宮本武蔵・美術篇
Art Works of Musashi

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●美術篇目次
105 武蔵美術論 5  Back   Next 






奈良国立博物館蔵
伝周文 水色巒光図 部分



東京国立博物館蔵
雪舟 秋冬山水図
 ●武蔵画の参照点

 ここまで武蔵絵画が、水墨画の範疇にあるとして、そもそも水墨画とは何であったかを見たわけだが、では、その水墨画の系譜のなかで武蔵画はどのような位置にあるか、というポイント確定の測量問題へ展開することになる。
 この問題を解くためには、まずは具体的な話、無数にある水墨画のどの作品を武蔵は参照したのかということ、すなわちここで、武蔵画の参照点はどこにあるか、という問題に参入してみたいのである。
 水墨画は新しい前衛的な芸術として、14世紀後半以来日本へ輸入された。この文化輸入に関しては後述のように、南北朝から室町期にわたる禅僧の渡来往還と深く関連している。日本には大和絵の伝統があったが、一方で知識人たちの好む墨画が新しい画法として出現した。どこが新しいかと言えば、まさに絵画の抽象性と偶然性である。
 水墨画技法では減筆といい、また破墨・溌墨と呼んだりするのだが、既述の如く要するに、その画法のポップでアブストラクトなところであり、しかも、墨筆の偶然性によって生まれる絵画の生命力、言うならば、リアリティに関わるリアリズムを離脱して、リアルなものに遭遇するのである。
 水墨画に日本人が見出した新しさは、そうしたチャンス・オペレーションともいうべき画法であった。シンプルな抽象性とリアルな偶然性――リアリティが裂開するその瞬間に一回性の永遠が出現する。かくして、水墨画は新しい芸術として、日本の文化空間に亀裂と革新をもたらした。
 しかしながら、何事であれ渡来文化をそのままに鵜呑みにはせず、独特な洗練のなかで「和風」にしてしまうのが、日本文化の特徴である。我々の現代のポジションから見ると、同じ水墨画でも中国と日本のそれはかなり画風が異なっている。当初の模範からの距離、それが水墨画の和様化なのであるが、そこには連綿たる反芻があったのである。
 そのためには、いったんは、雪舟のような、絵画のみならず中国文化を完全に理解した留学僧が出なければならなかった。しかし雪舟に言わせれば、彼が体験した大陸には、《画あって、師なし》であった。つまり、当時の彼地には見るべき絵画作品はあっても、師とすべき者はいない、というのである。
 同時代の中国絵画に対する、こうした雪舟の一言については、そこに天才の不遜を見るのは間違いである。日本の文化空間のなかで、極端な唐物崇拝があったところに、この言を置きなおしてみれば、すでに列島における水墨画アートの前衛的な部分では、雪舟に限らず、同時代の――たとえば明朝浙派のような――中国絵画を低く見る視線があったということである。
 この雪舟が出るまでには、日本文化が水墨画に注目し始めてから、およそ百年が必要だった。もうこの頃までには、本家の中国絵画に対するに、特定の画家を選好する一種の偏向biasと、絵画理解の変形deformationを通じて、列島固有の文化的視線、見る眼が形成されていたのである。
 それからまた百年、水墨画にしても、大和絵の濃彩色画と遭遇して新しい画法へ展開する。その和様化とともに桃山期のような金地墨画となると、本来の水墨画の簡素主義的なあり方からは、かなりかけ離れてしまった。
 武蔵画について言えば、それらはこの、中世から近世初期にかけての水墨画の和様化のプロセスの末端に属するものとみてよい。そこで、我々が武蔵画の参照点をさぐるとき、実際に武蔵が、どのような絵画作品に遭遇しえたか、それを概観してみることが必要であろう。

 武蔵画については、従来、海北友松〔かいほう・ゆうしょう〕や長谷川等伯〔とうはく〕との類縁や影響が指摘されてきた。たとえば近世後期の画論では、白井華陽『画乗要畧』(天保2年・1831)が海北友松、中尾樗軒『近世逸人画史』(文政7年・1824)が長谷川等伯を、武蔵画の参照点とする。
 なるほど、海北友松や長谷川等伯は、武蔵よりもかなり年配であるが、少なくとも同時代の画人であった。武蔵の青年期には二人とも老人だが、まだ生きていた。ちなみに、両者の生歿年を確認しておくと、
    海北友松  (1533〜1615) 没年83歳・武蔵32歳
    長谷川等伯 (1539〜1610) 没年72歳・武蔵27歳
 こういうわけで、友松は長命で、武蔵の30代になるまで生きていたし、等伯も晩年は武蔵の青年期である。そして両者ともに在京アーティストであり、彼らと武蔵が交差する可能性はなきにしもあらず――これを確認した上で、そこでまず、友松あるいは等伯との類縁を説く近世画論の説に一応乗ってみて、武蔵画の参照点を一通り検証してみたい。

 まずは、白井華陽『画乗要畧』であるが、そこには、《海北氏に法〔のっと〕り、氣豪力沈なり》とする。こうあるのは、白井華陽が武蔵画を、海北友松の画風を範とするものと見た、ということである。では、それはどの作品を見てのことかというと、おそらく、ここに記す「東寺観智院に其の画ける山水人物有り」というものである。それが山水人物画だとすれば、該当する武蔵画は、残念ながら現存しないのである。
 ちなみに、同じ『画乗要畧』で海北友松のことをどう書いているかというと、右のようなことである。すなわち――海北友松は、はじめ狩野永徳に学んだが、後に独自の機軸を出して、一派をなした。山水人物・花禽草獣、皆佳妙に臻〔いた〕る、とするところは、江戸絵画の方向を予告する友松のポストモダンな新しさを言うのであろうが、ここでは、『画乗要畧』が友松の人物画に注目している点が注意される。


*【画乗要畧】
《宮本武蔵、撃剣を善くす。世に所謂二刀流之祖也。平安東寺観智院に其の画ける山水人物有り。海北氏に法り、氣豪力沈なり》(原文漢文)

*【画乗要畧】
《海北友松、名は紹益。初め永徳に学び、後、自ら機軸を出し一派を為す。山水人物・花禽草獣、皆佳妙に臻る。其の人物の如きは、梁楷の減筆法を以て之れを作り、世俗、之れを貴ぶ。余、嘗て巨壁の墨馬数匹を観るに、向背顧眄、曲に其の態を尽す。神駿飛騰、人をして聳動せしむ》(原文漢文)



