
ぼくの住んでいる街とぼくの職場とは距離にして約24km隔たっている。今現在、ぼくはここを基本的には250ccのバイクで通っている。基本的には、と注釈をつけたのは、例えば荷物の多い日は50ccのスーパーカブ、雨の日は電車、などと臨機応変・変幻自在にその通勤スタイルを変えているからだ。大体どれも時間にして約40〜50分、潮の香りを受けながら、左に世界遺産「安芸の宮島」や朝の日ざしに光る瀬戸内海とそこに浮かべられた小舟やイカダを眺めながら、仕事でないとしたらまさに最高のロードツーリング風景を楽しんでいるというわけだ。
* そんなある日のこと。仕事帰りの海岸線にバイクを走らせながらふと防波堤を見やると、このくそ暑いのに背広&ネクタイ姿の一人の若者が防波堤に腰掛けて缶ビールを飲んでいた。そのそばにはマウンテンバイクが立て掛けており、彼は波の上を走るウィンドサーフィンをぼうっと眺めているようだった。そんな彼の姿は服装からしていくぶん景色とミスマッチングでありながら、なぜかぼくは彼を妙にカッコよく感じてしまったのである。そしてぼくはその少しミステリアスな光景と自らの好奇心から、なぜ彼がここにいて、ああやってビールを飲んでいるのか、彼の立場と過去の経緯についてほぼ瞬時に、一方的に推察してしまった。
・・・彼は学生時代プロのウインドサーファーになることを夢見ていたのだが、卒業を控えて現実問題として就職活動に専念するためその夢を断ち切ったのである。ところいざ就職はしたものの現実の社会は汚く、また冷たく、純粋すぎるほど純粋な彼のいるべき場所はそこにはなかったのである。あげくに学生時代から将来を誓いあった彼女からも別れを告げられてしまうのだ。そんな傷心の自分を包み込んでくれるのはあの海しかない、無意識にそう思った彼は仕事帰りにビールを片手に愛車のマウンテンバイクに乗ってこの海に来たのである。もう一度自分を見つめ直すために、そして本当の自分を取り戻すために・・・おおお、そうだ、そういうことなんだ、きっと! う〜む、わかるぞ君ぃ! そうか、そうだったのかぁ、とこんなふうにぼくは自分一人で完全なるフィクションを組み立て、一人うんうんと悦に入ったまま帰宅したのである。
* ところが、その夜以来どうもその光景のほうが頭から離れなくなってしまった。ぼくが勝手に作った彼にまつわるストーリィよりも、あのうまそうなビールと背広、海辺のマウンテンバイクのほうが印象を強くしてしまっていたのである。つまり、ああいうシチュエーションに自分をあてはめてみて、ぼくもひとときのオフタイムを過ごしてみる・・・そしてそこで飲むビールはまた格別なのではないかという期待と願望を持ちはじめたのである。ほどなくして、ぼくもアアいうのやりたいぼくもアアいうのやりたいアアいうのやんなきゃヤダヤダ死んじゃう、みたいなダダを一人頭の中でこねはじめた。よおし、ぼくも仕事帰りにアアいうコトやるんだ、そのためにはまず自転車。んでもって自転車で通勤するんだかんね、へっへっへ、てな感じで決めてしまったのである(この時点ですでにバカ丸出しである)。
でも、ぼくはここで通勤にかかる距離と時間、そして何よりも自分が通る道路のことをすっかり忘れていた。なにせ、前述の通勤経路は都会の道路と違い、なんといっても天下の国道2号線なのである。
* 国道2号線て言われても、ウチよう知らへんねん、なんてな方がいらっしゃるのなら由々しき事態であるのであらかじめご説明しておくが、国道2号線といえば、国道の中でも道路番号1ケタ、しかもお上から得た、
「君ってば日本で2番目の番号だかんね」
的な栄誉ある称号、山陽道の冠動脈ともいうべき道路の中の道路、相撲でいえば西の正横綱、芸能界でいえば紅白歌合戦で白組側の最後に出てくる大物演歌歌手、野球でいえば常勝チームの3番バッター、もうとにかく要するになんというかすなわちワンオブザキングオブロードインジャパン、それが国道2号線なのである。そしてそんな大物・国道2号線は常に大型貨物車や猛スピードの車両をその身にかかえているため、交通小市民である我々を決して歓迎はしない。特に一定の区間においては、大物・国道2号線は常にハイでパワフルな者に対してのみその疾走を許すのであり、徒歩もしくは自転車などに対してはその生命の保証すらしないのである。であるからして、もし自転車なんかでチンタラ走っていようものなら、
「てんめぇ、なにをチャリでこんなとこ走ってんだ! ふっざけんなよオラオラァ」
てな感じでスピルバーグの「激突」のように激情的に後続車両にアオられてしまうのがオチなのだ。まあ別にここまで熱く解説する必要もないことだが。
