《宮本武蔵と云兵法者あり。十六歳より名ある者と仕あひをなす事、六十余度に及ぶに、皆利を得たり。一とせ播州明石に住す。或時人来り、案内をこうて、「無想権之助と申者なり、承及候間御見舞申」と云。武蔵が弟子共、出て見るに、六尺ゆたかの男の、大刀をさし、我におとらぬ弟子共を八人まで、つれゐたり。彼権之介も名有者にて、内々聞及ひし所に、殊に大勢にて来れは、武蔵弟子おのゝけをたつる事すくなからず》
《折ふし弟子二人付居けるが、爰を一名とさりきて、此よしかくと云。武蔵、楊弓をけづりて居けるが、是へいらせ給へと云。即弟子共、権之助を請じければ、其器量人に勝れたる大男、座敷へむずとなをる。折しも六月の事成に、羽二重のひとへ羽織に大きなる朱乃丸を付、かたさきより帯しまでに「兵法天下一日本開山無双権之助」と金を以て書たるを着たり。八人乃者共も一面になをる。武蔵が弟子共、是を見て、「既に一大事、爰に極りたり」と思ひ、はゞきもとをくつろげ、かの男に目を付て居けれ共…》
夢想権之助 武稽百人一首 「武道をば神の夢想ぞ権之助 自らゆるす天下一の名」
《武蔵はたゞ、いかにもつねにして、楊弓をみがきながら、「権之介殿とは御手前か。承及久共、終に不得御意。御見舞、祝着なり」といふ。権之助も、「如仰、たがひに御床敷久共、終に不得御意。今度九州筋へ心指、此所に船がゝり仕、是に御入候よし承、御尋申候」と、あいさつして…》
明石城下と明石浦
《軈て兵法物語になり、権之介申けるは、「関八州は不及申、奥迄も修行仕、手合を見候へ共、我にあはする者なし。故に西国方へ兵法修行に罷下候なり。御親父・無二乃太刀は見申候へども、又、御手前の代につかひなをし給ふと承、ちと様子を御見せ候へかし」と云。武蔵聞て、「無二が太刀を御覧ぜられば、別に替事なし」といふ》
宮本武蔵坐像
《権之介強て、「弟子衆を合手に被成、是非とも一太刀御見せ候へ」と云。武蔵云、「いや我兵法は打太刀をこしらへて、つかふやうなる事にあらず。其故は、何と打てくるとも、あまさずとゞむる兵法なり。左様におぼしめして、御手前、打太刀して御覧ぜよ」と云。権之介よろこび、「さらば某、打太刀仕らん」と云て、錦の袋より、本より末まで筋がねを渡したる四尺余りの木刀を出す》
*【夢想流杖術】
神道夢想流(一杖・棒・剣)は、夢想権之助勝吉を祖とする。本姓は平野。通称は権兵衛。神道流を桜井大隅守に学んだ。宮本武蔵玄信に敗れて発奮、筑前の宝満山に祈って四尺二寸一分・径八分の樫杖の技法を発明した。筑前の黒田家につかえ、同藩に伝統。流末に一達流捕縄術、一角流十手術の松崎金右衛門重勝が出、現在の警視庁教官清水隆次におよぶ。警視庁警察官の警杖術は、清水教官が昭和六年一月から実施している術である。 (綿谷雪『図説・古武道史』)
《武蔵は、楊弓をわりたる木のきれ乃弐尺計なるをおつ取、立あがり、「打て御覧ぜよ」と云。権之介、透間なく打てかゝる。武蔵、かの木ぎれを以て、ちよつちよつととめて、太刀を出させず。権之介、太刀をかへして、なぐりければ、武蔵が袖の下、羽織のえりに、木刀のさき打当る。此時権之介、高声に、「あたれり。あたれり」と云。武蔵聞[て]、「いや、かように当をあたりたるとはいはず。かようにあたつて何の用にたらむや。さらば、我当て見せ申さむ」と云て、又打合せける。権之介、随分うたむとおもふ気色面にあらはれて、打てかゝりけれ共、太刀を出す事不叶、覚はず志さりけり。むさし、座敷の隅に追つめ、ひしと眉間を打つ。俄に色付はれ上りたり。爰にをゐて権之介、大に悲をしり、弟子と成也》
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