 海北友松について若干述べておけば、もとより彼は、長谷川等伯・狩野永徳(1543〜90)・雲谷等顔(1547〜1618)と並ぶ桃山絵画を代表する一人である。伝によれば近江生れ、浅井家家臣・海北善右衛門綱親の五男(あるいは三男)、幼くして京都禅林に入り、主家自家滅亡の難を免れるが、40歳を過ぎて還俗、画人としては文禄年間(1590年代)以後で、現存作品によるかぎりにおいて、60余歳からの遅い画家である。
 通例、海北友松について、いわゆる「武人画家」のシンボルのように語られるが、それでは誤解がある。ようするに友松は、禅門から「出家」するというコースをたどった文人画家である。同じように禅門から儒家へ転じた藤原惺窩(1561〜1619)などは、海北友松よりもっと若い世代である。
 現存作品を見るに、海北友松の画業は老人となってからのことで、彼の画事の師については狩野派の元信・永徳をそれとする伝説があるが、それはあやしい。むしろ禅林に住した期間が長いから、その画筆は、中国宋元画の教養を通じて獲得されたものであろう。
 また、海北友松の画風について、武人らしい気迫のあふれた画風、というのが常套句であるが、これはおよそ雑駁な批評であって、江戸期画評より退歩したものである。むしろ、友松画は当時最も新しい感覚のアートで、時代の先端を走り、近世絵画の方向を予告するものである。ある意味では、後述の長谷川等伯よりもはるかにスマートでクール、つまり洗練された画様であった。
 海北派は、子の友雪以降、職業画家と化して、友松本来のものとは異なる画風へ変貌した。それだけ始祖の遺業は維持し難きものなのである。

御物 宮内庁蔵
海北友松 網干図 部分
御物 宮内庁蔵
海北友松 浜松図 部分

 海北友松の作品現存はかなり多い。「琴棋書画図」「雲龍図」「山水図」「竹林七賢図」「花鳥図」を含む建仁寺本坊方丈障壁画群をはじめ、「松竹梅図」(建仁寺禅居庵)、「観瀑図」「琴棋書画図」「松竹双鶴図」「龍虎図」(建仁寺霊洞院)、「琴棋書画図」「三酸寒山拾得図」(妙心寺)、「雲龍図」(北野天満宮)、「四季山水図」「楼閣山水図」(MOA美術館)、「山水図」(東京国立博物館)、「飲中八仙図」(京都国立博物館)、「浜松図」「網干図」(御物)、「月下渓流図」(海外流出)など、列挙しうる。
 このうち、画業のいわば中心を形成する、建仁寺方丈障壁画群は、友松60代半ば過ぎの制作と推定される。彼の老年にいたるまでの事跡は不明であるものの、画業はそれ以前にかなりの経歴をへていたはずであり、その結果として、この作品群が出現したということであろう。
 中国宋元画の教養、ということは前に述べたが、建仁寺本坊方丈の障壁画群について、その参照点を求めるならば、人物画は梁楷様の減筆体、花鳥画は牧谿様、山水画は玉澗様、等々と算えることができる。山水人物画は、すでに狩野元信由来の画体ではなく、友松独特の風趣がある。狩野派よりもクラシックで、そして新しい。
 要するに、梁楷・牧谿・玉澗といった当時人気の画様が、それぞれの画題に応じて、依拠すべき古典として参照され引用されているのである。
 このように、真体のオーソドックスな山水人物画から、玉澗風の溌墨草体の山水図まで、かなりの幅が見られるが、これは当時の画家なら、真行草三体を描き分けるのは通例であって、これは特に異例としない。
 また、同一画の中に具象も抽象も混在するのであって、とくに琴棋書画や竹林七賢といった画題の具象画にしても、岩や松は大胆な皴法やスピードのある粗筆によって抽象化されている。
建仁寺蔵
松に孔雀図 部分

建仁寺蔵
琴棋書画図 部分
妙心寺蔵
琴棋書画図 部分
建仁寺蔵
山水図 部分

 海北友松について見るべきは、前に見た白井華陽『画乗要畧』がいう、――《其の人物の如きは、梁階(楷)の減筆法を以て之れを作り、世俗、之れを貴ぶ》
とある梁楷様の、いわゆる「袋人物」であり、あるいは対象を球状・円筒状に表わす幾何学的形態への還元である。これが、中国絵画への造詣に基づくとはいえ、梁楷は完全に消化され、友松様とも言うべき新しい造型感覚を示す。
 これに対し、武蔵画はむしろ梁楷人物画の原型に近く、明らかに古様を示す。このことは、言い換えれば、海北友松のようなスマートな新しい造形性に対して、何らかの「批判」が武蔵画にはあるということである。それを看取する必要があろう。

建仁寺障壁画
袋人物事例
海北友松 竹林七賢図 部分
東京国立博物館蔵
梁楷 李白吟行図 部分
徳川美術館
宮本武蔵 蘆葉達磨図 部分

 また妙心寺や北野天満宮に雲龍図があるが、これは、海北友松得意の画題であったようで作品は多く、また朝鮮へも贈られたらしい。朝鮮国僉中枢府事書簡写(万暦戊申(1608)・海北家史料)には、彼地へ贈られた友松筆水墨龍図屏風への讃辞が記され、玄蘇景轍『仙巣稿』には、朝鮮で友松の龍の画が話題になったことを記す。
 おそらく「武人らしい気魄豪放」などという一般の粗雑な評は、こうした一連の雲龍図を見てのことであろう。しかしそれは友松画の一端にすぎない。とすれば、武蔵画にも雲龍図のあることからすれば、同様のことが言えよう。
 そして武蔵の当時、雲龍図あるいは龍虎図は多く描かれているが、見るところ、武蔵画の龍の絵にもっとも親縁性のあるとされるものといえば、これも海北友松なのである。
 ただし、性急な結論は無理である。というのも、武蔵画の方は、友松画のモダンな図様性に対し、はっきりと古典的な画法を示すからである。

