
芥川龍之介に感激again
ふと小説を読んでいて、
「あっ、これってそういうことだったのか」
と思わせられるような展開のストーリーに出会った時の、いわば一種の快感ともいうべき感情は、心地よいものである。
例えば、それまでの進行からして意外な展開であったり、あるいは冒頭の奇妙な出だしの意味がやっとわかってきた進行であったり、要するに、
「ああ、やっとこれでこの小説の意味がわかった」
と安堵の息が漏らせるような、そんな展開がぼくは好きなのである。
そういうと、
「なんや、そんな展開が好きなら推理小説ばっか読みゃあいいやんけ」
などと言われそうだが、推理小説には当然最初からそうした要素を含んでいると思いながら読んでいくわけで、もしそういう展開がなければそれこそ、
「金返せ、このヘボ作家!」
となるのは必至である。もっとも、そんな本ならまず出版されてないだろうが(御意)。
* さて、そんな刺激を求めていた先日、久々に書庫の中で面白い本はないかと探していると、かつて読んだことのある本の中に、かの芥川龍之介の著による一冊の文庫本があった。
その本とは、彼の作品の中でも有名な「蜘蛛の糸」や「杜子春」などといった名作をタイトルにしたいくつかの作品集によるオムニバスで、全部で10作ほど彼の作品が収録してある。
パラパラとめくるでもなくめくっているとその中に、
「魔術」
というタイトルの作品があった。文庫本版にして約12ページ程度の小品で、ぼくはとっさにあらすじを思い出せなかった。そして、倉庫の前にどっかと座って読んでみたのである。
主人公は、「私」。
その「私」が知りあったのは、マテイラム・ミスラ君というインド人。あらすじはこうだ。
ミスラ君は、若くしてバラモン密教の使い手であるハッサン・カンの秘法の魔術を習得した人物で、それゆえ彼の使う魔術は目を瞠るものらしかった。そしてその秘法を教えてもらうべく「私」は、大雨の降る夜中にもかかわらずミスラ君の屋敷へと向かう。そこで「私」はミスラ君の魔術を目の当たりにし、彼に頼み込んで魔術の手ほどきを受けるのである。だがミスラ君のいう、魔術を習得する条件はただ一つ、
「慾を捨てること」
そして見事慾を捨てて彼の魔術を習得することに成功した「私」は、後日友人達に魔術を披露するのである。魔術によって大勢の人の目の前に沢山の金貨を出現させた「私」は得意だったが、金貨に目が眩んだ友人達はその大量の金貨を賭けて私に骨牌の勝負をするよう挑んできた。魔術など使わなくとも好調に勝ち続ける「私」にとうとう友人の一人は全財産を賭けて勝負を挑んできた。その刹那、慾を出した「私」は最後の大勝負に勝つために魔術を使うのであるが、そんな「私」が最後に見たものは・・・
* あらすじの紹介はここまでとして、この小説を知ってる方も多いと思うが、知らない人は自身がこの物語の結末を体験してほしい。
ちなみにこの作品は、龍之介の代表作である「羅生門」や「芋粥」などの、戦国時代の貧困にあえぐ下級武士の人間としての根底にありがちな欲を描いた手法とはやや違い、同じく人間の欲を描くものとしては肯定的で、かえってわかりやすい。絵に例えると、前述の「羅生門」や「芋粥」はピカソのようにストレートだが、この「魔術」はモネやダヴィンチ的といえばいいだろうか。
要するに「羅生門」らがどん底に住まう下級武士の信条を描いたうえで彼よりさらに貧困な老婆から盗みを働くことを描くことで、いわば逆説的な遠近法でもって人間欲を前面に出すことを狙ったのに対し、「魔術」は古代エジプト文明の壁画によくみられる人物のように、単純に人間の欲をエンハンスして鏡に映しだしているいるだけであるのに等しい。
いずれにしても、この作品はぼくが思うに、龍之介の作家としての技量を小品に詰め込んだ会心作といってもいいと思う。久々に読みかえした時、
「ああ、面白かった」
と口ずさむこと請け合いである。是非ご一読あれかし。
Published 2001.5.10
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