そんなこんなで、ぼくも命は惜しい、ここはやっぱり止めといた方がいいのね、ということになり一度は消えたかに思えた「片道24km自転車通勤&海辺でビール」という希望の炎・・・ところが、ついにここにきて唐突に、それは実現の目を見ることになるのである。
* ぼくの職場の上司・Mは電車通勤であるが、どうも職場近くの駅から職場までの徒歩約12分間が好きになれないらしく、同僚からもらった自転車でもって駅から通勤している。だが彼も人の子、何とかして自分の自転車で通いたいと思っていたらしい。そんなある日、
「わしも駅から自分の自転車で通いたいんだが、わしの車には積めんし、一体どうやって家から自転車を持ってきたよいだろうか・・・」
賢明なる読者の方にはもうお分かりだろう。これを聞いたぼくは前述の動機がめぐりめぐってぼくを突き動かした感覚に包まれたのだ。そして、
「ああ神様、あなたはやはり私にあの世界遺産的海岸ロード、天下のルート2を自転車で来よと仰せなのですね?」
などと心の中で演劇部員のように高らかに、かつ勝手に判断しちゃったのである。やはりこれはいかねばなるまい。そしてぼくは間発入れず、こう言い放ってしまったのである。
「あのう、ぼく、ここ(職場)まで乗ってきてあげてもいいですけど・・・」
これを聞いた上司M、一瞬唖然としたものの、
「ええんか? ほんまにええのんか?」
と古ーい吉本新喜劇のようなセリフを放ち、彼はまさにうれし恥ずかし状態のようである。ちなみに彼の自宅から職場までは約30kmはあるだろうか、それでもぼくの気持ちが冗談でないことを確かめると、彼は狂喜乱舞して言った。
「よおおっし! じゃわしの自転車、家まで取りに来てくれる? い、いやいや、わしの家まで車で乗せてっちゃろう!」
というわけで、上司Mの自転車をぼくが職場まで送り届ける方法としては、まず上司Mとぼくが一緒に上司Mの家まで車で行き、ぼくが自転車をぼくの家まで乗って帰る。そして後日ぼくが職場まで乗っていく、というもの。それから数日後、仕事が終わって上司Mと一緒に彼の自宅まで行き、麦茶をごちそうになって、じゃ自転車を拝見・・・となったところでぼくはガク然としてしまった。庭先に置いてあった問題の自転車とは、前に買い物カゴがしっかりと鎮座ましましていて、変速機など当然あるはずもない、れっきとした「ママチャリ」なのである!
「わりときれいじゃろ? 今朝ちゃあんと空気も入れといたけんね」
上司Mのそんなピント外れのセリフが耳に届くのが精一杯、気分は松田優作の
「なんじゃこりゃあ!」
状態である。ぼくはこのママチャリで国道2号線を走る自分の姿よりも、たった今、上司Mの自宅からぼくの家までの約10kmがまず恐くなった。辺りはすでに暗くなりかけている。ママチャリで暗い夜道・・・ぼくは挨拶もそこそこに上司Mの家を飛び出した。途中の信号もあるがなきが如し、まるで背後に山姥が迫っているかの形相で久々の自転車を駆り、とりあえずはなんとか家に辿り着いたのである。
* ぼくはすっかり困って頭を抱えてしまった。
「私ってばママチャリよ、ギアなんてないんだから、うっふん」
てなフェロモンを全身から出しまくっている自転車で24kmを走破せよというのか? しかもただでさえ恐ろしいあの国道2号線を?・・・でも、行くとしたら車の少ない夜か? いやいや、そんなことをしたらぼくははねられてしまうのがオチだ。しかもその場合、跳ねた運転手は夜なので、きっとぼくのことを、
「あら? 何かはねた? 粗大ゴミ?」
てな具合にしか思わないだろう。う〜む、これはやはり昼だ。昼しかない。しかし炎天下はダメだ。憔悴しきってしまう。んでもって、フラフラしてたらそれこそはねられるゾ。うう、そうすると朝か・・・。そうだ朝だ。いや? 待てよ。朝はラッシュアワーぢゃないか。車多いし、みんなイライラしてるし・・・てなことを考えているうちにとうとう週末になってしまった。
* 日曜の朝はとても晴れていた。もうあれこれ考えているヒマはない、現実にママチャリはここにあるのだから。こうなったら一度くらいは試してみてもいいんじゃないか、んでもってぼくはあの海辺でビールを飲むんだ! と気合い一発、トリカブトD! てなカラ元気でいよいよ出発したのである。時あたかも午前10時。ところがその日は日ざしが案外強く、チンタラ走っているうちに汗がだくだく出てきた。およそ30分ほどこぎ続けているうち、喉がカラカラになってコンビニで水を買うことにする。ほんとはここでビールといきたいところだが、まだ半分も走ってないし、飲んだらだるくなるだろうし、まだ午前中だし、何よりも目指すあの海辺はまだまだ・・・などと自分をたしなめる。
