宮本武蔵・美術篇
Art Works of Musashi

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101 武蔵美術論 1  Back   Next 






宮本武蔵 鵜図
 ●アーティスト武蔵

 武蔵は剣術のみにあらず、美術家という意味のアーティストでもあった。それというのも、武蔵作とされる書画工芸作品が少なからず伝えられているからである。
 しかし、それにしても、武蔵と絵画の結びつきが納得いかない、武蔵は本当にアーティストであったのか、という疑問が当然あるだろう。なにしろ武蔵は、剣豪のイメージが強くて、とても絵筆をもつような人種ではないという思い込みがあるからである。
 そればかりではなく、我々の近代世界では妙な一芸専門主義の固定観念がある。すると、多芸に優れた存在が胡散臭くみえる。あるいは、一芸に秀でた者には他の芸があることが信じられず、他芸あることをゆるさないという、これまた頭の固い求道主義的発想があるわけである。
 ところが、れいの渡辺崋山が、武蔵の画(枯木鳴鵙図)を見つけて欲しがった時期には、たしかに武蔵はもう相当画人として知られていたのであり、それのラインで明治大正には、画家武蔵論が多く出てくるのである。
 しかしながら、言うまでもなく、武蔵が画家として知られていたのは、もっと早くからである。たとえば、寛文6年(1666)の『海上物語』には、武蔵は「画筆の名人」とある。
 これは武蔵死後20年ほどの書物で、近世文学史はこれを仮名草子の仏教文学のジャンルに入れている。この仮名草子というのは『二人比丘尼』『因果物語』『念佛草紙』を書いた鈴木正三の系統である。『海上物語』の作者、惠中は正三の門下であった。
 なるほど、こういう庶民向けの仏教法話集にこんな話題が出てくるところをみれば、もうその頃には、武蔵が兵法の名人であるだけではなく、絵画の名人でもあったということが一般に知られていたらしい。
 この寛文年間にどういう武蔵像が形成されていたか、それを見ておくのも無駄にはなるまいと思うから、一通りこの『海上物語』の説話に付き合って読んでみれば、以下のような話である。

