| 第二分団
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| 新ポンプ車 すなっぷしゃしん | ||
| 歴代ポンプ車 すなっぷしゃしん |
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平成十五年 度宮古市消防団大演習(初午)すなっぷしゃしん |
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家のまわりに燃えやすいものを |
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| 平成十四年度宮古市消防団大演習(初午)すなっぷしゃしん | ||
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平成十三年度宮古市消防団大演習(初午)すなっぷしゃしん |
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| 2002年8月25日 市総合防災訓練 すなっぷしゃしん | ||
| 2002年1月6日 宮古広域消防出初式 すなっぷしゃしん | ||
| 2001年8月26日 市総合防災訓練 すなっぷしゃしん | ||
| 宮古 消防署管内における~12年の火災の種別と原因(前年との比較)宮古消防署作成 | ||
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宮古市消防団のあゆみ
「宮 古市消防団史」 宮古市消防団刊 花坂蔵之助著 から抜 粋
(1)火消し組 藩政期
『文政元年(1818)沢田・横町・新町・本町の和合講中が伊勢神宮の途次、 江戸の火消しの事を見聞きし、宮古に帰って宮組という組織をつくった。』 現3 分団の資料から
同様に為炉波組、向組も後に和合講を母体に組織された。
和合講の議定を今風に要約すると
- 和を旨とし、儀を重んじ。
- けんか口論はするな。
- ばくちと酒は慎め。
- 火災の時はかけつけ、火消しにはげみ、 手伝いをしろ。
- 自分の商売は大事にして、休みでも見回 りをしろ。
- 相談がある時は廻文を廻すから、心得て 文句など言わず、早速集まれ。
- 申し合わせた事は何事でも、固く守れ。
この組織は、経済的政治的に自由のなかった武家社会の中で、同じ地区町内の生活基盤 を有する住民が、生活を支え あい、守り合って行くための相互扶助組織、生活防衛団体であったのでしょう。其れ故に、きびしいとも思える議定を我と我が身に刻み、団結して近隣社会を守 るための組織「和合講」から、「火消組」が自然発生的に生まれたのも当然だったのでしょう。
第二分団史発足までの経緯T(2分団11代分団長記) 1858年 安政5年
当時、毎年のように火災・洪水等災害が続発し住民が苦しい生活を余儀なくさ れていた。折も折、数年前、片桁に「いろは組」が結成され、これに刺激を受け災害の防止・救助及び親睦をも目的の結成に気運も盛り上り、向町・田河屋又兵 エを年寄役、豊間根屋新助を世話役として「向町」を結成し、「和合帳」を記し、その結束を固める。(当時、田河屋又兵エは28歳)
(2)消防組時代
明治10年7月消防組規則が出され消防組が警察の下に組み込まれた。
明治16年4月、宮古警察署の指導により下記のような消防の組織化が進められた。
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宮古 町 |
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消 防 組 |
一番組 |
本組 |
宮組 |
よ組 |
あ組 |
田組 |
向組 |
藤組 |
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地 区 |
片桁 |
本町 |
沢田 |
横町 |
新町 上 |
田町 |
向町 |
藤原 |
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鍬ヶ 崎町 |
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消 防 組 |
共組 | 三丁目組 | ゑ組 | ほ組 | 大鍬組 | ||||
| 地 区 | 鍬ヶ崎1、2丁目 | 鍬ヶ崎3丁目 | 鍬ヶ崎4、5区 | 鍬ヶ崎6,7区 | 鍬ヶ崎8区 | ||||
消防の機械化〜破壊消防からの脱却
明治10年代の後半から20年代の前半にかけて、龍吐水から腕用ポンプへ、二輪車装 のポンプから四輪車装吸管なしのポンプへと、組ごとに誇示するように、競い合って急速に消防力が充実していった。
第二分団史発足までの経緯U 1889年 明治22年
9月、数年前に釜石鉱山局から払い下げた銅製腕用ポンプ(乙号)を向町に配 置し、以前よりあった龍吐水(木星で給水管のないポンプ)と併せて消火能力を強化させた。
公設消防組
明治27年2月勅令「消防組規則」が出され、公設 消防組として宮古町組1組、鍬ヶ崎町1組、千徳村1組として設置された。宮古町では12月に片桁の1番組が主力として、1部制といわれた消防組が発足し た。
第二分団史発足までの経緯V 18894年 明治27年
2月9日、勅令第15号を以って消防組設置が交付され、12月1日、岩手県 令第31号により公設消防組合時代が始まる。初代組頭は岩船豊吉拝命、向町及び本町は第3部となり、新町、下町及び田町は6部となる。(宮古町は7部制)
私設消防組
消防規則が出された明治27年の前後2,3年に各組は競って組織を整備強化し器具器 材を充実した。それは、前年は公設消防の中核たらんという意欲として、後年は公設消防に負けまいという意地と実力のデモンストレーションでもあったよう だ。
宮古町消防組〜5部制?7部制?
