さて、ここで注目すべきは「其画風長谷川家に出」という部分である。長谷川等伯の流派は、等伯の偉才絶後して、狩野派のごとき連綿たる系譜がない。この「長谷川家に出」は、等伯の流派に由来するということだが、ここでは画風が等伯様だという程度の意味しかない。つまり、武蔵画のスタイルが等伯様だという、当時の一般的理解を証言するものであるが、では、武蔵画のスタイルは、具体的にどれがどこまで等伯に近いのか。
長谷川等伯(1539〜1610)は、狩野永徳・海北友松と并ぶ――あるいはそれ以上に重要な、と世評でいう――桃山期を代表する画人である。能登七尾の生れ、しかし等伯の出身は明らかではない。武家の出だったという説があり、染色業を営む長谷川宗清(道浄)の養子になったという。この父・宗清は雪舟弟子の等春に学んだといわれ、等伯は宗清から教えを受け、はじめ信春と称して、仏画や肖像画を描いた。能登地方には初期の作品「日蓮上人像」「十二天像」「達磨図」などが現存する。
義父母の死後、30歳を越えていた等伯は突如故郷を捨て、京都へ出た。以後、絵屋として成功し、ひとかどの町衆になったという説があるが、40代半ば、大徳寺総見院の障壁画作者として登場するまでの事跡は不詳である。無落款作品もあり、近代になって等伯作品に繰り込まれた画も少なくない。
等伯は、「等白」とも書いたようだが、後に「等伯」と改めた。この「等」字は、むろん、雪舟等楊の「等」である。同時代には雲谷等顔があり、彼は雪舟等楊の「等」字だけではなく、朱子学者・雪舟ゆかりの「雲谷」という名まで頂戴しているわけである。
等伯は永徳以後全盛の狩野派に唯一対抗しうる独立派画工集団を組織し、秀吉・家康らの愛顧を得て法眼位にまで出世した。そのため、利休と結託したその政治性を、後世狩野派より当てこすられることになった。
狩野永納(1631〜1697)の『本朝畫史』(延宝六年序)の記事によれば――等伯はかねてより狩野家が絵師の長となるを嫉み、茶人千利休もまた、もともと狩野氏との関係がよくなかったので、利休は等伯と交りを結び心を合せて、二人して狩野氏を誹謗した、とある。
ここから、美術史家ならだれでもこの一件に飛びついて、スキャンダラスな話題を必ず一通り語らずにはおかないものだが、そういう俗談よりも、等伯に関して注目すべき事実は、40代で世に出た遅いスタートにもかかわらず、それ以後、死ぬまで自己画風を刷新し続けた旺盛な活力である。
おそらく、等伯50代にはすでに頂上を極め、「楓図」をはじめとする智積院障壁画(智積院)、「猿猴竹林図」「老松図」(南禅寺金地院)、「枯木猿猴図」(妙心寺龍泉庵)、「商山四皓図」「蜆子猪頭〔けんすちょとう〕図」(大徳寺真珠庵)、「松林図」(東京国立博物館)などの傑作を生み出した。しかるに晩年に到るも、その画筆は衰えず、むしろ百尺竿頭歩を進め、「山水画」(妙心寺隣華院)、「十六羅漢図」(智積院)、「烏鷺図」(川村記念美術館)、「波濤図」(禅林寺)など、延々たる展開を見せるのである。
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日通 等伯画説 雪舟→等春→等伯という系譜
*【本朝畫史】
《長谷川等伯、初名久六、能州七尾人、而世染色家也。至久六好畫、逐棄其家業、入京、寓于太秦廣隆寺、因狩野氏畫法、而後、立己意以立言一家、自稱雪舟五代[廟社之掛畫皆自書如此]。既而至法眼位、然雪舟僧也、不可有子孫、彼之所言稱畫法之世系乎、不知其實也。等伯、曾嫉狩野家爲畫氏之長、茶人千利休[氏千、名宗易]亦素與狩野氏不相好、而與等伯結交合心、相共譏狩野氏。然等伯略有才、凡至諸畫大幅莫不作[本法寺涅槃圖、横丈餘縦三丈餘、今所藏]、及老年筆力不衰、雖有麁悪之暇疵、又有豪気之風體、時輩無及之者焉。其子久藏不堕家聲、其幸哉。雪舟摸夏珪山水二軸[淡彩]、謂之大軸小軸、等伯得之》
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