 まず、物語の前振りは、播州明石での無想権之助という武芸者との立合いの一件である。明石というのは、武蔵が40代、明石藩主・小笠原忠政の客分になって、また忠政の仲介で伊織を養子にして、宮本家を新設していたなど、所縁がある町である。
 あるとき、武蔵の家に人がやってきて、
 「無想権之助と申す者である。ここに武蔵殿が居られると聞いて、御見舞に来た」
と案内を乞う。ここで「見舞」というのは病気災難の見舞いではなく、挨拶に来たというわけである。
 そこで武蔵の弟子が出てみると、これが六尺豊かの大男で、自身、同じような大男を8人も連れている。この権之助も有名な武芸者で、弟子たちも内々評判は聞いていたのだが、その本人が、しかも大勢連れを伴って押しかけてきた。武蔵の弟子はびっくりして、すっかり恐怖してしまった――ここの説話の出だしは、なかなか上手い。
 このとき武蔵の弟子は二人そばについていたが、その一人がその場を去って武蔵のところへ来て、この来客の旨を通す。
 武蔵は「揚弓」を削っていた。揚弓というのは、弓は弓でも、遊戯用の小型の弓である。楊柳の枝で作る。遊戯だから矢も九寸ほどの短さであり、座って射る。要するに、武蔵はそんな玩具みたいな弓を作って遊んでいたわけである。
 説話の二項対立構造からすれば、猛烈巨大な武勇者集団(客)と、これに対するに、楊弓を作って遊んでいる武蔵(主)という対比である。
 その武蔵は夢想権之助が来たと聞いても、何ということもない様子、
 「ここへ来てもらえ」
という。それで、弟子が武蔵のいる座敷へ案内する。《其器量人に勝れたる大男、座敷へむずとなをる》、この大男は座る際もパワフルに威儀を正す。
 その風体はというと、これがすごい。6月(旧暦では真夏)だというのに、羽二重の一重羽織を着込んでいる。暑苦しい奴なのである。しかもその羽織には大きな朱色の丸を付け、肩先から帯あたりまで、
 「兵法天下一、日本開山、無双権之助」
と金(金泥)で書いたのを身に著けておる。「兵法天下一、日本開山〔ひのもとかいざん〕」というのは、よくある名のりだが、天下一の兵法者、日本最強の流派開祖、というところであろう。まさに婆沙羅な風体、宣伝広告を羽織にしたようなものである。
 権之助が坐ると、連れの大男8人も同様にして威儀を正す。武蔵の弟子どもはこれを見て、これは一大事、こうなるともはや只事では済まない、と思って、《はゞきもとをくつろげ》である。
 この「はばき」は、太刀の刀身の根元(区際)に嵌めて鍔を固定し、刀身が抜けないようにする金具。つまり「はばき元」をくつろげる、緩めるとは、いつでも抜刀できるようにすることであり、弟子たちはすでに戦闘開始態勢、この物騒な客どもから眼を離さない。
 ところが、弟子がいきりたっているのに、武蔵は、いかにも常の振舞いで、相変わらず楊弓を削って磨きながら、
 「権之介殿とはあなたか。名は久しく聞き及んでおりましたが、これまでお会いできませんでしたな。ご挨拶に来られたのをうれしく思います」
という。権之助は、
 「おっしゃる通り。互いに会いたいと久しく思っていましたが、これまでお目にかかれませんでした。こんど、九州へ行こうと思って、ここ〔明石湊〕に船係りしまして、あなたがここに来られておいでだと聞いて、お尋ね申したのです」
と挨拶する。
 この《たがひに御床敷》とは、直接会ってみたいというほどの意、「船がかり」とはこの明石湊で船が停泊したということである。当時の様子からすれば、おそらく、伏見から船で淀川を下り、海に出て大阪湾を西に進み、明石海峡を乗り切ったところで、船は停泊したのであろう。逆に西から来れば、明石海峡の潮待ちで停泊することもある。
 しかし、それよりも、この海峡は畿内・畿外の関門で、航行する船は出入りともに、この明石湊で臨検を受けるものであったらしい。海峡掌握の任を受けて、小笠原忠政は、ここに新城と新港を建設したのである。この海峡掌握の任ということでは、次に転封した小倉藩でも同様である。
 さて、挨拶が済んで、やがて兵法の話になる。権之助はこう言う、
 「関八州はいうまでもなく、奥州までも、武芸修行して試合をしてみましたが、自分にかなう者がない。それで、西国方面へ兵法修行に行くつもりなのです。親父様の無二の太刀は見ましたが、あなたの代になって太刀使いを変えられたと承りました。どんなぐあいか、ちと様子をお見せください」
 なかなか勇ましい話である。権之助は関東から奥州まで東国諸国を兵法修行に歩き、結局自分にかなう者がいないということであった。それで、こんどは西国へ廻国修行へ行くその途中で、武蔵に遭遇したのである。これは絶好のチャンス、というわけである。
 この説話によれば、権之助は武蔵の「父」・新免無二と手合わせしたことがあるということになっている。むろんここは史実上の話をするところではないから、あまり立ち入らないが、新免無二が足利義昭に召し出され将軍師範の吉岡と対戦したという伝説(小倉碑文)や、天正年間に死んだという記事(泊神社棟札)からすれば、この無二の太刀筋を見たことがあるという権之助は、相当な高齢者でなければならないが、もちろんこの後世の物語はそんなことには頓着しない。
 それで、権之助は、武蔵の代になって変えたというその太刀筋を見せてほしい、と言うわけである。武蔵は、これに対し、
 「無二の太刀筋を御覧になったとすれば、それと別に変ったことはない」
と答えて、取り合わない。武蔵は、ひとまず、試合を避ける恰好である。
 だんだん話が面白くなってきた。武蔵が試合を避ける様子と見た権之助は、食い下がる。
 (私と立ち合わないと言われるのなら)「弟子衆を相手になさって、ぜひとも、ひと太刀お見せください」
と言うのである。すると武蔵は、
 「私の兵法は、打太刀をこしらえて使うようなことではない。そのわけは、相手がどんなふうに打ってきても、それをすべて留めてしまう兵法だから」と。
 ここで《こしらえ》というのは、わざわざ工夫して、というほどの意味である。
 あるいは「打太刀」〔うちだち〕というのは、「受太刀」(「仕太刀」〔しだち〕)に対するもので、現在の日本剣道形あるいは古流剣術の形においては、先に攻撃を仕掛ける側を打太刀、それに対応して勝ってみせる側を受太刀という。稽古するばあいは、技を教える上級者の側が打太刀の役である。
 このことを前提に読めば、武蔵は自分は常に受太刀(仕太刀)で、打太刀などしないよ、と言うようにみえる。しかし、ここは武蔵流は一切の攻撃を無効化してしまう兵法なのだという意である。だから、そもそも打太刀をすることがないというわけである。
 そこで、逆に武蔵が言う。
 (武蔵流は、一切の攻撃を無効化してしまう兵法だということ)「そのように承知して、あなたが打太刀してみなさい」
 武蔵は受太刀(仕太刀)をやってみせようというわけである。権之助は喜んで、
 「それなら、私が打太刀しましょう」
と言って、錦の袋から取り出したのは、本より末まで鉄筋補強した四尺余りの長大な木刀。それで、対戦は以下のような始末である。
 まず、権之助は、この鉄筋で補強した四尺余りの長大な木刀、これは夢想流杖術の杖*と言うべきであるが、これに対し、武蔵は、先ほどの楊弓を作っていた木の切れ端である。これが楊柳の枝だとすれば、ふにゃふにゃの、およそ試合の道具になりそうもない代物である。こういう剛強長大に対する軟弱短小というのが、ここでの二項対立の構図である。
 武蔵はそんな木片だけもって、「打ってごらんなさい」と言う。ずいぶんバカにされたもので、権之助、透間なく打ちかかる。謡曲「烏帽子」に《透き間あらせず斬つて掛かる》とあるように、「透間なく」というのは、間をおかずすぐさま、という意である。
 ところがこの対戦、権之助が打ち込もうとしても、かの木片で「ちょっ、ちょっ」というぐあいに軽く留められて、太刀を出せない。
 そこで権之助が、太刀(ここでは例の長大な木刀)を返してなぐる(横に打つ)と、これが武蔵の袖の下の羽織の襟に先端が当った。権之助は、
 「当った、当った」
と大声。武蔵はこれを聞いて、
 「いや、こういうのは当りとは言わない。こんな当りでは何の効果があるか。さらば、私が当ててみせよう」
と言って、また打ち合う。
 権之助は打とうと思う気色が顔にあらわれて(必死の形相)、打ちかかるけれど、太刀を出すことができず、思わず後ずさりしてしまう。武蔵は権之助を座敷の隅に追いつめ、ひしと眉間を打った。すると、そこがたちまち赤くなって、腫れ上がった。
 かくして結果は、《さらば、我当て見せ申さむ》と武蔵が言った、その通りになったのである。こういうことで、権之助は負けを認め、武蔵の弟子になった、という話であるが、要するに、剛強長大/軟弱短小という二項対立の構図において、ここで強調されている武蔵の勝ち方は、いわば「芸術的に」勝ったというところであろうか。



