Special Paperbacked Essays, Vol.2

Macspin2

 

「彼女」にまた、会えた。

= 続・夏の終わりの物語 =

- We once lived there together-

 

 

 忌まわしきかな、あの「24km海岸ママチャリツーリング大失敗事件」にぼくはすっかり意気消沈してしまっていた。その原因は別に使用したマシンがママチャリだったからとか、海辺を目前にしてビールを買い忘れたからとかではない。

 ・・・まあ、しいていえばそれもあるだろうが、もっと根本的な原因は、自転車とぼくの、なんていうか相性というのか、関係というのか・・・そもそもぼくは、今から5年半前までは毎日自転車で通勤していたのである。ゆえにぼくと自転車という乗り物は、昔はあれほど仲が良かったのに、なんだかあの事件以来、自転車がぼくにとってとても他人行儀な乗り物になってしまっている気がしてならないのだ。

 もっとも、その当時はわずか片道4kmの道のりだったので、苦にならなかっただけなのかもしれないが、それにしてもなぜ今回のように、たった24kmペダルをこいだだけでケツはメッチャ痛くなるわ、足はチョーだるくなるわ、といったさんざんな目に会わなければならなかったのか。

 答えは簡単、ぼくと自転車との仲が、ぼくがここ数年来自転車に乗らなかったことで冷えきってしまっているだけなのだ。そしてそのことをあらためて認識したにすぎないのである。

 そこで、ぼく達の関係修復のためにはやはり再びぼくが自転車に乗って疾走せねばならないのだと決意したのはいいが、さて自転車を買うには一体今時いくらくらいかかるのだろうかと考えた次の瞬間、ぼくの頭には懐かしい自転車の姿がよぎったのである。

 それはぼくが生まれて初めて自分のお金で買った自転車の姿だった。しかもそれは確か、ぼくの実家にまだあるはずだ。どうして乗らなくなってしまったのだろうか。ぼくは今から5年半前の、自転車に乗っていた頃の自分を思い出していた。

*

 ぼくの自転車は濃いグリーン色をしてて、3段の変速機がついててタイヤサイズが26インチ。買った時期はもう覚えていないほど昔だ。買った時からぼくはその自転車を「彼女」と呼んでいた。なぜ「彼女」なんて名前をつけたのか。それは、名前をつけると愛着が湧くからなのである(もっとも、他人の前でぼくの自転車を「彼女」と呼んだことはない。当然ながらぼくだって恥ずかしい)。単純なことだが、飽き症のぼくとしては、モノに対する執着心を維持し続けるためにも、効果はあったと思うのだ。

 それはともかく、ぼくと「彼女」はほとんど毎日一緒に通勤し、休日にもちょっとした買い物や散歩には必ず「彼女」と過ごした。音楽が聴きたければ、家で聴くよりも「彼女」に乗って走りながらウォークマンで聴いた方が楽しかったくらい、とても仲が良かった。

 それに「彼女」は故障知らずで、幸運にもパンクは一度もしたことがない。かといってメンテナンスもしたことはないが、それでも「彼女」が不調を訴えたことはない。まさにぼくにとって最高の「彼女」だったのだ。ぼくらはいわば、長い間ハネムーンの真只中にとどまっていたのである。

*

 ところがある日、一般的な男と女の関係にもありがちな、今思い出しても悲しい別れが、ぼくと「彼女」の間にも訪れた。それはぼくにとってはあらかじめ予想できないコトではなかったけれど、「彼女」にとっては突然の出来事だっただろう。

 今から5年半前、ぼくは「彼女」ではない女性と結婚し、それを機に西へ10km離れた街に引っ越してしまった。新しい家の目の前には大手スーパーがあり、徒歩5分で電車にも乗れるほど便利な街に住みはじめたぼくは、電車通勤に生活スタイルを変え、もはや「彼女」に乗る理由がなくなってしまったのである。

 あんなに仲良く過ごしたぼく達二人(正確には1人と1台)は、ぼくの一方的な都合で離ればなれになってしまった。やがてぼくは新しい生活にひたっているうち、「彼女」のことなど気にも留めないようになった。実家にいる者たちも誰も「彼女」に乗ろうとはしなかったし、幾度か実家に帰っても納屋にたたずんでいる「彼女」をちらりと見かけるだけになってしまっていた。どのみち「彼女」も壊れてしまっているだろうし、もうぼくを乗せることはできないだろうからと、「彼女」を注視しなかった。そのせいで「彼女」の姿はぼくの記憶から薄れてしまっていた。

 

* 

 あれから数えて、6回目の夏が過ぎた。この間、ぼくと「彼女」との間には何ごともなく、ゆえにぼくは自転車に乗る機会がほとんどなくなっていた。そして、今回の「24km海岸ママチャリツーリング大失敗事件」を経て、やっとぼくは「彼女」のことを思い出したというわけだ。

 ぼくは思った。もう一度、「彼女」に乗ることはできないだろうか。ぼくはまぎれもなく5年半前までは「彼女」と毎日のように走っていたのに。なぜぼくは「彼女」に乗らなくなってしまったのだろう?