宮本武蔵 雲龍図 部分

建仁寺障壁画
海北友松 雲龍図 部分

 こうした雲龍図の系統よりも、武蔵画においてもっと明確に海北友松への参照を示すのは、たとえば「松梅図」(建仁寺禅居庵蔵)の系統であろう。対応する武蔵画で言えば、「枯木鳴鵙図」「紅梅鳩図」のような絵画群がこれに相当する。
 この「松梅図」は襖絵になっているが、友松水墨画の代表例の一つである。その根元から突出する二本の主幹のあたり、ざっとした粗の筆触が洒脱な友松様を端的に示す。とくに梅枝の一気に走る直線は鋭く大胆で、明晰な絵画世界をもたらしている。
 武蔵画の方は軸画であり、襖絵ほど大作ではないが、こうした友松水墨画の最良の特徴を引き継いでいるものであろう。武蔵画の花鳥画には、いづれも友松画への参照が読み取れる。

建仁寺禅居庵蔵
海北友松 松梅図 部分
久保惣美術館蔵
宮本武蔵 枯木鳴鵙図
永青文庫蔵
宮本武蔵 紅梅鳩図 部分


海外流出
海北友松 月下渓流図 部分

 あるいは、「月下渓流図」の右端には、友松に特徴的な鋭い直線状の樹枝がみられる。「月下渓流図」はたんに新しい感覚の絵であるだけではなく、おそろしく清澄な世界を現出している。この樹枝の直線の鋭さが、空間の清澄性を絶対的なものにしている。このような凛とした明晰で清澄な世界も武蔵画のある部分に共通する特質であろうし、技法の面を論じれば、武蔵画における細く鋭い樹枝の用法は明らかに友松様である。

 鳥獣のことで言えば、叭々鳥〔ほろほろどり〕は牧谿画に描かれ、ために叭々鳥〔ははちょう〕図は、多くの画家が範とし競作するところとなった。
 下掲の叭々鳥友松画2例は、筆も墨もよく生きている絵である。「松に叭々鳥図」(建仁寺禅居庵 松竹梅図)は、蒼古たる松樹のドラマティックな伸張ぶりの一方で、叭々鳥二羽宿る姿に静謐な気品がある。黒々とした墨の没骨で鳥を描き、樹は渇筆溌墨で勢いのある処理である。山水図に玉澗様の溌墨で描くものがあるが、これを応用して溌墨花鳥画ともいうべきこのような独特の画相を生み出すのである。
 また、「梅に叭々鳥図」(建仁寺障壁画 花鳥図)は、梅樹の渇筆、鳥の没骨、墨の濃淡、画面構成も含めて、力のよく抜けた瀟洒な画態である。友松様の一極相であるが、武蔵花鳥画の参照点は、同時代の他の画家の如何なるものより、ここに明らかであろう。
MOA美術館蔵
牧谿 叭々鳥図

建仁寺禅居庵蔵
海北友松 松に叭々鳥図 部分
建仁寺障壁画 花鳥図
海北友松 梅に叭々鳥図 部分

 以上のことに関連して言えば、たとえば「枯木鳴鵙図」のような武蔵画について、何かというと、「鋭い気迫を感じる」とかいった類の粗雑な気迫論が未だに蹤を絶たぬありさまであるが、しかしそれでは何も観ていない素人批評でしかない。武蔵画のもつ洗練された知の境位に対して無知な、まったく見当違いの評言が横行しているのが現状である。
 しかるに、「枯木鳴鵙図」のような武蔵画は、海北友松の世界と衝き合わせてみれば、むしろ明晰と洒脱をあわせもつ、極めて洗練された知的な作品であることが知れるのである。武蔵画について気魄を語るしか能のない批評は、そろそろこのあたりで撤回した方がよかろう――とは、武蔵論者諸氏に対する我々の忠告である。

 上記の白井華陽『画乗要畧』の武蔵画伝によれば、《東寺観智院に其の画ける山水人物有り》とのことだが、前述のように「山水人物」はないが、その代わりに観智院客殿には、宮本武蔵筆という寺伝のある、障壁画「鷲図」と襖絵「竹林図」がある。とくに「鷲図」の方は――かなり損耗が著しく、はっきりしないが――おおむね友松様のようである。
 伝武蔵筆の観智院客殿「鷲図」は激しい運動の絵で、極めて達者な没骨溌墨によって力動的な一瞬を描出している。これも、描法ディテールとも友松画に類縁を見出しうるし、全体は余白空間を深々とたっぷりとって、これも友松様の構図を示す。
 この画は、鷲といった猛禽画題から武家好みの画だというより、あるいは動即空の禅的世界だというより、むしろ絵画論的に言えば、溌墨と没骨という墨の可能性を極限まで展開し、これだけの急激な運動を描きえた絵画は古今珍しいのである。損耗の惜しまれる絵画作品である。

建仁寺禅居庵蔵
海北友松 松に叭々鳥図 部分
観智院障壁画
伝宮本武蔵 鷲 図 部分

 海北友松の歿年は慶長20年=元和元年(1615)、大坂夏の陣の年である。そのとき武蔵は32歳である。この両者が、現世で交差する可能性はあり、また東寺観智院で遭遇する可能性もあるのだが、しかし、かりに観智院客殿の「鷲図」と「竹林図」が武蔵画であったとしても、これをもって白井華陽『画乗要畧』の「其の画ける山水人物有り」という記事の当該作品とはできない。それは我々の見知らぬ別の画であっただろう。
 白井華陽は、上記引用のように海北友松の人物画――とくに梁楷様の袋人物――に注目しているわけだから、この「山水人物」は、当時の画題では竹林七賢図・琴棋書画図・飲中八仙図あたりになろう。だが、これに該当する武蔵画は現存していない。
 ただ一つ、それらしき人物画は、「四愛図」中の愛蓮図の主人公を描く、「周茂叔図」(岡山県立美術館蔵)であろうが、これは友松様とは言えない。別のスタイルである。しかし、武蔵画に海北友松の竹林七賢図・琴棋書画図・飲中八仙図に類する文人画題作品のあった可能性は、この「周茂叔図」が示唆するところである。

京都国立博物館蔵
海北友松 飲中八仙図 部分
岡山県立美術館蔵
宮本武蔵 周茂叔図 部分

 しかし武蔵人物画の本領は、こうした真行体の人物画ではなく、やはり布袋図・達磨図のごとき草体の粗筆人物画である。これは後に述べるところであるが、武蔵画はいわゆる道釈人物画において、断然独立の画体を示すのである。
 それゆえ、海北友松との類縁性のある人物画というものが仮定されるとすれば、それは、布袋図・達磨図の草体人物画とは異なる、友松画でいえば「琴棋書画図」「竹林七賢図」のごとき、「初期武蔵画」という仮説につながってくるであろう。
 そして、『画乗要畧』の記した東寺観智院の絵画をめぐっては、その建築年代からして、おそらく武蔵の20代まで遡るラインが引けるかもしれない。それはともあれ、可能性をめぐるこんな推測がゆるされるとしても、従来一向に傍証が見当たらないのである。