《宮本武蔵と云兵法者あり。十六歳より名ある者と仕あひをなす事、六十余度に及ぶに、皆利を得たり。一とせ播州明石に住す。或時人来り、案内をこうて、「無想権之助と申者なり、承及候間御見舞申」と云。武蔵が弟子共、出て見るに、六尺ゆたかの男の、大刀をさし、我におとらぬ弟子共を八人まで、つれゐたり。彼権之介も名有者にて、内々聞及ひし所に、殊に大勢にて来れは、武蔵弟子おのゝけをたつる事すくなからず》



《折ふし弟子二人付居けるが、爰を一名とさりきて、此よしかくと云。武蔵、楊弓をけづりて居けるが、是へいらせ給へと云。即弟子共、権之助を請じければ、其器量人に勝れたる大男、座敷へむずとなをる。折しも六月の事成に、羽二重のひとへ羽織に大きなる朱乃丸を付、かたさきより帯しまでに「兵法天下一日本開山無双権之助」と金を以て書たるを着たり。八人乃者共も一面になをる。武蔵が弟子共、是を見て、「既に一大事、爰に極りたり」と思ひ、はゞきもとをくつろげ、かの男に目を付て居けれ共…》



夢想権之助 武稽百人一首
「武道をば神の夢想ぞ権之助
自らゆるす天下一の名」



《武蔵はたゞ、いかにもつねにして、楊弓をみがきながら、「権之介殿とは御手前か。承及久共、終に不得御意。御見舞、祝着なり」といふ。権之助も、「如仰、たがひに御床敷久共、終に不得御意。今度九州筋へ心指、此所に船がゝり仕、是に御入候よし承、御尋申候」と、あいさつして…》



明石城下と明石浦


《軈て兵法物語になり、権之介申けるは、「関八州は不及申、奥迄も修行仕、手合を見候へ共、我にあはする者なし。故に西国方へ兵法修行に罷下候なり。御親父・無二乃太刀は見申候へども、又、御手前の代につかひなをし給ふと承、ちと様子を御見せ候へかし」と云。武蔵聞て、「無二が太刀を御覧ぜられば、別に替事なし」といふ》



宮本武蔵坐像


《権之介強て、「弟子衆を合手に被成、是非とも一太刀御見せ候へ」と云。武蔵云、「いや我兵法は打太刀をこしらへて、つかふやうなる事にあらず。其故は、何と打てくるとも、あまさずとゞむる兵法なり。左様におぼしめして、御手前、打太刀して御覧ぜよ」と云。権之介よろこび、「さらば某、打太刀仕らん」と云て、錦の袋より、本より末まで筋がねを渡したる四尺余りの木刀を出す》



*【夢想流杖術】
 神道夢想流(一杖・棒・剣)は、夢想権之助勝吉を祖とする。本姓は平野。通称は権兵衛。神道流を桜井大隅守に学んだ。宮本武蔵玄信に敗れて発奮、筑前の宝満山に祈って四尺二寸一分・径八分の樫杖の技法を発明した。筑前の黒田家につかえ、同藩に伝統。流末に一達流捕縄術、一角流十手術の松崎金右衛門重勝が出、現在の警視庁教官清水隆次におよぶ。警視庁警察官の警杖術は、清水教官が昭和六年一月から実施している術である。 (綿谷雪『図説・古武道史』)




《武蔵は、楊弓をわりたる木のきれ乃弐尺計なるをおつ取、立あがり、「打て御覧ぜよ」と云。権之介、透間なく打てかゝる。武蔵、かの木ぎれを以て、ちよつちよつととめて、太刀を出させず。権之介、太刀をかへして、なぐりければ、武蔵が袖の下、羽織のえりに、木刀のさき打当る。此時権之介、高声に、「あたれり。あたれり」と云。武蔵聞[て]、「いや、かように当をあたりたるとはいはず。かようにあたつて何の用にたらむや。さらば、我当て見せ申さむ」と云て、又打合せける。権之介、随分うたむとおもふ気色面にあらはれて、打てかゝりけれ共、太刀を出す事不叶、覚はず志さりけり。むさし、座敷の隅に追つめ、ひしと眉間を打つ。俄に色付はれ上りたり。爰にをゐて権之介、大に悲をしり、弟子と成也》





