隔離施設や研究所も増えてきたって言います よね?一般市民が知ることではありませんが。それに、《ニューフロントセントラルビル》は、国 連本部もあります。白衣を着た男の数人や十数人、出入りしたって不思議ではないのでは …?」 そこで原長官は二人の方を振り向いた。 「確かに、香奈。君の言う通りだ。しかし…、出入りしているという男のうち一人の顔写真、のコ ピーが、その書類の3ページ目に載っている」、 太一は書類の紙をめくり、その3ページ目を開く。ページの左下には、眼鏡をかけ、睨むような 目付きをし、口髭を生やした、黒い目の日本人の写真が載っていた。写真は、彼が車から降り たところを捕らえていた。 「どっかで見た事あるわね…」 香奈は太一の顔を見て言ったが、彼は何も答えない。 「近藤広政さ。こっちの綱道大学の教授。有名だろう。いくつも賞を受賞している。専門は医 学、物理学、生物学、化学…、なんでもだ」 香奈はもう一度書類に目をやり、少し間を置いて、 「そんな人が、アメリカで何をしているって…?」 「そこが、問題なのだよ。この事を不審に思った向こうの協力者が調べた所、彼の最近の研究 は全くの極秘扱いだった。しかし、わざわざアメリカで、何かをしているとしたら、国際協力で何 かの研究をしているのだろう。何しろその男は、世界でも名が通っている著名な学者で、君達 も良く知っているような世紀の大発見さえしている。君達も知っているね? 研究成果も随分と 高い。まさに、現代の天才と言っていいほどだ。何かをしているとしたら、よほどの研究だろう な」 もう一度、書類に印刷されている男の顔を見る香奈。彼女は、その後のページの、白衣を着た 男が5、6人ほど写っている写真も併せて目を通した。隠し撮りだ。どこか、物陰から撮られて いる。撮られている者達はその事に気づいていない。 それは太一や香奈が知らない人物達だった。 「他の人は?」 「正体が分かっている人物は、そこに名前が載っている」 近藤広政以外は、皆、香奈が知らない名だ。どこかで聞いた事があるかもしれない、と感じた 名もある。だが定かではない。色々な国の、色々な研究機関の人物達がいた。 「それを、あたし達が調査するのですか?」 「そうだ」 「いつからでしょうか…?」 「ニューヨーク行きのジェットの席は2人分予約しておいた。出発は明日の昼、成田からだ」 「明日…、からですか…」 なぜって、香奈は今日から3日間の間、休暇を取っていたからだ。まあそれは、振り替えられ るのだけれども。 「やってくれるね?」 原長官は2人の方を向いて問い、太一の方は軽く頷いて答えた。 「もちろんです」 「では、その書類を良く読んだら、ただちに処分し、この事は内密にするんだ。口外は許されな い。分かったね?」 「ええ…」 香奈は言った。 「任せたぞ」 原長官は呟くように言い、それを聞いてか聞かずか、太一と香奈は一緒に部屋を出て行 った。
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