 ところで、ここでひとつ追補しておきたいことがある。それは、30年ほど前さる展覧会で我々の注意を喚起した友松画のことである。この押絵貼人物画屏風はもと六曲一双、現存は半双の六図のみである。このうち友松落款のあるは達磨図一図のみである。しかし、六図セットであると解すれば、友松筆の可能性は高い。
 さて問題は、この六図人物画のうちの布袋図である。これはいわゆる布袋観闘鶏図の類であって、実は武蔵画にそれと似た構図の「布袋観闘鶏図」が存在するのである。


海北友松 布袋(観闘鶏)図 部分

宮本武蔵 布袋観闘鶏図 部分

 海北友松の布袋観闘鶏図は、草々たる墨の、素朴をやつした画である。友松においてこの種の人物画を見ないので、真贋の問題は残るにしても、従来、右の武蔵画の布袋観闘鶏図がこれを参照したらしいと、みなされてきたのである。
 しかしながら、武蔵画が布袋に袋を負わせ、また履をはかせているところをみれば、参照された絵は別に存在した可能性が高い。それは我々の知らない布袋観闘鶏図であっただろう。
 なお、この点につき、伝梁楷の布袋観闘鶏図(松永記念室蔵)のことがある。友松画が参照したはずのものは、それであろうとされるところだが、しかし、武蔵画の参照先はそれではない。この問題に関しては後に別に論じるであろう。
 友松・武蔵の上掲二画を見るに、その差異は大きい。同じ画題、同じ構図なのだが、まったく画体が違う。明らかに武蔵画は、草々たる墨筆ながら、洗練を通過して、すでにむやみにやつした画ではない。むしろ古典主義的で、あまり類例を見ない画筆である。
 したがって、仮に上掲の人物画屏風の布袋観闘鶏図が友松筆だとして、そして友松人物画がここまでの範囲を有するとして、武蔵画の布袋観闘鶏図がこれに倣ったという結論には無理がある。共通するのは、布袋観闘鶏という画題と構図のみである。
 つまりは、道釈人物画、しかも布袋というユニークな存在についての知的造詣のレベルが違うというよりも、布袋という存在を考える思想が根本的に異なるのである。武蔵画には、従来の布袋図の通俗性を否定し本来の古義を回復する、という気配がある。

 以上を要するに、現存武蔵画群に関するかぎり、参照点としての海北友松は、その人物画においては参照点とは言いがたいが、花鳥図の系統では、同時代の他の誰よりも重要な参照点たることは明らかである。
 しかしながら予想しうる誤解を防止するために言うのだが、このことは、武蔵画の形成過程で、友松画の人物画を捨てて花鳥画のみを採った、ということではない。友松画に学んだとすればの話だが、花鳥画の瀟洒な洗練されたセンスが人物画の領域に応用され、結局のところ武蔵人物画独特の画体が生まれたものと理解したいところである。
 しかし、この点は後述のように、若干の留保を要するであろう。武蔵画の参照点は、もっと以前の古典にあるかもしれないからである。

 さて、次は長谷川等伯である。海北友松の場合でも近世画論から入ったので、ここで等伯についても、そうしてみたい。テクストは中尾樗軒『近世逸人画史』、そこには右にあるように、「其画風長谷川家に出」と、等伯との類縁が読まれている。
 ここで、『近世逸人画史』とその著者・中尾樗軒について触れておけば、樗軒の生年不明、没年は文政4年(1821)、墓は江戸谷中宗善寺にあるという。伝によれば、本郷の伊勢屋という質屋の子として生まれたが、家業を義弟にゆだね、自身は風流人として生きたらしい。森銑三「老樗軒とその墓石」(著作集9巻)には樗軒の著作19種を数えるが、他は散佚し、この『近世逸人画史』のみ写されて残ったのである。
 本書は江戸期の百人近い画家の記事を含むが、その選択には傾向がある。つまり、主として南画文人画系を取上げ、狩野派・土佐派はほとんどない。写生派も応挙ら数人、琳派も一人というほどである。武蔵画について「其画風長谷川家に出」というが、等伯の記事があるわけではない。樗軒の好みで選んで編集したものらしい。
 松尾芭蕉にも画があり、「草画多し」という。草体の俳画であろう。樗軒は伊勢で芭蕉が描いた「守武神主の肖像」を見たという。守武神主とは、「俳諧の祖」とされる伊勢の荒木田守武(1473〜1549)、伊勢神宮の神官荒木田守秀の九男、幼時2歳で従五位下、15歳で禰宜となる。通称薗田長官。宗祇・宗長・兼戴・肖柏・周桂らに連歌を学び、のち連歌の規範から逸脱した新しい俳諧連歌の成立において、山崎宗監とともに重要な人物である。こういう話題も、中尾樗軒の興味によるものらしい。
 あるいは、美人画で有名な江戸中期の絵師、月岡雪鼎(1710〜1786)については、一つエピソードを拾っている。京都が大火で灰燼に帰したとき、罹災をまぬがれた蔵があって皆が訝っていたところ、
《火済て後、其戸を開き見るに其窓中に一小筺有。すなはち月岡氏の春画也。如何にして置けるか店の主人もしらず。是より月岡氏に春画は火伏のやうに火の云なしければ、京師の人みな渇望す。因て其価を十倍せり。可哂〔わらふべし〕》
というわけである。したがって、南画中心とはいえ、こうした春画のエピソードを含む美人風俗画の月岡雪鼎まで採集しているのだから、とくに原則があるわけでもない。市中町人の話題となりそうなところを拾っている通俗啓蒙性が特徴である。そういう中で、芝居になるほど有名な剣術家・宮本武蔵の記事があるというのも、理解できるところである。
 『近世逸人画史』で中尾樗軒が武蔵について記すところ、「宮本武蔵は肥州小笠原侯之臣なり」とするのは、はじめから間違っているが、これは武鑑を知らぬ巷間伝説のことゆえ仕方がない。「剣法の名、尤高し。画事の事はたゑて人知らず」というあたり、――諸君は知らないだろうが、実は剣豪宮本武蔵は絵を描く画家でもあったのだぞ、という感じである。むろん当時の画論は、武蔵画に言及しているのだから、これは本書で想定された読者がどのあたりか、それを示すところである。
 武蔵画について「儘、写するものあり」というから、模本粉本がすでに存在したということである。それで、「二天と云印章を用ひ、形左に記す」とあるが、あるべきはずの印形図は現存写本にはない。けれども、原本はその印形を写したもののようだから、樗軒が武蔵画の何がしかは実見していたということである。