《武蔵かやうの、名人たりといへ共、仏法修行の力なければ、臆する所あり。かれ又、画筆の名人成ければ、在時主君より達磨の絵を書上べしとの仰也。時に武蔵、精を出して書けれ共、筆はたらかずして、常よりも不出来なり。終に其日出来せず、ふせりけるが、夜半に不図起あがり、「我本意の兵法を不出故に絵不出来なり」と云て、火をともさせ、書ければ、いかにも見事に出来する也。後に弟子共、此心を尋ければ、武蔵答曰、「我兵法をうち落し上に臆する故に、かゝれざるなり。我兵法を云ば、太刀を取則ば、我もなく、人もなし、天地やぶれて居なり。何の高位下賤と云事あらんや。此機を以て書ゆへに、画出来する也」と云ければ、弟子共大に感ぜしとなり》




宮本武蔵 蘆葉達磨図



《古道人の曰、「兵法者は太刀を取たる時は禅定なれども、太刀を置とはやぬけて凡夫に成也。仏法者は常住、金剛心に住する故に、何事にあふてもぬくる事なく、万事に使て自由なり」と教へ給ふ事、是なり。彼者、随分、兵法の時は用得たりといへ共、絵に逢て臆したる事、右のごとし。専、勇猛心を用て、大丈夫乃人と成給ふべし》

 しかし話はこれで終りではない。この『海上物語』は、仏教法話集だから、話の本題はこれから先である。
 すなわち、武蔵はこれほどの兵法の名人であったけれども、仏法修行の力がなかったので、臆するところがあった。武蔵はまた画筆の名人でもあったので…と、話は続くのである。
 その内容は――残念ながら、大して面白いものではないが――以下のようなものである。
 武蔵はまた画筆の名人でもあったので、あるとき主君から、達磨の絵を書いてくれとの仰せがあった。つまり殿様の御前で、絵を書いたのである。ところが、筆が働かず、いつもより出来が悪い。精を出して描くのだが、どうもうまく出来ない。結局、その日はとうとう出来ず、寝てしまうことにしたのである。
 ところが、真夜中に急に起き上がり、「自分が本来得意とする兵法を出さないから、絵が不出来だったのだ」と言って、弟子に火を灯させて書きはじめた。すると、いかにも見事に出来たのである。ここで「出来する」とあるは、「しゅつらい」ではなく「しゅったい」と読むか。字義通りに読めば、絵が出現したという感じである。
 後になって、弟子が武蔵にこのことを尋ねたところ、武蔵が答えて言うには、
 「おれは兵法を忘れて殿様に臆した故に、書けなかったのだ。我が兵法を云えば、太刀を取ればすなわち、我も無く、人も無し、天地が破裂しているのだ。何の高位下賤という事があろうか。この機根を以って書いたので、画が出来たのだよ」
 これを聞いて弟子たちは大いに感動したとのことである。
 以上の内容はまったく凡庸な説話で、大して面白いものではない。殿様の前でビビってしまった武蔵、というのは「いかにも」という設定である。しかし、ここで一つだけ注目すべき観念が採取できる。それは、
《太刀を取則〔とるときん〕ば、我もなく、人もなし、天地やぶれて居なり。何の高位下賤と云事あらんや》
とあるところである。これは、文脈から独立させて見れば、兵法者は脱俗の単独者というよりも、むしろ言えば、制外者であって、世俗の身分秩序にたいし「無縁」の存在だということである。
 すなわち、この言葉が武蔵自身のものかどうかはどうでもよいが、少なくとも兵法者という存在は、そういう社会秩序の外部にあるとみなす社会通念があったのである。
 それで、最後にこの説教の総括となる仕儀であるが、話は次のような教訓である――。
 古道人の曰く、「兵法者は太刀を取った時は、禅定(の法力)があるけれども、太刀を置いたとたん、それが抜けて、凡夫になってしまうのである。仏法者は常に金剛心に住する故に、何事に遭遇しても(法力が)抜けることはなく、万事にそれを使って自由自在である」とお教えになった事、それがこのことである。かの武蔵は、兵法の時はかなり(法力を)用いることができたけれど、絵を描くとなって臆した事、前述のごとし。(諸君も)専ら勇猛心を用いて大丈夫の人となれるのですぞ。
 こういう話の総括ぶりから、著者は通俗的な教訓を語った人のようだが、それにしても、これが近代で復活した、万事気迫や気力に帰したがる論法の先駆形態であったことは慥かであろう。武蔵に「おれは兵法を忘れておった」との反省を語らせたこの説話は、武蔵の画筆に彼の兵法を読むという、その後の一般的な誤読の先駆けなのである。
 ともあれ、ここで語られたのは、「画筆の名人」でもあった武蔵である。現存する武蔵作品はおそらく数十点であろうが、以前は数百点あったともいう。贋作も多かろうが、それだけの作品数量を武蔵が遺していたとすれば、おそらくは生前から「画筆の名人」として知られていたのであろう――と、さしあたりは見当がつく。

 では、武蔵は画家としてどういう評価を受けていたか。たとえば、中林竹洞は『画道金剛杵』(享和2年・1802)の「古今画人品評」で、仏教の九品に效って画家を品評しているが、その中に武蔵を数えている。
 しかも、それによれば順位は、17〜18世紀の江戸前中期の「和画」家では、狩野探幽>俵屋宗達・尾形光琳>狩野常信・土佐光起>海北友松>宮本武蔵>円山応挙>狩野周信>久隅守景となる。武蔵は諸家と並んで、ちょうど中ほどに位を与えられているのである。
 しかし、この点について、その「古今画人品評」なる一覧表がおもしろいので、まずは一通り見ておく必要がある。中林竹洞は「和画」「唐画」と分類をして、探幽は和画で元信は唐画とするなど少し変っているが、言わんとするところは酌んでおきたい。