 でもあの納屋に置かれている「彼女」はとても走れるふうには見えなかった・・・確か見えなかったと思う。よく覚えていない。やはり「彼女」はもう走れないだろうな。無理もない。この5年半の間、「彼女」は一度も走っていない。ずっとほったらかしのままなんだ。突然のようにぼくが実家を出てったきり、「彼女」はポツンとそこに置き去りにされたままなのだ。いくら何でもサビついて壊れてるだろう。直さなきゃ動くはずない。・・・直るんだろうか。もう直せないかも知れない。そんな思いが頭の中を交錯していた。

* 

 どうにも落ち着かなくなったぼくは、次の日の夕刻、実家を訪れた。母親が差し出してくれた麦茶もそうそうに、庭横の納屋を覗いた。「彼女」はそこにいた。ぼくは少しだけ安心した。

「大型ゴミの日に出そうかと思ってるのよ」

 そんなわずかな安心を砕こうとするかのように、背後から母親の声が聞こえる。でも近くに寄ってみると、確かに「彼女」はホコリとサビまみれだった。

 黒い塗装のハンドルバーは、もはやサビのせいでブラウンにさえ見える。前部のカゴには雑巾や、いらなくなったスプレー缶が積んであり、後部の荷台にはなぜか簀の子、その上に灯油用のポリタンクが置いてあった。チェーンは力を入れると人間の力で切れてしまうのではないかと思えるほどサビている。タイヤには空気が全く入っておらずペシャンコで、埋もれたリムと土の境界の区別がつかなくなっていて、一目で走れそうな自転車には見えなかった。

 ぼくは振り向いて、母親にエアポンプがあるか、と訊いた。

「本気で乗る気なの、あんた」

 母親はアキレ顔をしつつ倉庫の中からエアポンプを取り出してくれた。ぼくは急いで「彼女」に積まれている邪魔なものを取り除き、「彼女」を納屋から庭へと抱えて連れ出した。

* 

 雑巾で軽くハンドルとサドルを拭いて、跨がらないままグリップを握り、2、3回ブレーキレバーを握ると、手のひらがあの頃を覚えているのだろうか、懐かしい感触がした。エアポンプで「彼女」のタイヤに空気を注入すると、この5年半の空白がポンプの鼓動にあわせて埋められていくような気がして、意外なことに、タイヤはすぐにパンパンに膨らんだ。どうやらチューブやブレーキワイヤーも、時間や腐食の影響をさほど受けていないようだ。

 そしてぼくはゆっくりと「彼女」に跨がりペダルに足を乗せ、バランスを確かめながら体重をかけると、なんと「彼女」は5年半前と同じように動き出した。動いたことに感激している間に、2回半もペダルを回転させたおかげで、必然的にぼくらは道路へと踊り出た。

 せっかくだから、そのままあたりを走ってみることにした。風が少し涼しい。サビが、年月によって「彼女」のボディにしっかりとまとわりついていて、走るほどにあちこちから特有の金属音を奏でていた。それでもギアはスムースにチェンジする。ブレーキの効きもさほど悪くない。タイヤだって、ハンドルだって感触は何も変わっていなかった。

 しばらくそうやって走っていたが、ぼくと「彼女」が昔と同じように空気の中を泳ぎまわることに何の影響もなかった。むしろ、とまどってうまく走れないのはぼくの方で、あの頃と同じ感覚を取り戻すには少し時間がかかりそうに思えた。

* 

 とにもかくにも、「彼女」はぼくを覚えていてくれた。うれしくてなんだか胸を塞がれた。自転車に乗るのがこんなに楽しいだなんて思えるのは久しぶりだ。ぼくを拒絶していた自転車という乗り物が、やっとぼくを許して受け入れてくれたような気がした。何より5年半もほうっておいて見向きもしなかったぼくを、「彼女」がまた乗せて走ってくれたことがうれしかった。

 ぼくは「彼女」を、ぼくの家まで連れて帰ることにした。ぼくの住む街まで10km。「24km海岸ママチャリ・・・」にくらべれば大した距離じゃないが、もう日はほとんど暮れかかっている。車の往来も激しくなってきた。でもぼくは決めた。「彼女」に乗って、「彼女」を家に連れていくんだ。今頃気づいた、簡単なことじゃないか、5年半前にもそうすればよかっただけなんだ。

 そうして一旦実家に戻ったぼくは、ニコニコしながら身支度をして再び「彼女」と一緒に道路に飛び出し、太陽の沈みゆく方向に向いてペダルをこぎだした。あわてて実家から出てきた母親と妻が背後から、危ないからやめなさいよ、と交互に大声を上げて引き止めようとしている。

 ・・・いいじゃないか、「彼女」の5年半分の積もる話も聴きながら、久々に「彼女」と過ごすにはちょうどいい距離と時間なんだから。

 

 

Published 1999.10.25

/ dedicated to my lovely bicycle, "SAYURI".

 

 

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