*【近世逸人畫史】
《宮本武蔵ハ肥州小笠原侯之臣なり。剣法の名、尤高し。画事の事ハたゑて人知らず。其画風長谷川家に出。儘、写するものあり。二天と云印章を用ひ、形左に記す》


東大史料編纂所蔵 明治20年転写本
近世逸人畫史 当該部分


鎌倉国宝館蔵
月岡雪鼎 しだれ桜三美人図

 さて、ここで注目すべきは「其画風長谷川家に出」という部分である。長谷川等伯の流派は、等伯の偉才絶後して、狩野派のごとき連綿たる系譜がない。この「長谷川家に出」は、等伯の流派に由来するということだが、ここでは画風が等伯様だという程度の意味しかない。つまり、武蔵画のスタイルが等伯様だという、当時の一般的理解を証言するものであるが、では、武蔵画のスタイルは、具体的にどれがどこまで等伯に近いのか。

 長谷川等伯(1539〜1610)は、狩野永徳・海北友松と并ぶ――あるいはそれ以上に重要な、と世評でいう――桃山期を代表する画人である。能登七尾の生れ、しかし等伯の出身は明らかではない。武家の出だったという説があり、染色業を営む長谷川宗清(道浄)の養子になったという。この父・宗清は雪舟弟子の等春に学んだといわれ、等伯は宗清から教えを受け、はじめ信春と称して、仏画や肖像画を描いた。能登地方には初期の作品「日蓮上人像」「十二天像」「達磨図」などが現存する。
 義父母の死後、30歳を越えていた等伯は突如故郷を捨て、京都へ出た。以後、絵屋として成功し、ひとかどの町衆になったという説があるが、40代半ば、大徳寺総見院の障壁画作者として登場するまでの事跡は不詳である。無落款作品もあり、近代になって等伯作品に繰り込まれた画も少なくない。
 等伯は、「等白」とも書いたようだが、後に「等伯」と改めた。この「等」字は、むろん、雪舟等楊の「等」である。同時代には雲谷等顔があり、彼は雪舟等楊の「等」字だけではなく、朱子学者・雪舟ゆかりの「雲谷」という名まで頂戴しているわけである。
 等伯は永徳以後全盛の狩野派に唯一対抗しうる独立派画工集団を組織し、秀吉・家康らの愛顧を得て法眼位にまで出世した。そのため、利休と結託したその政治性を、後世狩野派より当てこすられることになった。
 狩野永納(1631〜1697)の『本朝畫史』(延宝六年序)の記事によれば――等伯はかねてより狩野家が絵師の長となるを嫉み、茶人千利休もまた、もともと狩野氏との関係がよくなかったので、利休は等伯と交りを結び心を合せて、二人して狩野氏を誹謗した、とある。
 ここから、美術史家ならだれでもこの一件に飛びついて、スキャンダラスな話題を必ず一通り語らずにはおかないものだが、そういう俗談よりも、等伯に関して注目すべき事実は、40代で世に出た遅いスタートにもかかわらず、それ以後、死ぬまで自己画風を刷新し続けた旺盛な活力である。
 おそらく、等伯50代にはすでに頂上を極め、「楓図」をはじめとする智積院障壁画(智積院)、「猿猴竹林図」「老松図」(南禅寺金地院)、「枯木猿猴図」(妙心寺龍泉庵)、「商山四皓図」「蜆子猪頭〔けんすちょとう〕図」(大徳寺真珠庵)、「松林図」(東京国立博物館)などの傑作を生み出した。しかるに晩年に到るも、その画筆は衰えず、むしろ百尺竿頭歩を進め、「山水画」(妙心寺隣華院)、「十六羅漢図」(智積院)、「烏鷺図」(川村記念美術館)、「波濤図」(禅林寺)など、延々たる展開を見せるのである。

日通 等伯画説
雪舟→等春→等伯という系譜



*【本朝畫史】
《長谷川等伯、初名久六、能州七尾人、而世染色家也。至久六好畫、逐棄其家業、入京、寓于太秦廣隆寺、因狩野氏畫法、而後、立己意以立言一家、自稱雪舟五代[廟社之掛畫皆自書如此]。既而至法眼位、然雪舟僧也、不可有子孫、彼之所言稱畫法之世系乎、不知其實也。等伯、曾嫉狩野家爲畫氏之長、茶人千利休[氏千、名宗易]亦素與狩野氏不相好、而與等伯結交合心、相共譏狩野氏。然等伯略有才、凡至諸畫大幅莫不作[本法寺涅槃圖、横丈餘縦三丈餘、今所藏]、及老年筆力不衰、雖有麁悪之暇疵、又有豪気之風體、時輩無及之者焉。其子久藏不堕家聲、其幸哉。雪舟摸夏珪山水二軸[淡彩]、謂之大軸小軸、等伯得之》