中林竹洞 画道金剛杵


   古今画人品評 (原文漢文。Web表示の制約で一部文字に借字を用いた)
 上上品  上中品  上下品
唐画
 僧明兆 仏像



和画
唐画
 雪舟 山水 雪舟と元信の画、世、称して和画と為
       すは誤りなり。是、乃ち西土北宗の正伝
       なり。故に今、改めて唐画と為す

 大雅堂 山水 是、逸致を以て勝る者なり。紙本合
       作は此の品に列す可し。絹上の細密は
       近俗の為にして、今時の俗、之を喜び価
       を増すに至る、甚だ笑ふ可し

和画
 探幽斎 才毫を以て勝る者なり。諸家の筆意を熔
       化して一家の法と為し、和習初めて起
       る。故に称して和画と為す
唐画
 元信 是れ尤も能画と為す。然ども
     俗習を脱する能はず。画論
     に曰く俗病尤も大と為す。故
     に此の品に降列す

 柳淇園 花鳥墨竹
 宮均圃 墨竹

和画
 宗達
 光琳
 中上品  中中品  中下品
唐画
 玉蟾 人物禽獣
 彰甫 山水 逸気を以て勝る者なり。
     絹上に於て作者尤も勝ると為す

 玉宛子 
和画
 常信
 英一蝶 品格高からずと雖も又妙処
     有り

 光起 著色の法の精絶なる、喜ぶ可
     し。只、生韻無きを恨みと為す

 松花堂
唐画
 心越禅師
 蕪村 山水人物 誹気有るを以て恨
     みと為す

 八仙堂 山水 雅致有り
 石圃 山水 雅趣有り
 熊斐 花鳥是れ能画なり。俗気有り
 大鵬 墨竹気象を以て勝る
和画
 友松
 立甫 逸致有り
 光成
唐画
 寒葉斎 花鳥
 大雅堂 人物蘭竹
 八仙堂 人物花鳥

和画
 宮本武蔵 気象を以て勝る者なり
 太郎菴

 雪鼎 人物
 下上品  下中品  下下品
唐画
 雪渓
 鶴亭
 寒葉斎 山水
 若冲
和画
 蕭白 是れ己の才に任せ邪道に陥るなり。其の
     品格、絶野

 応挙 人物畜獣 筆跡甜美にして骨無し
 住吉慶舟
唐画
 萢古 蘭竹
 宋紫石 花鳥
 玉瀾女

和画
 周信
 探信
 瓊甫
唐画
 五岳
 玉蟾 山水
 范古
 酔月

和画
 守景
 応挙 山水
文人画
 玉宛子  真相
 石圃   立圃
 大雅   松花堂
 彰甫   萩坊
 宮均圃  八仙堂
 柳里恭  大鵬
 心越
 即非
 古間
能画にして俗気無き者
 兆典子  玉蟾
 雪舟   蕪村
 探幽   寒葉斎
 宗達   鶴亭
 光琳   若冲
 常信   太郎菴
 光起   友松
 一蝶

 蕭白


 元信  范古
 熊斐  敬輔
 慶舟  五岳
 啓書記 酔月
 松栄
 周信

 応挙
 宋紫石
 松花堂

頼 此の病、行家法と称す
   者殊に多し

 常信
 光起
 周信
右に定めし古今の画品、此くの如し。然れども賞鑑二つ、好む所各各同じからず。或は和画を偏好する者有り。或は唐画を偏喜する者有り。或は文人家の僻有り。或は茶道家の僻有り。好む所各各同じからずと雖も、画家の優劣に於ては、則ち一つなり。既に僻有る者は真に画を好むに非ざる者なり。余、是れを論評するは、真に其の画を論ずるのみにして、高致を以て勝る者有り、逸気を以て勝る者有り、能画を以て勝る者有り、才毫を以て勝る者有り。皆之れを論じ、優劣を定む。此の外、名家少からずと雖も、予の目中未だ観ざる所は録さず。以て後の君子を俟たん。
享和元年辛酉冬十二月廿一日  尾張 竹洞成昌識

 見ての通り、この評価では武蔵は「中下品」、中ほどである。和画で武蔵は、海北友松の下だが、円山応挙より上なのである。唐画で武蔵と同じ「中下品」に並ぶのは池大雅(人物蘭竹)であり、これは「下上品」の若冲より上である。
 この順位評価はむろん独断偏見の嫌いがある――そしてそれが本書のおもしろいところ、まさにそれが取柄なのだが、それにしても、この、円山応挙より上という宮本武蔵という画家は、何者なのか。――しかし、この人物は他ならぬ我々の宮本武蔵なのである。
 ただし、こうしたリストを丸ごと掲載したのは、武蔵がこういう画家たちの列中に並んでいる、数のうちに入っているという事実を確認するためであり、我々にとってそれ以上の意味はない。
 ここで中林竹洞が、武蔵の画を評価する理由は、
  《以気象勝者》(気象を以て勝る者なり)
というところであり、それは竹洞の画論が、形象は二の次で気象を第一とするもの*であったからである。つまり、この気象第一・形象第二論からすれば、気象なき形象は無価値なもので、それゆえ、応挙は人物畜獣画に関して、筆跡甜美にして骨無し、ゆえに下上品、あるいは山水画に関して下下品なのである。
 これに対し、武蔵は「気象を以て勝る者なり」として評価するというわけである。点数の高い池大雅(山水)は「逸致を以て勝る者なり」で、狩野探幽は「才毫を以て勝る者なり」、あるいは彰甫すなわち丹羽嘉言は(山水)「逸気を以て勝る者なり」である。かくして、「逸致」「逸気」「才毫」に勝る者らに列して、武蔵画の特徴は「気象」を以て勝るという点にあるということである。