やがてぼくは海岸線にでた。視界の半分以上に海が開けてきてなんだかうれしくなってきた。でも、ここからはいきおい大型車の攻撃がいっそう激しくなる地帯だ。
ところで、ここらへんは「安芸の宮島」と本州とが地理的に最も接近している「大野の瀬戸」という箇所なのだが、いつもは電車にせよ、バイクにせよ、わりとスピードが出ているので景色を見過ごしがちである。でもママチャリのおかげで今回はゆっくりと美しい眺めを満喫できた。案外これは思わぬ収穫だなあ、などと思いつつ、やっぱりだるそうにペダルを踏む。暑いわ、足は疲れるわ、そして車はびゅんびゅんだわで緊張しながらもゆっくりと進む。
いよいよあの若者がビールを飲んでいた地点まであと10分くらいというところにやってきた頃、なんとお尻が猛烈に痛くなってきたのである。サドルで擦れたのか、それとも長い時間小さなサドルでぼくのこの重い体重を支えたからなのか・・・くそう、このサドルめ、サドル、サドル!・・・サドル? そういえば、久保田利伸の古い曲に「流星のサドル」てのがあったが、これは流星に乗ったってことなのか?それとも「流星号」という名の自転車のことだろうか? だったらやっぱりケツは痛かったのだろうな、などとくだらんこととを考えてまぎらわそうとしても、とにかくケツは痛い。半身になったり、ケツを浮かせてこいでみたりといろいろやるが、結局は同じところにサドルは当たる。ああ痛いああ痛いケツ痛いケツ痛いのだよ君い・・・を繰り返し唱えつつ、痔の痛みというのはこういうものなのか、痔病の人よああかわいそうになどと思っているうち、ぼくはとんでもないミステイクをおかしていることに気づいた。
ぐええええー! 肝心のビールを買い忘れてたぁ! しかもよくよく考えてみればこの辺りにはコンビニも酒屋さえもありゃしない。ただひたすら海岸線があるのみである。しかもさっきのコンビニまで引き返して買う元気はないし、次のコンビニがある場所は遠くてもう海は見えないだろう。ううう、あほじゃあほじゃ一体なんのためにここまで自転車できたんじゃ、こりでは上司Mの自転車運びのためじゃんか、とほほ・・・と自分を責める。でもその間もちゃっかりチャリをこぎ続けることは忘れなかったぼく・・・とても立派である。
* この一件でぼくの頭の中にはビールが完全に住み着いてしまった。今まさにぼくの脳の中はビール度95%、ケツの痛みも忘れるほどすっかり落胆し、ビールぅ・・・海ぃ・・・ビールぅ・・・と呪文のようなひとりごとを唱えながらママチャリをこぎ続けた。その結果、11:40、結局1時間40分もかけてなんとか無事職場事務所に到着したのである。うおっしゃあ! ビールぅ!(まだ早いっつーんだ!)
変な話だが、うおっしゃあ! と一人ガッツポーズを見せながらママチャリを降りようとしたものの、同じ姿勢を長く保ってきたために足がガクガク、ぼくはうまく歩けなくなってしまっていた。あわわオヨヨあわわ、てな感じでなんとか事務所玄関に辿り着き、無事自転車を納車となったのだが、高校生時代にくらべると自転車なんてここ最近乗ってなかったからなぁ、と体力減退をしみじみ痛感。それにしても、片道1時間40分かかるだなんて、あーあ、こりゃ自転車通勤なんてとんでもなかったゾエ、やっぱビールは家で飲むもんだナ、などと考えながらあらかじめ置いてあった愛車カブに乗って帰路についたのである。
* 季節は夏の終わり、あの若者にヒントを得たぼくの無謀な計画はこうして終わった。あの日帰りがけに見た昼時の海は穏やかで、若者がいたあの場所には誰もいなかったけれど、彼はいつかまたあそこにマウンテンバイクで乗り付け、海とウインドサーフィンを見つめながらビールを飲むのだろうか。もしそうだとしたら、彼の心の中にはぼくが勝手に組み立てたストーリィよりも案外もっとドラマチックな物語があるのかも知れないな・・・そうさ、若者よ、君の憂鬱な思いは君の過去や未来へとめぐらせるのではなく、今君の目の前にある海に泳がせてやればいいのだから・・・なーんて少々詩的なことを思いながら家に着いたぼくは、すぐにシャワーを浴び、なんら思いをめぐらせることもないまま冷えたビールを一気に飲み干したのである。
1999/10/4 脱肛、いや脱稿。
Published 1999.10.10/ and thanks to "machico@" for given me your inspirations.
[back to top]