智積院蔵
楓 図 智積院障壁画


出光美術館蔵
竹鶴図 部分
妙心寺隣華院襖絵
山水図 部分


東京国立博物館蔵
松 林 図

 等伯の画風は、「楓図」(智積院障壁画)と「松林図」(東京国立博物館蔵)を並べてみれば、これが同一人物の作画だとは信じられないほどの幅員である。前者の金碧障壁画はまったくの和様絵画であるし、後者はまったく趣きの違う水墨画である。
 しかしそれも、ストレートに言ってしまえば、作家の自己同一性identityと一貫性consistencyという信仰をもつ現代人の考えにすぎない。この当時の画家のありようは、現代的な視線を撹乱するものであるが、こうした画風の対極性は、当時なら異例ではない。海北友松の作品群を見ればわかるように、画家は和漢両様いづれも学んで、作画しうるものだったからである。
 等伯も、おそらく最初は仏画から出た人だろうが、『等伯画説』をみるかぎり、牧谿・玉澗など当時人気のあった水墨漢画を学んだ蹤があり、独自の墨画和様化を実現している。そして、その代表例こそ、「松林図」だとされるのである。
 この作品は、現代日本人に最も人気のある水墨画である。ということは、時代を超えた新しさをもつ、という話になるところだが、確かに一応はそうは言えるものの、それは我々の視線がすでに「日本化」しているためでもある。
 「松林図」は、日本人なら人気投票第一位の作品だが、外国人にはよく理解できないらしい。そういうことからすれば、この「日本的」なものは日本人にとっての「日本的」であって、外国人から見た「日本的」ではないのである。しかも、日本的情趣の典型としての「松林図」にしても、ある特定の時期出現したものであって、いわばこれを好む日本的感性とは、特殊歴史的なものに他ならない。
 それというのも、この等伯の時期、今日我々が「日本的」とみる文化的特徴が可視化するのであって、それ以前にはなかった特徴なのである。唐物崇拝の顕著であった中世は、中国渡来文物が文化の牽引車であった。我々が今日に連続する「日本的」とみる文化的特徴は、たかだか4世紀ていどの歴史しかない。それを見誤ってはならない。世間には「日本的」という文化的特徴を縄文期まで遡らせて説く者もあるが、それは文化的感性の歴史性という一点に鈍感なせいである。
 そういうことからすれば、この等伯「松林図」こそ、その「日本的」な感性の誕生を告知する代表例であると、一応は言えそうである。たしかに、それ以前には、漢画臭を払拭しえたこんな水墨画を描いた者はなかった。おそらく、当時ひたすらに新しい感覚の作品だったはずである。
 言い換えれば、「日本的」なものは、当時、従来にない新しいものとして登場した。現代の我々の視線は、それを「伝統的」と見ているが、それはいわば「日本的」なものというイデオロギーに養われた文化的子孫にすぎないのである。

 とはいえ、もう一つ問題がある。等伯「松林図」は完成作品ではない、ということだ。この点は余談になりそうだが、後々の我々の議論に関わりのあることなので、ここでしばらく脱線してみたい。
 すなわち、この画はあまりにも草々の画体である点は別にしても、画紙は粗末な薄い用紙で、その紙継ぎが調整された後が明白で、左右両隻の紙継ぎは一定せず、紙幅の大きさも両隻で差がある。こういう諸点から、この画は完成作品ではなく、草稿段階のもの、下絵ではないか、という疑問が出るところである。とすれば、完成図は別にあり、それは今日我々の見るがごとき画ではなかった、という可能性がある。



松林図 部分



松林図 部分



松林図 部分

松林図 仮想復元図
松林図 仮想復元図

 そうだとすれば、現代の視線が等伯代表作と見てしまうこの「松林図」も、いわゆる捲りの状態で、草稿として死蔵されていたのであろう。それが今日のように日の目を見ることになったのは、作者の意図せざる偶然のたまものであり、作者の作為を超えた芸術的命運によって、後人の視線が「生産」した作品であったかもしれないのである。
 なるほど、画印は後入れであり、ある時期、何者かがこれを等伯画と見せるために、偽印を捺印したもののようである。それがいつの時期かとなると難しいが、おそらくは明治に入ってからの作為であろうという推測も可能である。
 ただし、そうだからと言って、これが贋作ということにはなっていないのが、美術史の不思議なところである。むしろ、この作品こそ等伯の代表作、しかも国宝として遇されている。後に関説するように、武蔵画の場合も同じことだが、後入れの偽印だからといって、かならずしも、当該作品を贋作と決めつける理由にはならないのである。
 この「松林図」は草稿として死蔵され、それが後世発見されて、今日の形に表装され、なおかつ、ご丁寧に不出来な偽印まで押されたのである。それゆえ、作者自身が現存「松林図」の意義を認識していたかどうか、それすら不明である。しかもむしろ等伯は、「松林図」のこの場所には滞留しなかったことはたしかである。
 等伯のその後は、この「松林図」から展開したものではなかった。むしろ「松林図」は、等伯の前後一連の作品群からすれば、脈絡を欠いてまったく孤立している。つまり、等伯画中にこれと同じ風趣を有する作品がない。まったく等伯様ではないのである。そのかぎりにおいて、この「松林図」には、非等伯作品の可能性も残っていることは承知しておくべきであろう。
 等伯はどういう方向を指向したか。晩年の傾向として、ますます雪舟回帰が顕著になってくるようである。それは、彼が「自雪舟五代」を称したということのみならず、晩年諸作品の皴法などディテールに見られるように、大胆で激しいラディカリズムを指向したと見受けられる。
松林図印 十六羅漢図印
左・松林図印章

如庵付属書院襖絵
四愛図 部分
妙心寺隣華院襖絵
山水図 部分
禅林寺(永観堂)蔵
波濤図 部分


 等伯自身からすれば、これが老年に入っていよいよ刷新の気色のあった画業の帰結だということであろう。しかし雪舟回帰を通じたこの漢画への独自の傾斜は、いったん新義の水墨画和様化の筋道をつけた者にしては、だれしも理解不可能なところである。ただし、等伯は自身が切り開いた和様の新しさに気づいていないというところがあったのかもしれない。
 というのも、日本最初の画論ともいうべき『等伯画説』たるや、中国絵画を論じるばかりで、少数を除いてほとんど日本人画家にふれない。雪舟についてでさえ、語るところが少ない。『等伯画説』は等伯と親しかった日蓮宗僧侶・日通による聞書だが、おそらく天正年間後半期(1580年代)の聴き取りである。それゆえ、等伯のその後の位相からすれば、まだ煮詰まっていない。
 ただし、等伯は世代からして桃山時代、我々が考えているよりも、もっとインターナショナルな世界を見ていたのかもしれない。これは茶の湯という「日本的」文化が、当時の東アジアのインターナショナルな世界を背景にしていたことと共通する感覚である。『等伯画説』の話題をみれば、茶人の世界との共通性を挙げることができる。
 たとえば、後に見るように、当時茶湯「名物」として人気の画は、牧谿画もあるが、むしろ玉澗作品で、さまざまな茶席に登場する。他方、等伯も牧谿より玉澗を上に見ていたふしがある。しかも、「猿猴図」「鶴図」などから等伯は牧谿様というのが理解の相場だが、「松林図」にしても、参照先は明らかに牧谿というより玉澗である。
 しかるに、等伯晩年の画風をみれば、もはや茶人好みの玉澗様にはとどまっていない。『等伯画説』の話題の域にはすでにいない。雪舟回帰を通じて、等伯は明らかに別の世界に出てしまっている。
 現代人は「松林図」を愛好するが、それはこの作品に日本的感性を再認=再発見するからである。そういう自身の視線のイデオロギー性に気づかぬ鈍感な視線が、「松林図」以後の等伯晩年の画業を無益なものと貶めているのが今日の姿である。
 しかし、等伯晩年の画業を見るに、等伯が最終的帰結としたものは、後世「日本的」と呼ばれるそういう和様化ではなく、当時における新しい文人漢画世界からすれば、等伯なりの古典回帰であったように思える。