円山応挙 牡丹孔雀図


*【画道金剛杵】
《画の道は、もと物の勢を取を本として、よろづの物の心ばへ、大人小人の気象、鳥獣の飛鳴奔走等、一々其勢気象をとるを本意として、形象は其つぎの事なるを、今時の人、みだりに形象を先として、気韻をいはず、浮華を盛にして実を失ふ。是ひとへに愚俗の目を眩かさんとする心より、思はず魔界〔よこしま〕に墜いれり》



 さらに別の画論を見てみれば、白井華陽の『畫乗要畧』(天保2年・1831)に、「宮本武蔵」の項がある。
 白井華陽は、名は景広、広、実とも。字は十潤、白華あるいは伯華。号が華陽、梅泉。画家で作品に「七福神曲水宴図」「猩々図」「岩上猛虎図」などがある。没年は天保7年だが、生年不明、またその伝記はほとんど明らかではない。しかし本書『畫乗要畧』は、要領を得た美術ハンドブックとして、狩野永納『本朝畫史』と並んで、広く活用されたものである。
《宮本武蔵、撃剣を善くす。世に所謂二刀流之祖也。平安東寺観智院に其の画ける山水人物有り。海北氏に法〔のっと〕り、氣豪力沈なり。
梅泉曰く、武蔵、撃剣を善くす。木刀を用て佐佐木巌流を撃殺せしは人口に膾炙す。然れども、今其の筆蹟を観るに、殆ど亦た超凡、武蔵が如きは、所謂、風霜中、時に春芳を帯る者なり》(原文・漢文)
という記述のみえるところである。
 まず、評伝部分は――武蔵は撃剣(剣術)に長けていた、世に言う二刀流の元祖である。京都の東寺観智院に彼が画いた山水画がある。武蔵の画は海北友松に則ったもので、「氣豪力沈」、すなわち気は豪にして筆力は抑制の効いたものである、というわけだ。

畫乗要畧 宮本武蔵部分

東寺観智院 京都市南区九条

 この東寺(教王護国寺)の子院・観智院の山水画は、白井華陽の当時は現存したのだろうが、いまは失われてしまっている。あるいは、海北友松を範とするという、この無視し得ない記事については、後に述べるであろう。
 さらに批評部分の《梅泉曰》の梅泉とは、白井華陽のことで、自らの批評を掲載しているわけである。その内容は――武蔵は撃剣(剣術)の達人だった。木刀で佐々木巌流を撃殺したのは人口に膾炙するところである。しかしながら、いまその画筆の蹟を観るに、まるで超凡、武蔵のようなのは、いわゆる「風霜中、時に春芳を帯びる」もの、つまり風霜の厳しい寒さの中、いっとき、春の芳香を帯びるという感じのものである――という内容である。
 要するに、武蔵の画が評価されるところは、「氣豪力沈」というところ、そして「風霜中帯春芳」の、寒冷のなかにも春の温暖と芳香を感じさせる、という言わば古典的な両義性なのである。
 これが、江戸後期、武蔵画の特徴として語られたことであることは、ひとまず記憶しておこう。何が武蔵の画を特定させる特徴か、となると、こういう話になるのである。
 しかも、武蔵の筆法は《殆亦超凡》、まるで凡庸な画家を超えたものであると、これはほぼ最大級の賛辞である。画人武蔵はこういう称賛にあずかっているということを、銘記しておきたい。

宮本武蔵 枯木鳴鵙図


田能村竹田 山中人饒舌


《予、蔵宮本武蔵画布袋和尚像。筆法雋頴、墨色沈酣。阿堵一点、奕々射人。又観設色馬十二匹、施朱填粉、極濃厚、而無俗習。至鞍轡鞭鐙諸具、按古式作之。又故赤穂大夫大石良雄亦能画。世多伝其搨本。予、編斯書、至雪舟狩野二派諸子、ゥ焉不録。而宮本大石、並学二派者。然亟収不能遺漏、蓋有所少慨云》