明治30年4月宮古町は従来の1部制(公設)を改 め5部制を採用することにして町会に提出した。その理由については表面上の他に公設以外の消防組との軋轢、運営費・維持費等経費の問題もあってのことだろ う。7部制への案も結局、実地されなく、公設消防組を中心とした自主消防組が勝手に活動するという無統制な姿だったろう。
大火と消防組
大火と消防組明治34,5,6年と宮古町消防組が 昏迷状態にあった矢先の明治37年5月27日、一軒の借家から出火。全戸数1220戸の半数近い580戸が焼失する大火だった。これを機に施設設備をとと のえ、組織をたてなおした。同様に鍬ヶ崎、千徳、津軽石の各消防組も、災害と裏腹の関係で組織を強化し、消防力の向上に精を出して歩み続けた。
第二分団史発足までの経緯W) 1903年
明治36年1月、4部制となり第2部小頭を三浦永蔵が拝命される。(現2分団初代分団 長) 1904年
明治37年5月27日、熊安火事により木製ポンプ龍吐水を焼失する。
宮古町・鍬ヶ崎町の合併と消防組 合併
9部制としてスタートした。
自動車ポンプ時代へ
大正15年6月、町が発注したこの地方初めての自動車ポンプ2台が到着し、昭和2年 2月、宮古の1部と6部(7,8部合併)に配車された。7部制への統廃合と消防員の減員が自動車ポンプ購入条件だった。
腕用ポンプ
腕 用ポンプ10人押1台の所要人員約50人で
放水性能は約1万馬力、消防車1台の性能に
くらべると6千人から7千人分となり
さらに連続放水を比較すれば消防車は
1万人にも匹敵する性能を有している
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(3)警防 団時代 昭和 中期
警 防団発足
昭和13年、国家総動員法が出され、国民に戦闘色ともいえる国 防色一色の服を着せ、14年に警防団令が公布され、消防団に戦闘服まがいの服とゲートルをつけさせ、特殊帽という名の鉄兜をかぶせ兵としての訓練を課し、 防衛の任につかせた。
警防団の業務
- [警防団]国民防空の先頭にたってその訓練 に励んだ。市民に対しては火災予防の周知方の徹底につとめた。
- [消防班]火災が発生した時は、消火防除に つとめ、被害を最小限にくいとめる様にする。
- [灯火管制班]市民に空襲警報、防護警報の 伝達、灯火管制の実施にあたる。
- [交通整理班]交通の安全のため、警察署長 の指揮のもと、これが援助につとめ、緊急の場合、自らの責任において独断専行することもある。
- [警護班]治安の維持、火災盗難の予防およ び警護物件、あるいは場所を警護するため出先軍隊、憲兵及び警察の援助にあたる。
- [救護班]空襲を受け、負傷者やガス傷者が 続出した場合、速やかに収容、治療の業務に従事して人命救助にあたる。
- [避難班]避難所の設備および管理に関し、 よく出入指導、休宿、給養にあたる。
- [工作班]平時、非常時、大火時及び防空実 施に伴う工作活動。
- [庶務班]庶務関係の迅速、正確な処理にあ たる。
市 制施行
昭和16年2月11日宮古町は千徳村・山口村・磯鶏村を吸収し て市制を施行することになった。これを期して警防団も合併、従来の8分団制から一挙に15分団制をとることになった。
空 襲と終戦
昭和20年太平洋戦争も末期となり、すべての物資が欠乏し、食 料もなく毎日の食事にすら事欠く状態の国民生活。少年も、もちろん青年も壮年も戦争に狩り出され、家庭を守るのは婦人と老人ばかりとなり、その者達もすべ て家庭防火群に組み込まれ、来る日も警防団の指導のもと訓練・演習そして防空壕を掘り、また会社工場に動員奉仕の毎日であり、夜は空襲におののきつつ山中 に建てた疎開小屋で休むという状態であった。
8月9日2機の敵機は終に、我が郷土に、機銃 の雨を降らして去った。予期しても予期としてだけ思っていなかった事実は終にきたのだ。翌10日午前5発令されたが、8時艦上機は編隊似て宮古市を襲時空 襲警報は平常の如くった。爆弾、機銃澆雨の如きこの天来の来襲に対し、警防員の直ちに施すに術なかった事は記する迄ない。
敵機の退去をまってポンプは活動を始めたが藤原町は全滅、船場付近、鍬ヶ崎煉瓦工場付近類焼等も僅かに地理的態勢によって部分的に止めたという結果であっ た。
幾多の経験を積んだ千軍万馬の猛者も戦争には施すに手がなかった。武装の軍隊によってすら敗戦に於ける空襲は、如処ともなし得ない況や非武装の警防員であ る。この藤原空襲に際し藤原第4分団は住民の避難と我が身の生命の保持がやっとであった し磯鶏の第十分団は被災地だけに腕用ポンプで駆けつけたが、石崎を越えたところで突っ込めなくなり、「我に自動車ポンプありせば」と切歯扼腕の思いでたた ずみ、千徳第12分団は決死隊を編成して宮古橋まで来たものの、数百件が一斉に火を吹くという、物凄い熱気に橋を渡ることができず、ひたすら住民の無事を 願うのみであったという。
8月15日太平洋戦争は終わり、8月21日警防団の業務から防空業務が除去され、本 来の消防業務にもどることになった。
(4)消防団時代
宮古市消防団発足
昭和22年、警防団令が廃止され、4月30日に消防団令、11月23日消防組織法が 公布され、宮古市でも、これを受けて各条例が提案、議決交付された。これにより明治27年公設消防設置以来67年ぶりに、消防は警察の支配を離れ市町村行 政の中に組み込まれる事になった。
市村合併
昭和33年4月1日宮古市・花輪村・津軽石村・重茂村・崎山村の1市4村が合併して 新しい宮古市として発足した。
この時消防団も合併して宮古市消防団は27分団編成(1082名)として再編成された。現在
各分団の施設設備は消防機械器具の著しい性能向上と発達 という日進月歩の消防界に追従するため、順次、交換されている。また、消防器具置場・屯所についても地区センターとして、更に独自の施設として等、地域に 応じた施設が住民の負担なしで整備されてきている。
消防団員も適正化を図るため、一時1812名と千人を越えていた定員も昭和42年には910名に、昭和44年からは890名に減員され、現在に至ってい る。

宮古消防署、調査作成
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| 平成16年3月 屯所全景
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放水訓練 横風にめげず、きれいに上がりました。
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2000/0707
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