本法寺蔵
等伯 日通上人像 部分


表千家不審庵蔵
等伯 利休居士像 部分

 それでは、武蔵画に関して、等伯とかかわる何かがあるのか。結論から言えば、海北友松ほどには類縁性は見られない。その画風が「長谷川家に出づ」という近世後期の証言は、何を見たのであろうか、それは明らかではない。
 おそらくそれは、武蔵画と等伯画、両者は直結するのではなく、これらを連絡する第三項として、ようするに牧谿画群があったということであろう。何となく牧谿風、というところは、ルースな結びつきなら言えないことはない。
 しかし、等伯の牧谿様は、少し異様である。たとえば、「枯木猿猴図」や「烏鷺図」などに見られる鳥獣、牧谿画に「猿猴図」「叭々鳥図」の類のあるを見れば、この種の絵の参照は明らかである。にもかかわらず、等伯画は牧谿様に対して過剰である。

国宝 大徳寺本坊蔵
牧谿 観音猿鶴図 部分
龍泉庵
等伯 枯木猿猴図 部分

 等伯は牧谿を参照するとなると、画題まで牧谿である。それを一連の猿猴図や鶴図に見ることができる。ところが、その絵画はやはり等伯一流の過剰性を帯びて、牧谿様は等伯化する。まさに樹法・皴法がそれであろう。これをクライアントが喜んだかどうか、それは分からない。牧谿様の猿の絵だと思えばそれは錯覚である。猿猴図すら、牧谿画に忠実とは言えない。
 等伯画はつねに過剰なのである。その過剰性を雪舟五代として主張するのだが、桃山文化という時代性からして、あるいは狩野永徳由来か、むしろバロック的様相を示すのである。
 この点に関するかぎり、等伯画が大胆で、奇を衒うほどであるのに対し、武蔵画の方はオーソドックスで、むしろ古様の態を示す。等伯の過剰性に対して、武蔵画は抑制のきいたものであり、言わば古典主義である。確かに言えることは、おそらく武蔵画の参照点は、もっと以前にある、ということである。

 さらにもう一つは、人物画のことである。
 等伯にいくつか肖像画がある。最良のものは「名和長年像」や「利休居士像」など大和絵肖像画であろう。等伯肖像画の特徴は、上掲二図(日通像・利休像)の如く、その静謐にある、顔つきがいかにも静かで落ち着いている、と言われてきたが、実は、絵が静態的なのである。
 こうした肖像画は水墨画の範疇ではない。むしろ大和絵の伝統的骨法に則った、きちんとした安全な絵画である。伝統のあるフォーマットに即して描ける。しかるに、一歩その大和絵肖像画から離れると、事情は変ってくる。
 等伯には有名な「佛涅槃図」や「十六羅漢図」という仏画の大作がある。本法寺の「佛涅槃図」は、寺院再建のおり等伯が自身願主となって寄進したものという。涅槃図として優れた作品である。「十六羅漢図」は、《自雪舟五代長谷川法眼等伯筆 七十一歳》の款記があり、等伯の最晩年作である。
 これらはいづれも、中世の伝統により、貫休様に準拠して、いささかデフォルメされた人物画になる。これも伝統仏画の閾内にあって、等伯に特異なものではない。おそらく等伯の指揮した画工集団には、この種の技法は手馴れたものであっただろう。
 等伯晩年の傾向として、この系統とは別の人物画がある。それらは、当時だれもが模した梁楷人物画の中でも「六祖截竹図」の線を狙ったものだが、それは直接の参照ではなく、おそらく雪舟「仿梁楷黄初平図」あたりを経由したものである。
 雪舟は範とする中国画家の作品を写しているが、これはその一つである。梁楷にこのような画があったことを、この雪舟の学習の迹によって知りうるのである。等伯のこの種の画は参照先は明らかで、あえて古拙の飄逸に遊んでみたというところである。

*[文字化け]JIS外字にunicode tagを使用しているので、雪舟「黄初平図」の梁楷名の前に「?」と表示されるケースがある。文字は「にんべん+方」、読みは「ほう」、訓み「ならふ」である。
本法寺蔵
等伯 佛涅槃図 部分

智積院蔵
等伯 十六羅漢図 部分

壬生寺蔵
等伯 樹下仙人図 部分
建仁寺両足院蔵
等伯 竹林七賢図 部分
京都国立博物館蔵
等伯 豊干寒山拾得図 部分

東京国立博物館蔵
梁楷 六祖截竹図 部分
京都国立博物館蔵
雪舟 仿梁楷黄初平図 部分
東京国立博物館蔵
因陀羅 寒山拾得図 部分

禅宗祖師図 南禅寺天授庵蔵
等伯 南泉斬猫図 部分
大徳寺真珠庵蔵
等伯 蜆子猪頭図 部分
前田育徳会蔵
黙庵 四睡図 部分

 禅機図の類では、梁楷よりも後の時代になるが、「寒山拾得図」のような元代の画家・因陀羅への参照作品もある。「南泉斬猫図」は、等伯同時代の画家も描いているが、およそ等伯のこの種の人物画は、梁楷と因陀羅への参照を媒介にして掻き混ぜのようである。あるいはまた、「蜆子猪頭図」のような薄墨の人物図もある。これなどは参照先は、『等伯画説』が《日本一の絵也》と称えた中世日本僧・黙庵であるかもしれない。
 大和絵肖像画は別にして、等伯の漢画系人物画は、面貌・身体ともに画の態様からすれば、古拙・飄逸が狙いである。通例素描力を示すところの文人画題に、梁楷様減筆体をもっと崩して、「へたうま」で遊んだところが、新味といえば新味である。
 ところが、等伯はこの粗拙体の方面は決して上手とは言えない。実際は、拙を演じているのではなく、本当に下手なのである。海北友松や雲谷等顔、あるいは狩野派の、新しい感覚の人物画のレベルとは比較にはならない。とくに友松人物画はその洗練において、例のない「軽み」さえ獲得している。かりにそういう洗練された人物画に対し、等伯があえて古拙を構えたとしても、手すさび以上には決して成功はしていないのである。