山中人饒舌 宮本武蔵部分



宮本武蔵 布袋観闘鶏図



田能村竹田 暗香疎影図



田能村竹田 自画像
 もう一つ武蔵評価を画論から引例すれば、田能村竹田の『山中人饒舌』である。これは天保6年(1835)竹田没後刊行の書物だが、若いときからこれを書いていて、文化年間に一応脱稿しているが、その後も出さなかったらしい。なるほど内容は辛辣である。むろんこれは有名な画論で、近世画論のなかでも五指に入れてよいものである。竹田は、そのなかでこう記している。
《予、宮本武蔵の画・布袋和尚の像を蔵す。筆法雋頴、墨色沈酣、阿堵の一点、奕々として人を射る。又設色の馬十二匹を観るに、朱を施し粉を填め濃厚を極むれども、俗習無し。鞍轡鞭鐙〔あんびべんとう〕の諸具に至りては、古式を按じて之れを作る。又故〔もと〕の赤穂の大夫〔たいふ〕大石良雄も亦画を能くす。世多く其の搨本を伝ふ。予、斯の書を編むに、雪舟狩野二派の諸子に至りては、焉をゥて録せず。而も宮本・大石は並びに二派を学ぶ者。然れども亟かに収めて遺漏する能はず。蓋し少しく慨する所有りと云ふ》(原文・漢文)
 この一文については、従来武蔵研究において必ずと言ってよいほど言及されるが、にもかかわらず、きちんと読解したものがない。そこで、我々はこれを少しく詳細に読んでみよう。左に原文も掲載しておく。
 まず語釈から。「雋頴」〔しゅんえい〕、これは、雋も頴も、優れて秀でている意。いわゆる「俊英」はこの語の転訛か。つぎに「沈酣」〔ちんかん〕は、酒を呑み耽ることから転じて、物事に耽溺すること。ただしここでは、画の墨彩がじっくりと沁みて落ち着いているという意。雋頴が突出の意味だから、この沈酣はそれと対語をなす。そしてむろん、「筆」と「墨」とは対語であるから、《筆法雋頴、墨色沈酣》という表現は、四辺形をなす布置を内蔵しているのである。
 「阿堵」〔あと〕、本来は「これ、この、あれ、あの」という指示詞で、晋宋時代の方言ないし俗語。ところが同時に、これに眼・視線の意もある。「眼精の一点」という表現が一般的だが、ここは「阿堵の一点」と書いて竹田の漢文の素養を見せたところ、しかも語の両義を懸けたものらしい。「奕々」〔えきえき〕は、光り耀くさま。「鞍轡鞭鐙」〔あんびべんとう〕、これは鞍・轡〔くつわ〕・鞭・鐙〔あぶみ〕、すなわち馬具のこと。
 「大夫」〔たいふ〕、これは中国式表現だが、ここでは重臣家老のこと。「大石良雄」、これはかの有名な忠臣蔵の大石蔵之助(1659〜1703)、赤穂藩家老、同志とともに主君の仇とする吉良義央を討伐し切腹となった人物。「搨本」〔とうほん〕、石摺り、原版を板木に起し刷った複製のこと。
 「ゥ」は、「おく」と訓む。捨てて省みない、無視するの意。「亟」は、すみやか。一も二もなくの意。「慨」は、慨世、世を悲憤慷慨する意に用いる。
 さて以上の解から、これを現代語訳すれば以下のごとし。
《私は宮本武蔵の布袋和尚の像を所蔵している。筆法が他に突出して極めて優れ、墨色がじっくりと滲み入って落ち着いていて、あの眼の一点、光り輝くように人を射る。また着色した馬十二匹(の画)を観るに、朱を施し胡粉で充填して濃厚を極めているが、通俗的なところがない。鞍轡鞭鐙の馬具にしても、古式をきちんと考証して描いている。また、かつての赤穂藩家老・大石良雄もまたよい画を描いた。世間に多くその複製を伝えている。私はこの書(山中人饒舌)を編むに、雪舟・狩野二派の諸家にいたっては、これを無視して収録しない。ところが宮本・大石は二人ともこの二派を学ぶ者、にもかかわらず、この二人は、一も二もなく収録して、漏らすことはできなかった。これは思うに、少し世を慷慨するところがあるためというわけだ》
 さて、どうであろうか。これをいかが読まれたか。
 江戸後期の優れた書画作家の評言である。武蔵以後ほぼ2世紀、あるいは大石死後1世紀以上経過しての、作品批評である。
 ここで改めて竹田のことを案内すれば、江戸後期、安永6年(1777)生、天保6年(1835)没の、いわゆる文人画家。名孝憲、字君彝〔くんい〕。豊後(現・大分県)竹田の岡藩々医碩庵の二男。幼名磯吉、また行蔵と称す。「竹田」〔ちくでん〕は、産地の名に由来するか。18歳のとき兄が病死して家業の医を嗣ぐが意に添わぬか、22歳の時、藩校由学館の教授となり『豊後国志』の編纂に参画、この時江戸に往来滞在することあり、谷文兆、大阪の木村蒹葭堂と知遇を得る。文化8〜9年藩内に百姓一揆が起き、これに対し建白書を提出し、文化10年致仕した。のち大坂の大塩平八郎とも通交あり、養子の田能村直入を大塩の洗心洞で修学させている。
 致仕のとき35歳、後は自由人となって詩書画の文人生活、京大坂・江戸のいわゆる三都の文人墨客ら、木村蒹葭堂、浦上玉堂、篠崎小竹、青木木米、あるいは頼山陽などと親交あるとともに名をなした。画は中国文人画正統への回帰志向、作品に「歳関三友双鶴図」「暗香疎影図」「松巒古寺図」(ともに重文)がある。書画作品は多く、「船窓小戯帖」「亦復一楽帖」など画帖の小品にも佳作があり。著作に『竹田荘泡茶訣』『竹田荘茶説』『瓶花論』など茶・花の論説、『山中人饒舌』『石山斎茶具図譜』『竹田荘師友画録』など画論あり、またユニークな『填詞図譜』など詩文論もある。天保6年大坂にて没。天保8年2月、大塩の乱。
 この田能村竹田、武蔵については、竹田自身が武蔵の布袋図を手に入れて所有していたというほどである。《阿堵の一点、奕々として人を射る》というのは誰でも言うが、《筆法雋頴、墨色沈酣》と端的に述べるところ、竹田はそこに並々ならぬ筆墨の力量を見ているようだ。
 あるいは、この竹田の証言によって、武蔵には朱を施し胡粉で充填して濃厚を極めた画があったことが知れる。むろん今日の我々はそれを観ることはできない。しかし、竹田はわずか一歩の過差で俗臭芬々たるものになってしまうその種の画にしても、俗気がないという。
 しかも興味深いのは、その次の言である――《予、斯の書を編むに、雪舟狩野二派の諸子に至りては、焉をゥて録せず。而も宮本・大石は並びに二派を学ぶ者。然れども亟かに収めて遺漏する能はず》。すなわち、竹田はラディカルな南画派として、日本画正系の雪舟・狩野二派を否定し却下するのだが、例外として、宮本・大石、この両人は認めると言うわけである。
 これはなかなかの扱いである。というのも、竹田はこの『山中人饒舌』の中で、次のような――有名な――断案を下しているからである。
《今日、画に二派有り。一に曰く、狩野。墨有りて筆無し。一に曰く、雪舟。筆有りて墨無し。蓋し流弊此の如し》
 竹田の云うには、今日の絵画に二派ある。一つは狩野派で、もう一つは雪舟派である。これは漢画に対する和画の中の二派、ということである。これは、先ほどの宮本大石は雪舟狩野二派を学ぶ者、というところと対照させておかねばならない。
 しかも竹田は、この二派について極めて端的な批評を下している。狩野派は《墨有りて筆無し》、雪舟派は《筆有りて墨無し》。この「墨」と「筆」との区別は、後の話題としたいが、ともあれ、狩野派は筆法に欠陥があり、雪舟派は墨の使い方に欠陥がある、ということである。
 したがって、竹田が武蔵画について、
《筆法雋頴、墨色沈酣》
と評するのは、いかに異例の褒め方であるか知れよう。すなわち、狩野雪舟二派は「筆」「墨」いずれかに欠陥を有するものであるが、武蔵はこの二派を学んだにもかかわらず、「筆」も「墨」も優れている、とするわけである。
 現代人はつまらない批評しかできないが、竹田の言うところ、少なくとも、武蔵が最強の兵法者であることを抜きにしても、武蔵画の筆墨に並々ならぬ絵画の達人を見ているのである。
 なお、この評言中にある大石良雄のこと、あるいは《蓋し少しく慨する所有りと云ふ》とあるところ、これは後に再説するであろう。