海北友松 群仙図 部分
南泉斬猫 禅宗祖師散聖図 静岡県立美術館蔵 蜆子猪頭 禅宗祖師散聖図 静岡県立美術館蔵
海北友松 南泉斬猫図・蜆子猪頭図 部分

京都国立博物館蔵
伝雲谷等顔 群仙図 部分
京都国立博物館蔵
伝狩野永徳 仙人高士図 部分

 こうしてみると等伯が、海北友松や雲谷等顔のような「大人形」を、描かなかったのではなく、描けなかったというのも道理である。
 同様にして、武蔵人物画と比較対照して見ても、等伯人物画の筆触は明らかに拙劣である。以下は、同じ周茂叔の像である。武蔵画の周茂叔に対して、いづれも山水人物画中の小人形の絵であるが、ほぼ腕前はわかる。
 あまりにも戯画的な対照にしてしまいかねないのだが、とくに聚光院四愛図となると、等伯のは大人の絵ではないというよりも、むしろほほえましい漫画で、これが脇に前衛的な皴法を配したりするところを見れば、四愛図といった文人画題に関する理解があるとは思えない。そうでなければ、ほとんど冗談な絵である。

如庵付属書院
長谷川等伯 四愛図 部分
大徳寺聚光院蔵
長谷川等伯 四愛図 部分
岡山県立美術館蔵
宮本武蔵 周茂叔図 部分


 しかしこのことは等伯の、道釈人物画に対する理解の浅薄さのみには還元できない。それとは別の意味がある。
 というのも、筆の抽象力が露呈されるのは人物画であるからだ。右掲は雪舟「山水図巻」中の人物点景である。いわば、これが人物像の抽象力というものである。こうしてみると、等伯の小人形は雪舟的ではないし、中途半端なものである。
 たしかに筆の抽象力が露呈されるのは人物画であり、とくにその面貌である。上手いか下手かは、約束事なしに自由に、顔を描かせてみればわかる。顔は誤魔化しがきかない。絵画の基本中の基本たる素描が抽象する力を要求するからである。
 これに関連しては、下に掲げる達磨像のことである。等伯作品は、初期の信春名のもので、常識通りのパワフルで真面目な、通俗的な達磨である。それが絵画として面白いかどうかは別の話である。これに対して武蔵画の方は、いかにも逸も諧謔も知った者の、顔の画き方である。

雪舟 山水図巻 部分

龍門寺蔵
長谷川信春 達磨図 部分

狩野光信 達磨図 部分
永青文庫蔵蔵
宮本武蔵 正面達磨図 部分


 達磨図が証言するのは、武蔵画は相当の知性を背景にしたものだということである。狩野光信(1565〜1608)の「達磨図」を観ればわかるように、武蔵当時の道釈人物画を描く画家の理解は、おおむね通俗的なものだったようである。こうしたことからしても、武蔵画は独自なものであり、同時代において他に類例を見ない特徴がある。
 要するにいわば、等伯は決して十分に技量のある画家ではなかった。それでも、その画筆を認めうるのは、定型のある人物画や、山川草木・自然物の領域においてである。しかし等伯が雪舟五代を主張しようにも、どう転んでも、狩野派が切り拓いた和様の絵から絶縁できなかった。等伯が雪舟派を自認するのにもかかわらず、狩野派の敵役であるのは、そのためである。
 しかし歴史は皮肉なことに、決して達者な漢画家ではなかった等伯が、「松林図」によって水墨画の代表になってしまうのである。これが仮に等伯作品であるとして、達者な漢画を描けないという、等伯の言わば画家としての劣性が、和漢の境を紛らかすこの折衷主義の「傑作」を生んだのである。
 繰り返して言えば、死蔵された草稿であり、作者が世に出した完成作品ではなかった「松林図」である。作者自身もその意義を知っていたかどうか不明という「作品」である。かくして、作品を作るのは作者の手ではなく、観者の視線だという典型例、まさにこれ以上のものはない。
 そのかぎりにおいて、この画はその存在発生そのものが日本美術史上における特別な意義を有している。国宝たるゆえんである。

徳川美術館蔵
宮本武蔵 蘆葉達磨図 部分



宮本武蔵 騎牛布袋図 部分
 さて、以上の分析結果をまとめてみれば、さしづめ次のようなことがその要点であろうか――。
 まず第一に、武蔵画の参照点として、海北友松と長谷川等伯を洗ってみれば、おおむね友松の方が武蔵画参照点にはふさわしい。等伯画のケースは、武蔵画においてときに牧谿様になるばあい、その表面的な類似に注目されたもののようである。
 等伯はその過剰性が持味であり、ときに意外なバロック的効果をもたらす。これに対し、武蔵画は抑制のきいた古風な画法である。表面的な類似は別にして、画体は本質的に違う。武蔵画の基礎と教養は漢画にあるが、この方面は、海北友松や雲谷等顔に比して、等伯はあまり強くはない。
 等伯が人物画に拙劣さを露呈するところで、武蔵画はきわめて練達の腕前を見せる。同時代で道釈人物画において武蔵画に匹敵しうるものは、おそらくごく稀であろう。しかも、人物画に限らずその画風は、友松と等顔のいづれとも異なる特徴を有する。したがって結論を言えば、近世画論の説に一応乗せられてみて、同時代に参照点を見出そうとする試みは、実はアテが外れたのである。
 このことから、武蔵画のある部分を、同時代における孤立した例外とみなしうる。たしかにそうだが、しかしながら、それは武蔵画を同時代画人の中で見るかぎりにおいてのことで、実は、武蔵画の参照点は、もっと以前に遡って見出すべきなのである。
 雲谷等顔は雪舟三代を名乗り、それに対抗するかのように、等伯あたりが雪舟五代を宣言する時代であった。明らかに「雪舟」は当時リバイバルして流行だった。これに対し、武蔵画の参照点は、等顔や等伯のように雪舟ではなかった。それ以前である。
 すなわち、武蔵画の参照点は、まさに「雪舟以前」へ差し向けられなくてはならない。これが具体的にいかなることであるかは、次章の話頭にして、さしあたって言えることは、武蔵画を見るかぎりにおいて、当時の画家の常識を超えて、この作者は、雪舟以前の中世絵画をかなり読み込んだふしがあることだ。その古典に対する教養はたぶん半端なものではなかった。
 かくして、水墨画の系譜の中に武蔵画を位置づける作業は、文字通り「先送り」されるというわけである。   (つづく)



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