 以上、画論による武蔵画評を若干見てみたのだが、さしあたってここで言えることは、武蔵は兵法者という意味での芸能者であるだけではなく、画人という面でも芸能者であったこと。芸能者(artist)とは、広く能楽・茶・花・連歌、さらには医師なども含むが、武芸者もアーティストなのである。
 三田村鳶魚は、次のように書いている。
《寛政の頃までも、大諸侯の家来に芸者組というのがあった。芸者組は弓馬体槍剣、もしくは砲術の選手から編成されていた。武芸者の武の字を省いて称呼したのである》(「江戸芸者の研究」・中公文庫『花柳風俗―鳶魚江戸文庫(26)』所収)
 ここにいう弓・馬・体・槍・剣・砲をまとめて武術の「六芸」である。このうち「体」というのは体術、後に謂う柔術のような格闘技である。武蔵の円明流には体術の伝書もある。これらは「六芸」として一体の概念であるから、鳶魚のように「弓馬体槍剣、もしくは砲術」と云うのは適切ではない。ここの接続詞は「もしくは」ではなく「および」でなければならない。
 この「芸者組」というのは特別な技能によって編成したもので、それぞれ武芸種目の専門家でこれを家業として相続したものである。あるいは会津藩史『家世實紀』の記事(明和4年)によれば、明らかに「芸者」は武芸者のことで、
《近来、芸者・医師・御馬方・御茶方・御料理方・御普請方等にて、都て家業を以て召出され候者…》
 これによって見れば、医療・厩馬・茶・料理・普請(土木建築)等々の諸技能・諸芸のなかでも、「芸者」といえば特に武術家を指すもののようである。この「芸」は英語なら本来の意味のアート(art)のことで、今日の日本語なら「術」という語の方がそれに近いかもしれない。ともあれ、武術は諸技能・諸芸術の中の一つだが、ここでは「芸」といえば武芸のことである。
 ただし上記引用中、三田村鳶魚が、「芸者」という言葉は《武芸者の武の字を省いて称呼した》とするのは錯りである。これは芸能の専門家、ある芸能に秀でた者、という意味の芸者であって、べつに略語で出現した語でなく、むしろもともと独立して存在した語なのである。
 しかし芸者というのは近代、お座敷に出る女芸者ばかりを指すようになったが、本来は芸者といえば武術家、弓・馬・体・槍・剣・砲の六芸の芸能者のことであった。我々がここで武蔵をアーティストと呼ぶのは、むろんそんな歴史的な含意のあることだが、冒頭述べたようにアーティスト・武蔵は、美術家としての側面を指すものと考えていただきたい。



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